表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
点描  作者: いるか
11/13

第10話 破片

夏休み明けの校舎は、まだ熱を吐ききれていない。

窓は開いているのに風は温く、廊下の空気はじっとりと制服の内側に貼りつく。蝉の声だけが元気で、世界がまだ“夏のまま”でいいと言い張っているみたいだった。


教室の隅で、何度も指を握ってはほどいた。

握る。ほどく。

その反復が、落ち着きのふりになる。


握るときに一拍、遅れる。

ほどいたあとに、掌の奥だけが痺れたまま残る。

痛いというより――「思い通りにならない」という感覚が、皮膚の下にへばりつく。


大丈夫。

そう言葉にした瞬間に、喉の奥が乾く。


放課後のチャイムが鳴ると、教室がほどける。

鞄が持ち上がり、笑い声が増え、誰かが“部活行こうぜ”と声を上げる。

みんなが日常へ戻っていく。日常は、戻る場所がある人のものだ。


廊下に出ると、朝霧澪がいた。

銀色がかった短い髪が、窓から差し込む夕方の光を拾って淡く光る。大きな二重の目は猫みたいに冷静で、見つめられると「言い訳」を許さない気配がある。

制服は完璧に整っていて、襟もリボンも皺ひとつない。そこだけ季節が違うみたいに、澪だけが“正しい”形を保っている。


「行くよ」


「うん」


二人で歩き出す。並ぶのが自然になりつつあるのが嫌で、歩幅を少しだけずらしたくなる。ずらしたところで意味はないのに。


風紀委員室の扉を開けると、一ノ瀬透が机に向かっていた。

整った笑顔。整った声。整った手元。

“いい先輩”の皮が、今日も綺麗に貼りついている。


「お、来た。助かる」


机の脇に段ボール箱が積まれている。昨日より増えている。増えることが当然みたいに、そこにある。


「水泳部の備品、追加。大会前で急ぎだって。あと、先生からも言われてる。今日は巡回多めに回してほしいって」


澪が即座に言う。


「備品は二人で行きます」


一ノ瀬は笑顔のまま、首を振った。


「ダメ。澪は巡回。先生の指示。こっちは人手が足りない」


“先生の指示”。

その言葉は、断る側の口を塞ぐのに都合がいい。


澪は引かない。


「一人に任せるのは危険です。壊れ物でしょう」


「危険ね。巡回を止める方がリスク高い。備品は一本道、渡すだけ。椎名ならできるでしょ?」


できる。

その言葉は褒め言葉みたいな顔をして、押し付ける。


澪の視線がこちらに刺さる。

“できる”と返事をした瞬間に、鎖が増えるのが分かっている目。


でも、ここで「無理」と言うのは怖い。

無理と言った瞬間に、特別扱いが始まる。噂が始まる。面倒が始まる。

面倒が始まるくらいなら、壊れていた方がまだ楽だ――そんな思考が、どこかで癖になっている。


「……行きます」


声が思ったより滑らかに出た。滑らかに出ると、周囲は安心する。安心されると、次が増える。


一ノ瀬は満足そうに頷き、鍵とサイン用紙を差し出した。


「じゃ、これ。部室前で顧問かマネージャーに渡して、サインもらってきて。時間ないって言ってたから、急いでね」


急いで。

今日もその言葉が落ちてくる。

床に落ちた言葉は拾えない。拾えないから、踏むしかない。


澪が低く言った。


「……本当に一人で行くの?」


「できると思う」


「“思う”は信用しない」


「……できる」


澪の眉がほんの少しだけ動いた。

止めたいのに止められない、という形の沈黙。


「終わったら連絡して」


「……うん」


委員室を出る背中に、澪の視線が刺さる。

刺さるのに振り返らない。振り返ったら、頼りたくなるから。


プール棟へ向かう廊下は、湿った熱が残っていた。

遠くで水の音がしている気がする。気がする、だけで喉が乾く。

実際に聞こえているのか、記憶が鳴らしているのか、もう区別がつかない。


段ボール箱は一つ。

見た目はそこまで大きくない。

でも、重さは見た目より正直だ。正直な重さは、指先の嘘を暴く。


抱え直す。

角が掌に食い込む。テープがざらつく。

手のひらの汗が、摩擦を奪う。


――落とすな。

落としたら終わる。

終わるのは備品じゃない。“普通”の皮が剥がれる。


プール棟の扉を押し開けた瞬間、匂いが刺した。

塩素。湿ったタイル。濡れた髪の残り香。

