第一章 仮初の王女 前篇
ちょっとシリアスな恋愛ものを書きたくなりまして…つい始めて
しまいました。「真珠貝の宰相」は全十章予定の長編ものです。
週に2~3回の更新を予定しています。
リアーデを取り巻く環境は第一章から「暗っ!」という感じですが、
彼女は美しく逞しい女性です。いじいじメソメソしていません。
冷酷宰相はどこまで冷酷でいられるか…いや、かなりどこまでも
鬼畜なんですが、終いには…という展開です。
リアーデ&ペイジの物語にお付き合いいただけると幸いです。
花冷えと称するに相応しい春の夜。
一台の馬車がひっそりとドレンデラ国の王宮に迎え入れられた。
通行するは北北東のインヌ門。汚物や死体運搬に用いる、いわゆる「不浄門」
とは異なるものの、およそ貴人が使うような場所ではない。
案の定、4頭立ての馬車はその狭き門から王宮へは侵入することができず、
乗客はそこから徒歩で進まねばならなくなった。
しかも、迎えに出た強面の騎士たちは馬車からただ独りの乗客だけ、
身一つで王城に入ることのみを許した。
つまりは馬車に同乗していた付き人2人も故国から持参したわずかばかりの
手荷物も全て諦めなくてはならなかった。
(この場で切り捨てられなかっただけでもましか)
ただ独り残された者はカザンヌ国の騎士たちに追い返され、去って行く馬車を
一度だけ見やった。フード付きの外套でスッポリと身を包み、俯いて顔を
隠してはいるが、夜の闇に月光で映し出されるシルエットまでは誤魔化せない。
すらりとした姿の女性であることは明らかであった。
彼女は来し方から視線を転じ、行く末へと向き直った。
これで母国との繋がりは全て断たれたのだ。
生きてゆくならば己が才覚で道を切り拓いて行かねばならない。
(生きていたいと…思えるだろうか?)
彼女はこれから始まる茨城の道を覚悟していた。
どんなに綺麗な言葉で飾ってみても虚しいだけ。
小さな夢も、わずかな希望も故国の王室で木っ端微塵に砕け散り、
それまでの幸福だった人生を踏みにじられて、この国に送られた。
このドレンデラ国に…彼女の故国など指先一つで簡単に捻り潰せる大国に。
死を選ぶ自由すら今の彼女にはなかった。
選べば、それを口実に、ドレンデラは今度こそ故国カザンヌを完膚なきまでに
叩きのめすだろう。もともと彼女を“捕る”という条件すらドレンデラ国の
気まぐれのようなものだ。いつ風向きが変わるやも知れない。
愚かな小国が恥もなく媚びへつらう様を大国はさぞ愉快に見ているだろう。
彼女にしてみれば、故国の王室が滅ぶのは…別に構わないとさえ思う。
けれども愚かな王室のために何万もの国民が蹂躙されるのは、胸が痛む。
いや正直に言えば、国民のために犠牲になるほど献身的な精神は持ち合わせて
いない。彼女はただ…守りたいのだ。
血の繋がらない自分を暖かく受け入れてくれた“家族”を。カザンヌ王家から
押し付けられた禁忌の子である自分を守り、育て、慈しんでくれた家族を。
*** *** *** *** ***
「カザンヌ国“王家の娘”リアーデにございます」
フードをはね除け、化粧気のない素顔を晒すと、彼女は眼前の人物に膝を折った。
「ドレンデラ国宰相ペイジだ」
やはりと言うべきか、“王家の娘”の参上にも国王は顔を出さなかった。
それも当然で、小国でありながら大国に歯向かったカザンヌは、ドレンデラ国王
ソレンドの逆鱗に触れたのであった。
カザンヌ国王アルディードはドレンデラに長年敵対していたヒジリ山岳連合国と
軍事同盟を結び、ドレンデラ北西ハルマヤ地方に侵攻したのだった。
ハルマヤは風光明媚な高原地帯であり、避暑地としても有名で、侵攻当時は
ドレンデラ中央貴族の多くが別荘滞在を楽しんでいた。
いかに大国と雖も都を遠く離れた地方でのこと、北のヒジリと西のカザンヌから
急襲され、大きな犠牲を出した。
戦局は、ドレンデラがヒジリ・カザンヌ軍を
討伐するために大軍を投入したことであっけなく終結した。
ヒジリ山岳連合国は瓦解し、カザンヌ国王アルディードは病に倒れ世を去った。
