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「備品を数えるだけの仕事だろう」と婚約破棄された宮廷台帳官ですが、台帳48冊なしでは王宮が回らないようです

作者: 夢見叶
掲載日:2026/03/09

備品番号4802番。銀細工の髪留め、小花意匠。保管場所:執務机の右引き出し。状態:未使用。


 ——備考欄には、こう書いてある。


 贈り主はモンフォール辺境伯。受取人の記載なし。用途不明。よって仮保管とする。


 これが私の、48冊目の台帳で最も幸福な一行だった。


 けれどそれはもう少し先の話で、今はまだ、婚約破棄と解雇通告を同時に受けた場面から始めなければならない。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「——リゼット。お前との婚約は今日で終わりだ」


 第二王子アルベールは、昼食後にそれを言った。午後1時14分。晴れ。気温やや高め。——勝手に記録してしまう癖は、こういう場面でも健在だった。


「ついでに言えば、宮廷備品管理官の職も不要になった。備品の数を数えるだけの仕事だろう。誰にでもできる」


「左様でございますか」


「何か言いたいことは」


(品目:婚約指輪。状態:返却予定。分類:損失処理。損失理由:相手方都合による契約解除。——損失額は算定不能。算定する気力もない)


「三日ほど引き継ぎの猶予をいただけますか。備品台帳が48冊ございますので、後任の方に分類体系をご説明——」


「48冊?」


 アルベールは眉をひそめた。王宮の備品を数えることに48冊も費やす人間がいることが、心底理解できないという顔だった。


「備品管理に48冊の帳簿が必要な時点で、お前の仕事のやり方に問題があるのでは?」


(……それは在庫管理を舐めている。前の人生でも上司に同じことを言われた。そして私が辞めた後、倉庫の誤出荷率は3倍になった。3倍に。2倍ならまだしも3倍だ。——この所感は口頭では述べない)


「引き継ぎは不要だ。明日までに退出しろ」


「承知いたしました」


 一礼して退室した。廊下を歩きながら、泣かなかった。


 前世でも退職日に泣かなかった。ロッカーの私物を段ボールに詰める手順を考えていたら、泣くタイミングを逃した。二度目の人生でも同じ。48冊の台帳を誰に託すかを考えていたら、胸の痛みに分類番号を振る前に一日が終わった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 翌朝、私は執務室を片付けた。


 48冊の備品台帳。王宮のありとあらゆる備品——国王陛下の礼剣から厨房の鍋蓋まで、23,612点を網羅した帳簿。


 各備品の所在、状態、修繕履歴、購入年月日、担当部署。そして「使用上の注意」欄。


 例えば、第三応接室の六脚の椅子のうち、南窓側の一脚は左後脚が0.3ミリ短い。外交使節が座ると微妙に傾いて不機嫌になるため、必ず北側の椅子を勧めること。


 例えば、大広間のシャンデリアは毎年冬至の前後に右から三番目の腕が緩む。落下前に増し締め必須。過去八年、一度も落ちていないのは、私が毎年十一月に点検しているからだ。


 例えば、宝物庫の第七棚には前国王の遺品と現国王の即位祝いが二十年間混在していた。私が着任後、三ヶ月かけて分類した。


 こういうことを、後任に伝えたかった。


「すみません、引き継ぎ書だけでも受け取っていただけませんか」


 家政長官の部屋を訪ねた。


「ああ、置いてくれ。そのうち誰かに読ませるから」


「第17冊の142頁にシャンデリアの注意点が——」


「覚えておく」


 覚えないだろうな、と思った。前の人生でも同じだった。引き継ぎ書は読まれないものだ。二度目の人生でもそれは変わらない。


(記録。引き継ぎ完了——完了とは言えない。台帳を物理的に移管しただけ。これを「引き継ぎ」と呼ぶなら、本を棚に並べただけで「読書」と呼ぶようなものだ)


 48冊を執務机に積み、最後にもう一冊だけ鞄にしまった。49冊目。


 この一冊のことは、後で話す。


 机の周りを見回した。六年間、毎日座った椅子。窓の外に中庭が見える。夕方になると西日が差して台帳の文字が読みにくくなるから、いつも左手で庇をつくりながら書いた。


(記録。執務室の最終状態確認。机:傷あり、使用6年。椅子:座面の布がやや薄い。窓:南向き、西日対策必要。——対策する人はもういないが)


