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第5話 巡回

風紀委員室の時計は、音が小さい。

秒針が進んでいるのに、部屋の静けさが勝つ。だから、ふとした瞬間に「止まっていたのか」と錯覚する。


書類の端を揃え、ホチキスの針の残量を確かめ、最後にファイルの背表紙を棚に戻す。整頓というより、落ち着くための儀式に近い。紙の匂い、糊の乾いた匂い、金属の冷たさ。ここではそれらがやけに輪郭を持って迫ってくる。


「……終わった?」


朝霧澪が言った。机の向こう。椅子に深くも浅くもない、ちょうどいい座り方で座っている。姿勢がいいというより、姿勢が崩れない。最初から「崩れない形」で生きている人間の座り方だ。


「はい。これで」


声は、いつも通りに出る。

自分の声を自分で聞いて、違和感がないことに少しだけ安心する。


澪は頷いた。まつ毛がゆっくり落ち、上がる。瞳は淡い灰青で、光の角度によって硝子みたいに薄く見える。冷たい色のはずなのに、見られていて怖いというより、誤魔化しが効かないという感覚だけが残る。


「じゃあ、校内一周」


「……巡回ですか」


「そう。今日は記録もいらない。ルートを覚えるだけ」


言い方が淡々としているせいで、断るという選択肢が最初から存在しないみたいに聞こえる。

でも、命令という感じでもない。提示された事実を受け取るだけの空気。


「分かりました」


返事をしてから立ち上がるまでが、ほんの少し遅れた。遅れたことを自覚した瞬間、余計に身体が硬くなる。こういう小さな遅れが、澪には「点」として残る気がする。


澪は鍵束を手に取った。鍵同士が触れて、短い音がする。その音だけで、扉やロッカーや保管庫の位置が頭に入っている人間だと分かる。


「上から回る。廊下→二階→中庭→戻ってくる」


「はい」


「歩くの、速い方?」


「普通だと思います」


「思う、ね」


澪はそれ以上突っ込まない。ただ、笑いもしない。目だけが静かに動く。言葉を受け取るのではなく、言葉の周辺の揺れを拾っているような目。


風紀委員室を出ると、廊下は夕方の匂いがした。ワックスと、少し冷えた空気と、遠くの運動部の掛け声。窓の外は薄い橙色で、ガラスに反射した光が床に細い帯を作っている。


澪は半歩前を歩きはじめた。

半歩。近すぎないし、遠すぎない。こちらが速くなれば速くなるし、遅くなれば遅くなる。合わせられている、と気づいた瞬間、胸の奥がざわつく。


合わせる、という行為は、気遣いに見える。

でも澪がやると、気遣いより先に「管理」に見える。道具箱の中身を揃えるみたいに、人との距離を整える。やさしさというより、最適化。


階段の前で澪が止まった。


「上から行く。先に見るものが多い」


「分かりました」


一段目に足を置く。足裏に硬い感触。

二段、三段。


——大丈夫。

心の中でだけ、確認する。


手すりには触れない。触れないことが「自然」になってしまっている。

頼るという動作は、いつからか面倒になった。頼ると、その分、何かを返さなければいけない気がする。


澪は視線を前に置いたまま、こちらの足音だけを聞いているようだった。振り返らないのに、状況を把握している。そういう人間がいることを、今まで知らなかった。


二階に上がり切ったところで、澪が少しだけ歩幅を緩めた。


「息、上がってない?」


唐突で、意味が分からず、一瞬だけ反応が遅れる。


「え、あ……はい。大丈夫です」


「そう」


澪はそれ以上言わない。なのに、歩幅がまた少しだけこちらに寄る。

寄る、というより、ずれないように戻す。


二階の廊下は窓が多く、夕日が強い。床に落ちる光が眩しくて、目が反射的に細くなる。澪は少しだけカーテンの端を引いた。音を立てずに、必要な分だけ。


「この時間、ここは眩しい。目が痛くなる人もいる」


「……そうなんですね」


「痛くなる人は、歩幅が変わる」


澪が淡々と言う。

それが一般論なのか、観察の結果なのかは分からない。分からないのに、なぜか「自分に向けた言葉」に聞こえる。


教室の前を通り過ぎるとき、扉が少し開いていた。中から声が漏れる。


「失礼します」


澪が一歩だけ中を覗き、すぐ戻る。


「問題なし。帰りのHR残り」


「……はい」


それだけのやりとり。

なのに、澪の動きは迷いがない。どこに何があるか、誰がどこにいるか、全部が頭の中に地図としてあるみたいだった。


「風紀委員って……大変ですね」


言ってから、余計なことを言ったと思う。話題を作るための言葉だったから。沈黙が怖いわけじゃない。ただ、沈黙が続くと、自分の呼吸の浅さや、足の置き方の慎重さが、過剰に自覚される。


