架空の海を照らす燈台〜星図の読めない少年たちの物語〜
「おい、私の話をちゃんと聞いているのか?」
トン、と机を叩く音。
その鈍い響きで、僕は今が天文学の授業中だったことを思い出した。
「すみません、もう一度お願いします」
先生の重いため息。
静かだった教室に、級友たちのクスクスとした笑い声が波紋のように広がっていく。
息が詰まるほどの恥ずかしさが込み上げて、涙で視界が滲み始める。
深く俯いたままの僕の前に、先生は呆れた声と共に、古い天球儀を差し出した。
「ここにある星座の名前を答えなさい」
僕は、たくさんの生徒が触れ、鈍い艶を纏った真鍮の台座におずおずと手を伸ばした。
球体に紙の貼られた古い天球儀。
その表面に描かれた、点と点を繋ぐ少し色褪せた金色の線を指先でゆっくりとなぞる。
そこに伝わるざらついた感触は、風で波立つ海のよう。
でも、これは天球儀。――空の海だ。
僕の指先は船となり、星の海へと航海に出る。
星の砂浜から、滑るように沖へ。
僕を乗せた船は、静かに進んでいった。
きらめく星座の波を越えた先で、光る魚たちに出会った。その魚たちに誘われ、辿り着いた先には生贄として岩に縛りつけられた乙女。
――あ、彼女は! このままでは怪物に襲われてしまう!
海の怪物はどこに潜んでいるのだろう?
それを見つけ出すため、僕は波の合間を彷徨う。
『見つけた!』
大きな鯨。あれが海の怪物だ。
――よかった、まだ距離がある。
だけど、大口を開けた鯨の怪物は、刻一刻と乙女へと迫っていた。
『彼女を助けなきゃ!』
――でも、あの大きな鯨の怪物と戦って、僕が勝てる? そんなの無理だ! ダメだ、僕じゃ助けてあげられない……。
『そうだ! 見たものを石にするという怪物の首を持った、あの英雄ならば!』
僕は祈るような気持ちで、どこまでも広がる暗い星の海を、夢中で探し始めた。
どこを見渡しても無限に広がる星の大海。
『どこだ? どこにいるんだ? 早く……っ!』
――コン、コン、コン。
遠くで警鐘を鳴らすような、鈍く高い音が聞こえる……?
ハッ、と顔を上げた。
眉間に皺を寄せた先生が、僕の机を苛立たしげに指で叩いていた。
そこにあるのは星の海ではなく、ただの古びた天球儀だ。
――しまった!
周りの生徒たちからは、先生に質問されているのに、ただボンヤリとしていただけに見えただろう。
「星座の名前は? 答えられないのかね?」
「……うお座と、アンドロメダ座と、くじら座と、……それから……ペルセウス座です」
俯きながら、ポツリ、ポツリと小さく答えた僕の声は、クラス中で湧き上がった嘲笑の波に、あっさりと掻き消されてしまった。
*・゜゜・*:. *・゜゜・*
先ほどの授業でまた失敗してしまった僕は、終業のベルとともに席を立って旧校舎にある図書館に逃げ込んだ。
特に読みたい本があるわけじゃない。
適当に興味の惹かれる本を読もうと、背表紙を眺めながら書架の間を迷子のようにふらふらと彷徨う。
古い本の匂いが、僕の鼻の奥をざらつかせた。
そのざらつきが天球儀の表面をなぞった感覚を思い出させ、同時に、耳の奥にこびりついた僕を嘲笑う声までもが蘇ってくる。
喉がヒュッと鳴った。
僕は現実から逃げるようにギュッと目をつむる。
――ここに笑い声はない。そう、放課後の図書館はとても静かだ。
薄く瞼を開き、注意深くあたりをうかがった。
――誰もいない。
それを確認してから、足音をたてないようゆっくりと一歩、また一歩と慎重に足を踏み出す。
けれど、板貼りの古い床は僕の体重を受け止めギギッと軋んだ。
――こんなに気をつけているのに……。
床が沈み込むのと一緒に、僕の気持ちも一歩ごとに沈んでいった。
次の一歩が怖くなり、本を探すことを諦めた僕は、目についたくすんだ蒼の背表紙を抜き取り、まるで助けを乞うように椅子へと向かった。
静かに椅子を引き浅く腰掛けると、本の表紙を指でなぞる。
長い時間を図書館で過ごしてきただろう革の表紙は艶やかで、僕の指先は誘われるように、型押しされたタイトルに辿り着いた。
『月の満ち欠けと農業』
――適当に手に取った本だったが、当たりを引いたのかもしれない。
表紙を開き、そっと最初のページをめくった。
月の満ち欠けは、海の満潮干潮に関係している。
植物の水分も同じように、月に引き寄せられたり、地面に押し返されたりするのだという。
月の満ち欠けによって、収穫の時期や種まきのタイミングを測る――そんな、先人たちが積み重ねてきた経験と知恵、そして月との関係を見破った発見に、僕は胸を熱くする。
虫の産卵時期もまた、月の影響を受けている。それを利用して害虫駆除に役立てるなんて、この本に出会わなかったら、僕はずっと知らないままだったかもしれない。
文字を目で追い、挿絵を色んな角度から眺め――そうして、捲るページが無くなったことに気が付いた。
名残惜しさと、新しい『知識』をもらった感謝の気持ちを閉じ込めるように、パタンと丁寧に本を閉じた。
忘れていた呼吸を思い出し、大きく息を吸い込む。
――濡れた土、雨の匂い?
