02.『心を象る暗やみ』
「う、あ、あ、あ…………」
ずるりと刃が引き抜かれる。
はく、と開閉する口から、言葉の代わりに血が、ああ、血が、ながれて。
命が流れていく。
彼女の名前を叫ぼうとして、声が出なくて、剣を抜こうと、いや彼女の身体を受け止めようと、したのかも、しれない。
息が苦しい。うまく、呼吸が出来ない。
それでも、ぼくの身体は動く。
ぎらぎらと光る剣の刀身にぼくが映る前に、相手の懐に、もしくは背後に、死角に飛び込んでーー首を貫く。一番、切れやすいから。何にも覆われていない、薄い皮。柔らかい肉。太く、無力な血管。それを断ち切って、血が噴き出す前に飛びずさる。じり、と土をえぐる足は、以前のように痛むことはない。ただ、疲労が積もっていた。
「……エルザ」
うつくしい声がぼくを呼ぶ。
その声音が含んでいるのは、恐れか、悲しみか。ぼくには分からない。
イルザ、イルザ、イルザーーまだ名前を変えられないきみ。覚えているんだ、あの約束を。でも、考えつかない。考えられないよ、きみの、新しい、新しく生きるための、名前。
そう、それは希望じみた光のようでーー
こんな暗がりじゃ、どうやっても見つけられそうにない。
あなたは万華鏡の夢でも見ているような寝顔をしているわ、と、一昨日いなくなったベアトリクスは言っていた。ならエルザはどうなのかと聞いてみたら、知らない人のは分からないわよ、と笑われた。それもそうだ、その頃のベアトリクスはまだエルザに会ったこともなかった。ただ、ぼくのエルザ話によく付き合ってくれていた。最近は、誰も彼もが塞ぎがちで、黙り込むことが多かったけれど、本来彼女はおしゃべり好きで、笑っている事が多かったはずなのだ。
なんで僕なんかに着いてきたのやら、とは、思ってはいけないんだろうか。許されるかな、それくらい。でも、悪いかな。
悪いね。
ごめんね、ベアトリクス。僕は万華鏡の夢はもう見ないんだ。
見れないんだ。
真っ黒いーー闇を溶かした黒が、広がっている、夢の中。
せめてこれが夜空だと言えたなら、彼女らも少しは報われただろうか……。
冷たい腕や青い目の転がる悪夢に、いつしか突き立つ剣の墓標。
華奢な形の、鋭い剣。
柄の色も長さも見慣れたそれは、彼女たちの剣。
こんなところで埋葬しても意味が無いのに、それは増え続ける。
(無駄なことを)(でも、人間らしいかな)(どうだろうね)(僕が殺しているの?)転がる『僕』と囁きあう……というより、独り言か。壊れた部分とはいえ、僕であることに変わりはないから。
(万華鏡は)(死骸を探れば)(出てくるかも)(でも動けないね)(僕脚がないや)(掴む手がない)(ああそういえば)
((君なら動けるんじゃない?))
ぐるり、と緑の目がいっせいに僕を見た。
「……動いたら、崩れてしまわないかな」
(大丈夫)(崩れても)(運んであげる)
ぬっ、と闇の中から青白い手が伸ばされ、僕の腕を掴んだ。
(慎重に)(まあ君も残骸だしね)(まだまだ保つんじゃない?)(とりあえず、ほら)(誰が一番持っていそう?)
「バラッドだよ。バラッドが持ってる」
万華鏡を夢見ていたのは、彼だ。
(そう)(そうだね)(どこにいるの?)(どこに)(いない)(遠くに?)(いないよ)
(いないね)
(万華鏡、なくなっちゃったね)
そうだね、とため息をついた。手がするすると離れて、闇に消えていく。
万華鏡があったら、さて、どうなっただろう。
(どうにもならなかった、かな)
(エルザにも、あげられないし)
エルザ。
君はまだ、万華鏡の夢を見ているだろうか。
((ーー見てるわけ、ないか))
せめて真っ黒くなければいいんだけど。
(いやいや)(絶対黒いよ)
笑いを含んだ声がして、それを最後に闇が除けられていく。
ーー朝が来る。目を開けて、遠くへ行かなければならない。
夜明けの遠い、月の照らす午前。
泥のように眠るエルザの顔は、とうてい安らかとは言えない。
(やっぱり、真っ黒けなのかな)
さら、と寝乱れた赤い髪を手ぐしで梳く。
細い骨格。薄い胸。疲労した脚。
痩せた、手。
いつかきっと……。
いつか、
きっと?
(『いつか』がくる前に)
この細い人は、壊れてしまわないと、どうして言える?
ぐっ、と乾いた唇を噛む。
(どうにかしたいのに)
そう思ってから、いや、違う。僕は首をふった。
(どうにか、するんだ)
ほんの僅かにでも、力があるのなら。