一説に毒殺されたとあり、また別の説に自ら毒杯を煽ったというのもあるが、
真偽のほどは定かではない。リアーデは国王の姪に当たるが、王が亡くなる
前後の時期は拝謁はおろか、王宮に近づくことすら許されなかった。
「面を上げよ」
宰相の冷たい声が響く。
リアーデは小刻みに生してしまう震えを何とか悟られまいと歯を食いしばって、
前を向いた。
「なるほど。美しいな」
宰相がこの時、見えたのは18歳になったばかりの娘であった。
カザンヌ王国ヴェルデンテ子爵令嬢リアーデ。生母ウェルシーはカザンヌ国王
アルディードの妹王女にあたる。成人に達し、間もなく婚約者である同国
イルカンド伯爵令息クロードと婚姻予定であったが、此度のハルマヤ侵攻に
よって、“人質”としてドレンデラに差し出されることになった
…というのが表の事情であったが、狡猾な宰相はそれ以上のことも知っていた。
褐色の双眸が懸命に怯えを隠しながら、彼を見つめている。
澄んだ美しい瞳であった。怯えながらも強い力を放っている。
宰相は自分が酷薄な笑みを浮かべていることを自覚しながら、
片手を差し伸べて、娘の後頭部に触れた。
飾り石一つ付いていないピンが、小さな音を立てて床の上に落ちる。
その瞬間、しっとりとした絹糸のような黒髪が波打った。
真珠のような肌によく映えている。
「ふむ。確かにこれなら“人質”として役立ってくれそうだな」
断りなくリアーデに触れる男に彼女はただ沈黙を返した。
どのみち相手は返答など期待していないだろう。
意外なことに顔を合わせてみると、宰相はまだ若い男のようだった。
若い、とはいっても30には届いているだろうが、大国の頂点に立つ国王の
片腕として辣腕を振るうにしては、やはり若すぎないだろうか。
いや、年齢ではないのだとリアーデは思い直す。
色素が抜けているわけでもないのに白に近い灰色の髪。
瞳は闇色だが、光の加減で石榴色のような暗赤色を彷彿させる。
整った造作と言えるのに、少しも魅力的に映らないのは髪と瞳の色彩が
常人離れしていること、加えて身に纏う雰囲気があまりに冴え冴えと冷たい
ためか。一言で感想を括ってしまえば、“不気味”に尽きる。
「お前の処遇は宰相である私に一任されている。
よもや宮廷で姫君のような暮らしができるとは思っておるまいな?」
リアーデは黙って目だけを伏せた。
宰相の手が顎にかかっていて、俯くことができない。
さて、どう身を処すべきか。宰相を怒らせず、この場を切り抜けるのは?
沈黙を続ける?微笑んでみる?いっそ泣いてみるか?
…リアーデにとってはどれも気の進まない選択だった。
本当は自分を人形のように扱い、娼婦のように品定めしている、
この男を殴りたくてたまらないのだから!
「どうした?自分の名前以外は話せない、頭の鈍い女なのか?
お前にはこれから存分に働いてもらわないと困るのだがな。
啼かない鳥では価値が半減する…まずは故国を半分頂こうか」
挑発だとは分かっていた。
けれども、宰相が本気になればその言葉は早晩現実になろう。
それだけ国力の差は歴然だ。
「いかように啼くのをお望みでしょうか?」
声は震えなかったと思う。傲慢な男への怒りに恐れは消え失せた。
「俺の命ずるまま、俺の命ずる男たちの前で啼け。
お前が守りたいと思うものを生かしたいと思うならば」
優しさの微塵もない仕草でリアーデは唇を奪われた。
手足を封じられている訳ではないので、身動ぎすれば拒むことは
可能であったろう。
しかし、リアーデは宰相の冷たい唇が呼吸を奪うほどに覆い被さっても、
執拗に舌が絡んできてもされるがままになった。
彼が自分の覚悟を試しているのだと、確信していたから。
心臓が早鐘を打つのを止めることはできなかったが、涙も悲鳴も飲みこんだ。
相手の貪るような接吻にも努めて無感動を返した。男の中には、「嫌がるフリを
して本当は感じている」などと錯覚する輩がいるが、とんでもないことだ。
「つまらんな」
長い時間が過ぎて、宰相は漸く、リアーデを解放した。
「男を歓ばす技巧は学んで来なかったか?
