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執着愛に縛られたい-激重公子様との可愛い婚約期間ー

作者: 朝姫奈
掲載日:2026/02/11

侯爵家のティーガーデンには、

白いクロスをかけた円卓の上に

色とりどりの焼き菓子や宝石のようなケーキが所狭しと置かれていた。


銀のポットから注がれた紅茶は、

淡い湯気を立てながら、春の風にほのかな香りを溶かしている。


そこに集うのは、侯爵家の令嬢ユリシアと、

彼女と同じ年頃――十四から十五歳ほどの少女たち。


政略結婚の相手がまだ決まっていない年齢。

十六歳という「現実」が訪れるまでの、

ほんのわずかな猶予の時間。


少女たちは皆、その猶予の中で夢を語る。


「ローレンツ公子様には、憧れてしまいますわ」

「わかりますわ。とても紳士的で、いつも優しく微笑まれますものね」

「私は……ユリシア様のお兄様、エルド様がとても気になります」


そう言って、頬を染める令嬢に、周囲がくすくすと笑う。


「エルド様も素敵ですわ……」

「ユリシア様と同じく、あの整ったお顔立ちに、何より気品がありますもの」


恋の話題は、紅茶よりも甘く、

ケーキよりも軽やかに場を弾ませる。


そして、ひとりの少女が、少しだけ声を潜めるように続けた。


「……美貌といえば、ルーカス公子様も……」


その名が出た瞬間、

それまで賑やかだった空気が、ふっと止まった。


視線が交わされ、

誰かが曖昧に微笑む。


「……ルーカス様は、ねぇ?」


筆頭公爵家の嫡男、ルーカス・グレイン。

美貌、地位、才能――

すべてを持ちながら、彼の名には常に影がついて回った。


「あの女性嫌いさえなければ……」


彼は女性に対して冷淡で、

時に人を人とも思わぬ態度を取ると噂されている。


剣の腕は一流。

家柄も申し分ない。

それでも、憧れの対象にはなりきれない理由が、確かにあった。


(お兄様と仲が良いみたいだけれど……)


ユリシアは、そっと紅茶のカップを持ち上げながら思う。


侯爵邸で、兄エルドと並ぶ彼を何度か見かけたことはある。

だが、交わした言葉はない。


女嫌い――

その噂が気になり、

いつも形式的なカーテシーだけで距離を取っていた。


「ですが、ルーカス様もまだ婚約者はいらっしゃいませんわ」

「もしかしたら、この中から……」

「憶測でお話しするのは、やめておきましょう」


ユリシアは、柔らかく、しかしはっきりと場を制した。


噂で聞く限り、彼の態度は確かに紳士的とは言えない。

けれど――


人には、人に語れぬ理由がある。

それを知らぬまま、好き勝手に評するのは、彼女の好みではなかった。


「……そうですわね」

「では、ユリシア様はどんな男性がお好みなのですか?」


不意に向けられた問いに、

ユリシアは一瞬、呼吸を止める。


「やっぱり、ローレンツ公子様のような紳士?」

「ユリシア様は、ローレンツ公子様の婚約者第一候補だと噂で――」


少女たちの声が弾む中、

ユリシアの思考だけが、静かに加速する。


(まずいわ……)


ここで安易に頷けば、

噂は尾ひれをつけて広がる。


(きっとすぐに、私がローレンツ様を慕っているとか……)

(そのうち、もう想い合っている、なんて話に変わる)


貴族の噂話は、真実よりも「面白さ」を選ぶ。

広まる頃には、原型すら留めていないことがほとんどだ。


(それに……ローレンツ様は、王女様をお慕いしている)


自分が原因で、

誰かの想いを踏みにじることだけはしたくなかった。


(……ここは、無難に)


ユリシアは、ふっと表情を和らげ、微笑んだ。


「私は……可愛らしい男性が好みですわ」


一瞬の沈黙。

そして、少女たちが顔を見合わせる。


「可愛らしい……?」

「ハイデン侯爵家のご長男のように?」

「あら、あの子はまだ六歳でしょう?」


くすくすと笑いが起きる。


ユリシアも、曖昧に微笑み返した。

想像しにくく、共感しにくい答え。

それが一番、噂になりにくい。


「可愛い、というのは性格のことですわ」

「意外ですね……エルド様のような、紳士的な方が好みかと」

「ええ、兄のような男性も素敵ですけれど……憧れがありまして」


「憧れ、ですか?」


問いかけられ、

ユリシアはそっと薄桃色の髪を耳にかける。


(言えるはずがないわ)


