表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

半歩先に、いつもあの方がいた

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/19

 今夜も、あの方の歩幅は、わたくしより3歩速い。


 シャンデリアの光の下で、エティエンヌ様の背中が、すうっと遠ざかっていく。


 右手の手袋の先が、わたくしの指先からほどけて落ちるように離れて、それから床の大理石に音もなく沈んでいく感触があった。実際には手は離れていない。離れていないはずだ。けれどそう感じる。5年、ずっとそう感じてきた。


「ノエル様、お疲れでしたら扇をお使いくださいませ」


 侍女のメナが、背後から囁く。扇を差し出す手つきが、ほんのわずか、わたくしの手の位置に合わせてくれている。


「ありがとう。……ねえメナ、あの方は今夜もお早いのね」


「ええ。お歩きになる速さだけは、誰にも追いつけませんわね」


 メナは正面を向いたまま、唇をほとんど動かさない。


「他のことは、追いつけませんが」


 わたくしは扇の陰で、ほんの少しだけ笑った。


「メナ、言葉が過ぎますわ」


「公式記録には残しておりません」


 メナの口癖だ。この子は15歳のときから、わたくしの公式記録外の悪口を預かっている。公爵家の侍女として一流で、毒舌家として二流、と本人は言う。本当はどちらも一流だ。


 舞踏会の真ん中で、エティエンヌ・ド・ヴェレシーヌ侯爵令息は、セレーヌ・ベル伯爵令嬢の腰に手を添えて、すでに3曲目を踊っている。わたくしと踊ったのは、最初の1曲だけだった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 舞踏会の最初の1曲目、わたくしは、あの方の歩幅に、今夜も合わせられなかった。


 ワルツの右足。ついていけない。左足。半歩遅れる。ターン。腰が置いていかれる。最後のポーズまでに、わたくしは4回、あの方の肘に手を残すか離すかを迷って、そして5年前と同じ結論になった。離せばよかった、と。


 けれど離せない。離したら、侯爵家の次男と公爵家の三女の政略は、その場で崩れる。


「……ノエル様は、お疲れのようですね」


 ダンスのあと、エティエンヌ様はそう言って、セレーヌ様のほうへ手を差し伸べた。


「セレーヌは、よく踊れる女性だから。少し休まれるといい」


 ほら、3歩先だ。わたくしがまだ「はい」と言う前に、あの方はすでに3歩先にいる。


 5年、ずっとそうだった。


 舞踏会で。階段で。廊下で。王宮の回廊で。馬車の横で。庭園の並木の下で。5年、1度も、わたくしとあの方は、同じ歩幅で歩いたことがない。


 それはおそらく、愛の問題ではなかった。背丈の問題でも、訓練の問題でもなかった。


 あの方が、合わせようとしなかった。ただ、それだけの話。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「ノエル・アルデンヌ公爵令嬢」


 王宮の大広間の中央から、声が響いたのは、その夜の3曲目が終わって、会場の視線が音楽から人へ移ったときだった。


 会場が静かになる速度が、今夜はいつもより速い。


 エティエンヌ様が、セレーヌ様の腰から手を離さずに、片手だけをわたくしに向けて上げた。


「婚約解消を、ここで申し入れる」


 ざわりと広間が揺れる。


「5年の婚約は、我々双方にとって有意義とは言えなかった。公爵家へは明日正式に書面をお送りするが、場の皆にも知っておいていただきたい。私は、セレーヌ・ベル伯爵令嬢と歩みを共にしたい」


 歩み、と、あの方は言った。


 わたくしはそのとき、自分の頬が熱くも冷たくもならないのを、少し不思議に感じていた。


 ただ、ひとつだけ、遠いことを思った。


(歩み、の、歩幅を、あなたは1度も合わせてくださらなかったわね)


