プロローグ
無数の星空が煌めきを起こし、天空に瞬く紺色の空はそれを鮮やかに映し出している。
その空の下で一人の女性は白のテラスに手を掛けて、ため息を零していた。
月明かりに照らされる薄い青の髪はささやかな風に靡き、透き通る様な肌からは、瑞々しさが伺って見える。
年齢もまだ二十後半にも満たない姿にしか見えないが、実際の彼女の年齢は百年を超えている。
それは彼女が人間という領域の人物ではないからだ。
(あれから、百二十年、か)
全ての世界は変わっていない。
彼女がいるこの精霊界も、人間たちが暮らす下界も混純の時が流れている。
あの者達がいるからこそ、この世界の均衡は乱されているのだ。
彼女達――精霊や精霊神達はその均衡を取り戻そうとこの百年間、様々な努力を積み重ねてきた。
自分達でそれらを抑えこむのは勿論のこと、下界にいる洗礼された魂を持つ者達も自身に降りかかる火の粉を払うために討伐を行なってきた。
しかし、その数は一向に減るどころか、微弱ながら増え続けている。
(私は、決めたのに)
あれから百二十年間、彼女は奮起して活動を行なっていたが、芳しい結果とはなっていない。
失ったものを取り戻すために彼女は日々、苦労を重ねているのだ。
(あの時の事は昨日のように思い出せるわ)
白く細い手を彼女はぐっと握りしめると頭上に浮かぶ空を見上げる。
今日は天気が良いおかげか、空はいつもよりも澄んでいる。
(待っていて、絶対に終わらせるから)
彼女は秘めた決意を胸にし、空を見上げる。
その姿をまるで見下ろすかのようにまばゆいばかりの星空は世界を照らし続けていた。
◇◆◇
(あー、良く食ったなぁ)
少し苦しげに男は腹を撫でながら、薄暗い路地裏を歩いていた。
大通りの方では客引きや飲み屋から出てきて梯子をしようとしている客が目立つが、住宅街や繁華街から少し離れたこの場所で一人の男が道を歩いていた。
私服としては少し派手なデザインの白いコートのような物を羽織って体の大きさよりもゆったりとしたサイズを着込んでいることから、物語に出てくる魔術師を思わせるが、男は此処から離れた繁華街の店で飲みに明け暮れて酔いが回っているのか、足元が若干おぼつかない。
「ったくよ……。ちょっと、調合が遅れたからと言ってあそこまで怒る必要は無いと思うのによ」
男は足をふらつかせながら吐き捨てるようにそう言うと、狭く薄暗い路地裏へと入っていくと下に座り込んで輝く月を見上げる。
彼の気持ちとは裏腹に空は綺麗に澄んでおり、男の機嫌はますます悪くなるばかりだ。
やがて空を見るのにも飽きたのか、彼は少し先にあるメイン道路の方へ視線を向けると重い足取りを上げて歩こうとした。
だが、数歩歩いたその時、背後からの視線に気づき、彼は足を止める。
「なん……だ?」
呟いて振り向いた男の声は暗く寂しい路地へ木霊こだまするが、辺りは闇に包まれ誰もいない。しかし、先ほど感じた不穏な気配に動揺を隠せなかったのか、彼の表情は真剣な物へと変わっていた。
「誰か居るのか!?」
誰もいない路地に男は声を張り上げると、腰に掛けていた護身用のナイフを手に持った。
酔いのせいなのか、それとも何者かがいる恐怖のせいか、彼の手は震えているが、数分経っても何も出てこない。
男はもう一度見渡してから一息付くと、持っていたナイフを下ろし、腰に収めようとする。
「!?」
ナイフを収めようとした瞬間、消えていた気配が現れたのか、彼は背後から口を塞がれてもがき始める。
咄嗟の判断で彼は小さく言葉を呟き、右手から小さな炎を取り出すと、襲いかかる敵の方へと投げようとするが、相手の力が強すぎてそれもままならない。