それで“客たち”を満足させることが出来るのか?」
カッチ-ンと頭に血が上るのを何とか堪える。
リアーデは18歳の、小国とはいえ、王家の血を引く貴族の娘である。
(技巧など学ぶわけあるかー!)
ああ怒鳴りたい。噛みつきたい。どうしてくれよう、この畜生を!
しかも彼は…“客たち”と言った。
覚悟はしていたが、分かってはいたが、自分はこれから多くの男たちの
慰み者になるのだ。若い女の人質を捕るというのはそういうことだ。
もう一つの可能性…国王の愛妾とまでは言わない…宮廷の高官の一人に妾として
下げ渡されるという可能性はこれで消えた。妾の場合はデブデブした親爺一人を
相手にすれば良かったが、宰相は“王家の娘”にしっかり働いてもらいたいらしい。
いずれにせよ、求められているのは隷属だ。
彼女の立場で逆らうことは許されない。
けれども。
「宰相殿も私の“客”の一人ですか?」
そこに自分の意志はないこと示しておきたい。
「いや、違うな、俺は“客”ではない」
「では宰相殿を“歓ばす”必要があるのですか?」
「…小賢しい娘だ」
次の瞬間、片手で首を捕まれ、そのまま高らかに持ち上げられた。
それほど逞しい体躯とも見えぬのに腕一本で易々とリアーデの息を止める。
彼女の視界は忽ち暗闇に落ち、意識は混濁した。
殺されると思った瞬間、ドサリと音がして全身に衝撃を感じた。
「死んでもいいと思っている人間を殺してもつまらんな」
気が付けは床に身を投げ出して、荒い呼吸をしている自分がいた。
全身が痙攣するのが分かる。
窒息死は免れたようだが、とてもではないが“助かって嬉しい”と喜べない。
「間違えるな。俺は“客”ではないが、お前の主人だ。
主人には絶対服従でいろよ。苦しい思いはしたくないだろう?
俺も暇ではない。余計な手間をかけさせるな」
冷水を浴びせるように宰相はそれだけ言って部屋を出て行った。
リアーデが何とか呼吸を整え、身体を起こす頃には騎士と女官が迎えに来た。
この二人もまた“王家の娘”に対するものとは思えぬほどの冷たい対応だった。
騎士はリアーデを囚人を引き立てるかのように王宮の一室に連れて行った。
女官は能面のような顔をして、リアーデに一切の質問を許さなかった。
用意された部屋はそれでも、“王家の娘”の体面(今更そんなものと言いたいが)を
保つのには十分に豪華なものだった。寝室と書斎、応接間の3室続きで、
寝室の奥には衣装部屋と浴室がある。
今着ているもの以外、何も故国から持って来られなかったが、少なくとも
物資面では苦労しなくて済むらしい。大国の“体面”と言ったところか。
もっともリアーデに配慮して、というよりは彼女の“商品価値”に配慮しての
ことだろうが。
「お名前くらいは聞いても良いかしら?」
女官が浴室の準備を整えている間に、リアーデは扉の前に立っている騎士に
言葉を掛けた。騎士は40前後の男でひどく暗い目をしていた。
「王宮警備のブランです。本日より護衛に付きます」
大国の王宮警備であれば、それなりの家の然るべき者がなるはずだが、
それにしては男の態度はひどく素っ気なく、投げ遣りな観があった。
“護衛”と言ったが正しくは見張りであろう。
誰かがリアーデを害しようとすれば見殺しにするだろうし、
リアーデが逃亡しようとすれば、阻止するために背中から刺すだろう。
「私はカザンヌ国から来ましたリアーデです」
相手が自分の素性を知っているのを百も承知で自己紹介する。
「知っている」
案の定、ブランはぽつりと応じた。
「カザンヌ国のリアーデ姫。あんたのせいでわしの娘は死んだ。
ヒジリ山岳連合軍に辱しめられ、朝日を待たずに首を括ったよ」
何となく憎まれているのだろうとは感じていた。
男があまりにも静か過ぎて。
しかし。
(私のせいで…?)
訳が分からなかった。カザンヌ国王や王家のせいと非難されるのは分かる。
けれどもハルマヤ地方侵攻は彼女個人のせいだろうか?