体の奥が勝手に固くなる。首の奥が、鈍く熱を持つ。



器材置き場の近くに、水泳部の先輩がいた。

視線が合うだけで、心臓が一段跳ねる。


「……備品?」


「風紀からです」


敬語が盾になる。盾の内側だけが震える。


先輩は箱を見て、鼻で笑うみたいに言った。


「今週末使うからね。壊すなよ、マジで」


「はい。気をつけます」


台の上に置く。

置くだけ。置くだけ。


段ボールを台へ滑らせるように動かす。

その瞬間――指先が、一拍遅れる。


遅れは小さい。

小さいのに、致命的だ。


掌の汗で、角が滑る。

重心がずれる。ずれたのに、指が締まらない。

締まらないのに、締めようとして腕に力が入る。

力が入った瞬間、首の奥がじくりと痛む。

痛みで一瞬、力が抜ける。


箱が傾いた。


次の瞬間、底が抜けたみたいに――

がしゃん、と乾いた破裂音が床に響いた。


落ちた。

落ちたものが、床で散った。


それが「何か」までは分かる。けれど、何がどれだけ散って、何が壊れて、何を優先して拾えばいいのか――そこから先が、続かない。

頭の中に、順番がない。


見えるのは近すぎる床だけで、視界の端にあるものは形にならない。

部品が光っているのか濡れているのかも、判断できない。

判断できないのに、身体だけが「拾え」と動く。


手を伸ばす。触れる。掴む。

掴めない。

掴めない理由を考えようとして、考えが途中で途切れる。


――違う。

――今は、理由じゃない。


そう思ったのに、その「今は」の先が出てこない。

続くはずの言葉が、どこにもない。


「……おい」


声がする。近い。

意味は分かるのに、言葉として頭に入ってこない。


「今週末使うんだけど」


「使う」。

その単語だけが、釘みたいに刺さって残る。

刺さって残っているのに、反応の仕方が分からない。


謝る。拾う。説明する。

やることは分かっている“はず”なのに、どれも選べない。

選べないまま時間だけが進んで、視線だけが増えていく。


口が動く。

動いたのに、声が出ていないことに後から気づく。


もう一度、と思って息を吸う。

吸ったはずなのに、胸に入った感覚がない。

胸が空のまま、喉だけが乾く。


「すみっ…、すみません……」


出た。

でも、その続きが出ない。

「すみません」の次に何を言えばいいか分からない。分からないことが、また怖い。


拾う。

拾わないと。


指先が震えているのを、目が拾ってしまった。

震えを止めようとして、指を強く閉じる。

閉じたつもりで、閉じきれていない。

閉じきれていないのが分かって、思考がまた止まる。


――何が起きてるの。

――何が。


その「何が」に答えが来ない。


「早く」


先輩の苛立ちが、空気を硬くする。

硬くなった瞬間、頭の中がさらに白くなる。

白くなると、音だけが増える。増える音が、また白さを増やす。


自分が今どんな顔をしているのか分からない。

分からないのに、「見られている」ことだけは分かる。

見られていることが、すべてを壊す気がする。


そのとき、別の声が入った。


「すみません。こちらで対応します」


澪の声。

落ち着いている。落ち着いているから、逆にそれが現実の支柱みたいに感じる。


「顧問の先生か、マネージャーの方を呼んでいただけますか。代替があるか確認します」


先輩が何か言い返そうとする気配。

澪がそれを乱暴に遮らないのも分かる。

分かるのに、内容は頭に入ってこない。断片だけが落ちてくる。


代替。確認。準備。

単語だけが落ちる。繋がらない。


澪がしゃがむ。部品を拾い始める。

その手の動きがやけに正確で、凪の中の焦りが跳ね上がる。


――自分は何もできてない。

――見えた。見られた。終わる。


手を伸ばした瞬間、澪の手が凪の手首に触れた。


「今は触らないで」


声が静かで、揺れない。

揺れないから、凪の手が止まる。止まったのに、心臓だけは止まらない。


「指、切るから。落ち着いてからでいい」


落ち着いて。

その言葉の意味は分かるのに、“どうやって”が分からない。


凪は何か言おうとして、口を開けた。

言葉が出ない。

出ないのに、喉の奥が痛い。


澪が体の位置を少し変える。

視界の端の青い反射が消える。

