どうして。
4.
思いっ切り、廊下を走った。
大人四人の全力疾走で、床がギシギシメキメキと軋む。懐中電灯の明かりが暴れて、前がよく見えなかった。躓いて転びそうになるのを何度か堪え、反対側の突き当たり、階段のところまで駆け戻って、ようやく先頭の本田が足を止めた。
倣って立ち止まり、少しだけ後ろを振り返ってみる。大丈夫、追ってきてはいない。俺は額の汗を拭い、ひとまず安堵の息を吐いた。見れば三人とも、汗だくになって、肩を大きく上下させている。
「な……」
本田が、真っ赤な顔で怒鳴った。
「なんだよあれ! 今の! なんなんだよ!」
「知らないわよ! あんたがなんかやったんじゃないの!?」
「違ぇし! 俺じゃねぇよ! お前か中井? それとも竹内か!?」
「ぼぼぼ僕じゃないッス!」
誰もが、口々に金切り声を上げた。気持ちはわかる。己の目にした光景が信じられず、驚き、焦り、狼狽えているのだ。元より、幽霊など信じていないからこそ、肝試しなんて真似ができたのに。本当に、こんなことが起こるなんて。
「じゃあ、お前か? 山本? なんか仕込んだのか?」
「なんであたしなの!? ふざけないでよ、このデブ!」
「ママ……怖いよママ……」
「なんだとこの……」
「だいたい、あんたが来ようって言ったのよ!?」
「うるせぇ! そもそもお前が偽善者ぶって……」
「ママ……」
最早パニック寸前だった。俺にだって、なにがどうなってるのか、わからない。
でも、こんなところで喧嘩なんかしてる場合じゃないだろう。
「早く帰ろう! 此処を出るんだ!」
言って、俺は、すぐさま行動に出た。
三段飛ばしで、階段を駆け下りる。焦っていたため、勢いが付きすぎて、ほとんど飛び降りるような強さで、踊り場にバンと足が着いた。
ぐにゃり。
靴底が、この上なく嫌な感触を捉えた。
なんだこれ。硬いような、柔らかいような。
ぞわり、と全身総毛立つ。
見たくない。見てはいけない。頭ではわかっているのに、人間の反射行動とは、なんとお節介な習性なのか。次の瞬間、俺は、自分の踏んだ物を確認していた。
――顔だった。
それも、一つや二つではない。踊り場のみならず、十二段目、十一段目、十段目……その下にも、その下にも。すべての段に、苦悶の表情を浮かべた横顔が、再度くっきりと、立体感を以て浮き上がっていた。
ほんの一時間ほど前、この階段を昇ったときに遭遇した、子供の顔。
やっぱり、あれは錯覚なんかじゃなかった!
彼等の眼が一斉に、ぎぎっと動いて、此方を向いた。
階上で、三人の悲鳴が上がる。
ドウシテ。
ドウシテ。ドウシテ。
ドウシテ。ドウシテドウシテドドドドシシシシテテテテテテテ
どうして。そう呟く声は、やがて合唱となり、割れ鐘のように響いて、狭い廊下へと満ち溢れた。
踊り場、という名称は、誰が考えたんだろう。俺は、その場で踊った。無意味だと知りながら両手を振り回し、湧き出る顔を避けようと、無茶苦茶に足を移動させる。ちらと垣間見た上の連中も同様で、三人で押し合い圧し合い、間抜けなダンスを披露していた。
「ひゃあ、ひゃあっ!」
中井が足を踏み外した。バランスを崩した奴は、これも反射的だったのだろう。咄嗟に、本田と山本の服を掴む。
「うわあああああ!」
「きゃああああ!」
二人を道連れに、中井が、階段を転げ落ちてきた。
狙ったわけではないのだろうが、狭い階段のことだ。俺は、不可避の軌道に巻き込まれ、四人仲良く、一階まで雪崩落ちに転落した。
「ぐっ」
背中を強打し、息が詰まる。ほんの数秒、意識が刈られた。
「……う……ゲホゲホッ」
仰向けの姿勢から、なんとか上体を起こす。身体中が痛い。今の衝撃で、上手く息ができなかった。空気を吸うと咽せてしまう。こういうときは、焦っては駄目なのだ。落ち着け。落ち着いて。
