雑文エッセイ「校正という確認作業~自分でやると絶対抜けがある~」
だーっと、勢いに任せて物語を書きなぐる。そこには情熱以外の何もない。そう、情熱こそが物語を書く為の推進剤なのだ。
で、なんだかんだで無事最後の文章を書き終える。
まっ、ここら辺の終わらせ方作法は人によって色々なはずだ。余韻を残しつつ全体を俯瞰するようにズームアウトさせてゆくなんてのは映像作品では良く見る技法です。
で、最後まで書けたのならば後は投稿するだけだ。だけなんだけど、素人作品投稿サイトに挙げるのならばそれでもいいけど、商業として編集部に送る場合などは最後にもう一度頭から作品を読み直し文章におかしなところが無いか確認しなければならない。
いや、商業ならばこれを専門に行なってくれる方がいるらしいのだけど、まずは自分でチェックするのが基本だろう。
実際、私だってエッセイを投稿する時は、一回は読み直すからね。すると大抵誤字脱字、もしくは表現の揺らぎが見つかります。
だけど、それをしても何故か後日読み直すと確認漏れを見つけるんだから不思議だ。まぁ、絶対数は少ないんだけど何故か見つけちゃうんだよね。
これはあれだ。多分書いた直後の読み直しは、読んでいるようで実は読んでいないのかも知れない。これはパソコンで例えると保存したデータを記録媒体であるハードディスクへ読みに行かないで、メモリー上に残っている作業途中のデータの方を読みに行っているようなものなのかも知れない。←例えが例えになっていない・・。全然意味が判らんよ・・。
まっ、乱暴に言うならばモニターに映し出された『文章』を追うのではなく、頭の中に残っている文章で確認してしまうが故、『文字の形』として視覚的なチェックが行なわれず修正箇所を見落とすのではないだろうか。
これは、誤字脱字なんかでは致命的だよね。だって脳内データって大抵『音読み』データとして残っているから文字としての間違いに気付けないもの。
後は、表現の揺らぎに関しても、その箇所だけ読むならば何の違和感もないはずなので、通しで読まないと気付けない場合が多い。
ほら、それまでは自分の事を『僕』と呼んでいたキャラクターがそこでだけ『俺』って言ったら全体としてはおかしいでしょ?
でもそこだけ読んだ場合は、自分の事をどう呼ぼうが別段気にならないはずだ。
特にこの自称ってやつは、他のキャラクターの言葉遣いに引っ張られる場合があるので気をつけないとならない。
凄い時なんて、清楚な女の子に『俺は』なんて言わせてしまったりするからね。
とは言え、短い物語だとそれ程凡ミスは起こらない。なのでやらかすのは大抵長編作品だ。
まぁ、その作品だけを集中して執筆しているならばそうでもないのかも知れないけど、幾つかの作品を同時進行で書いているなんつうバケモノ作者さんはやらかす確率が高くなるだろう。
下手するといきなり別の作品のキャラクターが出てきたりするんじゃないかな。でも作者自体はその違和感に気付けないのだ。
だってどちらも自分の創作物だからね。多分頭の中では整合性がとれているのだろう。
後は作者自身がどうやっても気付けないのに『表現の誤用』がある。これは作者自身が言葉の意味を勘違いして覚えているので本人では直しようが無い。
例えば、『気が置けない仲間』という表現は、本来気を使わずに接する事が出来る仲という意味らしいのだが、人によっては用心しなければならない相手として使っていたりする。
で、これは作者本人がそう覚えているのだから人から指摘されないとまず誤用に気付けない。
まっ、誤用に関しては人様の作品を多く読んでいる人ならば、逆に作中で本来の意味で使われている言い方に違和感を覚えて確認するだろうから、やっぱり人のチェックが入った商業作品を読むのは勉強になると思う。
因みにここの素人作品を幾ら読んでも誤用の確認に関しては勉強になりません。だってそれらの作品って『校正』がされていないから。
まっ、別に表現の勉強の為にここへ投稿されている作品群を読む人はいないだろうから、いらぬお節介なんだけどねっ!
しかし、百万文字以上の作品に商業化の打診がきた素人作者ってある意味『校正』地獄だよな。それをこなせる時間がとれる人ならばいいけど、大抵の素人作者って別に本業を持っているはずだからねぇ。
でも作品がヒットすればその苦労も報われるはずだ。なのでがんばって校正して下さい。勿論内容を更に面白くするのも必須だ。
そう、商業作品って、売れれば金の卵を産む鶏だけど、売れなかったら資源の無駄遣いと陰口を叩かれるだけだから。
因みに今はどれくらい売れれば黒字になるのかねぇ。えっ、5千部?マジですか?私の投稿作品って多いやつでも読んでくれた読者数が1千程度なんですけど?
むーっ、駄目じゃんっ!いや~、お金を出して読んでもらうのって大変なんだねぇ。
-お後がよろしいようで。-