夜にさよなら
一輪の花のように木陰で揺れていた影に、人が落ちた。
目を閉じたその顔は、ただただ穏やかに静止して、風に舞う灰色の髪にさらさらとくすぐられていた。
花よりも美しい、それは亡骸のようだった。
冷めたチーズケーキをほっておいて、ぼくらは家を出ることにした。
「大丈夫だよ、帰る頃にはお皿ごと元に戻ってるから。ティーカップもね」
彼は、よく見えないが飾り付けられた羽のシルエットからして華麗そうな帽子を被って、玄関から出た。
ぼくもそれに続こうとした時、きぃ、と軋む音がした。扉が閉まる。
閉じた扉の前で振り返ると、階段から彼の父さんが降りてくるところだった。
夜闇の中で白く浮き立つ仮面に、金の髪が被さっている。
その仮面が、おもむろに外された。
あっ、とぼくは息を飲んだ。
肩から流れ落ちる金の髪、透かせるように透明な青の瞳、神経質に痩せた頬、滑らかな額、薄く高い鼻梁、そしてたぶん彼とそこだけそっくりな蝋のように白い肌。
カンテラを持ち、ちょうど月光に照らされる窓辺に佇んだ彼の姿は、思いの外よく見えた。
どうしてだろう、と思考のすみでぽつんと呟く。
どうしてこのひとは、ぼくとそっくりなんだろう。
そっくりなひとは青ざめて見える白い痩せた手をぼくに差し出している。
あんまり働かない頭でそのことを認識すると、手に何かを持っていることが分かった。
反射的に、ぼくは何かを受け取った。
まじまじと見てみると、それは棒付き飴だった。カラフルで大きなペロペロキャンディーが、ぼくの彼とは大きさの違う手に握られている。
「持っていくといい、客人」
薄く微笑んで、そのまま階段を登っていく。
ぼくがようやく、お邪魔しましたなんていう合ってるんだか合ってないんだか分からない返事を返した時には、彼はすっかり二階の闇に消えていた。
「ねえ! どうしたの?」
彼の子が呼んでいる。
もう、行かないと。
「……他人の空似」
口に出して呟いて、なんとか納得しようとした。
暗闇、トンネル、空洞。
境界を曖昧にする暗やみを、手を繋いで走った。
タンタンタンタンと二人分の足音が反響する。
薄ぼんやりした月明かりの入り口を、もしくは出口を頼りに進み、そして到達した。
今日の始まりに。
扉は何故か、薄く開いていた。
ぼくらはその前で立ち止まる。
扉の隙間からは、闇の中からみれば眩い光がこぼれているが、扉を開けた先にあるのは光だけではない。
仮面。
あれはなんだろう。
あれはいったい。
どうすればいい。
ぼくは立ちすくんだが、しかし、扉に手をかけた。
するりと繋いだ手が解ける。
振り向きたかった。
けど、やっぱり扉を開けてからにすることにした。
音もなく扉が開く。
ぼくの目を、光が刺した。
ぐっ、と目をつぶって、ゆっくりと目を開く。
母さんがいた。
……わが家だ。
……………家、なんだけど……。
母さんの足元らへんがおかしい。
具体的に言うと、
待ち伏せていたらしい仮面が襤雑巾になっていた。
「う……うぐ……イルザ皇子……おのれ、たかが女騎士一匹が……」
般若の形相をした母さんのブーツに踏んずけられた襤褸仮面は不気味に呻いていた。
扉を開けた瞬間、母さんは一瞬前までの般若の仮面をかなぐり捨ててぼくが開いた扉の方を振り返って、そして、
「ーーーー」
絶句した。
母さんが見ているのはぼくじゃなかった。
ぼくの後ろ。
彼だ。
ぼくはどうしたんだろうと後ろを振り向いた。
闇と戦っているかのように揺らぎ、たわむ光の中で、彼は佇んでいる。
にこっと線と点の笑顔を作った白い仮面がずらされて、その面が覗き、そして、完全に晒される。
彼はぼくと同じくらいの年格好の少年だった。
蝋のように白い病的な肌が、彼の父と酷似している。
性別を超越した神秘のかたまりは、曰く、彼の母さんと瓜二つ。
華麗で豪奢な服を纏って、彼は母さんの代わりのように、少し驚いたようにぼくを見ていた。
ぼくも、彼を見ていた。
手から抱えていたボウルとキャンディーが落ちる。カラン、と音を立てたけど、気づかなかった。
ひどく、似ていた。
違う、そのものだ。
いや、そうじゃなかった。
彼は過去。
過去のーーぼくのーー
「父、さん」
彼は美しく微笑んでいる。
「やあ。本当に祖父様そっくりに育ったね、ウィル」