俺は眼を閉じ、ひとまず深呼吸しようと、大きく口を開いた。
「はぁ、はぁ、は……ご、が、が、あが、げっあ!」
なんの前触れもなく、口の中に、変な塊が押し込まれた。
妙にグニュッと弾力のある食感。
かと思えば、ある部分は、驚くほど硬い。舌が痺れる苦みに併せて、酷い生臭さが鼻に抜けた。知っている味は一つもない。なにか細かい粒でも大量に混入しているらしく、歯がジャリジャリする。おまけに、どれもこれも噛み切れなかった。唾液にも溶けない。
なんだこれ。途端に嘔吐いて、その場に吐き出す。
「…………」
べしゃり、と床に散らばったのは、主に泥だった。
それに、トカゲの尻尾。小さなカエル。小石。雑草。謎の幼虫。
「げぇっ……」
俺は、今度こそ吐いた。胃の中の物を、しこたま吐いた。それでも嘔気が収まらない。あまりに出し抜けだったとはいえ、思わず咀嚼してしまったことを悔いた。
ド ウ シ テ ……
子供の声に、顔を上げる。
涙で滲んだ視界、暗い廊下の中程に、明かりが射していた。
彼処は確か、家庭科室。
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七不思議、その六。闇の調理実習。
満月の夜、家庭科室では、魔女達が集まって、悪魔の料理を作っている。
それを食べると、二度と学校から出られなくなるらしい。
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家庭科室の窓から、白い蛍光灯の明かりが漏れていた。グツグツと、鍋の煮立つ音が聞こえる。湿った蒸気が激臭と共に漂ってきて、俺の鼻孔を掻き回した。
ガタガタガタ……家庭科室のドアが、揺れて、いる…………。
バネ仕掛けのように立ち上がり、俺は駆け出した。
三人の喚き声が、遥か廊下の先へと遠ざかってゆく。待てよと何度か叫んだが、誰も俺を気に留めかった。聞こえていないのか? いや、己の状況で精一杯なのか……いずれにせよ、あっさり見捨てられたことに憤りを憶えつつも、俺は奴等に追い付こうと、懸命に走った。ひとりぼっちだけは嫌だ。
何処へ向かっているのかは、わかっていた。プールだ。来た道を戻れば、それが確実な脱出ルートなのだから。
冷静になってよく考えれば、他の手段が見付かったかもしれない。もっと効率的で、合理的で、安全な道が、あったかもしれない。でも、そんなことを考えている間にも、俺は来た道を駆け戻っていた。早く此処から出たい。その一心だった。
耳を塞ぎ、硬く眼を閉じて、家庭科室の脇を駆け抜ける。三人分のゲロを踏まぬよう、それだけは注意を払った。山本のハイヒールが、何故か片方だけ、隅の方に転がっていた。
ギッギッギッギッギッギ。踏み締め、蹴り付ける床が、矢継ぎ早で鳴く。笑っているみたいだった。出口は、まだか。懐中電灯を失った俺に、この廊下は厳しい。暗く、無限に続くかと思われる細長い空間で、白く縁取られた窓が、射し込む月光を四角く切り出していた。
このとき、なんの弾みだったのだろう。そんな余裕はなかったはずなのだが。
俺は、ふと窓の外へと視線を放った。
少年が立っていた。
此処へ入る前、プールで見た少年だった。ランドセルを背負って、校庭を走っていた小学生。最初の七不思議として俺を驚かせた、二宮金次郎の正体だ。
ただし、もう走ってはいない。
校庭の真ん中、月光を浴びて佇み、じっと此方をみつめていた。
まだいたのか……?
不気味さに、肌が粟立つ。
と、少年の口が、動いているのに気付いた。
お、う、い……え…………?
いや違う。
ど……う……し、
ドウシテ。
声にならない悲鳴を張り上げて、俺のスピードは限界を超えた。
どうして?
どうしてだって?
そんなことは、こっちが聞きたいよ、畜生!