 前の人生で物流倉庫を辞めた日も、ロッカーの前で同じことをした。十二年間の私物を段ボール一つに詰めて、デスクの引き出しを確認して、最後に「忘れ物はないか」と数えた。忘れ物がないことを確認するのが、私にできる最後の仕事だった。


 今回も同じだ。備品の数を数えるのが私の仕事なら、最後に数えるのは自分自身の持ち物だ。鞄一つ。台帳一冊。あとは——。


 机の右引き出しを開けた。銀細工の髪留め。備品番号4802番。贈り主モンフォール辺境伯。受取人の記載なし。四ヶ月前に届いて以来、仮保管のまま。


 ——持っていくわけにはいかない。受取人不明の備品の持ち出しは、台帳管理上、横領にあたる。


(備考:惜しい。この記述は不適切なため削除する)


 削除しなかった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 宮廷備品管理官リゼット・クランフォール不在後の経過を、簡潔に記録する。本来の業務ではないが、癖だから仕方がない。



 7日目。最初の事故。


 ラングレー公爵の歓迎晩餐会。卓上に並んだ銀燭台——台帳第8冊の17頁に「慶事使用不可・先代公爵葬儀専用」と朱書きした品だった。底面に先代の紋章入り。朱書きにしたのは絶対に間違えてはいけないからだ。


 公爵は燭台を見た瞬間、フォークを置いて席を立った。


「これは先代への冒涜か、それとも嫌がらせか」


「し、失礼いたしました——」


「お前たちの宮廷はいつからこうなった。前に来た時は完璧だったぞ」


「前回は前任の管理官が——」


「前任? 何をした、首にでもしたのか」


「……婚約破棄と同時に解雇、と聞いております」


「正気か」


 外交部の三名が夜通し謝罪文を書いた。台帳を開けば3秒でわかることに、三名が一晩かかった。


(所感:人件費に換算すると銀貨36枚の損失。台帳を読める人間が一人いれば、ゼロ。もう社員ではないので意見する立場にないが、在庫管理の職業病で計算はやめられない)



 11日目。宝物庫の棚卸しで前国王の遺品の剣が三本行方不明。


 行方不明ではない。私が第七棚から第十二棚に再分類し、台帳第31冊に記録してある。だが48冊のうち31冊目を開く人間はいなかった。


「盗難の可能性がある。宝物庫を封鎖しろ」


「宰相閣下、台帳を確認すれば——」


「台帳は48冊もあるんだぞ。今すぐ確認できるのか」


「前任の管理官なら、できたかと」


 近衛騎士が宝物庫を封鎖した。二日間、宝物庫に誰も入れなかった。その間に予定されていた外国使節への国宝見学が中止になり、外交部が二度目の謝罪に走った。


 ——二度目。外交部の人々がかわいそうだ。台帳を読めばいいのに。



 15日目。大広間のシャンデリア。右から三番目の腕。例年通り。


 国王陛下の晩餐の最中に蝋燭が一本、テーブルクロスの上に落ちた。小火。負傷者なし。


「誰だ、シャンデリアの点検をしていなかったのは!」


「前任の管理官が——」


「あの女の名前は何だ」


「……リゼット・クランフォール、です」


「彼女は、これを一人でやっていたのか?」


(……やっていた。八年間、一度も落とさなかった。記録は第17冊の142頁に。読んでくれれば全部わかる)



 20日目。外交部から宰相への報告。備品管理の不備による損害:外交事故二件、宝物庫封鎖一件、火災未遂一件。


「後任を三名配置しろ」


「かしこまりました」


 三名。


(人員配置:3名。旧人員:1名。増加率:200%。所感:前の人生では倉庫の誤出荷率が3倍だった。こちらは人員が3倍。数字の因果が美しいとすら思う。——この所感は不適切だ)



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 同じ頃。


 モンフォール辺境伯オリヴィエは、年に二度の領地報告のために王都に来ていた。春の訪問だ。


 彼は毎回、宝物庫に領地の特産品を一つ納めていく。辺境伯としての儀礼贈答。そして毎回、備品管理官の執務室で贈答品の登録手続きをする。


 扉を開けた。


 部屋は空だった。机の上に48冊の台帳が埃をかぶって積まれていた。引き継ぎ書は一番上に載っていたが、開かれた形跡はなかった。


「……いないのか」


 彼はしばらく部屋を見回してから、机の右引き出しを開けた。——迷いなく。


 銀細工の髪留め。仮保管、四ヶ月。


 手に取り、それから48冊の台帳を一冊ずつ確かめ始めた。探しているものがあるようだった。


 48冊目まで調べて、顔を上げた。


「——ない」


 49冊目がないことに、気づいたのだ。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 ここで、49冊目の話をする。