同時に、周りの視線も澪の背中で切れる。


「顔、上げなくていいから」


その一言で、逆に涙が出そうになる。

出そうになる理由が分からない。

理由が分からないまま、熱だけが込み上げてきて、呼吸がまた乱れる。


凪は、口元を押さえた。

押さえれば隠せると思ったのかもしれない。

隠せていないのに、そうするしかない。


「……だめ……」


やっと出た言葉は、それだけだった。

何がだめなのか自分でも分からない。

拾えないのがだめ。見られるのがだめ。普通じゃないのがだめ。

全部が混ざって、ひとつの「だめ」になる。


澪は頷きもしないし、否定もしない。

ただ、必要なところだけを言う。


「吸えないなら、吐く方から。少しずつ」


澪が自分の呼吸を目立たない程度に整える。

“こういう速さでいい”が、言葉じゃなく空気で伝わる。


凪の胸から、少しだけ空気が抜ける。

抜けた分だけ、少しだけ入る。

入った瞬間、現実が戻ってきて、今度は“見られた”恐怖が戻ってくる。


凪は身体が前に折れた。

理由は分からない。ただ、これ以上ここにいられない、という予感だけがある。


澪の手が、凪の手首を自分の膝の上にそっと置く。

固定される。逃げる指が落ち着く。


「今は、休んで。片付けは私がやる」


“私がやる”が慰めじゃなく、ただの処理として言われる。

それが凪には助かる。

助かるのに、情けなさが遅れてきて、また喉が詰まる。


顧問とマネージャーが来る。

澪が状況だけを説明する。凪のことは言わない。

言わないことが、凪の「普通」を守る。


先輩が吐き捨てる。


「もう来なくていい。邪魔」


凪は謝ろうとして、言葉が出ない。

出ない。出せない。

出せないことが、また“普通じゃない”に見える気がして、頭が白くなる。


澪は先輩を追わない。怒らない。

淡々と頭を下げて、場を閉じる。


「すみません。後でこちらから改めて謝ります」


澪が戻ってくる。正面から見ない。

目線を合わせないことが、凪にはありがたい。

合わせられたら、今の顔を“確定”される気がする。


「立てる?」


凪は返事ができず、首を振る。

振った拍子に首の奥が痛んで、身体が固まる。


澪は言葉を足さない。

言葉を足すと、凪が追いつけないから。


「外に出よう。ここじゃ息が整わない」


腕を差し出す。

強引じゃない。けど、迷いがない。


凪は掴む。

掴んだ感覚が薄い。薄いのが怖い。

でも、その怖さを言葉にできない。


外に出ると、匂いが薄れる。

喉が少しだけ開く。開いたぶん、今度は疲れが落ちてきて、膝が抜けそうになる。


「……無理」


やっとそれだけ言えた。

何が無理なのかは説明できない。説明する順番がない。


澪は短く頷く。


「うん。座ろう」


校舎裏のベンチ。

座った瞬間、手の震えが目立つ。止め方が分からない。

止め方が分からないことを、誰にも見られたくない。


ベンチの木目が、やっと“木目”として見え始めた。

さっきまで床はただの近さで、近さの中に何かが散っているだけだったのに。


指先の震えは残っている。

残っているけれど、震えのせいで世界が崩れる感じは少し薄れた。

呼吸はまだ浅い。それでも、次の息がどこから来るか分かる程度には戻っている。


澪は隣に座ったまま、こちらを見ない。

視線は前。校舎裏の壁の、剥がれた塗装のところ。

見ないことが、気遣いだと分かる。


しばらく沈黙が続く。

沈黙が重いのではなく、戻ってくるための時間みたいな沈黙。


澪が、ようやく言った。


「今の、片付けの話じゃない」


言い方が淡々としているのに、刺さらない。

刺さらないのは、責めるために言っていないからだ。


「……何」


声が自分のものに戻っているのを確かめるみたいに、短く返す。


澪は一拍置く。

その間に、こちらの呼吸を見ているのが分かる。

次の言葉を投げても折れないかどうか、それだけを確認している。


「当てたいわけじゃない。言い訳を引き出したいわけでもない」


言い訳、という単語が一瞬ひっかかる。

でも澪はそこを撫でるように続けた。


「これから先、同じことが起きるのが嫌。だから、整理する」


整理。

その言葉は澪の得意分野だ。

感情の問題を、現実の形に落として扱える。