――愛情が重く、強く。

――手段を選ばず、私だけを見つめてくれる人。

――少し野蛮で、揺るがない存在。


(……ブロディ騎士団長のような)


四十八歳。

筋骨隆々で、言葉遣いも荒い。

けれど、三十年近く連れ添った妻を、今も溺愛している男。


そんな好みを、

夢見る少女たちの前で語れるはずもない。


「……秘密です」


微笑んでそう告げると、

少女たちは思わず見惚れ、

それ以上問いを重ねることはなかった。


春の光の中、

ユリシアの微笑みだけが、

ひときわ静かに、そして意味深に揺れていた。




◇◇◇




────二年後。


ユリシアは十七歳になっていた。

そして今、父の口から「婚約者」という言葉を聞かされている。


「ユリシア。お前も会ったことがあるだろう。

 グレイン公爵家嫡男、ルーカス・グレイン様だ」


父の執務室。

重厚な調度に囲まれたその空間で、ユリシアと向かい合ってソファに腰を下ろしている青年。


体躯は大きく、均整の取れた筋肉の上に、彫刻のように整った顔立ち。

誰が見ても疑いようのない美貌と威圧感を備えた男――ルーカス。


(……やっぱり、ルーカス様)


だが不思議なことに、

その姿はユリシアの目には、どこか“可愛らしく”映っていた。


「今日、婚約の話をすると伝えたらね。

 ぜひ同席したいと、彼の方から申し出があったんだよ」


父がそう言うと、ルーカスは少しだけ視線を伏せた。


「勝手に同席して悪──……ごめんね」


その言葉遣いに、ユリシアは小さく瞬きをする。


(……“ごめんね”、なんて)


噂で聞いていた冷酷さも、女性嫌いの影も、そこにはない。

彼の瞳は、上から見下ろすようなものではなく、

まるで大型犬が主人を見上げるような、柔らかさを帯びていた。


(やっぱり、噂は当てにならないわね)


思っていた以上に会話は穏やかに進み、

三人でしばらく話した後、父の提案で場所をユリシアの自室に移すことになった。


「……ユリシアの部屋は、洗練されている、ね」


部屋を見渡しながら、ルーカスがぽつりと言う。


「そうでしょうか。

 確かに、可愛いものや女の子らしい物は少ないかもしれませんが」


そう答えながらソファに腰を下ろした瞬間、

ユリシアはわずかに身体を強張らせた。


向かいに座るはずのルーカスが、

なぜか隣に来て、ぴたりと距離を詰めていたからだ。


「……?」


問いかけようとした、その時。


「ユリシア様、失礼いたします───……!?」


紅茶を運んできた侍女たちが、目を見開いて足を止める。

視線は明らかに、距離感のおかしな二人に注がれていた。


(しまった……)


「そこに置いておいて」


ユリシアがそう告げると、侍女たちは戸惑いながらも一礼し、そそくさと退室した。


静寂が戻る。


「……ルーカス様?どうされましたか?」


「いや……」


彼は、さらに身を寄せ、

ユリシアの肩に頭を預けるようにして小さく息を吐いた。


「少し、気が抜けてしまって」


「……?」


そして、聞き逃しそうなほど低い声で続ける。


「緊張していたんだ。

 だから……少し、甘えさせてほしい」


ユリシアは何も言えなかった。


広い自室に、二人分の呼吸音だけが静かに響く。

この大きな男が、こうして身を委ねていることを、不思議な気持ちで受け止めていた。


(この人でも、緊張するのね……)


(それにしても、緊張していた割に距離が近すぎるけれど……)


(……大型犬みたい)