 扇の陰で、わたくしはそう思って、それから静かに扇を閉じた。


 閉じる音が、思ったより響いた。


「エティエンヌ様」


 わたくしは、片足を引いて、正式なお辞儀の姿勢をとった。


「承りました。明日の書面を、お待ち申し上げます」


「……それだけか?」


 あの方は、少しだけ怯んだ顔をした。5年の婚約のあいだで、あの顔は初めてだったかもしれない。


「それだけでございます」


 わたくしは扇を開き、顔の下半分を隠した。これは公爵家の三女として、父に教えられた最後の防具だった。


「退出のお許しを、陛下に願えますでしょうか」


 国王陛下は、玉座から、わたくしのほうを、ほんの少し、労わるような目で見てくださった。


「許す」


 短いひとこと。


 わたくしは頭を下げ、踵を返し、広間の扉へ向かって歩き出した。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 広間の扉までの距離は、ちょうど42歩ある。


 わたくしは、なぜそれを知っているのか、と問われたら、5年間、そこまでの歩数を毎回数えていたから、と答える。エティエンヌ様が先に歩き出して、わたくしが取り残されるまで、ちょうど42歩。半歩ずつ、わたくしのほうが遅れる。毎回、同じだけ遅れる。


 42歩目を、わたくしの足が踏んだ。


 扉は、閉まっていなかった。


 半歩前で、開いた扉の縁に手を添えて、誰かが立っていた。


 警護騎士の白い制服。黒い腰帯。剣の柄に左手。右手が扉を押さえている。


 その立ち姿は、わたくしの足が止まる前に、半歩だけ先にいた。


 わたくしは、立ち止まった。


 彼は、扉の縁から手を離さず、わたくしのほうを見なかった。見ないまま、扉を押さえていた。わたくしが通る、ちょうどその半歩先で。


 わたくしは、扉を抜けた。


 彼は、扉を閉める前に、わたくしに聞こえる声で、ひとこと、こう言った。


「――左足から」


 わたくしは、自分が今、左足から扉を抜けたことに、そのとき初めて気がついた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「メナ、あの方はどなた」


 馬車の中で、わたくしは侍女に尋ねた。


 メナは、わたくしの膝に毛織の膝掛けをかけながら、あっさりと答えた。


「王宮警護騎士のクリフト・シャルラン様。階級は大尉。社交行事の王宮内警護を担当なさって、おそらく5年ほどになります」


「……5年」


「ノエル様が婚約者殿と初めて宮中舞踏会においでになった夜から、同じ配置を担当なさっているはずです。記録が残るお仕事ではございませんけれど、侍女の間では、たまに」


「たまに、何」


「……『半歩前の方』と」


 馬車の車輪が、敷石をひとつ跨いだ。


「半歩前の方?」


「舞踏会の入場で、ご令嬢方が階段を降りられるとき。最後の段で転ばれないように、手すりの側を、半歩前で空けて歩いていらっしゃる方がいる、と。誰も気づかないほどに、ほんの半歩だけ」


 メナは、窓の外のほうを見て、続けた。


「公式記録には残っておりませんが」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 公爵邸に戻って3日、わたくしは、父の書斎に呼ばれた。


「婚約解消の書面が来た」


 父は、短く、そう言った。


「侯爵家は、慰謝の金額を提示している。数字は妥当だ。お前が受ければ、家同士の関係はここで終わる」


「お受けします」


 わたくしは、扇も持たずに、そう答えた。


「父上、ひとつ、お願いがございます」


「言いなさい」


「次の舞踏会から、しばらくお休みさせてくださいませ」


 父は、わたくしの顔を、少しのあいだじっと見た。それから、頷いた。


「良い」


「ありがとうございます」


 わたくしは、頭を下げて、書斎を辞した。


 扉を閉めるとき、わたくしは、左足から廊下へ出た。


 これまで気にしたこともなかったはずのことを、わたくしは、もう、数えはじめていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 3週間後、宮中の月例舞踏会で、エティエンヌ様とセレーヌ様が、公式の同伴として初めて会場に入られた。