母は確かに王女であったが、小国の更に小さなヴェルデンテ子爵家に嫁いだ。
リアーデ自身はあまり裕福とはいえない子爵家の娘に過ぎないと言うのに。
「それは(どういう…?)」
リアーデの問いは浴室から現れた侍女の声に遮られた。
「湯あみの用意が整いました。こちらへどうぞ、リアーデ様」
逆らえる雰囲気ではなかった。
浴室で裸になった彼女の後に侍女も入ってきたので、リアーデは自分で
できると断った。大国の王女であれば何人もの侍女に傅かれて当然だろうが、
小国の子爵家ではそんな余裕などなく、できることは自分でやっていた。
けれども、
「浴室などで自害されては私が困ります」
と、侍女から返ってきたのはやはり冷たい拒絶だった。
入浴や排泄など、騎士が遠慮する所はこの侍女が監視するつもりらしい。
リアーデは溜息を殺して浴槽に身を横たえた。
懲りずに聞いてみる。
「お名前を聞いても?」
「ガラスと申します。本日よりリアーデ様の侍女としてお仕えします」
女はやはり感情の籠らぬ声で言い、手にしたスポンジで有無を言わさず
リアーデの身体を擦り始めた。
乱暴にされるかと思ったが、意外に力加減を心得ていて手慣れた感じがする。
「私がカザンヌ国から来たのは知っているのね?」
「もちろんですわ、リアーデ様。貴女様はとても有名な方ですもの」
はて?身に覚えのないことを言われた。
小国の子爵令嬢がなぜドレンデラという大国で有名になるのだろう。
故国の宮廷においてさえ目立たぬ存在であったのに。
敗戦後、降伏を認める条件の一つとして“王家の娘”を差し出せというものが
あったため俄に注目を浴びることになっただけで。
リアーデが納得いかないという顔をしているのを侍女は悟って、
少しだけ乱暴にスポンジを当てた。
「まぁ、我らが知らぬとお思いですか?
ハルマヤ侵攻を仕掛けた張本人でいらっしゃいますのに」
「ええっ?私が?」
仕掛けるも何も、侵攻が終盤…つまり敗戦色が濃くなる時まで、故国が何を
しているか知らされなかったのだが。
どうしたらそんな傾国の“悪女”になれるのだろうか。
「お心当たりがないと仰せですか?」
侍女の声に苛立ちが籠った。始めて彼女が感情を吐露する。
「18歳の誕生日の贈り物をアルディード王に問われた時に
綺麗な紫水晶が欲しいと望まれたのではないですか?
結婚祝いに何が欲しいかと問われた時に風光明媚な別荘が欲しいと
望まれたのは姫様ではないですか?」
紫水晶と別荘…?記憶の中で何かが引っかかった。
あれは最後に生きている伯父上に会った日のこと。
(誕生日の贈り物は何が良いかな?我が姫よ)
(結婚祝いの贈り物はどうしようか?我が姫よ)
若くして亡くなった妹姫を哀れに思ってか、国王はリアーデに甘かった。
そして城に上がる度に“我が姫”と呼んで実の父のように可愛いがってくれた。
…後に彼が本当の父であったと知ることになるのだが。
「そんな…まさか」
リアーデは呆然と呟いた。
しばらく侍女はリアーデの長い黒髪を洗うのに没頭していたが、
それも終わりに近づくと、堪りかねたように叫んだ。
「姫君のちょっとしたお戯れだったのかもしれません。
けれどもそのために、カザンヌ王はドレンデラ国と長年敵対している
ヒジリ山岳連合国と同盟を結び、良質な紫水晶を産する鉱山の利権を獲得し、
その一方で、ドレンデラ一の景勝地ハルマヤに侵攻しました。
我が国は3万2千もの死者を出しましたが…その中には私の夫も息子も
入っていますわ!」
侍女は感情の高ぶりを抑えられなくなったのか手桶を放り出して、
走り去ってしまった。手桶を投げつけられたり、熱湯を浴びせられたり
しなかっただけ、ましと言わねばならないだろう。
侍女はまだ20代半ばというところか。子どももまだ小さかったのだろう。
人を洗うのが上手かったのも頷ける。
リアーデは濡れた髪と身体をタオルで拭うと用意してあった絹のローブを
纏って浴室を出た。
侍女の姿はなかったが、応接間のテーブルに軽食が用意してあった。
半日何も食べていなくても全く空腹を感じない。
しかし、ここは意地でも口にしなければならないところだ。
具合が悪くなれば自分が辛くなるだけである。