だが、動きづらさを感じ始め、ユリシアは思わず口にしてしまった。


「……膝枕に、いたしましょうか?」


その瞬間。


ルーカスの身体が、ぴたりと止まった。


彼はゆっくりと姿勢を正し、わずかに俯く。

次に発せられた声は、先ほどまでの甘さとは別物だった。


「……君は、誰にでもそんなことを言うのか?」


低く、重い声。

怒りと独占欲が混じったような、ぞくりとする響き。


「い、いえ……ルーカス様が、初めてです」


そう答えると、

ルーカスは一度深く息を吐き――


何事もなかったかのように、

ぽすん、と音を立ててユリシアの膝に横たわった。


「……もっと、男を警戒した方がいいよ」


そう言い残し、彼は目を閉じる。


(男性……)


(そう言われても、ルーカス様は……)


見た目は好み。

けれど性格は、ユリシアの理想とは真逆で、どこか可愛らしい。


(この人と結婚して、子供を作るなんて……まだ、想像できないわ)


そっと彼の頭を撫でると、

指の間をさらりと滑る黒髪が、ひどく心地よかった。


その感触に、

ルーカスの唇が、ほんのわずかに緩んだことを――

ユリシアは、気が付かなかった。


◇◇◇



それからというもの、

彼はほとんど毎日のように、ユリシアに会いに来るようになっていた。


「最近、友人も妹も全然構ってくれないんだが……」


兄のエルドはそう嘆いていたけれど、

ユリシアにとっては、ルーカスと二人きりで過ごす時間がすっかり日常になっていた。


胸が高鳴るような恋心はない。

指先が触れるだけで鼓動が乱れることもない。


けれど、彼の存在は不思議と落ち着いた。

同じ空間にいて、同じ時間を共有しているだけで、心がほどけていく。


それだけで十分だった。

この人となら、穏やかな結婚生活を送れる――

そう思えるほどの安心感があった。


ユリシアとルーカスの結婚は、

ユリシアの心の準備を考慮して一年後と決められていた。


けれど正直なところ、

その期間すら必要ないのではないかと思えるほど、

彼に対する信頼はすでに揺るぎないものになっていた。


今日も、ルーカスはユリシアと肌を寄せ合っている。


ソファに腰掛けるルーカスの上に、半ば当然のように乗せられ、

ユリシアは本を開き、読書を楽しんでいた。


彼女の首元に顔を埋め、腕を回して抱きしめるルーカス。

その姿は、まるで飼い主にぴったりと寄り添う大型犬のようだ。


数ヶ月も経てば、

この奇妙な距離感にもすっかり慣れてしまっていた。


(本人はこれで満足そうだし、いいかしら)


そう思いながら、しばらく本に視線を落としていたが、

ふと、ある場面が頭をよぎる。


パタン、と本を閉じ、ユリシアはルーカスの名を呼んだ。


彼はすぐに顔を上げ、

少し驚いたように、けれど嬉しそうに彼女を見る。


「ルーカス様、私と……デートしませんか?」


読んでいた恋愛小説の中の、街でのデートの場面。

活気ある通り、屋台の食べ物、笑い合う恋人たち――

それが、どうしても素敵に思えたのだ。


侯爵家の令嬢である以上、

街に出ることができるのは護衛を伴うときだけ。


けれど、ルーカスは優れた剣術を持つ騎士でもある。

彼と一緒なら、護衛なしでも許可が下りるかもしれない。


「街に出て、一緒に食べ歩いたり……

 いろんなお店を見て、いろんな景色を見たいんです」


そう言うと、ルーカスは少し考えるようにしてから、頷いた。


「明日、行こうか。

 侯爵には、僕から許可を取っておくよ」


「やった……!楽しみにしています!」


太陽のような笑顔でそう言うユリシアに、

ルーカスは一瞬、視線を逸らすしかなかった。


その可愛らしい仕草に、

胸の奥が疼いていたから。



◇◇◇



「わぁ……あれも食べたいし……あれも気になるわ!!」


王都の繁華街。

人々の笑い声と呼び込みの声、焼き菓子の甘い香りが混ざり合う通りを、

ルーカスとユリシアは肩を並べて歩いていた。


目立たぬように選んだのは、平民風の控えめな服装。

けれど、はしゃぐユリシアの表情までは隠せない。


侯爵令嬢という“鎧”を脱いだ彼女は、

行儀作法も、貴族の矜持も、今日はすべて置いてきていた。


食べ歩き。

本来なら注意されて当然の、貴族にあるまじき行為。

それを楽しむ気で、ユリシアは屋台の列へと吸い寄せられていく。


その勢いのまま、一人で歩き出しそうになった瞬間――

ルーカスが、そっと彼女の手を掴んだ。


「……繋いでもいい?」


「もちろん!!