澪は少しだけ視線をこちらに寄せた。


「大変っていうより、面倒」


「面倒」


「人が見たくないものを見る仕事だから。自分も見られる」


澪は自分の髪を気にしない。銀色の髪は夕日に当たって、薄い金属みたいに光る。色素が薄いというより、最初から「そういう色」で完成している。羨ましいとは思わない。ただ、羨ましいと思ってしまったことに少しだけ腹が立つ。


「……椎名は、人に見られるの苦手?」


澪が言った。


質問が露骨じゃないのに、息が止まる。

人に見られるのが苦手、という言葉の範囲が広すぎる。顔の話か、性格の話か、身体の話か。どれを答えても、どれかに触れそうになる。


「普通だと思います」


自分で言って、曖昧さに嫌になる。

澪は頷いた。


「“普通”って言う人は、たいてい普通じゃない」


揶揄じゃない。断定でもない。

ただの経験則みたいに置かれた言葉。


心臓が一拍だけ強く鳴る。


「……そうですか」


「そう」


澪はそれ以上言わない。

でも、その会話の端は、床に落ちた針みたいに刺さって残る。


階段を下りるとき、澪はわざとこちらより一段先に降りた。先に降りると、自然と自分の足元が見やすくなる。見やすくなるだけで、転ぶ確率が下がる。そういう位置取り。


助けない。支えない。

でも、落ちないように配置を変える。


——気づかれている。


気づかれているのに、指摘されない。

その状態が、最も落ち着かない。


一階に降りると、廊下の奥から生徒が一人走ってきた。遅刻ではなく、部活の忘れ物だろう。リュックの紐が片方だけ肩から落ちかけている。


「すみません!」


生徒が澪に頭を下げる。


澪は視線を横に滑らせただけで、声を荒げない。


「走らない。廊下は」


「はい!」


生徒は減速して去っていく。


そのやりとりが、妙に自然だった。澪の注意はきつくない。なのに、逆らう余地がない。言葉が短いからじゃない。声が落ち着いているからでもない。そこに、揺らぎがないからだ。