夢中になり過ぎて、気が付かなかったけれど、通り雨があったんだ。
もう雨は降っていなかったが、窓の外に揺れる木の葉に水滴がさがり、夕焼けの色を閉じ込めてきらきらと輝いていた。
――琥珀みたい……。
水滴に映る校舎と太陽の光に、僕の心は遥か古代の空へと誘われていく。
樹液に閉じ込められたまま、独りぼっちで数億年の眠りにつき、いつしか琥珀と呼ばれる宝石になった名もなき昆虫。
――もう一度空を飛びたかった? 寂しくはなかった?
太古の命に、僕は心の中で問いかけてみた。
――そうだ、今日は琥珀や鉱石の本を借りて帰ろう。
立ち上がった勢いに、ガタリと椅子が音を立てる。
僕の歩調に合わせて、床はキュキュと楽しげな声を上げた。
書架からお目当ての本を探し当てた僕は、うっすらと星が瞬き始めた夕暮れの空の下、帰路についた。
*・゜゜・*:. *・゜゜・*
「あれ?まだ残ってたのか?」
僕の肩が、ビクリと跳ね上がる。
遠く東の空に浮かびはじめた星たちを線で繋ぎ、新しい星座を生み出しながら歩いていた僕は、背後から突然かけられた声に、恐る恐るゆっくりと振り向いた。
校舎裏に隠れようとする、夕陽の眩しさに目を細める。
――彼は、確か……
天文学や他にもいくつかの同じ授業を選択している同級生。
何度か隣の席に座られ、話しかけられたことがある。それだけの関係だ。
夕焼けの赤に照らされた彼から伸びる黒く長い影が、僕の足元に触れようと迫ってくる。
僕は逃げ出そうとすくむ足に力を込めて、その場に踏みとどまった。
足を止めた僕のすぐそばまで、彼は迷いなく駆け寄ってくる。
「一緒に帰ろう」
その言葉に驚いて、動き出せなくなってしまった僕の背中を、「行こう」とでもいうように彼は軽くポンと押し、隣に並んで歩きだす。
「俺、今日先生に居残り勉強させられててさ、遅くなったんだ。もしかしてお前も?」
気負うことなく放たれる彼の言葉に、僕はブンブンと首を横に振る。
「だよなぁ。今日も天文学の授業のとき、星座にまつわる神話だっけ? それをスラスラ答えてたから、すげぇ! って思ってたんだ」
僕の様子を気にする素振りもなく話を続ける彼。
分かれ道まで来ると、「帰り道どっち?」と、左右の道を大きく指差した。
釣られるようにして、僕もおずおずと右の道を指し示す。
「一緒だな」
僕はその明るい声に引っ張られるように、軽い足取りの彼に続いて右に曲がった。
夕暮れの涼しい風が通り抜け、制服の上に羽織ったローブの裾が、ヒラヒラと風に遊ばれる。
「俺さぁ、神話の話とか苦手で、全然覚えられなくてさ」
――天文学は選択制の授業なのに、苦手ならどうして選択したんだろう?
他に選択できる授業はいくらでもあるのに。
僕の頭の中では色んな疑問が渦のようにぐるぐる回りだす。
だけど口から出てきた言葉はほんの少し――。
「……どうして?」
「ん? どうしてって? 何が? 覚えられないこと?」
「……えっと……」
――もしかして、僕は彼に失礼なことを聞いてしまったんだろうか?!