あぁ、どうしてこんなことになったんだ。
来るんじゃなかった。
此処には、来てはいけなかったのに。
やめておけば良かった。
あのとき、キッパリと断っていれば、こんなことには――!
どうにか体育館まで戻ってきた。
あと少しだ。
館内には目もくれず、素早く脇を通り抜ける。外の通路へ繋がる扉から、虫の音と、暑い夜風が吹き込んでいた。俺の唇は、ほんの僅かに綻ぶ。実のところ、鍵が掛かって閉じ込められる、なんて展開を危惧していたのだ。
息は絶え絶えとなり、身体中が汗塗れだった。膝は笑い、酸欠で、頭がクラクラする。体力云々の話ではなく、強い恐怖が俺の心臓を揺さぶり、消耗させていた。
「……はぁ……はぁ……」
苦しい。俺は足の速度を緩め、一瞬だけ、立ち止まった。
ぽん。
なにかが背中に当たった。
ぽん、とん、たん、たんたんたん。それは床に落ち、低く弾みながら、俺の足元へ転がってくる。バレーボールだった。
だが、顔がある。
というか、それは、顔だった。
某アンパンのヒーロー宜しく、丸いボールに、腫れた目鼻が盛り上がっている。
転がりながら、ブツブツと呟いていた。
ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシテ。ドウシ、
「知るかぁあああああーーー!」
俺はそれを思いっ切り蹴飛ばし、外の通路へ飛び出した。
扉を後に疾走し、石畳を駆け抜ける。生暖かい風が、汗ばんだ額を撫でた。あと少しなんだ。自分自身に言い聞かせ、ともすれば失墜しそうになる意識を奮い起こし、倒れそうな身体に鞭を打つ。ほら、もうプールサイドじゃないか。
「!」
三人がいた。
今まさに、フェンスをよじ登っている!
この距離でもわかった。三人とも、服はクタクタに撚れ、髪はボサボサに乱れ、痛々しいほどに切迫していた。特に不味いのは山本で、元が清楚系で通しているだけに、落差の甚だしさが哀愁を誘う。長い黒髪は爆発し、水色のワンピースは捲れ上がり、ヒールを捨てた裸足で、昆虫のように金網に張り付いている。
これが平時ならば至極いい気味なのだが、今は、此方とて他人事ではない。
三人に続けとばかり、俺はフェンスに飛び付いた。
その瞬間だった。
三人が、まったく同時に、後ろを振り返ったのだ。
なにが起きたのか。起きているのか。
最初、よくわからなかった。
というよりは、眼で見た光景を、脳が認識できていなかったのだと思う。
だから、俺が悲鳴を上げて尻餅を着いたのは、五秒ほど経過してからだった。
「あああああああ!!」
プールから、無数の白い手が伸びて、三人を包んでいた。
痩せこけて骨の浮く、細い、真っ白な腕。水面からワラワラと数え切れない本数が生えて、有り得ない長さに伸びたそれは、巨大な蛇のようにも、新種の食虫植物のようにも見える。肘から先は水面で、中にいったい、どんなものが潜んでいるというのか。想像も付かない。
掌は小さく、子供のそれと変わらない。だが、何十本あるんだ。それぞれが服を掴み、肩を押さえ、腹を抱え、腕に絡み、髪を毟り、足に纏わり付いて、しきりと三人を引っ張っている。
その様は、なんとも無機質で、どことなく自動的な印象を与えるものだったが、一方で、決して此奴等を逃すまいという、確固たる意思を放っていた。執念。いや怨念。そんな単語が、頭を過ぎる。
きっとあれは、なにがなんでも文字通り「手」を緩めることはないのだろう。
フェンスの男女を、一人残らず掻き攫うまで。
「放せ! 放せ! うわああぁああ!」
「ぎゃあああぁあああぁ!」
「ママぁあーーー!」
群がる手を振り解こうと、三人は、形振り構わず叫び、暴れる。
しかし、体重の軽い中井が、まずフェンスから引き剥がされて落ちた。