 わたくしは、父とともに貴賓の席に呼ばれていた。婚約解消の後処理として、国王陛下がわたくしの立場を損ねないように、というご配慮だった。ただ列席するだけでよい、と父は言った。踊らなくていい、と。


 玉座の左手、公爵家の席。わたくしはそこから、広間の中央を見ていた。


 ワルツが始まる。


 エティエンヌ様と、セレーヌ様。


 1歩目。合っている。


 2歩目。合っている。


 3歩目で、広間の空気が、わずかに、止まった。


 セレーヌ様の足が、半歩、遅れたのだ。


 エティエンヌ様は、それに気づかずに、先へ進んだ。セレーヌ様は慌てて合わせようとする。合わない。エティエンヌ様はもう3歩先だ。ターン。セレーヌ様の肩が、遅れる。リフト。タイミングが、2拍、ずれる。


 観客の誰かが、小さく息を呑む音がした。


 5拍目で、セレーヌ様の靴が、床を擦った。


 8拍目で、エティエンヌ様の手が、セレーヌ様の腰から、一度、滑った。


 10拍目で、セレーヌ様の頬が、わずかに赤くなった。


 音楽は、続いていた。


 けれど、2人のダンスは、もう、続いていなかった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 舞踏会の中央で踊る2人を見ているうちに、わたくしは、不思議と、何も感じなくなっていた。


 ああ、と思った。


 あの方は、わたくしと合わせなかったのではないのだ。


 あの方は、誰とも、合わせられない方だったのだ。


 わたくしは、扇の陰で、ほんの少しだけ笑った。


 笑った自分に、少し驚いた。


 5年、わたくしは、自分の歩幅が狭すぎるから、あの方についていけないのだと思っていた。自分が訓練不足で、自分が気遣いが足りなくて、自分の背丈が低すぎるから。そう思って、5年、お辞儀の練習をし、歩幅の練習をし、ダンスの教師を3人替え、姿勢矯正の帯を4本つくった。


 全部、無駄だった。


 あの方が、合わせる気のない方だった。


 その事実を、広間の真ん中で踊るセレーヌ様の赤くなった頬が、5年ぶんまとめて、教えてくれていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 王妃陛下が、お声を上げられたのは、ワルツが終わって、次の曲が始まる前のことだった。


 お声、と呼べないほど、小さな声だった。扇の陰から、ぽつり、と落とされた、ほんのひとこと。


「セレーヌ、あなた、踊れないのね」


 それだけだった。


 けれど、広間の半分の方々が、そのお声を、確かに耳にした。


 広間の空気は、その瞬間に、変わった。


 音楽は続いていた。


 けれど、貴族の方々の視線が、セレーヌ様の肩と、エティエンヌ様の背中を、一斉に1段冷ましたのは、はっきりと見えた。


 セレーヌ様は、そこから、1曲も踊られなかった。


 エティエンヌ様は、セレーヌ様を広間の端に残して、別の令嬢に声をかけた。けれど、その令嬢は、ダンスフロアの中央で、1曲だけ踊って、2曲目は「疲れましたので」と、お断りになった。


 その次の令嬢も、同じだった。


 その次の令嬢も。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 メナは、後日、わたくしにこう報告した。


「あれから5回の舞踏会で、ヴェレシーヌ侯爵令息は、2曲以上続けて同じ相手と踊られたことが、1度もないそうです」


「……そう」


「セレーヌ様は社交をお休みになり、ヴェレシーヌ侯爵家は、次の社交期からは、令息の夜会出席を控える、とご挨拶状を出されたとのこと」


「……そう」


「公式記録には、当然、残っておりませんが」


 メナは、毎回、最後にそう付け加える。


「残っていなくても、みな、存じておりますね」


 わたくしがそう言うと、メナは、少しだけ、笑った。


「はい。王宮の侍女は、公式記録より、半歩前を歩いておりますので」


 わたくしは、その言い方が、少しおかしかった。


「半歩前、ね」


「はい、半歩前」


 2人で、少し笑った。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 わたくしが、クリフト・シャルラン大尉と、次にお会いしたのは、その翌月の、王宮の秋の園遊会だった。