焦る気持ちが次から次へと湧き上がり、僕の内側で激しく暴れ回っていた。
「あの、えっと……ごめんなさい……」
ようやく絞りだせた言葉は、これだけだった。
僕の中には、ちゃんと彼に説明したいことも聞きたいこともある。
だけど、焦りの濁流が浮かび上がった言葉を押し流してしまって、どうしても掴むことができない……。
何度も口を開きかけるが、出てくるのは、震えるような短い呼吸だけ。
沈黙が怖くて、彼の顔を見るのも怖くて、僕は下を向く。
――早く何か、言わなきゃ……
「……天文学、選択授業なのに、なんでかな……って……」
ポツリ、ポツリと途切れがちに話す僕の言葉を、彼は急かすでもなく、ただ最後まで聞いていた。
僕の言葉が終わると、彼は「質問の意味を察した!」とばかりのからりと弾んだ声をあげる。
「ああ、そのことな!」
その声に弾かれ、僕は少し顔を上げた。だけど、まだ彼の顔を見る勇気はない。
僕の視線は、彼の制服の緩められたネクタイの結び目辺りで泳ぎ、諦めたように地面へと向かっていく。
そんな僕の葛藤に気づく様子もない彼の、明るい声が続いた。
「俺のじいちゃんさ、大型船の船長なんだよ。旅行客乗せて世界中の海を渡ってるんだ。俺もじいちゃんの跡を継ぎたくてさ、だからまず航海士の資格取ろうと思って」
――航海士は星を読み、海路の道標とする。だから天文学の授業を選択しているのか。
僕は、今度はしっかりと顔を上げ、彼の顔を見てから小さく頷いた。
そんな僕の視線など気にする様子もなく彼は楽しそうに言葉を紡ぐ。
「海を航るには、星の高さと角度を計算して、現在地を割り出さないといけないんだよ。俺、小さい頃からじいちゃんに教えてもらってるから、星の位置を覚えることや計算は得意なんだけど……」
「神話や伝説を覚えることが苦手なんだ?!」
僕の口から勢いよく言葉が飛び出した。
――あ、彼の言葉が終わる前に、言葉を重ねてしまった……
いつも大人から注意されてるのに、また失敗してしまったという自責の念が積み重なり、頭が重力に逆らえず、再び下を向いた。
「ほら! あの星を見て、あれが道標の星、北極星!」
そんな僕の頭上へ、星を指し示す彼の明るい声が降り注いだ。
その途端、重力から解き放たれ、見上げた空にはひときわ明るく輝く星が佇んでいた。
西の空には夕焼けの名残の赤と、夜の群青が優しく混じり合い、雲を柔らかな薄紅や儚げな紫色に染めている。
その反対側からは、街を安らぎで包み込むかのように深い夜空が広がっていた。
そこに浮かぶ星を一つ、また一つと彼は指差し、夢を語り続ける。
僕の意識は彼と共に、星の海へ漕ぎ出した。
航海士は、陸の見えない大海原でも星を頼りに道を見いだすという。
夜空を航海する船に一緒に乗り、僕の隣で星の輝きを瞳に映す彼の横顔を見つめた。
ふと僕は、彼の夢を一緒に叶えたくなってしまった。
そのためにはまず、彼が補習になってしまったという天文学の授業をなんとかしなければならない。
「ねえ、僕が星の神話を教えようか?」
そっと、提案してみた。
「いいのかよ! 次のテストどうしようかって思ってたんだ! ありがとう!」
弾けるような満面の笑みを浮かべて、嬉しそうに声をあげる彼。
だけど、次の瞬間にはほんの少しだけ顔を曇らせ、ぽつりと雨の雫のような言葉を落とした。
「でも俺、覚えられるかな……。星って俺にとっては方角を測るだけの物差しだから、ただの点と線にしか見えないんだ。星に神話の絵を重ね合わせるってのが、どうしてもわからなくて……」
「好きなことと合わせたら覚えられるんじゃないかな? 例えば、今日の授業のアンドロメダ座。彼女はどうして海の岩に縛り付けられたのか知ってる?」
彼はへにょりと眉を下げ、首を横に振った。
「なんで縛り付けられたんだ?」
首を傾げる彼に、僕は頷いた。
彼の知る星や海の知識と物語の結び付く点を慎重に考えてから話し始める。
「彼女のお母さんで、人間の国の王妃であるカシオペアが『私の娘アンドロメダは海の妖精たちより美しい』って言ってしまったんだよ。だから海の神であるポセイドンの怒りを買って怪物の生け贄にされてしまったんだ」
「あ、ポセイドンは知ってる! じいちゃんがいつも航海の安全を祈ってるから!」
「そう、そのポセイドンだよ」
僕は、彼が興味を持ってくれたことが嬉しくて、胸の奥がキュッと鳴った。
あたたかい感情が、今にも目の端からこぼれ落ちそうになる。
滲む視界で星を見失ってしまう前に、僕はあわてて北極星を指差した。
「あの北極星の近くに、アンドロメダの母親であるカシオペアの星座があるんだ。北斗七星はわかる?」
「うん! 北極星を見つける目印の星座だから知ってる!」
笑顔の返事に、僕の心にも行き先を優しく照らすような明かりが灯った。
「北斗七星から北極星を挟んで反対側に五つの星がギザギザに並んでるでしょ。あれがカシオペア座だよ! カシオペアのあの形は、神様に自慢した罰として椅子に縛りつけられて、逆さまになったりしながら北極星の周りをグルグルと回らされている恥ずかしい姿なんだよ」
「だから、あれは椅子に座ってる形なんだ! それなら覚えられそう!」
そうして僕たちの弾んだ声は途切れることなく続いていく。
空が星で埋め尽くされてもまだ話し足りない僕たちは、きらめく夜空の下で『明日の約束』を交わし合った。
最後までお読みいただきありがとうございました。
世界を物語として繋ぎ合わせる少年と、航海士を目指す少年の出会いを書いた短編です。
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