ねぇ先生、恋の終わらせ方を教えて
「今から志望校を変えたい?」
緊張とともに伝えた決意に、家庭教師の高梨が返した反応は、冷ややかなものだった。
覚悟はしていたつもりだが、いつも冷静で現実的なことしか言わないこの家庭教師にさらになにを言われるのかと思うと、腹の底が冷えたような心地になる。
「今の成績でも、特に問題はないように感じるが? 他に行きたい高校が見つかったのか?」
先日の模試の結果が書かれた紙をぺらりとめくりながら、高梨は感情の読めない瞳で問いかけてきた。
「……いや、新しい志望校は、まだ決めてなくて」
震える声で、鳴瀬紬は答えた。
これでも、昨日も夜遅くまで、通えそうな範囲の高校の資料を必死にあさったりしたのだ。
それでもどうしても、決まらなかった。
「だから……今の成績で、どこならいけるかなって、先生に相談に乗ってもらえないかと……」
親にはまだ話していないが、反対されるに決まっている。だから、『高梨先生もいいって言ってたよ』というお墨付きがほしくて、わざわざこの、教え方は懇切丁寧だが愛想がない家庭教師に先に相談したのである。
「……名華高校だとなにか問題があるということか?」
名華高校というのは、もともとの第一志望の高校だった。
ふざけるな、と一喝されることも覚悟していただけに、淡々と質問されることに、ある意味ほっとした。
だが、問題はここからだ。
「……はい」
「理由は?」
「……言わなきゃダメ?」
「名華高校の進学コースは有名大学への進学率が高く、運動系の部活動も盛んで、特に野球部は過去に何度か甲子園にも出場している。生徒は明るく勤勉で、特に問題を起こしたという事例は近年、報告されていない。教師の方も、熱心な先生が多く、体罰に関する噂もない」
うん、さすが高梨先生だ。
やっぱり高梨先生からすれば、そういうところが重要なんだろうな、と紬はこっそりと思う。
「ごめんなさい。正直に言います。同じく名華高校を第一志望にしているやつが同じクラスにいて……そいつと同じ高校に行きたくないので、志望校を変えたいんです」
この人が相手だと、適当な嘘をつけば余計ややこしい話になりそうな気がして、紬はあっさり、誰にも言いたくなかった秘密を暴露することにした。
高梨は、整ってはいるがカッコいいといより厳しそう、という印象の顔立ちを険しくさせた。
「成瀬くんはまさか、その……いじめを受けているのか?」
いつも白黒ハッキリした物言いをする高梨にしては、ずいぶんと言いづらそうな様子だった。
そこに、高梨の人の良さを感じられて、紬は苦笑する。
「違います。友達で、すごくいいやつなんですけど、失恋しちゃって……」
「失恋?」
難解な未知の言語でも口にするかのように、高梨はくだらない単語を反芻する。
「あの、フラれたとかじゃないんです。えっと、オレ、そいつのことが一年の時から好きだったんですけど、そいつに彼女ができて……彼女も同じ志望校で……彼女もすごくいい人で……合格したら一緒に通えるね、って言われるのがすごく苦痛で……」
説明不足だったかと思って補足したつもりだったけど、余計ぐちゃぐちゃになった。
思い出したら視界が歪んで、涙がぼろりと溢れてきた。
突然すぎて、自分でも戸惑う。
きっと、高梨先生だってびっくりしたことだろう。
「……すまない。誤解だったら申し訳ないんだが、今の話から推察すると、きみが好きな人というのは男、だということだろうか?」
――ああ、そうか。まずは、そこからなのだ。
そうだよな。ちゃんと説明しないと、わからないよな。
「すみません……誤解、じゃないです……オレ、男が好きなんです……気持ち悪い、ですよね……? ごめんなさい」
涙がさらにぼろぼろ溢れてくる。
願書提出の一か月前になっていきなり志望校を変えたいと言い出したり、いきなりマイノリティな性癖をカミングアウトされたり……普通に考えると迷惑な話だろう。
申し訳ないとは思う。
でも、この先生なら感情論だけで否定したりはしないだろう、という謎の信頼感があって、ついつい言ってしまった。