何かを引っ張られるように彼は苦しみながら、か弱く声を上げるが、この閑散とした場所では誰も助けに来るはずもなく、彼の体は敵が持っていた鈍く光る鎌に貫かれると、そのまま何も言わずに倒れこんでしまう。
その様子に敵は満足したように、彼から現れた光るモノを捉えると自らの体の中に入れ、何事も無かったかのようにその場を去っていったのだった。
◇◆◇
(相変わらずだな)
煌く夜空の下に開かれている夜市を回りながら女性は小さく息を吐いた。
紺色のコートを身に纏い、赤く染まる髪をセミショートに切り上げた彼女の髪色は様々な色が行き交うこの国でも珍しく、すれ違う人によっては一瞬彼女の方へと視線を向けるものもいた。
彼女が今居る土地は森城都市・セレナと呼ばれる地方都市だった。
森と名のつく通り、辺りは緑に覆われており、自然豊富な素材が取れることで有名である。
その特性上、この場所では商人や研究者が多数住んでおり、今日、日常で使われる新薬などの開発の拠点地として栄えているのだが、彼女は別の目的でこの都市へ訪れていた。
(この都市に目標者あり……ね)
警備隊から上がった報告によると先日、人々に薬を提供する魔法薬学師がある敵対者によって襲われた。
その敵対者は一般には手を追うことが出来ず、彼女のようなある事情を持った者以外には対処できないという事であったため、直ぐ様こちらの方へ送られてきた。
正直、彼女はこの場所まで行く気はしなかったが、彼女の日々の実績とある人物の頼みにより断りたくとも断りきれず、結局、来てしまったという次第であったのだが、来てから三日、全くといっていいほど進展はない。
(食べ物が美味しいのはいいんだけどな)
素材が豊富と名打つ通り、中央都市ではお目にかかれない珍味や高級食材などが手頃な値段で買えるのはとても嬉しいのだが、自然豊かなせいもあり、虫が嫌いな彼女にとっては少々居心地が良くない。
早く標的を倒して、虫が殆ど出てこない中央都市へと帰りたい所だ……と考えているとふと感じた気配に思わず歩みを止めた。
(そろそろ、お出ましか)
彼女は夜市が行われている道から外れた通りから、小さな茂みの方へ入っていく。
もうすぐ、深夜を回ろうとしているため、辺りは一層のこと自然特有の不気味さに襲われるが、日常からこの様な事を経験している彼女にとっては対して気にも留めるような出来事ではないのでそのまま林道の方へと歩いて行く。
ある程度の距離を歩いた所で僅かに赤く光る場所を発見した彼女は、歩みを辞めて一気に走りだすとそのまま中心部へと飛び込んだ。
「っ!」
“ソレ”は彼女の姿に気が付いたのか虚ろな目を向けながら、鎌を持ち、彼女の前へ立ちはだかる。
等身大ほどに鈍く光る鎌の姿を見ても彼女は動揺せずに右手を目の前へ向けると一つのナイフを取り出した。
「在らざる者よ、地に消えるべし……」
いつの間にか綺麗な夜空が輝く星が赤い色に染められ、暗い空間へと変化している。
この敵対者が保持している空間へと引きずり込まれたのだろう。
薄緑色に輝く長剣程のナイフを握り、そのまま対象者の方へと鋭く向けられ、複数個の刃が虚空を切り裂いた。
「死神め……私の前から消え失せろ!」
彼女の叫びと共にナイフには強風が立ち上がり、剣からは複数の刃が対象者の方へと向かっていく。
しかし、”ソレ”は持っていた鎌を振り返し、攻撃を防ぐと大きな空間を開くとともにその身を中へ誘おうとしていた。
「逃がすかよ!」
女性は穴が消える寸前に対象者と共に漆黒へ広がる空間へと身を包んだのだった。