 私が鞄に入れて持ち出した一冊。表紙には「贈答品受入記録(辺境伯領関連)」と書いてある。業務の範囲内の帳簿だ。辺境伯からの贈答品を受け入れ登録しているだけだ。


 たぶん。


 以下、抜粋する。



 三年前・春(初回)。

 品目:北辺境産の干し肉。12本。保存状態良好。

 備考:モンフォール辺境伯、初めての来訪。身長が高い。領主報告の口調が早い。緊張していると思われる。

 ——以上の備考は贈答品と無関係だ。記載理由:不明。



 二年半前・秋。

 品目:辺境産の岩塩。5キロ。結晶が大きく、光にかざすと薄桃色。

 備考:辺境伯殿は登録手続きの際、「塩が余っているだけだ」と言った。しかし岩塩5キロの市場価格は銀貨30枚。余りにしては高い。

 所感:岩塩を光にかざして見ていたら、辺境伯殿に「好きなのか」と聞かれた。塩が、ではなく、光にかざす行為が好きなのかという意味だと思う。「ええ、備品の品質確認は台帳管理の基本ですので」と答えた。本当は、ただ綺麗だったから見ていた。



 二年前・春。

 品目:北辺境産の白革手袋。一対。手縫い。左手親指の付け根に雪の結晶の刺繍。

 備考:辺境伯殿は、贈答品の登録手続きの際、常に手袋をしていない。北辺境で素手。手が荒れている。この手袋は自分用ではなく、誰かへの贈り物として作らせたものと推察する。受取人の記載がないため、宝物庫の仮保管棚へ。

 ——この推察は業務の範囲内だ。たぶん。



 二年前・秋。

 品目:辺境産の蜂蜜酒。3瓶。うち1瓶のみ、ラベルに「深夜業務用」と走り書き。

 備考:辺境伯殿は「遅くまで仕事をする者に」と言った。宝物庫に蜂蜜酒の保管区画はないため、食糧庫第三棚に分類。

 所感:この宮廷で最も遅くまで灯りをつけている部屋は私の執務室だ。——この所感は台帳に記載すべきではない。記載した。

 追記:今回の手続きは三分で終わった。前回は七分だった。用件が減っている。次の来訪は半年後。半年後にも贈答品があるとは限らない。来訪の口実がなくなれば、登録手続きもなくなる。

 この追記は不要だ。業務上の所感ではない。——消さなかった。(何回目かわからない)



 一年半前・春。

 品目:北辺境産の万年筆。黒軸。ペン先に辺境伯家の紋章なし。

 備考:辺境伯家の公式贈答品には必ず紋章が入る。これにはない。つまり公式の贈答ではなく、個人の贈り物。だが受取人の記載がない。

 受取人が宮廷の誰かなら直接渡せばよい。わざわざ登録を通すのは、受取人に直接渡せない事情があるか、あるいは——登録手続きを担当する人間に会う口実が必要だったか。

 ——推察を中断する。業務の範囲外だ。これ以上書くと台帳が台帳でなくなる。



 一年前・春。

 品目:北辺境産の羊毛のショール。深い青。手織り。

 備考:辺境伯殿は「冬の贈答品を春に届けるのは遅いと思ったが、色を選ぶのに時間がかかった」と言った。青。私の目の色に近い。偶然かもしれない。偶然でないかもしれない。

 所感:偶然であってほしいような、偶然でないほうが嬉しいような、どちらにしても台帳に書くべき感情ではない。

 保管場所:宝物庫第五棚。——ここに保管するのが、少しだけ惜しいと思った。この所感は削除する。

 削除しなかった。(二回目)



 一年前・秋。

 品目:銀細工の栞。本の形。裏面に極小の文字で「数える人へ」。

 備考:登録手続きの際、辺境伯殿の左手が一瞬止まった。7回の来訪で初めて。推察:緊張。なぜ緊張するのか不明。

 所感:辺境伯殿は秋になると日焼けが薄くなり、目の色がよく見える。灰青。——この所感は台帳に記載してはいけない。記載した。消す。

 消さなかった。



 半年前・春。

 品目:銀細工の髪留め。小花意匠。備品番号4802。

 備考:辺境伯殿は今回、登録用紙に受取人を書きかけて、消した。筆圧から三文字目まで書いたと推定。「リゼ」まで。

 所感:(三日間空白。四日目に追記)

