第11話 白い天井
病院の白は、プールの白と同じ色をしていた。
同じなのに、意味だけが違う。
プールの白は、速さの背景だった。
病院の白は、終わりの背景だった。
凪は天井を見ていた。
角だけを見る。角は端を教えてくれる。端が分かれば世界が測れる。測れれば、まだ自分がここにいる理由をごまかせる。
首の奥は静かだった。
痛い、じゃない。痛みだと言ってしまえば、痛みが理由になる。理由になれば、誰かが「仕方ない」と言う。
「仕方ない」を言われた瞬間、凪は自分の世界が“そういう話”に分類されるのが分かった。
分類されたくなかった。
凪の世界は、水泳だけで成り立っていた。
朝も、昼も、夜も。
眠る前の疲労も、朝のだるさも、全部が「泳ぐため」につながっているだけで許されてきた。
だから、失うのは“競技”じゃない。
失うのは、息の仕方だった。
扉が開く。医師が入ってくる。淡々とした顔。
淡々な声は優しいより残酷だ。余計な飾りがないぶん、言葉が骨まで届く。
「競技復帰は現実的ではありません」
世界が、その文だけに縮む。
縮んだ世界には、水がない。
凪は返事をしようとして、口が動かない。
「はい」でも「分かりました」でもない。
言葉を置いた瞬間に、ここから先の人生が“始まってしまう”気がした。
始まらないでほしかった。
水泳がない人生なんて、凪は持っていない。
医師は続ける。
「日常生活は工夫すれば支障が少ない可能性があります」
「ただし、負荷のかかる動作は慎重に」
「特に頚椎は——」
“日常生活”。
その単語が、凪には異物だった。
日常は、水泳の間に挟まっている休憩時間のことだった。
日常を目的にしたことなんて、ない。
息を吐く場所は、水の中にしかなかった。
凪は初めて、真正面から理解してしまった。
――水泳ができない。
――もう、戻らない。
戻らない、が分かった瞬間、胸の奥が空洞になる。
空洞は痛みより厄介だ。痛みはまだ「そこにある」。
空洞は何もない。何もないくせに、息だけを奪っていく。
凪は自分の手を見る。
手はそこにあるのに、今までみたいに“意味”がない。
意味のない手で、何を掴めばいいのか分からない。
「……いつから」
声が出た。自分の声が弱い。弱いことが怖い。
医師は一瞬だけ黙った。その黙り方が答えだった。
ずっと前から。
最初から。
凪が「ないこと」にして泳いできただけ。
凪はそれ以上、聞かなかった。
聞いたら、全部が“自分の責任”になる気がしたから。
責任を背負えるほど、今の凪は強くない。
それでも、凪は言った。
「……分かりました」
便利な言葉だった。
便利だからこそ、喉が勝手にそれを選ぶ。
便利な言葉は世界を閉じる。閉じた世界の中なら、泣かずに済む。
泣いたら終わる。
泣いた瞬間、凪は“終わった人”になる。
凪は終わった人になりたくなかった。
終わった人として同情されるくらいなら、何も言わずに消えたかった。
退院までの日々は、絶望がゆっくり形を変えていく時間だった。
最初は、ただ虚無だった。
寝ても起きても、何もしたくない。
何もしたくないのに、何もしない自分が許せない。
許せないのに、許す理由もない。
水泳がある頃は、疲労が救いだった。
疲れているから休んでいい。休むのは次に泳ぐため。
次がある限り、休みは罪じゃない。
でも、水泳が消えた瞬間、休みはただの空白になる。
空白は、凪がいちばん嫌うものだった。
理由欄の空白。未来の空白。存在の空白。
リハビリで、簡単な動作がうまくいかない瞬間がある。
指先の最後が抜ける。
握ろうとすると、握れている“つもり”だけが残る。
その“つもり”が、凪の絶望を現実にする。
――速さを失った。
――体も失った。
――じゃあ、自分は何なんだ。
その問いは、まだ答えを必要としていない。
必要としていないのに、勝手に喉を締める。
そしてここで、第二の恐怖が生まれる。
失ったものそのものより、
失った人間として扱われること。
落としたものを拾えない瞬間、誰かの目が動く。
驚きと心配と気遣いが混ざった目。
その目が向いた瞬間、凪の頭は真っ白になる。
“普通じゃない”が確定する。
確定した瞬間、世界は優しくなる。
優しさは鎖になる。
鎖は、凪を「守る」代わりに「分類」する。
――怪我した子。
――かわいそうな選手。
――頑張ったのに報われなかった人。
物語にされる。
凪は物語が嫌いだった。
水泳は物語じゃない。
速いか遅いかだけ。
勝つか負けるかだけ。
そこに、かわいそうも、頑張ったも、ない。
だから凪は、絶望を見られたくなかった。
絶望は自分のものだ。
他人に解釈されるくらいなら、誰にも見せないで腐らせたかった。
“普通でいたい”という欲望は、ここで生まれた。
最初からあったわけじゃない。
水泳を失った絶望を守るために、後から必要になった鎧だ。
退院の日、医師が診断書を渡した。
「学校に提出すれば配慮を受けられます」
配慮。
その言葉は正しい。正しいからこそ怖い。
配慮される人間は、“配慮される理由”を背負う。
理由は誰かに共有され、説明され、理解され、慰められる。
凪はそれを想像しただけで、息が詰まった。
「……出さない」
家族が驚く。医師が確認する。
当然だ。普通は出す。普通は助けを求める。
でも凪は、助けを求めることが怖かった。
求めた瞬間、凪は“終わった側”に移される。
移されたら、二度と戻れない。
「出したら、終わる」
何が終わるのか、説明できない。
説明できないのに、それだけが本当だった。
医師は淡々と注意事項だけを述べた。
淡々が救いだった。感情を混ぜないでくれるから。
凪は診断書を封筒に入れ、奥にしまった。
奥にしまうのは、捨てるより簡単だ。
捨てたら“終わり”を認めることになる。
しまえば、まだ“保留”にできる。
保留は、凪の生命線だった。
学校に戻った日。
校門の向こうに、いつもの日常があった。
いつもの声。いつもの笑い。いつもの放課後。
変わっていない世界が、いちばん残酷だった。
世界が変わっていないなら、変わったのは自分だけだと確定する。
「復帰いつ?」
「大会、出るよね?」
期待と好意の顔をした言葉が飛んでくる。
凪は一瞬、答えを作ろうとして、作れなかった。
作れない沈黙の間に、勝手な物語が生まれ始めるのが分かる。
――怪我?