他に相談できる人が、誰一人として思い浮かばなかったのである。
「……少なくともオレは、気持ち悪いとは思わない。だが、成瀬くんが好きな相手にとっては、男は恋愛対象ではない。……そういうことだな?」
「はい。……実は、探りを入れようと思って、最近人気のBLドラマを見せてみて『こういうのどう思う?』って聞いてみたら『ありえないよな。いくら顔がよくても気持ち悪い』って即答されて……諦めようとしていたところに彼女もできて、もうこれは絶対無理だなって……オレの気持ちは一切、伝えてないんですが……こういうのって、告白したら『男でもいけるかも』ってなる問題でもないですよね?」
「それは一概には言えない。可能性がないわけではないだろう。しかし、オレきみのその友人を直接知っているわけではないので、軽々しいことを口にするわけにはいかない。それで話を本筋に戻すが、たった一人の人間のために、今までせっかく目指してきた志望校を変えるというのは、きみにとって損失にならないだろうか? オレが心配しているのはそれだけだ」
「……高梨先生の出身校ってどこですか?」
もう、自分でもなにがなんだかわからない。
唐突な質問に、高梨は瞬きを軽く何度か繰り返したが、それだけだった。
「オレは、東聖学院だ」
この近辺では、トップクラスの進学校の名前だった。
名華高校に比べれば家から遠いけど、駅で言うと二駅離れているぐらいなので、通学に苦労するほどではない。
「じゃあ、そこでいいです。そこに行きます。高梨先生が選ぶぐらいの高校なら、行って損はないですよね?」
つまりはやけくそだった。
他に自分を正当化する術が、見つからなかったのである。
「この成績で……?」
高梨は再び模試の結果を見直している。
もちろん、自分の今の成績では厳しいこともわかっていた。
「もし東聖に落ちたら、玉砕覚悟で告白して、それでフラれたらそいつのことはキッパリ忘れて、うちから一番近い公立高校に行きます」
「なるほどな」
極端すぎる決意だったが、覚悟のほどが伝わったのか、高梨は紙から手を離すと、パン、と軽く手を打った。
「来週から学習プランを変更しよう。オレもできる限り手を尽くす」
「ほ、ほんとですか?」
諦めろと説得されるどころか賛成されて、紬はほっとしつつも戸惑う。
融通の利かない先生だと思ってたけど、実は生徒想いの先生だったんだろうか?
「合格したら、オレも告白することにしよう」
「誰にですか……?」
大学二年生だというわりに遊んでいる気配がまったくなく、女にすら興味がなさそうなこの先生に、まさか好きな人が?
今日は驚きの連続だ。
「成瀬紬にだ」
なるせつむぎ? 成瀬紬? えっ、オレの名前……?
紬はしばしフリーズしたあと、ぎょっとした。
「実はおまえのことが大嫌いだった、って告白ですか!?」
それしか考えられなくて、悲しい気持ちになりつつ叫ぶと、高梨は眉根を寄せてぎろりと睨んでくる。
「誰が嫌いだなんて言った。おまえはオレの好みど真ん中だ……っと」
失言だったらしく、高梨は口元を抑え、気まずそうに視線をそらしている。
「先生! 先生、もう一回言ってください! 詳しい説明をお願いします!」
授業中さながら、紬は挙手して質問を投げつけたが、高梨は嫌そうな顔をしただけだった。
「受験前の中学生に言うようなことじゃない。今のは忘れろ」
「えーっ」
「……フラれる覚悟をするのはけっこうなことだが、フる覚悟もしておけよ」
苦々しい口調。口を滑らせたことを後悔しているような表情。
冗談じゃないんだ。
いつだって正解を知っているこの先生も、間違えることだってあるし、うまくいかないことの怖さを知っているんだ、と気づかされて、はじめて、この先生に対して親近感がわいた。
それに、いつになく人間味のある先生の表情に、不覚にもドキリとした。
「先生もほら、合格目指しましょうよ」
「なんの合格だ」
「オレが東聖学院に受かる確率よりも、高梨先生がオレをオトす確率の方が高いかもしれませんよ?」
END