 あの方は、園遊会の警護として、噴水のそばに立っていた。


 園遊会のあいだ、貴婦人の方々は、噴水の縁を時計回りに1周する慣習がある。石畳の縁を、水の音を聴きながら歩く。


 わたくしは、その慣習に従って、1人で、縁を歩いていた。


 半周したところで、わたくしは気がついた。


 噴水の縁の石は、ところどころ、半拍ぶん、高くなっている。普通に歩くと、つまずく。5年前、わたくしはこの園遊会で、そこにつまずいた。あの日は、エティエンヌ様の3歩先の背中を追っていて、自分の足元を見ていなかった。


 今日、わたくしは、つまずかなかった。


 なぜなら、縁の石の高さが、途中から、1段、低くなっていたからだ。


 新しく、貼り替えられた石のあとが、わかる。


 わたくしは、立ち止まって、振り返った。


 噴水の向こう側に、クリフト・シャルラン大尉が立っていた。


 あの方は、わたくしのほうを見ていなかった。


 見ていなかったけれど、噴水の縁のほうに、顔を、半分向けていた。


 わたくしは、そのまま、石畳を1周した。


 1周のあいだ、わたくしの靴は、1度も石に当たらなかった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「大尉」


 1周を終えて、わたくしは、クリフト様のそばに歩いた。


 クリフト様は、わたくしを認めて、胸に手を当てた。騎士の礼だった。


「ノエル・アルデンヌ公爵令嬢」


「お伺いしたいことが、ございます」


「はい」


「あの噴水の縁の石は、いつ貼り替えられましたの」


 クリフト様は、しばらく、黙っていた。


 それから、目を伏せて、答えた。


「……5年前の、春に」


「5年前の、春」


「申し上げてよろしいか、わかりませんが」


 クリフト様は、まっすぐ、噴水のほうを向いていた。わたくしの顔を、見なかった。


「あなたが、5年前のこの園遊会で、そこでおつまずきになったことを、覚えております」


 石畳の、水の音が、やけに近くに聞こえた。


「園遊会の警護の者が、石を貼り替える権限はございません。ですが、王宮の造営官の方に、半年かけてお願いをしました。他のご婦人方も、つまずいておられましたので」


「他のご婦人方も、つまずいておられました」


 わたくしは、その言葉を、繰り返した。


「はい」


 クリフト様は、そう答えた。


 けれど、あの方の声は、その「はい」のあとで、ほんの少しだけ、遅れた。


 遅れた間に、あの方は、続けた。


「……最初に、つまずかれたのが、あなたでしたので」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 あの方の声は、低かった。怒鳴るような声ではなかった。警護騎士の職務上、大きな声は出せないのだと、メナが後で教えてくれた。


 けれど、そのひとことは、わたくしの耳のいちばん深いところに、しっかりと落ちた。


 5年前のつまずきを、この方は、覚えていた。


 この方は、わたくしの踏み出した足を、5年、覚えていた。


 わたくしは、扇を開こうとして、やめた。


 扇の陰に顔を隠すのは、もう、今夜はやめようと思った。


「大尉」


「はい」


「もうひとつ、お伺いしてよろしいですか」


「はい」


「あなたは、わたくしが、左足から扉を抜ける女だ、と、ご存じでしたか」


 あの方の、喉が、ひとつ鳴った。


「……5年前から、存じ上げております」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 5年分の歩幅が、そこで、わたくしの中で、裏返った。