澪は前を向いたまま、ゆっくりと言葉を並べる。


「落としたのは、注意不足だけじゃない。持ち方の問題でもない」


「……」


「拾えなかったのも、“焦ったから”だけじゃない」


胸の奥が少し冷える。

“見られたくない”の核心に触れられる気がして、身体がまた固くなりかける。


澪はそこで言葉の速度を落とした。

固くなりかけたところを、勝手に追い詰めない。


「指先の力が抜ける瞬間があった。掴みたい動きはしてるのに、最後のところが落ちる。あれは、気合いで埋まらない」


淡々とした観察。

断定ではない。

でも逃げ道のない精度。


「首、さっき痛めた?」


質問が具体的すぎて、答え方が分からない。


返事が遅れる。

遅れていることが、自分で分かって、また怖くなる。


澪は待つ。

返答が成立するまで待つ。

待った上で、言い直した。


「痛めたかどうか、今は答えなくていい。……ただ、首を動かす時に一瞬止まる癖がある。初めて会った時から」


初めて会った時から。

その言葉で、胸の奥の蓋が少し浮く。


澪は、次に言う言葉を選ぶみたいに間を置いた。


「怪我をしてる。しかも、軽い方じゃない」


断言じゃないのに、断言みたいに聞こえる。

たぶん澪は断言している。

“外側”としては。


言葉が出ない。

否定が出ない。肯定も出ない。

出せないのは、出した瞬間に今までの“普通”が過去形になるからだ。


澪は、それを分かっている。


「隠したいのは分かる。隠すのが悪いとも言わない」


ここで澪の声がほんの少しだけ柔らかくなる。

優しさというより、取扱いが丁寧になる。


「でも、隠すなら“隠し方”を変えた方がいい。今日みたいに崩れると、周りは勝手に理由を作る。たぶん一番嫌でしょ」


――勝手に理由を作られる。

その嫌さだけは、言葉になる前に身体が頷く。


澪は静かに続ける。


「怖いのは、失敗じゃない。“普通じゃない”と思われること。そうでしょ」


言われた瞬間、呼吸が一段深くなる。

言い当てられたからじゃない。

“怖さ”が言葉にされたことで、形になったから。


「……そう」


やっとそれだけ言える。

それ以上は、まだ無理だ。


澪は頷いて、それ以上踏み込まない。

踏み込まないかわりに、現実の提案を出す。


「じゃあ、今後の方針」


方針、という単語が妙にありがたい。

人の気持ちをいじられない。手順に戻れる。


「備品運びみたいな、重さと手先の作業が絡む仕事は、単独にしない。これは決定」


決定、と言い切るのに、命令じゃない。

責任を背負う言い方だ。


「あと、体調を聞く時は、周りの前で聞かない。あなたが答えられないのも、普通」


“普通”をここで使うのがずるい。

守られている感じがして、少しだけ胸が痛む。


澪はそこで初めて、こちらを見た。

目は鋭いのに、刃は向いていない。


「ひとつだけ確認」


凪の喉がきゅっとなる。


「保健室案件?」


その言い方が、澪らしい。

“可哀想”じゃなく、分類。

でも分類は守りにもなる。


凪は一秒だけ迷って、首を横に振った。


「……今は、いい」


澪は「分かった」とだけ返して、すぐ前に視線を戻す。

“見ない”に戻すことで、こちらの形を保たせる。


「じゃあ今日は、委員室に戻って終わり。話すのは私。あなたは頷くだけでいい」


「……」


「次。あなたが落ち着いてる時に、ちゃんと聞く。聞くというか、確認する。必要な範囲だけ」


必要な範囲だけ。

それが、救いになる。


凪は手を握ろうとして、握りきれないのを見て、視線を逸らした。

逸らした先で、澪の声が落ちてくる。


「“普通でいたい”なら、普通の形をこっちで作る。あなたは、壊れない方を選んで」


押しつけじゃない。

でも、逃げも許さない。

その塩梅が、澪の冷静さだった。


立ち上がる。

澪が半歩前に出る。

自然に、視線の壁になる位置。


「行こ」


その一言だけで、歩ける気がした。


凪は立ち上がった。

膝が伸びる。足裏が地面を掴む。掴めている、という事実だけで安心してしまうのが悔しい。


澪は半歩前に出たまま、先に歩き出す。

こちらを振り返らない。

振り返らないのに、歩幅だけは合わせている。

“置いていく”速度じゃない。

“隣に並ぶ”速度でもない。

