チーズの行方
家の裏手には墓がある。粗末だけど、白くてきれいな墓がある。
真っ白い墓標にはいつも柔らかく編まれたリーフが掛かっていて、周りは花の咲く狭い庭。
春の間中ずっと満開の、美しい庭。
暗い夜の墓場で、その墓標はぼくに語りかける。
「ここのこと、だいたい分かった?」
「…………うん」
ぎこちなく頷いたぼくを見て、彼は微苦笑した。
「話しすぎちゃった? ごめんね、怖がらせたよね。ここは静かすぎて、つい喋りたくなるんだ」
たしかに、しんとしている。今もこの世界では何かが眠って、消えゆこうとしているんだろうか。
「大丈夫だよ」
半分嘘だった。この夜は恐ろしい。でも、だからといって彼を怖がろうとは思わなかった。
彼はただの、忘れられた死人だ。
「そう? 僕はしばらく眠らないから、ゆっくりしていってね」
ゆっくり。その言葉にはっとなった。
「う、ううん、ぼく、早く帰らないと」
「怪しいのがいるところに?」
椅子から浮きかけた腰が止まる。
「な……なんで知ってるの?」
「見てたんだ、僕。君が投げ込まれるところ」
隠れてたけどね、と彼は付け加えた。
むっと竃から漂ってくる薫りが強くなる。
彼が立ち上がった。
「ケーキが焼けたみたいだ。ちょっと待っててね」
「……うん」
雲が動いて、月明かりが戻ってきた。
月光を浴びて揺れる花を眺める。
いつまでもここにいるわけにはいかない。でも、帰ろうにも扉が開くか分からないし、開いても怪しい奴らがいる。
どうすればいいんだろう……。
物思いに沈んでいると、ふわっと鼻先にいい匂いが掠めた。
「あはは、ちょっと焦げちゃったけど、気にしないでね?」
顔を上げると、彼が円いケーキをテーブルに置くところだった。
表面はこんがり焼けた狐色で、平べったく、装飾のたぐいはさっぱり無いのが彼の服装と正反対だった。
「あ、そういえば前掛けとかしないの?」
ぼくはしてるんだけど、と自分の前掛けを引っ張ると、彼も手を伸ばして引っ張ってきた。
「?」
「何、これ。知らないや」
「ああ、」
そういえば坊ちゃん育ちの子だった。
「料理するときに、服が汚れないようにするんだ」
「へえ……じゃあ、僕がしても意味ないよ」
「どうして?」
彼は前掛けから手を放した。
「ここだと汚れは放っておけばきえるもの」
それは、便利というかなんというか。
「だから僕たちが生活出来るんだけどね」
「そうなんだ」
「そうだよ」
ふふふと彼は笑って、ケーキナイフを手に取った。
「僕、後片づけなんてしたことないしね」
スっとナイフの切っ先がケーキに沈む。
スっ、スっと切っ先が出入りし、きれいな三角に切り取られていく。
フォークと一緒に皿に盛り付けて、彼は僕の前にそれを置いた。
「めしあがれ……で、合ってたかな」
「合ってるよ。いただきます」
ひとくち口に含んで、ぼくは首をかしげた。
なんだか知っているような、慣れているような味がする。食べたはずもないケーキなのに。そういれば何ケーキだろう、これ。
「美味しいね。何ケーキ?」
「それが、僕にも分からないんだ。作ってるレシピが分からないなんて、おかしいよね……」
でも、ここはおかしな事ばかりだよ、と彼はボヤいて、緑色の目を伏せた。
そのまま正体不明のケーキを頬張ると、「う~ん、知らない味だ」と眉を寄せ、「でも僕にしては美味しい」とフォークをケーキに刺す。ひょいひょいと食べ進めて、彼の切り分けられた分はすぐに無くなった。
「たぶんチーズケーキじゃないかなあ、これ」
ナフキンで口許を拭きながら彼は言った。
「チーズケーキ? チーズなんて入ってたのかな」
「一応入れた記憶はあるよ。あんまりチーズ風味じゃなかったけどね。……たぶん、失敗作だったんだよ」
「きみが失敗したの?」
「かもしれないね。僕はまだまだ修行中だもの」
にこっと笑って、彼は仮面を被った。仮面がぐにゃっと笑う。
今更だけど、気になった。
「あのさ、それ」
「うん?」
指差すと、仮面の目が、というより穴がまん丸くなる。
「どうして動いているのかな」
「さあ」
さあって。ぼくは呆れた。
「分からないのに被ってるんだ」
「だって、面白いでしょう?」
彼は妖しく微笑む。仮面は、怪しく微笑む。
「へんなの」
「くっく。でも、面白いだけじゃあ四六時中被ってなんかないよ」
仮面が突然への字に口の端を曲げた。
「どうしたの?」
「うん、ちょっと悲しくなって」
「なにが悲しいの?」
「仮面」
いったいどうしたんだろう。悲しみの形に歪んでいく仮面に、もしかして呪いの仮面か、とぼくは思い始めた。
なんてことだ、彼は呪われてしまっていたのか!……、なんて。ちっとも面白くないジョークだ。微妙に真実味があるから、気味が悪い。
「この仮面を被っているのにはわけがあるんだけど、話してもいい?」
また怖がらせるかもしれないけど、という彼を、ぼくは上目遣いで見やった。
「呪われないならいいよ」
「なにそれ」
彼はくすくすと品よく笑った。
「呪われないよ」
「ほんとうに?」
「そんな呪いなんて無いって。……君は怖がりだね…、ちょっと彼女に似てるかもしれない」
彼は懐かしそうだ。
彼女って誰だろう。
病んだように白い小さな手を仮面に這わせて、彼は語り出した。
密談のように、声をひそめて。
「ーーこれさ、父様もしてたの、覚えてる…?」