「やだやだっ! やだ! 助けて! 誰か!」
中井は、ズルズルとプールに引き摺られていく。石畳に俯せとなった姿勢で、爪を立て、空を蹴り、有らん限りの抵抗を試みているが、相手の数が数だ。為す術もなく、身体は虚しく後退を続けた。
「本田さん! 山本さん! 助けて! 助けて、助けて、竹内く」
ざぶん。
俺の方へ手を差し伸べたまま、中井が、プールに消えた。
「ひぇああああっ!」
次は本田だ。
「竹内! 竹内! 手ェ貸せ! 竹内……ぎゃあぁっ!」
フェンスが大きくしなり、あの巨体が、いとも容易く宙を舞う。怯えきって蒼白になった顔と、逆さまで目が合った。俺に向けられた哀願の、なんと悲痛で滑稽なことだったろう。
本田は、弧を描いて水面に没し、一際高い水飛沫が、俺の靴を濡らした。
「ちくしょうっ! ざけんな!」
意外にも、最後まで粘ったのが山本だった。
「放せっ! 放せぇっ!」
唾を飛ばして汚い言葉を吐き散らし、じたばたと藻掻いて、滅茶苦茶に石畳の上を暴れ回っている。あの華奢な身体の何処に、そんな筋力があったのか。群がる手を蹴飛ばし、殴り、噛み付き、その言動は弱まる気配を見せない。
「竹内てめぇ助けろよッ! この役立たず! なにボサッとしてんだよ!」
髪を振り乱した物凄い形相で、山本が俺に手を伸ばした。
けれど、俺は、動けない。
完全に腰が抜けていた。助けを呼ぶことすらしなかった。できなかった。
俺にできるのは、可能な限り山本から距離を置き、涙目でガチガチと歯を鳴らすことだけ。プールサイドに尻を着き、脚を放り出して、己の身を抱き締める腕が、自分のものではないように震えて、止まらなかった。
傍観する俺を余所に、白い手は、次々と数を増す。
「んぐ……ッ」
手は手の上に重なり、隙間を潰して、山本を覆い、包み隠してゆく。これでは、ひとたまりもないだろう。じき叫ぶ声は圧殺され、全身を内側へと揉み込まれて、みるみる山本は、白い蓑虫と成り果て、プールに引き摺り込まれてしまった。
断末魔は聞かずに済んだが、代わりに彼女は、手に屈する寸前、血も凍るような怨嗟の視線を俺に残していった。
†
しん、と辺りが静まり返る。
聞こえるのは、微かな水音と、夜虫の奏でる歌ばかり。
俺は、無数の手と三人が消えていった水面を、呆然とみつめた。
三人を飲み込んだ水面は、何事もなかったかのように凪いでいた。タプタプと、プールの縁を打つ水は、数枚の花弁を細波に弄ぶ。酷使した喉と耳は、己と他者の絶叫のため、じんわり痺れていた。淡く水面を這う月光が、夢のように綺麗だ。
夢?
そうか、夢か。
本当の俺は今頃、酔い潰れでもして、宴会場の隅に眠っているんだ。朝になれば目を醒ますんだ。それで、嫌な夢を見たなって。舌打ち一つで顔を洗って、昨日までと同じ一日を始めるんだ。
ぼんやりと、そんなことを考えた。
ばしゃん。
俄に上がった水飛沫。その音が、俺の心臓を一瞬、止めた。
あぁ。なんてことだ。
悪夢はまだ――続いている。
広がる波紋の中心から、なにか黒い、奇妙なものが覗いていた。
それは徐々に水面を迫り上がり、ゆっくりと、見覚えのある形を現してゆく。
髪の毛だ。すぐに理解した。
絶対に。
思い出してはいけない。
程なくして、額が現れた。続いて、眼を押し潰すほどに腫れた瞼が。有らぬ方向へ曲がり、ひしゃげてしまった鼻が。鬱血してボコボコになった頬が。冗談のように膨らんだ唇が。無残に変形した子供の顔が、水面から上半身を出して、俺と対峙していた。
もう説明の必要もないだろう。
此処まで、幾度となく俺達の前に現れた、顔だ。
ゆらゆらと、月光に照らされて、水面が揺れる。
ドウシテ。
彼の裂けた唇が、そう呟くのよりも早く。
俺は、その名を呼んでいた。
「――江藤……」
思い出した。