隣に並んだ瞬間、誰かの視線が二人を一組の噂にするから。


澪は、誰かの視線が二人を「説明できる形」にする前に、形を作ってしまう。

説明されない形。

余計な意味が付かない形。


校舎に向かう道は、放課後の空気が薄く伸びていた。

日が傾いて、窓ガラスが白く光る。

白い光が床に帯を作り、その帯が視界の端で揺れて見えた。


揺れていない。

ただ、自分の目がまだ整っていないだけだ。


――大丈夫。

――歩ける。

――普通に戻る。


頭の中で言葉を並べても、順番が噛み合わない。

「普通」って何だ。

いつから、それを守ることがこんなに大事になった。


廊下に入ると、声が増える。

笑い声。呼び合う声。部活の予定を話す声。

どれも、今の自分から少し遠い。

遠いのに、遠いままでいいと割り切れない。割り切ったら終わる気がする。


すれ違う生徒の視線が一瞬こちらに向く。

向いて、すぐ離れる。

離れるまでの時間が短いほど、「見ないふり」が露骨だ。


見ないふりは優しさじゃない。

“関わりたくない”の別名だ。


澪はその視線の流れを、背中で切っていく。

大げさに庇わない。

ただ、こちらが視線の中心に置かれない角度を保つ。


凪は澪の肩甲骨のあたりだけを見て歩いた。

顔を上げると、世界が増える。

増えた世界に説明を求められる。

説明できないものを、今は増やしたくない。


曲がり角に差しかかったとき、首の奥がほんの少しだけ固くなった。

痛い、とは違う。

でも、動かす前に一瞬だけ“止まる”。

止まってから、遅れて動く。


その遅れが怖い。

怖いのに、怖さを確かめるのも怖い。


凪は無意識に首筋へ手をやりかけて、途中で止めた。

触れたら、そこに答えがある気がした。

答えがあるなら、今の自分が全部説明される。

説明された瞬間、普通じゃなくなる。


澪が振り返らずに言った。


「……大丈夫?」


問い方が軽い。

軽いから、答えの重さを押し付けてこない。


凪は頷いた。

頷く動作はできる。

頷けるなら、まだ普通の枠に戻れる。


――戻れる。

――戻れる、はず。


窓の反射がまた白く広がった。

白が、視界の端に溜まる。

溜まった白が、水面の反射と重なる。


重なった瞬間、床が変わる。


廊下の乾いた床じゃない。

濡れたタイル。

目地が規則正しく並び、線が線として世界を支えている場所。


凪の喉が一度、空気を忘れた。

吸うとか吐くとか、そういう順番が一瞬消える。

代わりに、身体が知っている“手順”だけが戻る。


合図の笛。

スタート台の硬さ。

肩にかかる水の重さ。

息を吐く場所が、空じゃなく水の中だった感覚。


――違う。

――ここじゃない。


言葉で否定しようとして、否定する言葉が出てこない。

出てこないまま、記憶だけが正確に形を作る。


澪の背中が遠く感じる。

距離が離れたわけじゃない。

今の自分の視界が、過去の方に焦点を合わせてしまっただけだ。


足が止まった。


止まったことに気づくのが遅れて、さらに怖くなる。

怖いのに、声が出ない。

「待って」も「大丈夫」も、「今」も言えない。


澪が初めて立ち止まって、振り返った。

顔は冷静なまま。

焦りも苛立ちも見せない。

その代わり、こちらの目の焦点だけを見て、状況を理解する。


「……ここでいい。立ち止まって」


命令じゃない。

許可に近い言い方。


凪は頷こうとして、頷ききれない。

頷ききれないまま、目の前の廊下が薄い膜みたいに揺れて、膜の向こうに別の季節が見えた。


夏の匂い。

塩素の濃さ。

日焼けした腕。

名前を呼ばれて、返事をする前に身体が動いていた頃。


――あのときは、考えなくてよかった。

――考える前に、泳げた。


泳ぐ以外の選択肢がなかった。

それが救いだった。

救いだったはずなのに――


凪の視界が静かに反転する。

校舎の廊下の白は、プールの白い天井に置き換わる。

床の線は、タイルの目地になり、目地の先に、水がある。


そして、次の瞬間。


「――椎名。行ける?」


誰かの声が、過去の時間の中から凪を呼んだ。


凪は、返事をする前に、もうスタート台に足を乗せていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