第3話 観測点
最初に思ったのは、細いだった。
感想じゃない。
情報として。
制服のサイズは合っている。着崩しもない。姿勢も崩れていない。
それなのに、身体が制服を“着ている”というより、制服が身体に“乗っている”。
肩の幅が薄く、布が落ちる角度が軽い。
袖の中の腕が頼りなく、手首の骨がはっきり浮く。
——転んだら折れる。
そういう言葉が浮かぶのに、
本人が折れそうに見せないから、余計に違和感になる。
椎名凪は、職員と一緒に入ってきた。
教員に連れてこられた生徒は、普通は何かしらの“表情”を持ち込む。
不満。緊張。諦め。虚勢。
凪には、それがない。
部屋に入ってきた瞬間、空気が一度だけ揺れた。
それは凪が何かしたからじゃなく、凪が何もしないからだ。
視線がこちらに向く。
一瞬。確認のためだけ。
目が合う前に逸らした。
逃げたわけじゃない。
「見終わった」だけ。
見られることを拒否しているのではなく、
見続ける理由がない、という逸らし方だった。
——人を見るとき、そこに“期待”がない。
それは私にも分かる。
髪は黒い。長い。
艶がある。整えれば目立つのに、整えない。
前髪が目にかかって、視線の芯を曖昧にする。
見せたくないのか、見せる必要がないのか、判断がつかない。
肌は白い。荒れていない。
血色だけが薄い。
健康そうではない。病気とも言い切れない。
“生きること”に体温が乗っていない白さ。
それでいて——
歩き方は丁寧だ。
足音が小さい。床を踏む力が最低限。
歩幅は小さめだが、乱れてはいない。
ただ、重心が高い。
転びたくない人間の歩き方。
椅子を引く音が、部屋の静けさの中で響いた。
凪が座るとき、一拍だけ迷った。
ほんの一拍。瞬き一回分。
背もたれを使わない。
浅く座る。体重を預けない。
——理由がある座り方。
私はそこを見た。
見たことを悟られないように、あくまで自然に。
凪の手は、想像よりさらに細かった。
指が長く、関節が目立つ。
爪は短く整えられている。
生活が荒れているわけではない。
むしろ、必要な範囲だけきちんと管理されている。
管理されているのに、
“守られている”感じがしない。
守る人間がいないときに、
自分で最低限だけ整える手。
先生が紹介する。
「今日から、風紀委員の補助として入ってもらうわ。朝霧さん、よろしくね」
「よろしく」
私は短く言った。
余計な言葉は必要ない。
必要なことだけ伝えれば、相手の反応が見える。
凪が名乗る。
「椎名凪です」
声は普通だった。
掠れも震えもない。
感情も過剰に乗らない。
だからこそ、
身体の薄さが際立つ。
壊れそうな身体をしているのに、
声だけが日常の速度で出てくる。
私は事務的に訊く。
「放課後、どれくらい来られる?」
「特に予定がないので……問題なければ毎日でも」
予定がない、と言う生徒は多い。
大抵は少しだけ恥じる。
声がわずかに濁る。目が逸れる。
“ない”ことを認めたくないから。
凪は逸らさない。
予定がないことが、前提になっている。
その前提が、怖い。
「部活は?」
「やってません」
即答。
「前は?」
一拍。
ほんの一拍。
体内のどこかが固くなるのが分かる。
「……水泳部でした」
声は変わらない。
でも呼吸が浅くなる。
首元に、ほんのわずか筋が浮く。
私は視線を落とした。
見すぎれば、気づかれる。
「辞めた理由は?」
教員の気配が一瞬だけ硬くなった。
止めたいのか、見守りたいのか、迷う空気。
「怪我です」
それだけ。
短い。
あまりに短い。
怪我で辞める生徒はいる。
それ自体は珍しくない。
でも凪の答え方は、
“質問がそこから続くこと”を想定していない。
準備していない。
語る気もない。
隠すつもりもない。
ただ——
触れられたくない。
それは弱さではなく、
境界線だ。
「体調面で配慮が必要なことは?」
「特には」
「重い物とか」
「大丈夫です」
「長時間の立ち仕事は?」
「問題ありません」
肯定が続く。
短く、整っている。
優等生の受け答え。
でも、身体は否定している。
凪は椅子に座ってから一度も背もたれを使わない。
肩が微妙に内側に入っている。
首を動かす角度が小さい。
無意識の制限。
怪我をした人間が、
“問題ありません”を言うときの身体。
私は書類を渡した。
紙を受け取る瞬間、凪の指先がほんのわずか遅れた。
遅れた、というより——躊躇した。
理由は分からない。
でも反射ではない。
紙を掴む、という当たり前の動作に、意識が挟まっている。
——儚い、ではない。
見た目が儚いのは事実だ。
けれどこの遅れは、儚さじゃ説明できない。
壊れそうだから遅れたのではない。
壊れそうな身体を、本人が“信用していない”から遅れる。
私は言葉を置く。
「無理はしないで」
命令でも心配でもない。
ただ、ルール。
凪は頷いた。
「はい」
素直すぎる。
拒否もしない。
甘えもしない。
助けてほしいとも、放っておいてほしいとも言わない。
——危険だ。
人は、どちらかを言えるうちはまだ大丈夫だ。
言えない人間は、崩れるときに音を立てない。
凪が作業を始める。
紙を揃える。並べる。
動作は丁寧で、静かで、正確だ。
それなのに、
紙を重ねるたびに指先の力が少しずつ抜けていくのが見える。
限界を測っていない。
測る必要がないと、思っている。
私は声をかけるべきか、迷った。
ここで声をかければ、凪は取り繕う。
取り繕えることを、もう確認してしまった。
だから今は、介入しない。
私は見るだけでいい。
点を拾う。
点を増やす。
線にするのは、まだ先だ。
秒針の音が規則正しく進む。
夕方の光の四角形が、床の上でゆっくり形を変える。
この部屋で、
椎名凪という生徒は、確かに一つの点になった。
——それだけは間違いなかった。




