迫る危険
「はあ……」
ため息しか出てこなかった。和々は縁側に座った。明日も晴れるのだろう、西の空が茜色に染まっていた。そして、東には白く美しい白金城が、群青色の空にそびえたつのが見える。夜がすぐそこまで迫っていた。さすがに、春とはいえど夕刻になる肌寒い。本邸と比べ、それほど多くの木が植えられたわけでもない質素な庭を、冷えた空気が通り抜けた。しかし、和々の頭は働かず、部屋の奥に入ることはしないで、沈む夕日を眺めているだけだった。
「和々!」
廊の奥から聴きなれた声がした。だらしなく振り返ると、そこには彰隆がいた。夕方なので、城での政務を終えてから久世の屋敷に寄ったのだろう。慌てて、取り繕って姿勢を正す。それを見て、彰隆は、ふっと笑う。嫌な所を見られてしまった。
「彰隆どの、どうしたのです?」
彰隆は和々の隣に来ると、どかっと乱暴に腰を下ろした。
「毎日来ると言ったろ?」
顔を覗き込んで、にやっと笑う。仕事の後で疲れているはずなのに、そんな事を感じさせない笑顔だ。晴れない気分が和らいでいく。何となくほっとするので、その笑顔を見つめてしまった。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
首を横に振って、笑顔を作る。彰隆に言えるはずがない、松の方に彰隆との婚姻を笑われたこと……そして、徳姫に彰隆を好いていると言われたこと。そして、何より自分の気持ちが分からないこと。
「徳姫さまから聞いたぞ。松の方さまのこと」
彰隆は和々の気になることを、さらりと言った。まさか、彰隆が知っているとは思わず、驚いて彰隆を窺う。すると、彰隆は沈む夕日を、目を細めて見ていた。段々と、暗い空が東の方角から広がり始めていた。
「ん?」
和々が何も言えず黙っていると彰隆は、遠くを見つめていた瞳を和々に向けた。その瞳は優しくて、和々の胸はどきんと跳ねた。時折見せる、優しい瞳。
「徳姫さまに呼ばれたんだよ。昼間あった事を全て聴いた……徳姫さまは、和々のことを御心配なさっていたぞ」
「徳姫さま……」
御自分も傷ついていらしたのに……。自分になど気を遣ってくれるとは。申し訳なくて、俯いてしまった。すると、和々の頬を、彰隆の両の掌が包んだ。そのまま上を向かされる。
「松の方さまは、美山の姫としての責務を負って嫁いできているのだ、和々とは違う。たとえ、家の命があったとしても、俺は和々を大事にするよ」
真っ直ぐ目を見て告げられた。彰隆の瞳には、不安そうな顔の和々が映る。
「だから安心して、俺のところへ来い」
真剣な瞳に、素直に頷いた。いつもなら反抗して言い返してしまいそうだが、何故だか今日は言い返す気がなかった。彰隆の言葉が、すっと胸の中へ入っていく。
「ああ、愛らしいな」
彰隆は、顔を歪めて笑う。頬を包んでいた掌をそっと離す。
「また、そんな事を言う……」
いつもの調子で言い返す事ができない。和々は頬から消えた温もりが、少し寂しく感じて、力なく返事をした。
「いや、可愛いだろ?何しろ、和々は俺のことを好いているらしいしな」
彰隆はにやっと笑っていた。いつもの、からかう時の顔だ。
「それは……!」
驚いて身を乗り出した。手を床に着いて、彰隆にすがるように顔を向けた。徳姫が教えたに違いない。本人に知られてどうするのだ!
しかし、まだ曖昧な気持ちを彰隆に知られたくない。からかいも混じるが、彰隆は和々を妻にと求めてくれているのだ。こんな中途半端な気持ちを伝えたくない。
「違うのか?」
からかいに乗ることなく、すがるような瞳を向けた和々を不思議に思ったらしい。彰隆は、床に置いた和々の手に自分の掌を重ねた。再び、彰隆の温もりが伝わる。相変わらず、大きくてごつごつとした感触だ。
「焦らなくていいさ、これからずっと一緒なんだし、な。まあ、その内、俺に惚れるだろ」
「また、勝手にそんな事を言って……」
和々は困ったように苦笑いを浮かべた。和々の気持ちを待ってくれているのかと思うと、からかいだとしても嬉しかった。
「なんだ……和々が怒らねえと、調子狂うな……」
彰隆はゆっくりと和々の手から掌を離すと、反応に困って腕組みをした。二人を少し欠けた月が見下ろす。それから、程なくして彰隆は帰っていった。
和々は、その晩、あまり眠れなかった。彰隆は、帰り際に「明日も、また来る」と言っていた。彰隆の傍にいれば、この気持ちは分かるのだろうか……男の人に接する機会がほとんど無かったために分からない。
ごそごそと起き出して、部屋の障子を開けた。白小袖だけでは、寒い。ぶるりと身体が震えて、両手で腕を擦った。まだ家の者たちは、皆、寝ている。静かな暗闇には、西に傾いた月が辺りを照らしているだけだった。そのまま、力なく座り込んだ。
頭に過るのは、彰隆のことばかり。こんなに考えていて、自分はおかしくなってしまったのでは……そんな事さえ思った。これが、好きという事なのだろうか。
目をそっと閉じると、彰隆の笑顔が思い浮かぶ。からかう時は、悪戯そうに、にやっと笑うが、いつもは豪快な気持ちの良い笑顔だ。こちらまで、つられて笑顔になってしまう。
彰隆を思い出して、和々はくすりと笑った。
