再訪 七不思議
2.
プールサイドへ降り立つと、あの独特のカルキ臭が、鼻を突いた。
正直、どんなに汚いだろうとウンザリしていたのだが、こうして見る限り、藻の一欠片、空き缶の一本もない。満々と湛えられた水、その仄暗い水面は鏡のように凪いで、中央には、薄く透き通る月光が浮かぶ。そういえば、今夜は満月だ。
掻いた汗を、手の甲で拭った。まったくこのクソ暑いのに、どうしてこんな運動をしなきゃならないんだろう。
後ろの三人を待ちながら、スマホを見る。二十三時八分か。
宴会場の公民館から、徒歩十五分。あの頃は長く感じた通学路も、実際はたいした距離ではなかった。
さすがに正面突破は無謀だろうと、プール経由の侵入を提案したのは、中井だ。防犯装置と言えば、周りを囲む古いフェンスのみである。それもコンクリ製の立派な柵とは程遠い。公園の植え込みなんかにある、菱形の空間がびっしり並んだ網状のやつだ。田舎とはいえ、不用心この上ない。革靴の俺が、簡単に乗り越えてしまえたじゃないか。
あぁ、来てしまった。
途中、町で一軒だけのコンビニに寄って、懐中電灯と飲み物を買った。陳列台を一周して花束も探したけれど、所詮田舎のこと。そんな洒落た商品はラインナップされていない。商店街は軒並み、二十時にはシャッターが下りる。
結局、江藤への供物は、その辺に咲いている名前も知らない雑草の束になった。最初こそ童心に返ってせっせと毟っていた山本だったが、じきに飽きて、手が汚れたと愚痴っていた。
「ちょっとぉ、あたしヒールなのよぅ」
「はははっ、パンツ見えてるぜ山本ー!」
「黒! 黒!」
騒ぐ三人に、俺は焦って振り返る。
「ちょっと……静かにした方がいいよ。通報されたらどうするんだよ」
「あ? バーカ、この辺はずーっと田圃だぜ。聞こえやしねぇよ!」
ガハハと笑う本田から顔を背を向けて、俺は眉間に皺を寄せた。腹は立ったが、コイツの言うことも、あながち間違いではないのだ。
というのも、この学校、四方が田圃という立地に設けられている。
敷地内には、校庭、校舎、体育館、プールが収まっており、建物はコの字型を成して、校舎を抱き込むような構造している。此処プールは、コの字でいうと下部の三画目に当たる。
つまり俺達は今、体育館を右手に校庭を挟んで、校舎に正対しているというわけだ。言うまでもなく、コの字は廊下、通路の位置も示す。
俺は校舎を眺めた。
木造二階建ての小学校。六年間通った、我が母校だ。
黒ずんだ外壁、古いデザインの屋根、時間の止まった時計。築九十年は伊達じゃない。昭和初期のドラマに出て来るロケーションまんまだ。夏の真夜中、淡い月光に浮かび上がる姿は、不気味で、重厚で、でも貧相で、怖くて愛しくて、やっぱりじわっと懐かしかった。
過疎化で廃校になったのが五年前。今後の用途は未定と聞いている。
子供達の消えた此処は、もう学舎ではないのだろう。そう思って溜息を零せば、老いた親を見るような切なさが、きゅんと胸に広がる。
こんなに見窄らしかったかしらん。
フェンスを越えた三人が、後ろからやってきた。
「あぁもう、あっつい。汗掻いちゃった」
「とっとと済ませようぜ。花束は?」
「俺が持ってるよ」
というか、フェンスを登る際、山本に押し付けられたのだ。
雑草の花束は、俺の尻ポケットでグシャグシャになっていた。
取り出して、プールに投げ込む。
ぱちゃん、と小さな音がして、僅かな波紋が水面を撫でた。
「どーぞ安らかに!」
なにを勘違いしているのか、山本がパンパンと柏手を打つ。心底呆れたが、なにか言っても面倒なことになるだけだ。俺はプールサイドに片膝を着き、合掌して、ほんの少し、江藤の冥福を祈った。
立ち上がって、もう一度、見納めのつもりで校舎を見る。
……あれ?