 ——分類不能。保管場所:胸の奥。管理番号:付与できない。この気持ちを台帳に記録する方法が、まだ見つからない。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 王都を出た私は、母方の実家がある南部の町で暮らしていた。針仕事の内職で日銭を稼ぐ日々。台帳をつける仕事はもうない。


 ないのだが、癖は抜けない。


 八百屋で蕪を買うと数を数える。パン屋の棚の配列が先週と変わっていることに気づく。宿屋で食事をすれば、食器棚に欠けた皿があることを瞬時に把握して、(品目:陶製皿。状態:縁部欠損2ミリ。修繕優先度:低。ただし来客用には不適)と頭の中で台帳を作ってしまう。


 仕立屋で針仕事をしていても、糸の在庫が残り三巻になると自動的に発注タイミングを計算し、布地の端切れを色別に分類して棚に並べてしまう。店主に「あんた、前世で倉庫番でもやってたの?」と言われた。


 前世で倉庫番を十二年やっていた。正確には物流管理課の課長補佐だ。二度目の人生でも備品管理しかできない女。我ながら在庫以外に取り柄がない。


(でも——在庫を数えること自体は、嫌いではなかった。嫌いだったのは、数えたものを誰にも見てもらえないことだ)


 49冊目の台帳は、鞄の奥にしまったまま開いていない。開くと、辺境伯殿の目の色のことを書いた頁が出てくる。開かない方がいい。開かない。


 ——たまに、開く。


 ある朝、玄関の戸を叩く音がした。


「——リゼット・クランフォールか」


 開けると、モンフォール辺境伯オリヴィエが立っていた。


 右手に銀細工の髪留め。左手に——私の49冊目の台帳。


 南部の町の朝は明るい。王都より日差しが強くて、玄関先に立つ彼の輪郭がくっきりと見えた。旅装のままだった。馬車ではなく、馬で来たのだろう。外套に砂埃がついている。


(記録。モンフォール辺境伯、到着。日時:本日午前。移動手段:騎馬。所要時間:王都経由なら最短四日。南部まで直行なら——五日か六日。春の道はぬかるむから)


 五日か六日。辺境伯領の仕事を放り出して。


「なぜ、それを」


「宮廷の執務室に48冊しかなかった。番号が飛んでいた。辺境伯領の贈答品記録だけがない」


「……よく気づかれましたね」


「48冊全部読んだからだ」


 48冊。23,612点の備品記録。全部。


「なぜ全部読んだのですか」


「お前の居場所が書いてあるかもしれないと思ったからだ。書いてなかったが、代わりにお前がどれだけの仕事をしていたかはわかった」


「……入っても?」


「狭いです」


「構わない」


 南部の町の借家は、備品管理官の執務室の三分の一しかない。辺境伯が入ると、部屋の空気の半分が彼になった。背の高い人だ。日に焼けている。春だから少し薄くて——灰青の目がよく見える。台帳に書いた通りだ。


「なぜ、この一冊だけ持ち出した」


「……引き継ぎ対象外と判断いたしました」


「嘘だな」


「嘘、です」


 彼は台帳を開いた。あちこちに付箋が貼ってある。私が貼ったものではない。彼の字で書き込みがしてあった。


「三年前の春、干し肉。お前は備考に『身長が高い。緊張していると思われる』と書いている。——緊張していたのは俺ではなく、お前の方だったのでは?」


「備品管理官は客観的に記録します。主観は入れていません」


「では、岩塩を光にかざして綺麗だと思ったのは客観か」


「……品質確認です」


「白革の手袋。『受取人不明のため宝物庫へ』」


 彼は頁をめくった。


「あれはお前のために作らせた。冬に素手で帳面を書く人間がいると聞いたから。だが、お前の名前を書く度胸がなかった」


 胸が痛い。分類番号のない種類の痛みだ。


「蜂蜜酒の『深夜業務用』。お前が一番遅くまで灯りをつけていることは知っていた。領地報告のたびに、最後まで明かりのある窓を確かめていたから」


「……記録にはございませんが」


「俺の記録にはある」


 彼も数えていたのか。私が数える側だと思っていた。


「万年筆。紋章なしの意味に気づいておいて、推察を『業務の範囲外だ』で止めた」


 彼は台帳を閉じかけて——最後の頁をもう一度開いた。


「『分類不能。保管場所:胸の奥。管理番号:付与できない。この気持ちを台帳に記録する方法が、まだ見つからない』」


 声に出して読まれると、恥ずかしさで死にそうだった。


(緊急記録。顔面温度上昇。原因:49冊目の所感欄が音読されたため。対処法:該当なし。参考事例:なし。前世にも今世にもこんな経験はない)