そして、彰隆の真剣な顔も思い出す。優しくて、真っ直ぐな瞳、精悍な顔。ついでに、彰隆が口づけた事まで思い出してしまい、顔を赤くした。思わず指で口元を押さえる。
「やだ……」
感触まで思い出して、生々しい。でも、この前、この屋敷で口づけられた時は、それほど不快な感じはしなかった。それは、自分が彰隆を好ましく思い始めているからなのだろうか。その後のからかいには、怒りが込み上げたが。
明日も彰隆は、和々に会いに来ると言っていた。
彰隆が訪れるのは、いつも楽しみだ。そして実際、楽しい。だからといって、男として彰隆の事を好いていると断定できない。昼間、徳姫に会うのだって、楽しみだった。晴明が久世の本邸に訪れるのだって、とても楽しみである。それらの気持ちと、彰隆へと気持ちが同じかどうかは分からない。まだ、彰隆への気持ちが分からない。
「考えても一緒か」
和々は大きなため息を吐いた。考えても仕方ない。一緒にいる内に徐々に分かることだろう。和々は、再び眠るために、障子を閉めた。
次の日の昼過ぎ、和々は白金城の石敷きの通路を歩いていた。城の中は、常に整えられた木々や池などがあって、目を飽きさせない。城へは徳姫の所へ行っていた。昨日の徳姫の様子が気になったからだ。徳姫からすれば、自分も様子がおかしかったかもしれない。昨日から、もやもやと気分が晴れない。徳姫のところへ行った帰りに、陽の光を浴びて輝く美しい天守を横目に歩いていた。
途中で、何人かの人達とすれ違ったが、特に違和感を覚えなかった。しかし、次にすれ違う男二人は、遠目にも違和感があって眉をひそめた。前から来る男は、身なりからして、それほど身分が高い武士には見えない。日に焼けて浅黒い肌、ぼさぼさのまま結った髷。目が鈍く光って虚ろに見えた。何となく、怖い感じがして目を合わせないように視線を逸らした。
すると、二人の男は、こちらを窺うようにして、ひそひそと話し始めた。和々は、その様子が分かったが、気が付かないふりをして歩き続ける。やり過ごせれば、それで良い。
男達とすれ違う。腕を伸ばしても届かない距離を歩いているのに、埃っぽい臭いがした。前で合わせた両手には、汗を掻いている。下を向き、目を合わせないようにしてすれ違う。
「おい、女」
男の低い声が響いた。
どきりとして、肩が揺れた。足を止めて横を見ると、男二人は和々の方を向いて立っていた。にやっと笑って気持ちが悪い。明らかに和々を呼び止めたのだ、仕方なく身体を男達の方へ向けた。
「何でございましょう」
上目使いで、恐る恐る声を掛けた。できれば、関わりたくない。
「お前、烏間か?」
烏間。それは、天狗としての烏間だ。河野国の重臣としての烏間を言っているのなら「烏間さま」と言うだろう。和々は、男達の左手首を見ると、烏間とは違う赤い石の腕飾りが付いていた。
「いえ、私は違います」
烏間の石が付いているが、これは彰隆の母が烏間だからで、和々は藤堂家に嫁ぐのだ。それに、以前、彰隆自身も烏間ではないと断言していた。だいたい、まだ嫁いでいない。
「ああ、烏間の奴に誓いをされたクチか」
男達は、くっくっと笑う。何で笑われるのか分からないが、馬鹿にされているのは分かる。しかし、怒りよりも、関わりたくないという気持ちが勝っていた。逃げ腰で、後ろに一歩足を引く。
「では、私はこれで……」
頭を下げて、向かう方向へ身体を向けた。
「まだ、話は終わってねえよ!」
大きな声と共に、腕を掴まれた。
「きゃあ!」
和々は驚いて、声を上げた。掴まれた腕が痛い。ぐいと引かれて、男の傍に引き寄せられた。
怖い、怖い、怖い。
彰隆と勝信が、「烏間を討とうとする者もいるから気を付けよ」と言っていた事を思い出した。まさか、こんな城の中で?
こんな所で絡まれるとは思っていなかったので、突然の事に恐怖で目が潤む。男からは、近寄りたくない、嫌な臭いが鼻を付く。
「ちょっと付き合えよ、ついでにこいつを使って烏間を脅すか?」
男が笑顔で、もう一人の男を振り返る。もう一人の男は、同じように肌は浅黒く、目が吊り上って怖い。
「ああ、そうだな。少しは使えるかもな」
にやっと笑って、頷く。同じように、にやって笑っても彰隆は悪戯そうな笑顔で、恐怖を覚える事はない。
「じゃ、ちょっと付き合え」
和々の腕を掴んでいた男が、力を込めて歩き出した。和々も引き摺られて、足が勝手に動き出す。腕が痛い。どこへ連れて行かれるというのか。
「いや!離して!」
腕を引っ張っても、男の力に敵わない。ずるずると引き摺られていく。何をされるか分からない状況で、恐怖で潤んでいた瞳から涙が伝い落ちた。
誰か!助けて!
辺りを見回しても、こんな時に限って、誰一人通りかからない。
「誰か!」
大声を上げると、隣を歩いていた、もう一人の目の鋭い男に口を塞がれた。がさがさした荒れた手が口元を覆い、吐き気がする。
彰隆どの!助けて!
自然と彰隆を求めた。
「うるせえ、静かにしろ」
口を塞いだ男が吐き捨てるように言った。瞼を閉じると、目に溜まっていた涙が溢れた。そのまま進むと、蔵が立ち並ぶ一角へ連れ込まれる。そこに行ったら、もっと人が来ないではないか……。和々は、必死で足を踏ん張るが、ただ引き摺られるだけだった。