 ごめんなさい、置いていくところだったわ」


素直にそう言って笑うユリシアに、

ルーカスの口元が、ほんのわずかに緩む。


それから二人は、

串焼きを分け合い、甘いケーキを頬張り、

ただ“楽しい”だけの時間を過ごした。


身分も、立場も、婚約という言葉すら忘れてしまうほどの、

なんのしがらみもない自由。


――気づけば、夕日が街を染め始めていた。


「……少し、休もうか」


噴水の前のベンチに並んで腰を下ろす。

水の流れる音が心地よく、オレンジ色の光が二人を包み込む。


「今日は……楽しかったです」


「……うん。僕も。とても、楽しかった」


そう答えるルーカスの横顔を見つめながら、

ユリシアは胸の奥にある気持ちを、言葉にしたくなった。


「私……政略結婚って、少し怖かったんです」


「どんな方と結婚するかわからないし、

 うまくやっていけるのかも不安で……」


一度、息を整えてから続ける。


「でも、それがルーカス様で良かった」


「お互い、恋心で胸が高鳴ることはないけれど……

 それでも、ルーカス様となら、きっと素敵な家庭を築けると信頼しています」


言い切った。

そう思っているのは、偽りのない本心だったから。


けれど――

しばらく経っても、ルーカスは何も言わない。


不安になって、そっと覗き込むと、

ようやく彼は口を開いた。


「……恋心はない、か」


「ユリシアは……恋をしたことはある?」


その声は、なぜか少しだけ震えていた。


「ありません……憧れていた人は、いましたが」


「……それは、誰?」


「ブロディ騎士団長です」


一瞬、間を置いてから、ユリシアは照れくさそうに続ける。


「……ルーカス様だから言いますが、

 私の好みは少し変わっていて……」


「変わっている?」


「ええ。筋骨隆々で、強くて……

 重くて、手段を選ばないような執着のある愛を向けてくれる方が好きなんです」


「貴婦人方には、少し野蛮と思われるくらいの……雄々しい方が」


頬を赤らめ、指先をもじもじと動かしながら話すユリシア。


だが、ルーカスは視線を逸らしたままだった。


そして、喉を絞るような声で呟く。


「……可愛い人がタイプじゃ、なかったの?」


その言葉で、ユリシアはようやく思い出した。

二年半前のお茶会。

咄嗟に口にした、あの嘘。


「ああ……どなたかの令嬢から聞いたのですね」


「その時は……自分の歪んだ好みを言えなくて、

 正反対のことを言ってしまいました」


慌てて付け足す。


「でも!ルーカス様のように可愛らしい性格の方も、癒されるので好きですよ?」


その瞬間だった。


ルーカスは立ち上がり、背を向けた。


「……ここで待っていて。飲み物を買ってくる」


その表情は、髪に隠れて見えない。

けれど――なぜだか、胸がちくりとした。


(……可愛いと言われるのが、嫌だったのかしら)


そう呟きながらユリシアは一人、

夕焼けに染まる噴水をぼんやりと眺めていた。


噴き上がる水は、橙色の光を反射しながらきらきらと舞い落ちる。

それはまるで、何も知らず、何も気にしていないかのようで――

二人の心に生まれた小さなすれ違いなど、意に介さず流れ続けていた。


「お・じょ・う・さん!!」


突然、視界が影に覆われる。


顔を上げたユリシアの前に立っていたのは、

下卑た笑みを浮かべた二人の男だった。


「可愛いねぇ。一人で何してるの?」

「……婚約者を待っています。お構いなく」


そう言い切り、立ち上がってその場を離れようとした瞬間――

ぐい、と肩に重たい腕が回され、身体を引き戻される。


「婚約者がいるなら、なおさらじゃない?」

「結婚前にさ、俺らとちょっと“楽しいこと”しといた方がさぁ、

 心残りなく嫁に行けると思うんだよね」


「やめて……離して!」


必死に振りほどこうとするが、

男二人の力は想像以上に強く、びくともしない。


周囲に人影はまばらで、

視線を向ける者がいても、すぐに目を逸らして通り過ぎていく。


次の瞬間、

ユリシアは強引に路地裏へ引きずり込まれていた。


(いや……いやだ……)