あの宰相が病人に優しくなるとは到底考えられない。
扉の向こうで咳払いが聞こえた。
騎士が見張っているぞという意志表示であろう。
心配しなくとも身心ともにクタクタで、指一本動かすのさえ億劫だ。
それにしても…。
「クソババア」
リアーデは思わず口に出して悪態を付いてしまった。
頭に浮かぶのはつんと顎をそびやかし、じゃらじゃらと悪趣味な宝石で身を
飾る故国の王妃だった。
伯父である国王がリアーデを溺愛するのと反比例して、王妃はとことん彼女を
嫌い抜いた。伯父の存命中はそれでもキツイ緑の目で睨み付けるだけで、
表立っては何も仕掛けてこなかったが、伯父が死んだ途端、牙を向いた。
今にして思えば…彼女の憎しみも理由あってのことだが、敗戦の責任を全て、
18の小娘に擦り付け、敵国に差し出すとは。
人質などとんでもない。リアーデは“生け贄”だ。
王妃はリアーデの死を望んでいない。
だからこそ彼女の“家族”を人質に取って、自ら命を絶つことを阻んだ。
そうして敵国でリアーデが大勢の男に踏みにじられ、
汚辱にまみれて生きていくのを高笑いしながら見物するつもりなのだろう。
全く恐れ入った執念だ。
「クソババア…」
もう一度、リアーデが洩らした時、低い笑い声が自分以外誰もいないはずの
部屋に響いた。
(出たな極悪宰相)
リアーデが声の方向に目をやると、果たして宰相が壁に凭れて笑っていた。
「どうした?余所行きの顔は止めたのか。
小国でも一応“王家の娘”がクソババアとは恐れ入ったね」
「失礼イタシマシタ、ご主人サマ」
リアーデは席を立つと棒読みで挨拶をした。
宰相は彼女の生乾きの黒髪を一房掬うと、自分の物だと言わんばかりに口付けた。
「それでババアはどのババアだ?」
宰相の問いにリアーデは首を傾げる。
宰相は“どこの”ではなく、“どの”と言った。
複数いることを想定しているようだが、リアーデにとって憎悪すべき女は
一人しかいない。
とはいえ…その名を口にするのは賢明ではないだろう。
個人的には百回位殺しても足りないが、あんな女でも故国の王妃である。
宰相がリアーデのために彼女をどうこうするとも思えないが、
万一のことがあればカザンヌ国が倒れる。
国王亡きあとは、王妃が国政を握っている。
亡き王と王妃の間に出来たソルマ王子はまだ12だ。
何も知らない王子はリアーデに懐いていた。
いくら母親が憎いとはいえ、その子まで犠牲にしたいとは思わない。
「どうした?またダンマリか?お前は美しく囀らなければならぬのに」
「それでは詩を吟じましょうか?歌を歌いましょうか?
舞を舞いましょうか?
けして得手とは申せませぬが、故国で一通りは習いましたので」
リアーデが己の出生の秘密を知るずっと前から、それを知っていた祖母は
孫娘の美貌を誇るどころか嘆いた。
“この子は将来男で苦労するよ”と呟き、何処ででも生きてゆけるようにと芸事を
一通り身に付けさせた。けして財政的に豊かでない子爵家だったが
祖母も父もリアーデの教育には出費を惜しまなかった。
「いいや」
宰相はリアーデの両肩に手をかけ、耳元で囁くように否定した。
「それでは、何か楽器をお借りできますか?弦の楽器でも吹奏の楽器でも」
「ほう?なかなか多才なようだ。宮廷のサロンにも近い内に連れて行こう」
サロンへの出席などもちろんリアーデは望んでいない。
「だが」
宰相の指先に力が籠った。リアーデの両肩に食い込んでゆく。
「今宵はあちらで啼いてもらおうか。
俺が奏でてみよう…早急にお前を仕上げねばならんのでな」
宰相が指差したのは寝室で。
もちろんこれもリアーデの想定内ではあったが。
(いつか、この男も破滅させてやる)
リアーデの破滅者リストに新たな名前が刻まれた。
1番目 カザンヌ国王妃エルヤ
2番目 ドレンデラ国宰相ペイジ。
小国の子爵令嬢と、大国の冷酷宰相の出会いです。
リアーデは一生懸命猫かぶりをしようとしていますが、初回から
あまり成功していません。実家はあまり裕福ではないもので…
切り盛りするのに“お嬢様”はやってられません。
さて、次回「第一章 仮初の王女 後篇」
鬼畜宰相視点が少し入ります。