第12話 背中の距離
放課後の廊下は、昼間よりも輪郭がくっきりする。
人が減ると、音が増える。靴底が床を擦る音、窓枠が冷える気配、遠くの部活の掛け声が壁に跳ね返って戻ってくる。
私は半歩前を歩いた。
振り返らなくても、後ろの気配は分かる。
椎名凪は、歩けている。
けれど“普通に歩けている”とは違う。歩く、という動作に、わずかな手順が増えている。足を出す前に一呼吸おく癖。廊下の段差を目で測る癖。右肩が少し遅れてついてくる癖。
その癖は、隠すために生まれたものだとすぐに分かる。
隠す癖は、隠そうとするほど目立つ。
ただ——周りは気づかない。あるいは気づいても、関わらない。
放課後はみんな急いでいる。自分の用事に向かう速度で、他人の異変は薄まる。見えないふりが最適解になってしまう。
それが、この学校の“日常”だ。
日常は、残酷なくせに優しい顔をしている。
勝手に回って、勝手に許して、勝手に置いていく。
私は前を向いたまま、声だけ落とした。
「無理しなくていい」
返事はすぐに来なかった。
遅れた、というより、返事を作る場所が一瞬見つからない感じ。
「……分かってる」
短い。
短いのに、音の端が硬い。“分かってる”は同意というより、距離の線引きだ。
これ以上近づくな、じゃない。
“ここまでなら許す”という線。
椎名は、線を引くのが上手い。
最初から上手いというより、線を引くしか生き残る方法がなかったような上手さ。
私は、風紀委員室へ向かう角を曲がった。
窓の外の夕日がガラスに跳ね返って、床に白い帯を作る。帯はゆっくり伸びて、さっきの騒ぎとは無関係に存在している。
その白い帯に、椎名の視線が一瞬だけ吸い寄せられた。
見た、というより、焦点がそこに落ちた。
そして次の瞬間、慌てて元に戻す。
私は気づかないふりをした。
気づいたと悟られた瞬間、また“普通の形”が崩れるから。
——妙だ、と私は思う。
椎名は、外側は驚くほど落ち着いている。
受け答えも普通。言葉も普通。態度も普通。
なのに、普通を維持するための力の入れ方だけが異常だ。
普通は、力を入れなくても成立する。
成立しない人がいることも知っている。
けれど椎名の場合、成立しないのを「成立しているふり」で押し潰している。
しかも、そのふりが上手い。
上手すぎる。
上手さは、たいてい過去の産物だ。
何度も壊れて、何度も拾って、そのたびに学習した上手さ。
私は椎名の横顔を盗み見る。
前髪が目に落ちている。髪は整えれば綺麗だと分かる質なのに、整える気配がない。
制服は着ている。でも、どこか“着せられている”みたいに見える。体に馴染んでいない。体が痩せたせいだ。
痩せ方が、健康的じゃない。
肉が落ちたというより、必要なものが削ぎ落とされた痩せ方。
鎖骨の影が薄い皮膚の下で目立ち、手首の線が細い。指先は長いのに、力の入り方が弱い。
——ただ、こういう“儚さ”は、たぶん誰も見ない。
見ないというより、“見てはいけない”と無意識に避ける。
弱さを直視すると、自分が何かしなければならない気がするから。
椎名は、それを理解している。理解しているから、弱さを見せない。
見せないために、余計に痩せて見える。
悪循環だ。
「椎名」
名前を呼ぶと、少し遅れて顔が上がる。
目の色は暗い。黒ではなく、深い灰色に近い。光の角度で、薄く青みが出る。
瞳の奥に、感情がないわけじゃない。むしろ感情が多すぎて、表に出すと崩れるタイプの目だ。
私は言葉を選んだ。
責める言葉は簡単だ。詰める言葉も簡単だ。
でも今、必要なのは“正しさ”じゃない。
壊れない形だ。
「さっきのこと。今は説明しなくていい」
椎名は、わずかに眉を動かした。
警戒。少しの拒否。
でも拒否の形を作る前に、私は続ける。
「ただ、次は同じ状況にしない。ひとりにしない」
「……」
「あなたが頑張るかどうかの話じゃない。状況の作り方の話」
“あなた”と言ったのは意図的だ。
距離を詰めるためじゃなく、責任を相手に返すため。
同情の言葉は相手の立場を奪う。奪われた立場は、あとで必ず恨みに変わる。
椎名は返事を作りかけて、やめた。
やめた理由は分かる。言葉にした瞬間、“形”が変わるから。
その沈黙が、私は嫌いじゃない。
沈黙は逃げじゃない。
言葉を選ぶ時間でもある。
廊下の奥から、誰かの笑い声が聞こえた。
その声が遠い。遠いのに、無関係じゃない。
椎名はあの声の側にいるべき人間だったはずだ、と私は思ってしまう。
“だったはず”という言い方が、もう私の中で一つの仮説になっている。
——過去に、中心があった。
——今は、その中心が消えた。
——消えたことを、誰にも見せたくない。
見せたくないのは、弱いからじゃない。
弱いと扱われるのが嫌だから。
弱いと扱われた瞬間、世界が「物語」を作る。
物語は優しい顔で近づいて、本人の居場所を奪う。
私はそういうのを、何度も見てきた。
椎名は、物語にされる前に自分で線を引く。
線を引いて、誰も入れない。
入れないことで保っている。
保っているものが何かは、まだ分からない。
分からないから、私は踏み込まない。
踏み込まずに、ただ“そばにいる形”を整える。
「委員室、着く」
私は前を向いたまま告げた。
椎名の足が、ほんの少しだけ止まりかける。
止まりかけたのが分かる。
でも止まらない。止まったら、ここまで歩いてきた“普通”が崩れる。
崩したくない。
崩れたくない。
その必死さが、背中越しにも伝わる。
風紀委員室の前は、他の教室より少し暗い。
廊下の照明が一本少なくて、窓もない。
だからここは、学校の中でいちばん“学校っぽくない”。
私は扉の前で立ち止まる。
椎名の気配が後ろで止まる。止まれる。止まることはできる。
でも止まった瞬間、呼吸の浅さが戻りかけるのが分かった。
私は鍵に手をかけながら、最後に一つだけ言った。
「ここでは、頑張らなくていい」
椎名は小さく息を吐いた。
返事はない。
でも、その吐いた息はさっきより少しだけ長かった。
私は扉を開ける。
中の空気は、紙とインクと、古い木の匂いがした。
机の上には書類の束。椅子の脚の擦り傷。
誰かの“正しさ”が、積み重なった部屋。
椎名はその部屋を見て、表情を変えない。
変えないまま、一歩だけ入る。
私はその背中を見ながら、思う。
——この人は、壊れないふりが上手い。
——そして、壊れないふりを続けた先に何があるのか、自分でも知らない。
だから私は、救う言葉を用意しない。
代わりに、壊れない形だけを用意する。
扉が静かに閉まった。




