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出陣へ

 彰隆は、和々に歩み寄る。あらゆる恐怖から解放されたばかりで、放心状態だった。彰隆は、ゆっくりと近づく。

「和々……」

 彰隆の困ったような顔。ほっとして、目がしらが熱くなった。

「和々、すまん……」

 声が震えそうで、返事が出来ない。今更、安心して全身が震えだした。

「和々」

 目の前まで彰隆が歩み寄った時、再び涙が頬を伝った。彰隆は、和々を引き寄せる。震える身体を強く抱きしめた。背中に手を回し、両手で和々を確かめる。すると、涙が次々と溢れだした。

「和々、すまない!」

 彰隆は和々の肩に顔を埋め、縋り付く。

「あ、き……隆、ど……の」

 掠れた声で呼ぶ。力強く抱きしめられ、和々も彰隆の背に手を回した。和々を襲った男の手とは違う感触。彰隆の逞しい腕、匂い、厚い胸板、全てが和々の恐怖を解かしていく。城で襲われた後、彰隆が触れた時と同じような安心感が全身を包む。


「和々、今度は俺が傍にいたのに怖い思いをさせて……すまない。その上、嫌なものまで見せてしまった」

「嫌な、もの?」

 涙であまり声が出ない。何の事だか分からずに、腕の中で尋ねた。

「俺の天狗の力を見せてしまった。あまり、いいもんじゃないだろ?」

「そんなこと!」

 慌てて顔を上げた。和々が見上げたので、彰隆も肩に埋めていた顔を上げた。和々の顔は涙でぐしゃぐしゃだ。しかし、彰隆は笑うことなく、じっと見つめた。間近で見つめられて、言おうとしていた勢いが落ちた。

「そんなことありません……捕えられたり、枝から落ちた時は怖かったけど……。でも、彰隆どのは、助けに来てくれたではありませんか。城で襲われた時も、彰隆どのは、誰よりも先に私の元へ来てくれた……」

「いや、俺のせいで何度も和々を危ない目に遭わせてしまった。俺が天狗だからだ。、何度も危ない目に遭ってる」

 悲しい目をした。参拝の前に、少しは自分自身を認めてくれていると思ったのに、また、自分を責める。彰隆は、指先を伸ばして和々の濡れた頬を拭った。


「彰隆どの……言ったではありませんか、彰隆どのは彰隆どのだって。それに…」

 思いを伝えたくて、真っ直ぐ彰隆を見つめた。そんな悲しい目をしないで欲しい。

「私が捕えられていた時、助けを求めていたのは彰隆どのです。城で襲われた時もここでも、頭に浮かんだのは彰隆どの、ただお一人です。天狗など関係ないの。彰隆どのに見つけて欲しかった……」

 彰隆の声が聴こえた時、どれだけ嬉しかったことか!

 彰隆は頬を拭っていた指をゆっくり離した。感情が読めない表情。和々は不安を覚えた。気持ちは彰隆へ伝わったのだろうか……。


 和々が困惑して眉を寄せると、彰隆は優しく微笑んだ。

「ありがと、な」

 嬉しそうに笑った。和々の胸にも温かいものが満ちる。そしてまた、彰隆は和々の肩に顔を埋めた。何度も存在を確かめるように……。

「危ない目に遭わせといて、こんな事を言うのは間違っているかもしれないが―」

 そう前置いて、顔を埋めたまま話し始める。

「今度は、俺の手で和々を助けたかった。兄上の手など借りないで、助けたかった」

 白金城で襲われたあの日、悔しさを滲ませた彰隆を思い出した。あの時は、自分の事を不甲斐ないと言っていたが、和々にとってはどちらも彰隆がいればこそ助かったと思っていた。

「でも、俺は天狗の長の家系だが、人間の藤堂家の者だ。天狗族が問題を起こしたとしても俺は裁くこともできない。だが、徐々には良くなっているんだよ。前に兄上が話したろう?伯父上と兄上が一族の建て直しをしているって。兄上の力を借りたくないが、兄上には頑張ってもらいたい……」

 兄弟としての絆、そして男としての誇りを垣間見ている気がした。

「ふふっ。複雑なのね」

 少し笑うと、彰隆は和々を抱く手に力を込めた。

「本当に大事なんだ……和々。俺の手で護りたいんだ」

 ぼそりと呟く。先ほど、川原で言われた事と同じくらいの重みを感じた。しかし、あんな事があったばかりなので、恥ずかしいとか思う余裕は無かった。するっと心に沁み込む。大事にされているというのは、いつも実感している。だが、いざ言葉にされると嬉しさが込み上げた。和々も背中に回す手に力を込めて応えた。


 しばらくお互いの存在を確かめていたが、やがて彰隆は耳元へ口を寄せた。

「このまま聞いてくれ。俺は、この後、戻ったら出陣しなくてはならない」

 驚いて顔を上げそうになった。

 出陣?戦になるの……?

「美山軍が河野へ攻め込んできた。晴明さまの留守を狙って、松の方さまが引き入れたらしい……。すでに、松の方さまは城にて捕えられている」

「松の方さまが……?」

 この前会った時に言われた言葉を思い出した。実家の美山の命を受けての事なのだろう……すでに、あの時には戦になる事を知っていたと思われた。自分が犠牲になり、実家のために動く。どれだけの覚悟を持っていたのか。

「だから、しばらく会えなくなるな……」

 そんな問題ではない。会えない……そうじゃない。和々は顔を埋めている彰隆の方を見た。

 違う!会えないなんて話じゃない!


