5.『殺せなかった僕』と『古ぼけた恋心』
少し暴力描写があります。
イルザの後、行き止まりだったはずの壁が無くなり、青い甲冑の騎士がーーイルザの兄の騎士団が剣を抜いていた。
イルザが嗤いながら、更に後に進む。
エルザの絶叫、エレノアたちの悲鳴、敵の鬨の声が狭い空間に轟いた。
エルザは剣も抜かずに走りーー敵は剣を振り上げて足を踏み出しーーイルザの騎士たちはナイフを投げ、弓を引く。
そしてーーそれは一瞬だった。
床が無くなった。
騎士が投げたナイフも振り被られた剣も青い甲冑も群れもすべて飲み込んで、昏い穴がぽっかりと口を開けた。
(えーー?)
ガコ、後に進めた足に床の仕掛けが凹んだ感触がした。
(嘘、これ、僕じゃあ踏み込めないはず……っ?)
体を捻ると、ぶかぶかの赤い靴がーー母様のヒールが目に入った。ヒール。そうだ、僕はもう平たい靴は履いていない……。
時間が遅くなった世界で、ぐらりと視界が回っていく。仕掛けの部分が消えて、半分無くなった足場のせいだ。
僕は真っ暗な穴に呑み込まれようとする。
背中に衝撃があったけど、何かは知らない。
上体が崩れて、思わず腕が前方に取り残されるように伸ばされる。
その腕を、君は掴んだ。
「バラッド!!」
「エ、ルザ」
ガクッと腕が引っ張られて、体がぶら下がる。もしかすると、肩がものすごく痛いのかもしれない。僕には分からないけど。
「はなしてよ」ーーとは、言えなかった。
「は、う?」
背中がおかしい。
ああーーさっきの衝撃。たぶん、背中に何か刺さってる。
「矢が……!」
「へ、え……これ、矢、なの」
あっちにも弓兵がいたんだ。まあ、みんな落っこちちゃったけど。
ちょっと息が苦しかった。背中にも嫌な感じだ。
ああ…これで死ねたらいいのに、と思いかけた。
君の顔を見上げたら、何も考えられなくなった。
君は泣いていた。
僕の頬に涙が滴り落ちる。
青い空から落ちてくる。
「……エルザ、泣かないで…」
「……泣いてない」
彼女は昔のように意地をはって、唇を引き結んだ。
大人しくしていたイルザは、すんなりと他の騎士に手伝われて救出され、その後背中の矢を抜かれて手当てされた。
今は、しおしおと肩を落として、泣いているエルザの手を引いて先頭を歩き、無言で道案内している。
落ち込んでいるのはイルザだけではない。エレノアは手当ての最中にこの世の終わりのような顔で「わたしたちは騎士失格だ云々」と垂れ流し、ヒューズは口をヘの字にひん曲げているし、ベアトリクスは泣き出す寸前で、他の騎士たちも似たような感じだった。
もうかなり歩いたところで、イルザが足をふらつかせた。
息も上がっている。
(重い…)
あらゆるものが重かった。
傷を負った体も重いし、やたら絢爛な本日のドレスも重いし、エルザを引く手も重いし、背後の空気も重いし、今の状況も重い。
時よ止まれと人はよく言うけれど、今のイルザには口が裂けても言えそうになかった。
(……。…カボチャが鬱陶しくてもどうでもいいんだけど…)
イルザはそろっとエルザを盗み見た。
エルザの泣きはらした目と目が合いそうになって、慌てて前を向いた。
どうしたっていうんだろう、とイルザ半壊していたはずの心でボヤいた。
今の彼女の顔を、目を見ていると、正気が帰ってきてしまう気がした。
(僕が僕を殺すには、正気はいらない)
誤魔化すようにぐいぐいエルザを引っぱって、小さな歩幅で一生懸命複雑な道筋を辿っていく。
……どれ程の時間が経っただろうか。
あと少しだ、とイルザは気づく。
あと少しで、ここを出てしまう。
出口を抜ければ、そこは王城の外だ。
自分だけが分かる出口を先に見つけて、イルザは立ち止まり、思わず振り向いてしまった。
「……バラッド…?」
エルザの目に、その蝋のように白い顔は、とても不安そうに、心細そうに見えた。
きゅう、とエルザの手を握る小さな手に力が入る。しかし、イルザが聞いてきたのは、小鳥のように可愛らしい仕草とは裏腹なものだった。
「まだ死んだらいけない?」
「…………」
エルザの目の端に涙が盛り上がってくる。
イルザは心底困ったように顔を背けた。
「やめてよね。君がそうしていると、……殺したくなる」
「やめて」
エルザは泣いた。
イルザは本当に困ってしまった。