――メンタル?
――燃え尽き?
物語にされる前に、凪は短く言った。
「……やめた」
空気が止まる。
止まった空気は、凪を中心にする。
中心にされた瞬間、凪は息ができなくなる。
「なんで?」
「怪我?」
「マジ?」
質問は、答えを求めるようで、実は“納得できる物語”を求めている。
慰めたい。理解したい。悲劇にしたい。
凪はそれが嫌だった。
水泳を失った絶望を、他人の慰めで薄められたくなかった。
薄められた瞬間、自分の絶望が自分のものでなくなる。
「……理由は、ない」
そう言って、凪はその場を抜けた。
背中に何かが刺さる気配がしたけれど、振り返らない。
振り返った瞬間、世界が“説明”を始めるから。
退部届は、顧問の机の前で書いた。
理由欄があった。
小さな枠なのに、そこだけが巨大に見える。
理由はある。
あるけれど書けない。
書いたら確定する。
確定したら、絶望が“共有物”になる。
共有された絶望は、慰められる。
慰められた瞬間、凪は自分の足場を失う。
凪は理由欄を空白にした。
空白は卑怯だ。
でも卑怯の方が生き残れる。
物語にされるより、卑怯でいる方がまだマシだった。
紙を受け取った藍沢詩織は、表情を動かさなかった。
動かさない人間は安心する。
表情が動くと、物語が始まる。
藍沢は理由欄の空白を見て、次に凪の手元を一瞬見た。
見たのに、そこに留まらない。
留まらないことで、凪の“普通”を守る。
「……椎名」
淡々と名前を呼ぶ声。
「本当に、それでいいの」
凪は答えを作れなかった。
作れない自分が、もう“普通じゃない”と感じて怖い。
それでも凪は頷いた。
頷きは会話の最短距離。
最短距離で生き延びるしかない。
藍沢は引き出しから一枚の紙を出した。
診断書の写し。封筒の色まで同じだった。
凪の喉が固くなる。
「学校には提出しなくていい。君が出したくないなら、出さないでいい」
押し付けない。
その代わり、知っていることだけを置く。
「ただ、私だけは知っておく。君が崩れた時、勝手な理由を作られないように」
“崩れた時”という言葉が、凪の絶望を正確に刺した。
凪が怖いのは失うことじゃない。
失った姿を見られること。
そして見られた姿に、誰かが勝手な意味を貼ること。
藍沢は続けた。
「水泳が全部だったんでしょう。……それを失ったら、息の置き場所がなくなる」
凪は息を止めた。
当てられたからじゃない。
“言葉にされた”ことで、現実になってしまったからだ。
藍沢は、そこで感情を足さない。
「君が普通でいたいのは、強がりじゃない。生存の方法だ」
生存。
その単語が、凪の胸に落ちた。
凪はやっと理解する。
自分が“普通でいたい”のは、立派だからじゃない。
絶望が露出した瞬間に死ぬ気がするからだ。
だから鎧を着る。鎧の名前が「普通」だ。
凪は何も言えなかった。
言える言葉がない。
だから、また頷いた。
藍沢は頷きを受け止めて、紙を引っ込めた。
「退部は受理する。理由欄が空白でもいい。……ただ、私にだけは来い」
凪は視線を机の角に落とした。
角があるものは安心する。
角は端を教える。端が分かれば、世界が測れる。
藍沢の声が、最後に落ちる。
「“何もないふり”を続けるなら、なおさら」
凪はその意味を、まだ理解しきれなかった。
でも、理解できないままでもいいと思った。
理解できないものが残っているうちは、まだ終わっていない。
終わっていないふりができる。
そうやって凪は、絶望を奥にしまい、
“普通”という鎧を着ることにした。
鎧を着たまま、息の置き場所を探すために。




