過去と未来話
母さんよりも料理が上手かった、
母さんを誰よりも愛していた、
誰もが守れなかった、
風にさらわれたフレイ。
父さん。この世でぼくの名前を一番最初に呼んだひと。
「正確には僕らは何にもしてないんだけどね。ただ、それでもやっぱり恐ろしいことが起こったのは事実で、すんなり笑い合うには暗すぎてね」
「…………」
「だからね、ちょっと合わせる顔が無いかなあって、お互い思ったんだ」
「……それで、その仮面?」
なんか変だなあ。
「そう。でもね、これが結構深刻なんだよ」
「何が起こったのさ……それに、きみらじゃないって?」
ううん、と彼は首をひねった。少し沈黙。
そして、彼はそっと口を開いた。
「…………むかしむかし、といってもあれからどのくらい経ったかなんて知らないけど……とっても仲睦まじい夫婦がいてね。子供も生まれて幸せで、毎日笑暮らしてた。夫婦喧嘩もあったみたいだけど、僕は見たことなかったなあ……」
仮面が外して、彼は自分の頬を撫でた。冷たそうな指先だった。
「その子供はね、妻にそっくりだったんだ。男の子なのにね、瓜二つだったんだよ。髪の色や、目の色さえ、寸分違わなかった」
自分の目元をなぞって、彼は遠くに視線を投げかけた。薄明るい光に照らされて、顔の下半分だけが柔らかくも流麗な曲線を晒している。
ぼくは黙っている。不吉な気配がしても。聞く前から、分かったことだ。
「とっても幸せだったんだけどーーある日、妻が亡くなってね。夫はおかしくなったんだ。だんだん気が触れていく中で、妻にそっくりな子供に妻の面影を重ね始めて、それから坂を転げるように子供を忘れ、妻がいるんだと思い始めた……」
「…………」
唾を呑み込む。自然と息が詰まって、すこし苦しかった。
ふ、と短く息を吐き出すと、その音で我に返ったのか、彼は目を見張ってぼくに視線を合わせた。
「…………ああ、よくよく考えなくても、君くらいの年頃の子にする話じゃなかったね」
「え」
「終いにしよう」
唐突すぎる。ぼくは焦った。
「つ、続きは?」
「気になるの?」
「……うん」
「んー、じゃあね」
少し間が空いた。
「二人とも死んだよ。……でも、僕らはそうじゃないけどね」
「……?」
「壊れたものなんだよ、僕ら。壊れて戻らなかったもの。過去のものだね。生きて、死んだ彼らじゃない」
「…………」
分かったような、分からないような。
「つまり、おかしくなる前の夫と子供?」
「そういうこと」
にこっと彼が笑う。仮面が被りなおされる。
「だからね、僕らは何もしてないし、されてないんだけど……起こったことは知ってるから」
だからーー仮面被って、誤魔化してるんだよと、寂しげに微笑まれる。
「過去の、もの……」
不思議だった。
ぼくは確かに現在を生きているはずなのに、過去の人間と対話している。
「あの、きみさ……きみの未来は……」
もう、死んでるのかな? とまでは、言えなかった。そういえばさっき、死んだとか言ってたしなあ。
予想に反して、彼は少しおかしそうにした。
「あはは、別にそんなこと、遠慮しなくていいのに。……それにね、僕の結末はそんな不幸じゃなかったよ」
「そうなんだ」
ほっとしたけど、さて。不可解でもあった。
「本当はね、きっと未来なんて存在しなかったんだ。僕は壊れて、そのまま潰えるはずだった」
すっと背筋が冷えるようなことを、彼は平然と告げる。でも、実際には背筋が冷えるくらいじゃ済まなかったはずだ。
それでも彼は、幸せになれたのだろうか。
ぼくはじっと答えを待った。誰かの話しを真剣に聞くのは、最近じゃあんまりなかった。
「けどね、彼女が……僕を救おうとしてくれる人が、いたから」
輝く緑の瞳が鈍る。ハッピーエンドを語る顔が曇る。
「僕は未来に連れ出されて、不幸のままにはならなかった」
どうしてなんだろう。
彼はまったく嬉しそうじゃなかった。
「……その割に、嬉しそうじゃないんだね」
彼はもちろん、と大きく頷いた。
「だってね、不幸から未来へ引っ張っていかれたのは、僕じゃないんだもの」
僕は、ほら、この通り。
薄暗い月夜の下で、過去の墓標は目を眇めた。
「……きみは、救われなかった」
「うん」
「きみはーー不幸せなの?」
「そうかもしれないけど、さてね」
君はどう思う?
彼はぼくから目をそらして、天井へ視線を向けた。
二階の、父へ。
「僕は今、元々の暮らしや境遇を壊されて、悲運を押し付けられて、元凶と墓場で暮らしてる。それを、君はどう思うの?」
言葉にされると、ますます重たい状況だった。
ぼくはテーブルに置いていたボウルを抱えて、中身のプディングの元を覗き込んだ。プディング。彼のチーズケーキとは違う、レシピの分かったお菓子。
父さんのレシピから作った、菓子。
顔を上げた。説得力の無さそうな声音が出る気がしたけど、仕方ない。ぼくには父さんなんて遠い話なんだから。
「……きみはきっと、とても不幸なんだと思う。けど、ぼくはやっぱり……うらやましい、かな」
「君には父様がいないから?」
彼は怒っても、喜んでもなかった。無表情でぼくをじっと見ている。
ぼくは、少し悲しく思った。父さんがいない。ぼくにはいない。彼には、母さんも、未来もない。
「うん、そう。でも、こうも思うよ。ぼくは、父さんがいなくても幸せだったよ。母さんがいたから。さみしかったけど、幸せだよ」
だから、そう、そろそろ帰らないと。怪しいひとたちがうろついていても、ぼくの家に帰らないと。
母さんが、待ってる。
「きみは今、父さんといられて幸せ?」
果たして、彼は微笑んだ。