……イルザが知る限りでは、エルザはまったく泣いたことがなかった。なのに、なんでこんなボロボロ泣いているんだろう、とイルザは訝しむ。
(以前なら……分かったのかな。僕が死ぬのが、なんでそんなに辛いのか)
(殺そうとしている僕には、もうわからなくなっちゃったみたい)
イルザはため息をついた。もう、ずいぶん疲れてしまった。
(……兄様に見つかる所に出ようかな。僕以外には、そうとは分からないし)
妙案だったが、あの青い甲冑に殺される騎士団が思い浮かんで、それが王と重なった。
「……どうすればいいのかなぁ」、とイルザは呟いた。父王の時と同じように。それは「嫌だなあ」というのと酷似していた。けれど、彼は気づかない。
ーー助けられた、と彼の頭で誰かか囁く。
助けられた。誓いは果たされた。それでいい、と誰かが、過去の自分が囁いている。
けれど、今の狂気がそれを遮る。誓いはもう破られた、自分は裏切られたとヒステリックに叫んでいる。
半壊した彼の思考回路では答えは導き出せず、イルザは考え疲れてしまった。
「……とりあえず、外に出してあげるよ」
手を引く気力もなく、エルザの手を解き、歩き出した。出口に向かって。
ちょっと仕掛けを解けば、すぐに外への扉は口を開けた。ーー暗い通路の中に、光が差し込む。
扉の脇に避けて、イルザは告げた。
「ここから先は、僕は行けない」
「ならーーぼくたちも、行けない」
「…………まだ邪魔をするの?」
耳鳴りのように、頭痛のように過去の自分が叫び始める。
ーーもういい! 許せ!
狂気が記憶を呼び覚ます。
ーー希望なんてない。みんな、嘘つきばっかり。
「バラッド……ぼくはもう、きみを裏切らない」
決然とした目が僕を射抜く。
その青い目が、同じように僕を射抜いた父様の恐ろしい目と重なる。
破られた誓いが今の言葉と重なる。
ーー怖い…!
「僕は君を許さない」
「許されなくても、いい。……ぼくはきみを守りたい……!」
必死に訴えかけるエルザの言葉を、僕は「嘘だね」と一蹴した。
別の言葉が重なる。父様の言葉が。優しくない父様が。
今とすぐ近くの昔がごちゃ混ぜになって、僕を襲う。
ーー怖いよう……!
ーー痛いよう……!
ーー助けてよ……!
ーー誰か!
ーー誰か!
ーーエルザ……!
ーーエルザ、助けて!
ーーエルザぁああああああああああああああ!!
どんなに叫んでも救いは来なかった。痛いし気持ち悪いしほんとうに恐ろしくておぞましかった。
「いくら叫んでも君は来なかった……」
僕は穢された。たくさん、たくさん、乱暴された。泣き叫ぶ声は黙殺された。暴れる腕は押さえつけられた。折られたこともある。あんまりうるさいと口に何かを詰め込まれた。段々目を開けられなくなって、耳障りな音を聞きたくなくて耳を塞いだ。君が来たのは僕が蹂躙されつくした後だった。僕は本当に喋れもしなくなった。
「誰も助けてなんてくれなかった……!!」
今、僕がこうしていられるのはあのひと月があったからだ。父様が来なかったひと月……誰にも酷いことをされなかったひと月……。
「僕を助けてくれたのは兄様だよ! 父様を殺して、僕も殺そうとしてくれる!」
「ーーそれがきみの救いなのか、バラッド!?」
「死にたいんだ!」
僕は心の底から叫んだ。
「それが僕の救いなんだ、エルザ!」
「………嘘だ…」
ーーどうして君がそんな傷ついた顔をするんだ。
君は魂に亀裂が入ったかのような顔で棒立ちになっている。絶望そのものの表情で立っている。
急速に過去の声も、狂気の叫びも弱まり始めた。
代わりに強く湧き上がったのは、錆びているんじゃないかというくらい、ぎこちない何かだった。
「…………」
急に何も言い返せなくなる。泣きそうになる。忘れていた痛みがーーよみがえってくる。
ああ、死んでしまいそうだ。
とてつもなく痛かった。背中の傷なんてこれに比べれば物の数にも入らない。
何がそんなに痛いんだろう、と崩壊寸前の心で考えた。今なら分かる気がした。
これは、エルザを傷つけたから?
(何を今更ーー殺そうとしたくせに。泣かせたくせに。ほら、見なよ、あの首の包帯)
両手で胸を押えた。潰れた心が暴れだす。
古ぼけ、色褪せ、瓦解した恋心の、最後のひと欠片が僕を追い詰める。