其処には、妙なものがあった。
正確には――いた。
明らかに人型と思しき影が、のろのろと校庭を移動していた。走っている……のだろうか。足取りがおぼつかない。それもそうだろう。かなり小柄な身体に、四角い箱のようなものを背負っている。きっとあれが邪魔なのだ。右に左に、脚を踏み出す度に重心がブレて、踊っているみたいに見える。
こんな時間に? いったい誰が?
疑問よりも先に頭に浮かんだのは、かつてこの学校で耳にした怪談だった。
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七不思議その一。
夜中に走る二宮金次郎の銅像。
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「あっ……」
声が漏れた。歩き始めていた三人が、俺を振り返る。どうしたの、と訊かれて、俺は校庭の人影を指さした。
「きゃあっ! な、なにあれ!?」
「うわ! マジで走ってる!」
山本と中井が声を上げ、傍の本田にしがみついた。
本田は微動だにせず、問題の人影へと、無遠慮に懐中電灯を向ける。
「……よく見ろって。ただのガキじゃん」
言われて凝視すると、遠い光線に照らされたそれは、銅像ではない。確かに生身の人間だった。
小学生くらいの子供で、背負っているのは薪ではなく、ランドセルだ。此処からでは遠すぎて、ちょっと顔はわからない。服装だけが、辛うじて判別できる。白いシャツに紺の短パン。たぶん男の子だろうと思う。
なんだ、子供だったのか。
「ほんとだ……もう竹内君、脅かさないでよ!」
「でも、どうして子供がこんな時間に走ってるんスかね……」
二人は、俺に視線を寄越した。そんな目で見られたって、俺が知るはずもない。
「鍛えてんじゃねーの? なーんか貧弱そうだし。気にすんなよ」
「一人で?」
「そりゃ、どっかに親がいんだろ」
「あ、そうスね!」
「…………」
そうだろうか……。
妙な気分だった。ソワソワする。なにか忘れているような、思い出しそうな、喉に空気が痞えているような。驚愕が去って幾らか冷えた頭、その片隅で、虫の羽音にも似た警報が、やかましく鳴り響く。
なんだろう、これ。
似た感覚を知っている。でも、わからない。
……いや。
わからない方がいい。なんとなく、そんな気がした。
「おい竹内! さっさと来い!」
本田の怒声で、ハッと思考が中断した。
見れば、三人は既に調子を取り戻して、プールサイドを抜け、隣接するシャワールームの石畳を歩いている。その先は長い通路になっていて、突き当たりが校舎への入り口となる扉だ。
「な、なぁ。ぱっやり、やめないか?」
俺は最後の抵抗を試みた。これが最後のチャンスだ。校内に入ってしまったら、もう引き返せない。懐中電灯を持っているのは、本田と中井だ。真っ暗な夜の校舎を一人で帰る……なんて、考えただけで寒気がする。
本田がピタリと足を止め、ゆっくりと振り返った。
「なに言ってんだよ」
そして、懐中電灯で己の顔を下から照らし、ニヤリと笑う。
「こっからが本番だぜ」
†
そして数分後。
俺達は、四人で扉の前に立つ。
渡り廊下とは名ばかりの通路を歩いて(モルタル屋根が設置されているだけの、壁も照明もないコンクリ道だ)、此処が突き当たり。この扉を開ければ、先はもう正真正銘、校内となる。
扉は、まさかの木製である。外観こそ城門のようだが、このご時世に錆びた南京錠が一つ掛けてあるだけという、平成犯罪史ガン無視のザル警備だ。しかも外側に付けてどうする。まぁ田舎の廃校なんて、何処もこんな扱いかもしれないが。
開かないでくれ、と願った。
「鍵、掛かってるッスね」
「なんだこんなもん」
けれど、俺の祈りも虚しく、本田が何度か蹴飛ばすと、あっさり南京錠は壊れてしまいやがった。根性のない鍵である。
「それでは、懐かしの我が母校へ!」
中井が気取った声色で言い、俺と本田で、把手を引く。ギギギ……と一瞬だけ扉が軋み、じき手応えが軽くなる。せーのでグイと押し込むと、イイィイイ。
悲鳴じみた音を立てて、扉が開いた。
