表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
点描  作者: いるか
13/13

第12話 背中の距離

放課後の廊下は、昼間よりも輪郭がくっきりする。

人が減ると、音が増える。靴底が床を擦る音、窓枠が冷える気配、遠くの部活の掛け声が壁に跳ね返って戻ってくる。


私は半歩前を歩いた。

振り返らなくても、後ろの気配は分かる。


椎名凪は、歩けている。

けれど“普通に歩けている”とは違う。歩く、という動作に、わずかな手順が増えている。足を出す前に一呼吸おく癖。廊下の段差を目で測る癖。右肩が少し遅れてついてくる癖。


その癖は、隠すために生まれたものだとすぐに分かる。

隠す癖は、隠そうとするほど目立つ。


ただ——周りは気づかない。あるいは気づいても、関わらない。

放課後はみんな急いでいる。自分の用事に向かう速度で、他人の異変は薄まる。見えないふりが最適解になってしまう。


それが、この学校の“日常”だ。


日常は、残酷なくせに優しい顔をしている。

勝手に回って、勝手に許して、勝手に置いていく。


私は前を向いたまま、声だけ落とした。


「無理しなくていい」


返事はすぐに来なかった。

遅れた、というより、返事を作る場所が一瞬見つからない感じ。


「……分かってる」


短い。

短いのに、音の端が硬い。“分かってる”は同意というより、距離の線引きだ。

これ以上近づくな、じゃない。

“ここまでなら許す”という線。


椎名は、線を引くのが上手い。

最初から上手いというより、線を引くしか生き残る方法がなかったような上手さ。


私は、風紀委員室へ向かう角を曲がった。

窓の外の夕日がガラスに跳ね返って、床に白い帯を作る。帯はゆっくり伸びて、さっきの騒ぎとは無関係に存在している。


その白い帯に、椎名の視線が一瞬だけ吸い寄せられた。

見た、というより、焦点がそこに落ちた。

そして次の瞬間、慌てて元に戻す。


私は気づかないふりをした。

気づいたと悟られた瞬間、また“普通の形”が崩れるから。


——妙だ、と私は思う。


椎名は、外側は驚くほど落ち着いている。

受け答えも普通。言葉も普通。態度も普通。

なのに、普通を維持するための力の入れ方だけが異常だ。


普通は、力を入れなくても成立する。

成立しない人がいることも知っている。

けれど椎名の場合、成立しないのを「成立しているふり」で押し潰している。


しかも、そのふりが上手い。

上手すぎる。


上手さは、たいてい過去の産物だ。

何度も壊れて、何度も拾って、そのたびに学習した上手さ。


私は椎名の横顔を盗み見る。

前髪が目に落ちている。髪は整えれば綺麗だと分かる質なのに、整える気配がない。

制服は着ている。でも、どこか“着せられている”みたいに見える。体に馴染んでいない。体が痩せたせいだ。


痩せ方が、健康的じゃない。

肉が落ちたというより、必要なものが削ぎ落とされた痩せ方。

鎖骨の影が薄い皮膚の下で目立ち、手首の線が細い。指先は長いのに、力の入り方が弱い。


——ただ、こういう“儚さ”は、たぶん誰も見ない。

見ないというより、“見てはいけない”と無意識に避ける。

弱さを直視すると、自分が何かしなければならない気がするから。


椎名は、それを理解している。理解しているから、弱さを見せない。

見せないために、余計に痩せて見える。

悪循環だ。


「椎名」


名前を呼ぶと、少し遅れて顔が上がる。

目の色は暗い。黒ではなく、深い灰色に近い。光の角度で、薄く青みが出る。

瞳の奥に、感情がないわけじゃない。むしろ感情が多すぎて、表に出すと崩れるタイプの目だ。


私は言葉を選んだ。

責める言葉は簡単だ。詰める言葉も簡単だ。

でも今、必要なのは“正しさ”じゃない。

壊れない形だ。


「さっきのこと。今は説明しなくていい」


椎名は、わずかに眉を動かした。

警戒。少しの拒否。

でも拒否の形を作る前に、私は続ける。


「ただ、次は同じ状況にしない。ひとりにしない」


「……」


「あなたが頑張るかどうかの話じゃない。状況の作り方の話」


“あなた”と言ったのは意図的だ。

距離を詰めるためじゃなく、責任を相手に返すため。

同情の言葉は相手の立場を奪う。奪われた立場は、あとで必ず恨みに変わる。


椎名は返事を作りかけて、やめた。

やめた理由は分かる。言葉にした瞬間、“形”が変わるから。


その沈黙が、私は嫌いじゃない。

沈黙は逃げじゃない。

言葉を選ぶ時間でもある。


廊下の奥から、誰かの笑い声が聞こえた。

その声が遠い。遠いのに、無関係じゃない。

椎名はあの声の側にいるべき人間だったはずだ、と私は思ってしまう。


“だったはず”という言い方が、もう私の中で一つの仮説になっている。


——過去に、中心があった。

——今は、その中心が消えた。

——消えたことを、誰にも見せたくない。


見せたくないのは、弱いからじゃない。

弱いと扱われるのが嫌だから。

弱いと扱われた瞬間、世界が「物語」を作る。

物語は優しい顔で近づいて、本人の居場所を奪う。


私はそういうのを、何度も見てきた。


椎名は、物語にされる前に自分で線を引く。

線を引いて、誰も入れない。

入れないことで保っている。

保っているものが何かは、まだ分からない。


分からないから、私は踏み込まない。

踏み込まずに、ただ“そばにいる形”を整える。


「委員室、着く」


私は前を向いたまま告げた。


椎名の足が、ほんの少しだけ止まりかける。

止まりかけたのが分かる。

でも止まらない。止まったら、ここまで歩いてきた“普通”が崩れる。


崩したくない。

崩れたくない。

その必死さが、背中越しにも伝わる。


風紀委員室の前は、他の教室より少し暗い。

廊下の照明が一本少なくて、窓もない。

だからここは、学校の中でいちばん“学校っぽくない”。


私は扉の前で立ち止まる。

椎名の気配が後ろで止まる。止まれる。止まることはできる。

でも止まった瞬間、呼吸の浅さが戻りかけるのが分かった。


私は鍵に手をかけながら、最後に一つだけ言った。


「ここでは、頑張らなくていい」


椎名は小さく息を吐いた。

返事はない。

でも、その吐いた息はさっきより少しだけ長かった。


私は扉を開ける。


中の空気は、紙とインクと、古い木の匂いがした。

机の上には書類の束。椅子の脚の擦り傷。

誰かの“正しさ”が、積み重なった部屋。


椎名はその部屋を見て、表情を変えない。

変えないまま、一歩だけ入る。


私はその背中を見ながら、思う。


——この人は、壊れないふりが上手い。

——そして、壊れないふりを続けた先に何があるのか、自分でも知らない。


だから私は、救う言葉を用意しない。

代わりに、壊れない形だけを用意する。


扉が静かに閉まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