「……朝霧って、みんな言うこと聞くんですね」


「聞くんじゃなくて、聞かせるだけ」


「……怖い」


本音が漏れた。しまったと思ったが、澪は気にしない。


「怖がらせるつもりはない。必要な範囲で動かすだけ」


動かす。

人を「動かす」という言い方が、澪に似合いすぎている。


中庭に出る扉の前で澪が止まった。


「外、回る。今日は風が弱い」


「……はい」


扉を開けるのは澪だった。重い扉が静かに動く。力任せではない。必要なだけ押す。扉が立てる音すら制御している。


外気が頬に触れる。少し冷たい。少しだけ湿り気がある。

夕方の中庭は広い。空が低く見える。校舎の影が地面に伸びて、どこが境界なのか分からなくなる。


「段差、ここ」


澪が言った。指で示すでもなく、ただ言う。


足元を見る。確かに小さな段差。視界に入っている。問題ない——はず。


一歩。


足が、ほんのわずか遅れる。


躓くほどじゃない。

でも「遅れた」という感覚だけが、身体の奥に残る。


澪は振り返らない。手も伸ばさない。

ただ、歩みを止める。


待たれている。


待たれているという事実が、胸に刺さる。

助けられるよりも、待たれる方がきつい。待たれると、自分の遅れが確定してしまうから。


「……大丈夫です」


言うと同時に、歩き出す。遅れを取り返すように少しだけ速く。


「急がない」


澪が言う。声は平坦。


「急ぐと、余計にズレる」


その言葉の意味が、すぐに分かってしまうのが嫌だった。

“ズレる”のが何か、こちらは知っている。知っているから、動揺する。


「……分かりました」


「分かりました、って言うとき、たいてい分かってない」


澪が淡々と言う。


「……」


返す言葉がない。

否定もできない。肯定もできない。


中庭の端、ベンチの近くを通る。

ベンチに座っているのは三年生だろうか。二人。話しているだけで、こちらを見もしない。校内には、こういう“世界が違う人間”が普通にいる。


澪はその横を、気配を薄くして通り過ぎる。

人の世界に干渉しない。必要がない限り。干渉しなければ、干渉されない。そういう生き方。


「……椎名」


澪が名前を呼んだ。


「はい」


「今、段差が見えてた?」


「見えてました」


「なら、なんで遅れたの」


胸が冷たくなる。

露骨に聞くのはおかしい、と自分でも思う。澪は露骨には聞かない人間だ。だからこそ、この質問は“露骨”ではなく、“普通の疑問”として置かれている。


答えがない。

答えると、何かが始まってしまう。


「……ちょっと、考え事してて」


絞り出した言い訳。自分で言って、薄いと分かる。


澪は「そう」とも「違う」とも言わなかった。

ただ、歩き出す。半歩前。歩幅はさっきより少し小さい。


合わせられている。

また。


「……朝霧」


名前を呼んでしまう。呼びたくなかった。呼んだら、何かを要求することになる気がしたから。


澪が視線だけ寄せる。


「何」


「……なんでもない」


自分で言って、情けなくなる。

澪はそれでも苛立たない。笑いもしない。こういう空回りを、最初から織り込み済みにしているみたいだった。


校舎に戻る。扉をくぐると空気が変わる。さっきより少し温かい。

その差が、妙に現実感を強める。


「明日も巡回する?」


澪が言った。


「……はい」


「同じ時間でいい」


「分かりました」


廊下を戻る途中、澪がロッカーの前で一瞬止まった。鍵束が鳴る。

そして澪は、なぜかそこから小さな消毒用のウェットティッシュを一枚だけ取った。


「これ、使う?」


差し出される。


距離は絶妙だった。

近すぎず、遠すぎず。昨日の「試し」ほど意図が見える距離ではない。でも、自然に手を出すと、指先が少しだけ緊張する距離。


「……大丈夫です」


そう答えてしまう。

断る理由はないのに、断った。

受け取ったら、何かを認めることになる気がした。


澪は肩をすくめもしない。ただ、そのまま自分でティッシュを畳んでポケットに入れる。

拒絶された、という顔をしない。拒絶として受け取らない。ここでも干渉しない。


風紀委員室の前まで戻る。


「今日は終わり」


「お疲れさまでした」


「お疲れ」


短い。


鍵を開ける音。扉が開く音。

部屋の中の静けさが、また戻ってくる。


机の上の紙を片付けながら、澪が何気ない調子で言う。


「椎名、帰り一人?」


「……はい」


「途中まで一緒に出る」


それは提案でも優しさでもなく、決定事項みたいに置かれる。


「……大丈夫です」


反射で言いそうになって、寸前で止めた。

大丈夫、と言えば言うほど、大丈夫ではないものが浮かび上がる。


「……お願いします」


自分で言って、驚く。

言えたことよりも、言ってしまったことに驚く。


澪は頷いた。


「了解」


それだけ。


二人で廊下を出る。

校舎の出口までの距離が、今日一番短く感じた。距離が縮まったわけじゃない。歩幅が揃っているから、時間が切り詰められる。


出口の手前で、澪が立ち止まる。


「明日、同じ」


「はい」


「今日は、ここまで」


言葉の区切りが、やけに綺麗だった。

「ここまで」という語尾が、線を引くみたいに響く。

その線が自分を守る線なのか、自分を逃がさない線なのか、まだ分からない。


外に出ると、空はもう暗くなりかけていた。

風が頬を撫で、遠くで自転車のブレーキが鳴る。


澪は少しだけ横を見て、言った。


「……段差、気をつけて」


「分かってます」


思ったより強く言ってしまう。

焦りが声に混ざる。


澪は気にしない。


「分かってるなら、いい」


淡々と、それだけ。


澪が校舎に戻る。

銀髪が街灯の下で一瞬だけ白く光って、影に溶けた。


一人になると、足が少し重くなる。

身体が重いのではなく、意識が重い。

自分の一歩一歩が、さっきより大きな音を立てている気がする。


手を見下ろす。指は細い。爪も短い。

何も壊れていない。

そう言い聞かせるのに、言い聞かせる必要がある時点で、もう答えが出ている。


——点が増えた。

今日もまた。


それは痛みの点じゃない。

弱さの点でもない。


見られた、という点。

そして、見られても逃げられなかった、という点。


帰り道、ふと、風紀委員室の床に落ちた夕日の四角形を思い出す。

あの中だけ時間が違うように感じたのは、気のせいじゃない。


多分、あそこでは、

自分が「隠しているもの」が、

少しだけ輪郭を持つ。


澪の灰青の目が、それを線にしようとしているのか。

それとも、線にしないまま抱えられる形を探しているのか。


まだ分からない。


ただ一つ分かっているのは、

明日も自分はあの部屋に行く、ということだった。

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