 わたくしの歩幅は、狭くなかったのだ。


 わたくしの左足は、遅くなかったのだ。


 わたくしの背丈は、低くなかったのだ。


 ただ、合わせる気のない方が、1人、前にいて、そして、合わせる方が、1人、半歩前に、ずっといてくださった。


 広間でも、階段でも、廊下でも、園遊会の石畳でも。


 公式記録には残らない場所で。


 5年分。


 わたくしは、息を、吸った。


 吸った息が、胸のずっと奥で、ふるえた。


 それから、わたくしは、クリフト様の、顔を、見た。


 あの方は、はじめて、わたくしのほうを、まっすぐに、見た。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「大尉。ひとつ、ご相談させてくださいませ」


「はい」


「わたくし、今夜、園遊会からの退出の扉を、どちらの足から抜けるべきでしょうか」


 クリフト様の、口の端が、ほんの少しだけ、動いた。笑った、というよりは、笑いそうになって、それを抑えた、という動きだった。


「ご自由でございます」


「自由、とおっしゃいますと」


「左でも、右でも。……どちらでも、半歩前で、扉はお開けしておきます」


 わたくしは、そこで、扇を閉じた。


「大尉」


「はい」


「5年前から、あなたは、わたくしの半歩前を、歩いていらっしゃったのですね」


 クリフト様は、しばらく、答えなかった。


 答えないまま、胸に、手を当てた。


 騎士の礼だった。


 けれど、その礼は、いままで受けたどの騎士の礼より、深かった。


「……追い越さないように、歩いておりました」


 あの方は、そう答えた。


「あなたが追いついてくださるのを、ずっと、お待ちしておりました」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 わたくしは、そのとき、生まれて初めて、誰かの腕に、自分の手を、迷わずに、置いた。


 クリフト様の、左の腕だった。剣を握る腕の、反対側。


 わたくしの手が、置かれた。


 あの方の腕は、わたくしの手の重さを、正確に、受け止めた。


 園遊会の、石畳の、1歩目。


 わたくしの左足が、踏み出された。


 半歩、先で、あの方の左足が、踏み出されていた。


 2歩目。合っている。


 3歩目。合っている。


 4歩目。


 合っていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「メナ」


 わたくしは、公爵邸に戻って、侍女に尋ねた。


「ヴェレシーヌ侯爵家のその後は、どうなりまして」


 メナは、扉のそばで、少しだけ、微笑んだ。


「ヴェレシーヌ侯爵令息は、来年の春までの社交期すべての同伴予定を、キャンセルなさったとのことです」


「……そう」


「侯爵家は、令息の結婚相手探しを、2年、繰り延べると、王宮に届け出をされたそうです」


「そう」


「公式記録では、『家庭の事情による社交休止』となっております」


 メナは、言葉を切って、続けた。


「ですが、王宮の侍女たちは、みな、こう呼んでおります。『歩幅の合う方が、見つからなかった家』」


 わたくしは、思わず、小さく笑った。


「公式記録には、残っていないのね」


「はい。残っておりません」


 メナは、胸に手を当てて、侍女の礼をした。


「ですが、記憶には、残っております」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 それから1か月、わたくしは、公爵家の三女として、初めて、自分から、夜会の招待状を選んだ。


 王宮ではない、小さな夜会だった。


 同伴として、クリフト・シャルラン大尉のお名前を、書いた。


 あの方は、警護騎士の職を、半年後に辞されることが決まっていた。叙爵の内示があり、領地つきの子爵位を賜ることになっていた。もちろん公爵家の三女との身分差は残るけれど、父は、わたくしに、お前が決めなさい、と言った。


 わたくしは、決めた。


 夜会の夜、玄関の前で、クリフト様は、半歩前で、わたくしを待っていらした。


 馬車を降りた、わたくしの左足の、ちょうど半歩先に、あの方の靴があった。


「大尉」


「はい」


「参りましょう」


「はい」


 わたくしたちは、玄関の扉に向かって、歩き出した。


 わたくしの靴の音と、あの方の靴の音が、1歩目に、重なった。


 重なったのは、たぶん、わたくしの人生で、はじめてのことだった。


 2歩目。


 3歩目。


 4歩目も、5歩目も、重なっていた。


 その先は、わたくしは、もう、数えなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