ひらひらと小さな手をふって、父さんはぼくの名を呼んだ。
祖父様。父さんの父。他人の空似じゃあ、なかったんだ。
「僕はバラッド。フレイとも呼ばれることに、なるね」
夜空を切り取ったような黒髪が頬にかかるのをそのままに優しく微笑み、そして、ふっと色を無くした碧眼を、母さんに向けた。
「久しぶりだね、お馬鹿さん」
かちん、とは来なかった。
言い方のわりに、悪意の微塵も感じられなかったからだと思う。
小さな父さんは、複雑そうに眉をしかめ、ため息をついた。
「泣きそうな顔しないでよ、情けないなあ、もう」
少しむくれて、ふんっとそっぽを向く。かなり子供っぽい仕草だった。
入れ替わりに、ぺしっと何かが母さんに当たった。見てないけど、たぶん仮面だ。
「許す」
手紙でも言ったんだけどね、と子供のすねた、ぶっきらぼうな声が告げた。
「だってね、やっぱり君のこと、愛しているものーーエルザ」
「………バラッド…」
かすれた声音だった。今にも折れそうに儚いそれは、聞いたことのないもので。何かが床に崩れる物音がしても、ぼくは振り返れなかった。
「ウィル」
父さんがぼくを見つめる。
痛いほど真剣な目だった。
「ごめんね、長く生きられなくて。でも、フレイもきっと君のことを愛していたから」
許してくれる? と父さんは首をかしげた。ぼくは、頷いた。
「……ぼく、大好きだよ、父さんのこと。……家に、たくさんあるんだ、父さんからの贈り物。絵本とかレシピとか、色水瓶とか、色々。母さんがぼくのためだって………嬉しかった」
「……そっか」
口元が緩んだぼくに、父さんは一歩踏み出して、手を伸ばす。
抱きしめられた。
目を閉じる。
まだ子供の小さな父さんの体格は、ぼくよりも僅かに大きく、華奢で、肩が薄くて、滑らかな衣服からは良い匂いがして、白い肌は意外に温かかった。
いつまでもこうしていたかった。
けれど、唐突に優しく引き離された。
「もう、行かないと」
なごり惜しげにぼくの肩を掴んだまま、父さんは告げた。
思わず腕にしがみつくと、苦笑される。
「ウィル」
かがんで、ぼくの落としたボウルとキャンディーを拾い上げ、それをぼくに渡す。
手を離す。
ボウルはつめたかった。
「エルザみたいな顔しないの」
頭を撫でられる。
と、髪に何か差し込まれた。
父さんも何か髪に差した。
花だ。父さんの母さんが、お祖母さんが好きだった。
一輪の水色の花。光の中で、可憐な造形がよく見えた。
父さんがぼくの髪を指差して、言う。
「おそろいだよ」
触れると、柔らかい感触と、かすかな花の匂いがした。
うん、と頷くと、さあ、お行き、と促された。
ゆっくりと踵を返した。足が重い。
光の下に母さんが座り込んでいる。
近寄れば、腕を広げて抱きとめられた。
そのまま扉を振り向くと、扉が閉まり始めていた。
父さんがまた、闇に閉ざされようとしている。
「さよなら」
にこっと笑った父さんに、ぼくらは笑い返せただろうか。
こんなことなら、笑顔の練習でもするんだった。
母さんの腕に力が入る。
さよならバラッド、と母さんが呟いた。
さよなら、とぼくは鸚鵡返しにして、扉が閉まるのをただ見ていた。
キャンディーを握り締める。
目に焼き付けるように白い美貌を見つめていると、扉の向こうの闇が濃くなるにつれて、世界が滲んで見えた。
ぽたぽたと何かが床に落ちて染みを作る。
「あーあ、君らはやっぱり怖がりなんだね」
くすくすと明るい笑い声が夜の向こうに聞こえて、そして、
ぱたん、とあっけなく扉が閉まった。
あれから数日経っても、まだかすかな夜気のなごりが、家の中に漂っていた。
さわさわと窓から風が入ってくる。
そういえば、向こうには風があっただろうか。
そんなことを思いながら、ぼくは壁に掛けられた額縁の前に立つ。
『光の画』の中には、相変わらず灰色の紳士が妻と寄り添いあって微笑んでいる。
子どものときより凄みを増した美貌と、肩で切り揃えた灰色くなった髪。伸びた背丈にこの国風の衣装を纏い、朱色の髪の美しい妻を抱き寄せて、木漏れ日よりも優しい笑みを絵の中から投げかけている。
そして中心には、二人で抱いた金髪の赤ん坊。
母さん共々そうは見えない、三十路の、遅く子を授かった幸せそうな夫婦がいた。