常識的な非常識
「さて、"常識とはなんだ"と聞かれた時、君ならなんと答えるかい?」
「…どうでしょうね、"普通"とか"当たり前"とか答えるんじゃないですか」
「"普通"!それに"当たり前"ときたか!」
本当に楽しそうだなこの人、何が面白いっていうんだそんなに。
「まあそうだろう。常識と言われた時、きっと人は"普通知ってるだろう"とか、"当然"とかを念頭に喋っているだろう事は想像に難くないね。」
「それは皆が愛する広辞苑大先生も仰っている。"常識"とは普通であり、一般人が持っているべき知識を指すと。ただ、じゃあ今度はいったい"普通"とはなんだという話になってくるね?」
「後に続く"一般人"という分類もそうだろう、これは"普通"な人という意味で取るべきだろうからね。」
「普通。普く通ると書くんだ、広く全般的に伝わる様だね。ただ、それはきっと本当の意味で全てを表すわけではない。それはわかるね?君も、日本人にとっての普通もしくは常識が、全人類にとって同じく常識だと言い切られたら、流石に違和感を抱くだろう?」
違和感というか、もはやそれは傲慢だとすら感じるが。日本に生まれて早幾年。たかが16,7年の短い人生だが、いや短い人生だからこそ、そんな事は言えない。世界の基準が日本だなんて、全ての基準がそこにあるだなんて、そんなだいそれた事を言えるほど、僕は世界を知らないし、また世界も僕の事なんて知らぬだろう。
「そう、そしてそう感じる事はきっと正しい。人種や国籍、それぞれの文化や伝統があり、さらにそれは無数に別れている。国なんて大きな括りで語らなくてもいい。日本の中ですら地方や都道府県、市区町村や自治体、世帯に家族内でも兄弟間。個々人の関係ですら、お互いの間でルールになっている事や分かりあっていることは違うだろう。」
「よく聞く話だとほら、関西と関東ではエスカレーターでの立ち位置が違うとかは君も知っているだろう?」
関西では右側に居る人間が止まっていて、左側を空けるのだったか。先輩が言うようによく聞く話だし、流石の僕も知ってはいたが、実際に初めて関西を訪れた時は違和感があったのを覚えている。別に不快に感じたとかではないのだが、"なんか変"な感じがした。あれはたしかに不思議な感覚だったな。
「あれほど有名な話だとそれこそほら、"常識"にほど近いだろうからね。それぞれの地方で逆の立ち位置の人に出会っても、トラブルになることは少ないだろう。観光で来た向こうの地方の人かなと、そのくらいに思って気にしないんじゃないかな。」
「まあ有名になっているくらいだ、きっと知れ渡る前にはそれだけぶつかる人がいたんじゃないか、とか思うと哀しくもあるが、今を生きる私たちにはあまり関係なくなった話だね。」
「だけど未解決のものも多い、きっと主義主張を変えれない人が多いのもそうだし、乱暴に言えば考えが足りないという見方も出来るだろう。」
「いつだったか、君が言ってた話を引用するとしよう。ほら先日電車で遭遇したという御年配と思しき女性の話だよ。」
相も変わらずよくこんなに一人で喋り続けられるものだなと、そんな風に思っていたのが悪かったのだろう。話を振られている事に一瞬気が付かず反応が遅れてしまったが、自分の体験についてだと思い至り、僕は数日前に出逢った名も知らぬ人とのやり取りを思い出す。
特別でもない、いつもの帰り道。僕は電車に揺られていた、通学途中だった。乗り換え含め一時間ほどの時間をかけて、僕は今の高校に通っている。そんなに混雑することも無い路線なので、僕は席に座っていつも通り適当な小説を読みながら、通学時間の暇を潰していた。文庫小説という物の存在は本当に偉大である、あまり荷物にならないし、気軽に時間を消費出来るという点で大いに僕を助けてくれている。
それはさておき。そんな僕の前に六十歳くらいだろうか、一人の女性が電車に乗ってきて、辺りを見回した後立ち止まった。満席というわけでも無かったが、近くの席は軒並み埋まっていたのだ。僕は簡単に荷物をまとめ、女性に席を譲ろうと立ち上がった。あくまで紳士的に、爽やかに、スタイリッシュかつクールに、なんて思い上がった事を考えてたのが良くなかったのかもしれない。「どうぞ」と、声をかけた僕に彼女は激昂した。
