おやすみの夜
あの世は三つあるという。
ひとつは天国。
ふたつめは地獄。
みっつめは名無しの世界。
行き場も無く消えてゆく、墓標のないものたちの、おやすみの夜。
目が覚めたら地面に寝ていた。
状況はちんぷんかんぷんだが、とりあえず薄暗い場所に放り込まれたらしいことは分かった。
あとは、したままだった前掛けがたぶん土で汚れたことくらいか。
暗い中、地面から身を起こしながら考えた。あ、そうだプディング。
はっと見渡せば横に見なれたボウルがあった。
逆さまで。
「…………。………!」
泣けた。
しかし堪えた。
ボウルを拾って立ち上がる。
「……あれ?」
プディングの元がボウルの中にある。
揺らしてみても変わらない。足元を見ても、何も落ちていない。
おかしいなあ、と思いながら周りを見渡してみた。
暗くて、遠くまでは分からなかった。
いくつか柱や何故か瓦礫がある。廃墟みたいで、なんだか開けた場所みたいだけれど、明かりはない。ただ、何処からか薄い光が漏れて来ている。
振り向くとあの扉があったけど、ぴったり閉じてる。
……誰もいない。
しん、とした空気が、今更ながらに身にしみて、しかも寒い。
春の陽気に包まれていた村の家を思い出すと、泣けてきた。
べそでもかいてやろうか、と思った時のことだ。
「君、君、どうしたの?」
明るい声がかけられた。
勢いよく振り返って、でも誰もいない。
「だ、だれ?」
ざり、と瓦礫の向こうで音がした。
誰かいる!
ほーっと胸を撫で下ろして、ぼくは瓦礫を覗き込んだ。
陰にいた。
暗くて見えないけど、いた。
「ねえ、きみ……ここが何か、分かるかな?」
尋ねれば、すぐに返答は返ってきた。
「分かるよ。ここはね、トンネルの奥なんだ」
「トンネル?」
扉はあったけど、トンネルなんてあったかな。
首をかしげると、陰に潜む誰かがもぞっと動いた。
「ついておいでよ。見せてあげる」
たん、と軽い音がして、誰かの影が移動した。
「え、」
あっという間に離れて行くのを、呆然と見送りかけて、慌てて「待ってよ!」と追いかけた。
足音だけがした。プディングがちゃぷちゃぷ揺れている。
柱を何本か超えると、ほんとうだ、トンネルがあった。小さなトンネル。真っ暗な口があいている。
「ほらね? トンネル」
そこに立ち止まっている、誰か。
子供の足だけが見える。何だかやけに華麗な靴を履いた華奢な足だった。
それが後ずさって、後ろの闇に呑み込まれる。
「おいで、おいで」
ちょっと躊躇って、けどぼくは追いかけた。戻ってももう、誰もいない。
ぼくは闇に呑まれていった。
真っ暗なトンネルを抜けると仮面がいた。
「…………」
またか! という思いを堪えて、ぼくは仮面を観察した。
明らかにさっきの怪しい仮面とは違う。その真っ白い仮面は何故かぐにゃぐにゃと表情を動かしているし、被っているのは僕と同じぐらいの少年だ。判然としないが、暗い色の髪はたぶん黒で、見なれない服を着ている。
「あの」
「うん、なあに?」
にこっと動く仮面。不気味だ。
「ここは、いったいどこなのかな」
暗い世界。昼間だったはずなのに、空には月が出ていて。周りにあるのは、影ばかり。
「ここかい? ここはね、あの世だよ」
「あの世?」
嘘だ、だってぼくはまだ死んでない。ちょっと怪しい扉をくぐっちゃっただけだ。くぐりついでに生死の境をくぐってなんかない……と、嘘だと思いたいが、ただの夜にしては変だし、さっきから怪奇現象しか起こっていない。いったいどうなってるんだろう。途方に暮れてしまいそうだ。
「本当だよ。現世のお隣さんなんだよ、ここはね。天国や地獄とは少し違う。あれは遠そうだよねえ」
あの世は、みっつある。
ひとつは、天国。
ふたつめは、地獄。
みっつめは…………
「名無しの、世界?」
「正解! ……でも、違うね。ここは名無しじゃない。知られてないだけで、ちゃんと名前があるんだよ」
首をかしげた。
彼は告げた。
「『おやすみの夜』。ここの住民はね、そう呼んでるんだ」
みっつめの世界、おやすみの夜。
ぼくらの世界のお隣さん。
でも、来てしまったら、ぼくもここの住民になってしまうのかな。
「それはないんじゃないかなぁ」
「そ……そうかな」
てくてく歩きながら、彼は首をふった。長い黒髪が揺れる。
ぼくの出て来た扉はぴったり閉まって開けられそうにないようだから、とりあえず彼の家へ誘われるままについて行ってる。
知らない人にはついて行ったら駄目よ、と言われているものの、この状況だとしょうがない。
「君はちゃんと心臓の音がするもの。つまり生きてるってことだね」
「うん………あれ、きみは?」
そういえば、ここはあの世だ。
あの世の住民は振り向かない。
「僕? 僕は止まってるよ」
「止まっ……」
きっちり死人だったらしい。
「あ、心配しないで。死体みたいに腐ったりしないから」
「え? 死体じゃないの?」
心臓止まってるのに? ぼくはまじまじと前を歩く彼の背を見つめた。
「うん。僕らに本当の意味では肉体はないからね。幽霊とだいたい同じかな」
亡霊は明るい声で答える。
ぼくは、何と言っていいか分からなくなった。
彼は死人だ。
ぼくと同じ年くらいの死人。
何故、天国にいけなかったのだろう。
「……きみはーー」
「ーー着いたよ」
遮られる。
見れば、確かに薄明かりにぼんやりと浮かび上がる家の前に立っていた。
ぼくの小さな家とそう変わらないが、二階建てで縦に長い。たぶん、石造りだ。
煉瓦で組まれた玄関に立って、そこだけ木で出来た扉を押しながら振り向かれた。
「続きは、中に入ってからにしよう」