「俺も同じだった」


 オリヴィエの左手が止まった。一年前の秋と同じだ。台帳に書いた通り。


「領地報告の書式には、登録手続きで備品管理官がどんな顔をしたかを書く欄がない。岩塩を光にかざして綺麗だと言った時の表情も、万年筆の紋章がないことに気づいた時の怪訝な顔も、書く場所がなかった。——だから贈答品に書いた。『数える人へ』と」


 栞の裏の文字。あれは台帳のための道具ではなく——。


「お前は23,000点の備品を一人で数えていた。俺はお前のことしか数えていなかった。来訪のたびに、窓に灯りがあるか数え、贈り物を届ける口実を数え、登録手続きの時間が何分あるかを数えていた」


 そんなこと、台帳のどこにも書いていなかった。私の記録にも、彼の記録にも。記録の外に、もうひとつの台帳があったのだ。


「——お前を探すのに、台帳は必要なかった。行き先は知らなかったが、探さない理由がなかった」


 銀の髪留めを差し出した。仮保管から四ヶ月。


「——お前がいるなら、北の辺境でもいい。備品は123点しかない。王宮の23,000点とは比べものにならない。だが」


「123点」


「少なすぎるか」


「いえ——台帳一冊で足ります。残りの48冊分、別のことが書けます」


「別のこと?」


「……所感欄が、広く取れます」


 泣いていた。


「台帳を持っている時は泣かないと決めていたのですが」


「なぜ」


「インクが滲むから」


 今、手に台帳はなかった。だから泣いた。前世の退職日にも、婚約破棄の日にも出なかった涙が、銀の髪留めを受け取った瞬間に、帳簿の外に溢れ出した。


 オリヴィエは49冊目を静かに閉じて、泣いている私の隣に座った。狭い部屋だから、肩が触れた。


「参ります」


「……泣き止んでからでいい」


「違います。辺境伯領に参ります。123点の台帳を——」


「仕事の話は後でいい」


「後では困ります。分類体系の構築に最低一週間——」


「……お前は本当に」


(記録。辺境伯殿、笑顔。分類:□通常 □希少——希少だ。たぶん。いや、確実に。台帳にこんな項目はないが、作る。50冊目に)



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 後日談を簡潔に記録する。


 宮廷では三名の後任が備品管理を引き継いだが、台帳の分類体系を理解できなかった。第一週で早くも「第七棚と第十二棚の区別がつかない」と音を上げ、第二週で台帳の頁を間違えて宝物庫の鍵を紛失した。台帳第42冊に「予備鍵は家政長官室の金庫」と書いてあるのだが、42冊目まで読み進めた者はいなかった。


 半年後の大監査で帳簿と現物の照合率は58%まで低下。不明品にはラングレー公爵家への謝罪品の銀食器一式が含まれていた。外交部は三度目の謝罪を強いられた。外交部長は辞表を出そうとしたが、辞表用の専用紙がどこにあるか誰にもわからなかった。台帳第2冊の6頁に書いてある。


 アルベール第二王子は、「備品の数を数えるだけの仕事」の意味を、おそらく今も理解していない。理解した頃には、リゼット・クランフォールという名前は宮廷の台帳から消えていた。


 消えていなかったのは、宰相の記憶だけだった。


「あの管理官を呼び戻せ」


「既にモンフォール辺境伯領に嫁いでおります」


「嫁いだ? 誰が許可した」


「許可は不要です。殿下がお捨てになった方ですので」


「……備品の数を数えるだけの女だと言ったのは、誰だ」


「第二王子殿下です」


 宰相の溜め息は、台帳には記録されていない。だが宮廷中に響いたらしい。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 モンフォール辺境伯領。人口8,000。気温は王都より10度低い。


 だが白革の手袋がある。二年前に届いた——受取人欄がようやく埋まったもの。左手の親指の付け根に、雪の結晶。



 備品台帳第1冊。第1頁。


 備品番号1番。銀細工の髪留め、小花意匠。

 保管場所:管理官の髪。

 状態:使用中。

 備考:贈り主はモンフォール辺境伯オリヴィエ。受取人はリゼット・クランフォール(旧姓)。

 旧備品番号4802。仮保管期間四ヶ月。現在の管理番号:1番。

 この領地で最初の備品。この台帳で最初の記録。



 ——この行は消さない。

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