05.『切り裂きナイフ』
果たして血に濡れたのはーー
僕の、ナイフ。
ずるり、と傷口から血を吐き出しながら身体が転がり、その横に落ちた白刃が雨に濡れてゆく……。
ーー背は指の幅も伸びなかった。足だけは早くなった。気配を殺すことも、初めに比べれば上手くなった。それでも、この身体は優雅に暮らす事にしか向かないと己が痛感している。
以前より痩せた手の指。それでもなお、無意味に美しい華奢な手。力はまた無くなったかもしれない。それでも、まだ。まだ人を切る力くらいはあるはずだ。あの時のように隠し持ったナイフをそっと確かめて、短く息を吐き出した。
きっと、出来る。だってあいつらは僕が刃物を振りかぶる想像さえしないはずだもの。僕の華奢すぎる手指は、そういうことを誤魔化す時だけ役に立つ。
どんなに小さくて無力に見えても、この手の皮膚下には硬い骨と筋肉があって、敵の喉首を掻っ切るくらいの動きが叶うことを、敵に知らせないでくれる。
僕はまだ生きていた。
あかい滴の伝うナイフを握りしめ、僕は亡骸の前に立つ。
目を閉じて思うのは肉を断つ感触。皮膚を裂くのはあっけなかった。肉を断つのは鈍く、意外に柔らかいかと思えば筋に当たると硬く、無理やり引き裂いた手首が痛む。
人を斬るのは簡単だった。相手から懐をがら空きにして近づいてくれるから、僕はナイフを手に相手の懐に立ち上がれば良いだけなのだ。
そう、簡単だ。
(でも、この疲労感はなんだろう……)
一歩よろけて、もたれていた幹に縋りつく。座り込みはしなかった。確認しないといけない。見ないといけない。
(エルザ、たちは……)
だって、僕のところまで敵が来たんだ。おかしい。追手にはいつも奇襲されるけれど、僕に襲いかかるまでに到達したやつはいなかった。それが、今回は。
(振り返るのが、怖い……)
そこに、君はいるの?
ゆっくり、恐ろしくゆっくり、僕は首を傾けていく。木肌をのろのろと過ぎた視線の先、獣道を辿って、僕は今度こそ座り込んだ。
足元に知らない誰かを転がして呆然と僕を見ている赤毛の少女。その横には同じような体たらくの騎士たち。
(なんだ、元気そうだね……)
ぐるり、世界が回転する。
目を覚ませばいつかのようにエルザの背中で、目を開けるや否やぐりんと前方のエレノアの首が回転した。もちろん身体ごと。
そのまま泣き崩れる勢いで平謝りするのにヒューズその他まで加わり、たぶん本当はそれに参加していたはずのエルザは僕を背負っているせいで傍目上役に謝られているという状況にたいそう居心地が悪かっただろう。ちなみに僕も居心地が悪かった。
(みんなが、やっている事なんだし……)
そんな恐縮する事ないのに。
おかしくて笑っていると、変な顔をされた。
いいよ、べつに。なんでも。
土砂降りも止んだし、地面はぬかるんでいるしもう暗いけれど、夕陽が差して水滴だらけの森の中は眩しくも美しい。
それにーー
(もう、国境を越えた)
寝ている間になんて感動もへったくれもないけれど、それでいい。なんだっていいんだ。
首に回した腕で抱きつく。君はびくともしない。
(ーーああ、聴こえる)
エレノアたちが木々の合間から見え隠れし始めた光に騒ぎ出す。
篝火だ。
(あれはきっと、秋の木霊の祭禮、かな)
妙なる楽の音が届いてくる。
森を抜けた場所にあるのは、伝え聞きにしか知らなかった異国の祭礼。
鮮やかに色づく煙を上げる不思議な篝火、まだらに染めた布を被って収穫物に化けた人々、大きな葉を手に踊る行列、村の中心で燃える焚き火、丸太に座る吟遊詩人が陽気な歌を歌ってる。今日だけ、布を被れば秋の国の中では誰にも見咎められないという。
僕らは顔を見合わせて、フードをかぶり直した。
背中から降りると、エルザに呼び止められる。
「エルザ?」
首を傾げれば君は微笑む。
「ほら、約束しただろう、名前をつけるって」
「あっ! ……決まったの?」
「うん、ばっちりだよ」
ぜったい気に入るよ、得意げな君に焦れて、はやくはやくと急かせば、君は腰を屈めて僕の耳に口を寄せる。
秘め事のように囁かれたのはーー遥か遠い神話。美しくも呪われることのない、その名前。
「どうかな」
頷く代わりに、僕は彼女の頬に手を滑らせ、唇を重ね合わせた。
(うん、最高だよ、エルザ)
でも、本当は何だってよかった。
君が名付ける事のみにーー意味があったのだから。
次で切り裂き(ジャック)ナイフは完結です。
ずいぶんお待たせしたのに情けのない出来ですいません。