「うわぁ……懐かしい」
山本が、感慨深げに溜息を吐く。
「すっげぇ、そのまんまだぜ」
「変わってないッスねぇ」
懐中電灯の明かりが、忙しなく廊下を巡った。端に並ぶロッカーやスノコ。壁の傷み、落書き。天井の照明は、昨今めっきり見なくなった白熱灯だ。三人に続いて足を踏み入れると、木製の床がギシリと鳴った。セコムなどは、期待するだけ無駄というものだ。
しかし、本当に懐かしい。
饐えた木の匂い。堪った埃の匂い。上履きのゴム臭。カビっぽい石灰の匂い。今の今まで忘れていた匂いが、さすがにノスタルジーを刺激する。心配していたほど虫もいないし、蜘蛛の巣もなく、案外、綺麗なままだった。
「それで、どうするの?」
「んー、体育館から行くか。んで二階上がって、美術室まで行って、下りて家庭科室、それで此処に戻ってこようぜ」
うちの七不思議に、順番はない。本田は、いちばん近い体育館から、二階へ上がり、校舎の端まで行って、一階へ下りるルートを提案したわけだ。その途次、七つの怪談を検証しようという算段である。確かに、学校を一周するなら、これが最も効率的な順路だろう。
校庭の二宮金次郎を「検証済み」とすれば、次は二番目になるのか。
というわけで、俺達は、すぐ傍の体育館へと足を向けた。
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七不思議その二。生首ボール。
真夜中の体育館で、ひとり、ボールで遊ぶ児童がいる。
その児童が突いているのはボールではなく、実は彼自身の生首である。
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という概要なのだが、無論、体育館には誰もいなかった。
ただ何故か、だだっ広い館内の中央に、ボールの山盛りに詰まった収納ケースが鎮座していた。普通は体育倉庫にあるはずの、割と大きめのケースだ。マットやら跳び箱やら、他の用具は見当たらない。これだけが、ポツンと出しっ放しだった。
「なんだこりゃ?」
「誰か出したまま忘れて帰ったんスかねー」
「片付けて行く?」
「いいわよ、面倒臭い」
近くまで行って、懐中電灯で照らす。バレーボールやバスケットボール、果てはサッカーボールまでが、無造作に山を作っていた。埃と手垢と経年劣化で、どれも黒ずんで汚れている。
「あ、これこれ。なんか人の顔に見えない?」
山本が指さしたのは、下の方に埋もれていたバレーボールだ。
言われてみれば、幾つかの汚れが目鼻口を描いているようにも見えるが……。
「人間ってさ、点が三つあれば、それってもう顔に見えるらしいよ」
「へーぇ、そうなんだぁ」
山本がヒールの爪先でボールを突く。
少し離れた場所で、本田と中井が、スマホを取り出して、なにかゴチャゴチャと言い合っていた。
「あれ、此処、電源入らねぇ」
「僕のもッス」
なんとなく見ていたら、此方に視線を向けた本田と、バッチリ目が合う。
「竹内。お前のスマホ、貸してみ」
「え、どうして……?」
「なんか俺達の、電源が入らねーんだよ」
じゃあ自分で試すよ、と言って、俺はスマホを弄った。
本当だ。入らない。
電波が悪いとかネットに接続できないとかじゃなくて、電源そのものが、オンにならない。さっき時間を確認したときは問題なかったのに。
「俺のも……駄目みたい」
「なんだよ! 使えねぇな。山本は?」
「え、なんの話?」
結局、四人が四人とも、スマホが機能しなくなったことを知った。
「あれぇ~なんで? フル充電だったのにぃ」
「地場とか?」
「携帯会社の緊急メンテとかじゃないスか?」
「いや、電源すら入らねーって変だろ」
なんだかんだ四人で騒いだが、入らないものは仕方がない。帰ってからもう一度試してみる、という結論に落ち着いた。
「あーあーなんだよ! せっかく動画撮ってアップしようと思ったのによ」
本田が、不機嫌そうに吐き捨てた。馬鹿かコイツ。それって、不法侵入を自分で世界中に公開するってことだぞ。
「あームカつくなぁ。つまんねぇー」