それは衝撃的だった。なんせ激昂である。ひどく怒っている様である。曰く、「ババア扱いするな」と、「若いからって年寄りを見下している」と。いや、一応僕の名誉の為に言っておくが、そんなつもりでは無かった、それはわかって欲しい。兎にも角にも慌てた僕である。そういうつもりでは無かった旨を話し、大丈夫ならいいのだと、僕は静静と僕が譲った席に座った。それから僕が目的の駅で降りるまでの三駅程の間、彼女は座る僕の前であからさまに憤慨の表情を浮かべたまま仁王立ちしていた。車内は静まり返り、地獄のような時間を過ごした。他の人達にとってのそれはわからないが、少なくとも僕にとってはそこは地獄だった。これが事の顛末である。
そういえばこの話をした時、先輩声を上げて笑ってたな。それこそ地獄の鬼かなんかじゃないのかこの人。人の心が無いのか。
「なんだかまた失礼なな事を考えてそうな表情のところ悪いけれどもね。」
「これもまた、"常識"という価値観に振り回された、悲しい事故だと言える。」
「君はきっと、己の中の道徳的価値観によって行動を起こしたのだろう。世に言うお年寄には席を譲りましょう、そんな聞き飽きたような言葉があるが、それが正しいと思い、席を譲ろうとしたのだろう。」
「いや別に、それが間違っているというつもりはないよ。むしろ素晴らしい事だろうね、周りの人は行動を起こしていない中、君は自分が正しいと思う行為をやり切った。それは確かに尊い行いだろう。だがね、もしそれで"僕は善い事をしたのに"と、"好意を素直に受け取らない相手が悪い"と一方的に決めつけてはいけないよと、それは伝えたいね。」
「もちろん君がそんな狭量な人間だとは思っていないがね、世の中にはそういう考えもあるという事さ。"自分は常識に沿って行動をしたのだから、間違っているのは向こうだ"と。そう決めつける人もいる。だが、どうだろう。先程のエスカレーターの例もそうだが、相手側の常識や都合もあるんだ、一方的に自分の知る常識というものを押し付けるべきではないだろうね。」
「彼女にとって、自分の年齢はまだ高齢ではないと考えているかもしれない。そもそも実は見た目より高齢ではないかもしれない。杖をついていなかったんだろう?実は登山や陸上、その他運動を今も欠かさず行う趣味や職業で、陰鬱な日々を過ごす君より、はるかに健康体かもしれない。病気や身重で無い限り電車では座らないという主義かもしれない。最近、年齢を種に若者に酷い事を言われ、辛い目にあったのかもしれない。ざっと考えただけでも、色々な可能性があるね。」
わざわざ途中で僕を悪く言う必要があったのかはわからないが、たしかにそうだが、しかし―――
「そんな事、僕には分からないじゃないですか…。」
「もちろんわからないとも。」
ええ…。
「だからこそ、分からないからこそ。断られたのなら気にするべきではないということだよ。」
「席を譲ろうとした。これは君にとっての常識に従った行為だ。これは良い、先程も伝えたが、素晴らしい事だと私は思う。」
「だが、彼女が譲られた席を断った事。これも彼女にとって、彼女の常識に従った行為だったのだろう。もちろん彼女にも非はある。席を断るまでは良いが、その後声を荒らげるのはナンセンスだと私は思うね。彼女も彼女で、譲った側の思いや常識を斟酌すべきだっただろう。」
まあこれも私の常識、私の考えだが。と、嘯く先輩に僕は今回のこの毒にも薬にもならなそうな話を締めようとする。
「つまり常識とは個々人によって思うものがあり、相手側が一方的に責め立てるものではないと。」
「そうなるね。もちろん社会的常識や、理性的会話に必要な最低限のマナー・ルールもあるから、無いと成り立たない側面もある。一概に言い切れない部分がある事も認めるが、まずは相手の事を思いやり対話を重んじるのが前提だね。」
「…ところで、この前先輩と話してたケーキがとても美味しいと評判の喫茶店についてなんですが。」
「ああ、今度一緒に行こうと約束したあそこだね。すごく楽しみだ、本当に。私は甘い物にだけは目がないんだ、ケーキは神が創った最高傑作だとすら信じている。」
「我慢できなくて昨日妹と先に行ってきました。とても美味しかったです。」
「なっ…。ずるいぞ、約束してたのに!非常識だっ!!」
「いや、妹がどうしても行きた「知るかっ、許さん!」
おい。
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