(こんな、気持ちの悪い人たちに……触られたくない)


一人が背後から彼女の身体を押さえつけ、

もう一人が、ためらいなく服の裾へ手を忍ばせる。


脚に男の指が触れた、その瞬間。


ぞわり、と

全身を這い上がるような恐怖が走った。


(いや……!!)


「だれか……たす、けて……」


喉が震え、かすれた声が零れ落ちる。

それはあまりにも小さく、か弱い祈りだった。


───スパッ

───ボトッ


次の瞬間。


ユリシアの脚に触れていた男の腕が、音を立てて地面に落ちた。


熱いものが頬に飛び散り、

血が、ゆっくりと肌を伝う。


「……っ!!?」


悲鳴すら出せないまま、

彼女を押さえつけていたもう一人の男が反射的に手を離した。


「ひ……っ!!」


恐怖に引きつった視線の先に立っていたのは――

剣を握った、ルーカスだった。


無表情。

怒りも、動揺もない。


ただ、氷のように冷え切った瞳。


逃げ出そうとした男の背に、一閃。

さらに、逃げられぬよう、正確に足の腱を断ち切る。


路地裏に、断末魔の叫びが響き渡った。


「……お前たち、ユリシアに触れたな」


低く、静かな声。


ルーカスは、

逃げ場を塞ぐように男たちへ剣を突き立てていく。


それは“殺す”ためではなかった。

すぐに死ねぬよう、

ただひたすら、痛みだけを与えるための所作。


ユリシアは、

返り血に染まりながら立つルーカスを、ただ呆然と見つめていた。


路地裏が血の臭いで満たされた頃。

ようやく、彼は剣を下ろし、ユリシアの前に立った。


「……汚れてしまったな」


そう呟き、

懐から取り出したハンカチで、

彼女の頬に付いた血を、丁寧に拭う。


指先は、驚くほど優しかった。


「遅れてすまない……無事で、本当によかった」


「……あ、の……」


礼を言おうと口を開くが、

恐怖に縛られた喉は、うまく声を作れない。


それを見て、ルーカスは一瞬だけ――

ほんの一瞬、哀しそうに目を伏せた。


「……帰ろう」


そう言って背を向け、

彼は何も言わずに歩き出す。


ほどなくして馬車に乗り込むと、

扉は静かに閉められた。


夕焼けは、

何事もなかったかのように街を染め続けている。


だが、馬車が辿り着いたのはグレイン公爵家だった。


屋敷に着くと、ユリシアはすぐに風呂へ通され、

身体を清め、着替えを済ませたあと、

ルーカスの私室と思しき部屋で待つように告げられた。


しばらくの間、ユリシアは大人しく待っていた。

だが、いくら時間が経ってもルーカスは現れない。


不安を覚え、部屋を出ようと扉に手をかけた、その瞬間――

扉の向こうに、ルーカスが立っていた。


「ルーカス様……」


声をかけると、

彼は辛そうに眉を歪め、低く問いかける。


「どこへ行くつもりだ?」


そう言うなり、彼はユリシアの手を掴み、

半ば引きずるようにして部屋の中へ戻した。


次の瞬間、

二人はベッドへ倒れ込む。


「……失望したか?」


唐突な問いに、ユリシアは言葉を失う。


「……なにが──」

「俺の本性だ」


ルーカスは視線を逸らしたまま、吐き出すように言った。


「君の前で可愛く振る舞っていた俺でもない。

 君の理想だと言っていた、騎士団長のような男でもない……」


「愛は重く、執着が強い。

 君の好みに当てはまっているようでいて、

 実際はただの狂気だと分かっている」


襲われたのはユリシアだった。

それでも――


その表情は、

彼女よりも、ルーカスの方がずっと追い詰められているように見えた。


「エリシアが失望したとしても、俺は君を逃がしたくない……」


掠れた声でそう告げると、ルーカスは彼女の首元に顔を埋めた。