「まぁまぁ。こういうシチュって、ホラーにはお約束じゃないスか。却って雰囲気出ていいかもしれないッスよ?」
中井の一言で、どうにか本田の機嫌は取り成されたらしい。ブツブツ不満を垂れながらも、ひとまず議論は終了、という流れに入っている。
俺達は、体育館を後にした。
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七不思議、その三。呪いの十三階段。
夜、階段を数えながら昇ると、あるはずのない十三段目が出現する。
その十三段目には、人の顔が浮かび上がっており、これを踏むと呪われる。
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最下部から、階段を見上げる。
ひぃふぅみぃ、踊り場まで、全部で十二段。其処から先も十二段。全部で二十四段、昇りきれば二階へ着く。
この場合、踊り場を十三段目と数えるのか否かで意見が割れるところだろうが、怪談の趣旨として、そこには言及しないのがエチケットだ。暗黙のうちに、踊り場は段数に含まれない、という結論に至った。
「じゃ、やってみようぜ」
俺達は、二手に分かれてペアを組んだ。本田は山本と、俺は中井とだ。
「いーち」
「一」
ぎし。ぎし。かつ、かつ。ごとり、ごとり。四人の足音が、静かな校舎に響く。土足で学校の階段を昇ることに、今更ながら変な罪悪感を持った。先生がいたら、やっぱり怒られるんだろうか。
それより、別の意味で床がヤバかった。腐っているのか、変に柔らかい箇所がある。抜けたらどうしよう。
「ごーお」
「五」
学校とはいえ古い建物、この階段に、大人四人が横列できるほどのスペースはない。大柄な本田には一人分以上のスペースが必要なので、隣の山本は窮屈そうだ。これ幸いとばかりに、本田が密着して腰を抱いているので、余計にである。というか、大変暑苦しそうである。
「本田さん役得っスね」
中井がボソッと呟く。数がわからなくなりそうだ。俺は無視した。
「はーち」
「八」
「きゅーう」
「九」
本田と俺の声が輪唱する。
映画や漫画なんかだと、この辺で、誰か知らない声が混ざってたりするんだよな……などと考え、俺はゾクッとした。が、聞こえるのは俺達二人の声と足音だけ。そりゃそうだ。自分で勝手に恐怖を感じているのだから、世話はない。
「じゅーに、っと」
「十二」
踊り場に辿り着いた。
「……どうってことないな」
「十二段でしたね」
一応、確認を取った。本田ペアも俺の方も、きっちり十二段だ。
「ちょっと期待してたんだけどなぁ~」
さりげなく、しかしソッコーで、山本がパーソナルスペースを確保した。
「でも、結構迫力ありましたね! ギシギシいって怖かったっス!」
「あぁ。やっぱすっげーボロいな。これ腐ってんじゃねーの?」
「それは本田君が重いの」
「ははははっ」
「なに笑ってんだよガリチビ。ブッ飛ばすぞ」
「ひゃっ……さ、サーセン!」
三人が騒ぎ始め、本田に捕まった中井が暴れて、踊り場の床がギィギィ鳴った。懐中電灯の明かりが、上へ下へと好い加減な方向を彷徨う。いい歳こいて、なにをやっているのか。これじゃ大きな小学生だ。
「ちょっと、危ないって。マジで床抜ける……」
俺は三人を制しつつも、暴力沙汰に巻き込まれないよう、隅へ移動した。
と、その足が、ぐにゃり。思いがけず深く床板へとめり込んだ。
「う、うわっ!」
三人は、一斉に俺を見た。
「お、遂に抜けたか?」
「あーあ……こーわした、こーわした」
「竹内君、大丈夫?」
銘々が勝手なことを言いながら、明かりが俺の足元へ向けられる。しまったな、と心中で舌打ちして、俺は靴を引き上げた。やはり其処の床板は腐っていて、俺が踏んだ部分が盛大に凹んでいる。
……でも、顔だ。
それは、子供の横顔の形をしていた。
ギュッと眼を閉じ、歯を食い縛って、懸命に痛みを堪えるような……苦悶に充ち満ちた、などと言ったら、ありきたりかもしれないけれど。そんな顔を、力任せにぐいと押し付けて、型を取ったような。怖ろしい形相が、浮き上がっていた。