「必ず、無事でお戻り下さい」

 生きて戻ってきて欲しい。戦に赴くのだ、いくら鍛錬していると言っても命を危険にさらす事には変わりがない。生きていれば、必ず会える。怪我なく無事で戻って……それしか考えられなかった。

「そうだな、和々を一人にはできないからな」

 彰隆は笑いを含んだ声で言った。いつもの冗談だとしても、今は冗談だと受け取れない。本当の気持ちは、行かないで欲しい。離れないで欲しい。今にも喉から「行かないで」と引き留めてしまう言葉が出そうだ。


「和々?」

 何も反応がない和々に、不思議そうに肩から顔を上げた。至近距離で見つめ合った。彰隆の瞳には、切ない顔をした和々が映っていた。

「どうした?」

「だって……」

 優しい声に胸が苦しくなった。本当の気持ちを伝えてしまいたくなる。

「和々……」

 彰隆は苦笑いをしながら、今にも泣きだしてしまいそうな和々の頭を撫でた。するっと髪を撫でて、そのまま背中へ掌を滑らせる。そして、落ち着けるように叩いた。

 とん、とん、とん……。

 初めて口づけられた時と同じように背中を叩く。和々は、彰隆の胸に額を押し付けた。

 分かっている、そんな気持ちは我がままだっていう事は。彰隆は武士で、主の命には逆らえない。戦に赴くのも、当たり前だっていう事も。和々は武家の娘だ、幼い頃から父が戦に出陣するのを見てきた。兄が大人になってからは、父と兄を見送ってきた。


 だが、彰隆は違う。父と兄を送り出すように振る舞えない。

 彰隆は、和々の背中をゆっくりと叩く。

「和々。ちゃんと和々の所に戻ってくるから」

「必ず!必ず、戻ってきて!」

 和々は彰隆から顔を離して訴えた。彰隆は、必死の形相に驚く。生きて戻って来て欲しい。

「和々……」

 彰隆に縋り付いて、はっと我に返る。慌てて彰隆から離れた。背中の回されていた彰隆の手が、行き場無く取り残された。そして、ゆっくりと下ろされた。

 私は一体、何を……。

 何を求めていたのか。彰隆と離れたくない……それは……もう理由は一つしかない。

 彰隆どのを好いて……愛している……。

 それは、彰隆への思いは、好きだからこその思いに他ならない。自分の気持ちに気が付いて、心臓が早鐘を打ち始めた。


「和々、どうしたんだよ?」

 彰隆は和々の気持ちには気が付いていない。不思議がっているだけだ。

「……何でもない……です」

 早鐘を打つ心臓の理由を、まだ説明できなかった。思わず誤魔化してしまう。彰隆のように素直に伝えられない。首を横に振って、笑顔を作る。彰隆は気が利くから、何かを隠していると分かっているだろう。

「そうか……だったらいいんだ」

 納得はいっていないようだ。彰隆は、空を見上げて辺りを窺う。夕暮れには早い時間だが、ゆっくりしていられないのだ。二人の時間は惜しいが、戻らなくてはならない。

「戻るか」

「はい」

 何の因果か天狗の神・猿田彦神の社の傍で、和々は自分の想いに気が付いた。猿田彦が導いてくれたのか。


 それから二人は白金の屋敷へ帰った。帰りの道中、二人はあまり口を開くことは無かった。彰隆は手綱を持ちながらも、和々を抱えていた。行きの時よりも、更に強く抱き寄せていた。和々も離れようとはせず、彰隆にしがみついていた。自分の気持ちに気が付くと、自然に寄り添うことができた。

 しがみつく彰隆の体温、胸板の厚さ、香の匂い、心臓の鼓動さえも感じる度に愛おしい。好きということは、世界が違って見えた。この全てを手放したくない。

 しかし、楽しい時間は長くは続かない。やがて、白金城の天守が見えると、すぐに久世の屋敷へと辿り着いてしまった。


「本当なら、明日、久世の本邸に送るつもりだった。だが、明日は俺の代わりに藤堂の者を護衛に寄越すから。何かあってもすぐに烏間の者に伝わるはずだ。ま、戦の前で相手もそれどころじゃないだろうが、その隙を狙って和々を襲う可能性もある」

 彰隆は、悔しそうな顔をした。

「ありがとうございます」

 そんな大層な身分でもないのに、護衛を伴って帰るのも気が引ける。しかし、また襲われるとも限らない。襲われた時の方が、迷惑が掛かるのだ。素直に気持ちを頂くことにした。


「ここで……」

 彰隆は、名残惜しくて言葉が詰まった。ここで別れたら、戦が終わるまでしばらく会えない。分かっているから、お互いに離れがたかった。

「戦が終わったら、すぐに会いにいく」

「はい」

 彰隆の姿を目に焼き付けたくて、瞬きするのも忘れるくらいに見つめた。すでに夕暮れで、彰隆の顔や髪が赤く染まる。彰隆は、和々の頬に手を伸ばした。

「和々、待っていてくれ」

 頬をすっと撫で、ゆっくりと指を離した。

「お待ち申し上げております」

 頭を深く下げた。

「じゃあな」

 彰隆は明るく笑って、帰っていった。馬に乗る背を見送る。他の屋敷の杉板の塀を曲がると、彰隆の姿は完全に見えなくなってしまった。


 呆気なく別れた。もっと言いたい事があったのに……。もっと別れを惜しんでも良かったかもしれない……。好きだと告げれば良かった……?後悔が頭の中に次々と浮かぶ。

 どさり……。

 足元から崩れ落ちた。両手を土の上に着いた。力が抜ける。

「彰隆どの」

 名を呟く。しかし、その呟きは届くことはない。すぐそばまで、夜の闇が迫っている。冷たい風が和々を包んで消えていった。


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