熱を帯びた吐息が触れ、ぞくりと背筋を撫でる。


「ひゃっ……!」


短く上がった声にも構わず、唇が肌に落ちる。

縋るようでいて、逃がさない力を帯びた抱擁。


「ちょっ……まって……」


懇願するような声も、彼には届いていないようだった。

唇は塞がれ、言葉は飲み込まれる。


結ばれたまま、ドレスの背にあるリボンが解かれていく感触。

布が緩み、空気が冷たく触れた。


「……ほんっと、俺はさっきの男たちと何一つ変わらない。最低な人間だな」


吐き捨てるような自嘲。

けれど、その声音には強い嫌悪と苦しさが滲んでいた。


「どうせ嫌われてしまったのなら、どんなに嫌われてもいい……俺のものにする……」


言葉とは裏腹に、手は迷いなく、けれどどこか震えている。


「ルーカス様……ルーカス様!!」


いくら名前を呼んでも彼は聞こえないふりをする。

必死に呼ぶ声が、部屋に強く響いた。


「好きです……!!」


その一言で、空気が変わった。


ルーカスの動きが、ぴたりと止まる。

信じられないものを聞いたかのように、彼は固まった。


「私今……すごくルーカス様にドキドキしています……」


ユリシアは真っ赤になり、両手で顔を覆った。

指の隙間から覗く瞳は、怯えではなく、熱を帯びている。


「……は?」


間の抜けた声が、彼の喉から零れた。


「私も……狂っているのです。特殊な好みで……

 私を手に入れるために、手段を選ばない今の状態も……正直、胸が痛いほど鳴っていて……」


一つ一つ言葉を選びながら、それでも逃げずに続ける。


「私のために、可愛い性格の振りをして……甘えてくれていたと思うと、それも……嬉しくて……」


ユリシアの瞳に、恐怖の色はなかった。

あるのは、揺れる熱と、確かな受容だけ。


ルーカスは、初めて“男として見られている”という感覚に、戸惑っていた。


「こんな……君が、あんなに怖がっていた行為を……また無理やりしようとしているんだぞ……?」


低く、確かめるような声。


「無理矢理だなんて……私は、嫌とは言っておりません。

 “待って”と言ったんです」


小さく、けれどはっきりと。


「ルーカス様が、勘違いをして……辛い気持ちのまま初めての行為に及んでしまうことは、避けたかったので……」


照れたように視線を逸らしながら告げると、

ルーカスはゆっくりと彼女から身を離し、力が抜けたようにベッドへ腰を下ろした。


「俺は……本当に、君を好きだと言われるような人間ではない……」


弱り切った声。

誇りも虚勢もなく、ただ剥き出しの本心だった。


「君に近づく男は全て殺してやりたいし……君以外の女とは、口も聞きたくない……」


吐き出すようなその声は低く、かすかに震えていた。

激情と自己嫌悪が絡み合い、どこにも行き場を失った感情が、言葉となって零れ落ちている。


「王宮で初めて君を見た時から、ずっと好きだった……君に会うためだけに、エルドに近付いたんだ」


視線を逸らしたまま語られる過去は、執着そのものだった。

それを誇るわけでも、正当化するでもなく、ただ“事実”として並べていく。


「今回の婚約だって……無理矢理、俺が取り付けたものだ。

君が他の誰かと結婚しようものなら……結婚式に乗り込んで、君の夫になる男を殺していただろう」


言葉の一つ一つが重く、狂気を孕んでいる。

ルーカスは、これを告げた瞬間に嫌悪される覚悟をしていた。


――拒絶されても仕方がない。

それでも隠し続けることだけは、もう出来なかった。


だが。


ルーカスが話せば話すほど、ユリシアの表情から恐怖は消えていった。

代わりに浮かんでいたのは、驚きと、そして静かな高揚だった。


(……こんなにも、私を見ていたのね)


胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。

歪で、重くて、危ういほどの独占欲――

それは、彼女が長い間、心の奥で密かに求めていたものだった。


「よかったです……」


そう口にした自分の声が、思った以上に柔らかいことにユリシア自身が驚く。


「ルーカス様が……私のために、そこまでしてくれていたことが知れて」


ルーカスは、縋るような、不安を隠しきれない目で彼女を見る。


「……こんな俺で、本当にいいのか……?」


その問いは、許しを乞うものでも、確認でもあった。


「そんなあなただから、いいんです」


迷いのない声だった。

ユリシアは身を乗り出し、そっと彼の唇に口づける。


一瞬の接触。

けれど、それは確かに選び取った意思だった。


「続き……しなくていいのですか?」


囁くようにそう告げると、ルーカスの喉が小さく鳴った。


「だが……まだ婚約の身で……君は、本当にいいのか?」


「……さっきの男に触られたこと、忘れさせてください」


その言葉が、最後の楔だった。


ユリシアはわかっていた。

それを口にしてしまえば、彼はもう、止まれなくなると。


男らしく、体躯の大きな腕に強く、けれど壊れ物を扱うように抱き締められながら、

二人は、外界を断ち切るように互いだけの温度に沈んでいった。


乱れたシーツが、その夜のすべてを物語るように、静かに皺を刻んでいた。


◇◇◇


────一ヶ月後。


再び二人は、ユリシアの父である侯爵の執務室を訪れていた。

重厚な扉の向こうに漂うのは、変わらぬインクと紙の匂い。だが、そこに立つ二人の関係だけは、確実に以前とは違っていた。


「侯爵……謝らなければいけない事がある」


ルーカスは一切の飾りを捨てた真剣な面持ちで、侯爵を正面から見据えていた。

逃げも誤魔化しもない。覚悟を決めた男の目だった。


「どうしましたか?」


侯爵はゆっくりと視線を上げる。


「……もしや、あまり上手くいっていない?

婚約解消、などという話であれば――」


「違う」


即座に否定し、ルーカスは一度だけ息を吸った。


「すまない。先に子ができた。

結婚の日取りを、早めて欲しい」


あまりにも率直で、あまりにも重い一言。


その言葉が落ちた瞬間、執務室は一度、完全に沈黙した。

侯爵の表情は――驚くほど、ピクリとも動かない。


「……なんと、おっしゃいましたか?」


声だけが、わずかに遅れて出る。


「ユリシアが、俺の子を腹に宿した。

だから、結婚の日取りを早めて欲しいと――そう申し上げています」


次の瞬間。


侯爵の顔は、ようやく感情を取り戻した。

驚愕、安堵、喜び、戸惑い、そしてほんの少しの寂しさ。


「な、な……なんという……!

いや、めでたい……確かにめでたいが……っ」


椅子から立ち上がり、また座り、額を押さえながら部屋を歩き回る。


「全く……順序というものが……!

だが……いや……孫……初孫か……」


ぶつぶつと文句とも独り言ともつかない言葉を溢しながら、感情が忙しなく行き交っていた。


その様子を、ユリシアは静かに眺めていた。


(……あの一回で、まさか子どもができるなんてね)


自分でも、まだ現実感は薄い。

けれど、確かに体は変化を告げていて、否定のしようもなかった。



ルーカスにそれを伝えた時、彼は確かに喜んでいた。

だがそれは、父になるという実感に胸を震わせる喜びというより――

ユリシアがもう二度と、自分の手の届かない場所へ行かなくなるという確信に近いものだった。


その違いに、ユリシアは最初から気づいていた。


そして同時に、

それを拒絶するどころか、受け入れてしまえる自分自身が、どこか歪んでいることも。


(……でも、それでいい)


逃げ場を塞がれることに、恐怖よりも安堵を覚えてしまう。

束縛されることを、愛だと感じてしまう。


そんな自分を、ユリシアはもう否定しなかった。


結婚を急ぐ二人の未来は、慌ただしく、平穏とは程遠いものになるだろう。

激情と執着、そして互いの歪みを抱えたまま歩む人生。


それでも――

二人はきっと、その異常さすら抱き締めながら、生きていくのだ。


平凡とは程遠い、

けれど確かに「二人だけの」人生を。

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