04.『後ろ手に隠した』
土砂降りの雨が降っていた。
けれどぼくたちは休むことがない。
つないだ手が寒さに震えていても、背後から迫り来ては、追いつこうとするものがあるから。
冷たくちいさな手を背中にかばい、ぼくは進み続ける。
握り返される力は少ない。きゅっと力をこめられても、すぐに解けてしまいそうだ。
健常な精神状態を取り戻したかに思えた彼は、しかしいまだ成長の兆しが見えることがない。
身長は伸びなかった。身体は痩せたまま。足は、早くなった。重いドレスを着ていないこともあるのだろうが、以前よりは身軽で、よく動く。長く歩き続けられる体力もつき始めて、最近はヒューズ副長に運ばれることも減ってきたように思う。
(それでも、きみは無力だ)
雨音の合間を縫って、苦しげな息遣いが耳に届く。
幼少のころ、バークランドで共に屋敷の庭を駆け回ったこともあった。そのころから、イルザはぼくの後ろで息を切らしていて、とうてい泥遊び向きには見えなかった。ましてや王城の中では部屋で座り込むばかり。根本からして走る運動に対応して作られてないのかもしれないなんて思うこともある。
それでも自分で足を進めるのは、背後の道にしたたる血のせいだろうか。
(だとしたら、なんて哀しい)
ぼくの背後にいるのは、麗しのきみ。
夜空の黒髪、けむるまつ毛の、濃い翳を落とす緑の鏡。蝋のように白いすべらかな肌。質素なローブのフードの下から、人を魅了してやまないこの世の神秘。
(きみはこんなにも華麗なのに、沢山の痛みを隠し持っている)
実の兄に命を狙われ、自分の騎士を殺され、祖国を追われ。
心の傷を抱えながら、運命の輪に廻される。
今も、そうだ。
(なぜこんな、悲劇の主人公みたいな目にあわなきゃいけないんだ)
キイン、と甲高い音が後ろから響いた。
追いつかれたのだ。
ぼくはイルザの手を引っ張って前によこし、腰の剣を抜いた。
「走って!」
後ろを振り返ろうとした時、顔の横を掠め、何かが木に刺さった。
確認している暇はない。
ぼくはそのまま剣を構え、後方に走り出した。
国境に近づくにつれ、追いつかれることが多くなった。
それは最初に送り込んだ追手が追いついて来たのか、焦って沢山送り込まれているのか。それは分からないが、どちらにしろ危険なことには変わりない。
隠れるか、足を早めるかの選択に、僕らは足を早めて国境を越えることを選んだ。だから土砂降りでも、国境付近では滅多に降らない雪が降っても、僕らは足を止めない。
(けど、正直……フラフラだ……)
目眩がする視界の中、雲を踏むような足取りで走る。吐き出した呼気が熱い。
キン、キンと響く剣戟の音に触発されて、耳鳴りまでしてくる。
思わず両手で耳を押さえた時、ヒュンっと風を切る音が通り過ぎて、木の幹に深々と矢が突き立った。
(ーーあ)
一瞬、頭の中が真っ白に漂白され、気がつくと僕は尻餅をついていた。少し遠くの腐葉土の地面に二本目の矢が刺さっている。
(に……逃げなきゃ)
四つん這いに横に逃げて、ヒュン、と身体を撫でた音に駆られるように覚束ない足取りで木の陰に身を隠した。
幹にもたれてズルズルと根元に座り込む。
(……どうしよう)
逃げられないし、それに。
逃げたくない。
エルザが来ない。
エルザが、いない。
ぞっとした。
エルザはいつも僕を連れて逃げていたのに。
剣で貫かれたベアトリクスが脳裏に蘇る。溢れ出て地面を濡らす赤黒い血液、見開かれた無機質な目。
(いやだ)
いやだ、いやだ、いやだ。
先鋒から走って来たエレノアがあっちに向かっている。
僕も、向かえたら。剣を、取れたならーー。
けど、僕は出来ない。
土砂降りの雨が降っている。木の葉の生い茂る森の中は、雨に叩かれる葉の音で満杯で、今は甲高い金属音が割り込む。
冬の国の、黒い腐葉土の森。
そこで僕は、君が追いつくのを待っている。
目を閉じて膝を抱えて、息を潜ませて。
永遠にも感じられた長い時間、それが途切れさせたのは土を踏みしめる足音。
すぐ後ろからした音に振り返れば、
「避けろぉっ、イルザぁああああ!」
ぎらぎらと光る刃、がーー
追いついたのは、知らない誰かと君の悲鳴。
息を呑む間もなく、振りかぶられた刃が一閃するーー……