おやすみなさい、よい夢を
港に隣接するホテルは、まだ新しかった。突貫工事で建造されたと聞いていたが、それでもかなり立派で頑丈そうな建物だった。
赤道直下のリゾート地にあるこのホテルに佐々木家の三人家族がやって来たのは、現地時間で正午近い頃だった。夫の孝介、妻の愛美、そして八歳になる娘の沙奈恵。孝介と愛美は共に沙奈恵の手を引いているが、どこかピリピリとした雰囲気を漂わせていた。
「すごい建物だねぇ、パパ」
「ああ、そうだな」
沙奈恵の声にも、孝介は落ち着かなげに短く答える。
ホテルはターミナルも兼ねていた。入口には特殊なゲートがついていて、危険物を持った者は入れないようになっている。招待状に記されたパスワードを入力し、生体認証登録をしてから三人はゲートをくぐった。
「いらっしゃいませ」
恭しく三人を迎えたのは、このホテルの支配人だった。
「佐々木沙奈恵様とそのご両親ですね。お待ちしておりました」
支配人は身をかがめ、沙奈恵に目線を合わせるように挨拶をした。
「よろしくおねがいします」
沙奈恵もぴょこり、と頭を下げる。その様子はいかにも微笑ましく見えた。支配人は笑顔を作り、それに応えた。
支配人は両親に向き直った。
「出発に際し、沙奈恵様には簡単な健康診断を受けていただきます。ご両親のどちらか、もしくはお二人に立ち会いをお願いいたします」
「あ、じゃあ……」
俺が、と言いかけた孝介をさえぎるように、愛美が答えた。
「わたしが立ち会います」
愛美は孝介に顔を向けた。
「沙奈恵の医療データを管理してるのはわたしだし、いいよね?」
愛美の言う通りなので、孝介は否とは言えなかった。沙奈恵のことに関しては、愛美の方が圧倒的に詳しい。係員に連れられて沙奈恵と愛美が建物の奥に歩いて行くのを、孝介は黙って見送った。
「お父様には、ラウンジで冷たい飲み物でもいかがでしょう。ウェルカムドリンクをご用意しております」
「あ、ああ、そうしようかな」
支配人の言葉にうながされ、孝介はラウンジへ向かおうとした。
その時、ゲートの方から警報が鳴り響いた。ゲートの方へ警備員がわらわらと駆けつける。何があったのかと孝介は振り返った。分厚いアクリルガラスの扉の向こうで、初老の男が取り押さえられているのが見えた。ゲートを無理やり抜けようとしたらしい。
「離せ! 俺を誰だと思ってる!?」
取り押さえられている男がわめいた。
どうやら男は、どこかの国の議員か大臣といった地位についている者らしかった。
「どうして俺が船に乗れないんだ!? 金はいくらでも出す、俺を船に乗せろ!」
支配人がすっとその場を離れ、男の前に進み出た。
「お金とか地位とか、そのようなものはここでは何の意味もございません」
孝介達に対する時とは全く違う、威厳のある声音で支配人は言った。
「船に乗れるのは、厳正に抽選された結果選ばれた方々です。お金や地位を振りかざす、あなたのような方には乗っていただかなくとも結構でございます。どうぞお帰りください」
支配人の言葉が合図であったかのように、警備員は男の腕をつかんでどこかへ連行して行った。男はずっと何事かをわめき散らしていた。
「ああいう人、よく来るんですか?」
こちらへ戻って来た支配人に、思わず孝介は訊いていた。
「これまでにも、何人かはいらっしゃいました」
事も無げに支配人は答えた。
「しかし、ここに入れるのは正式に招待状を受け取られた方と、そのお連れ様のみです。ああいった方々は、我々が断じて入れませんので、ご安心してお過ごしくださいませ」
ラウンジに向かいながら、孝介は入口の方をちらりと振り返った。厳重なゲート、分厚いアクリルガラスの扉、その向こうに輝く南国の太陽。その明るさにさえ、孝介はどこか落ち着かない気持ちを覚えた。
わずかな不安を振り払うように、孝介は支配人についてラウンジへと向かった。ウェルカムドリンクが待っている。
しばらくして終わった沙奈恵の健康診断の結果は、「何も健康上の心配はなし」だった。
夕食はフレンチのコース料理だった。何でも、一度は引退した一流のシェフがこのホテルの為に復帰して腕を振るっているのだという。肉や魚、野菜といった材料の調理や盛り付けに細心の注意を払っているのは、すぐにわかった。沙奈恵の皿は同じ料理でも形や盛り付けが少し違っていて、子供にも食べやすくしている。味付けも変えているのだろう。
他のテーブルも家族連れが多い。何かのお祝いをしているような賑やかな家族もいれば、静かにテーブルを囲んで食事を楽しんでいる家族もいる。
自分達はどう見えているのだろう、と孝介は思った。仲の良い家族のように見えるのだろうか。
結婚当初は良かった。だが、生活を重ねるうち、あちこちにほんの少しのほころびが見えて来た。結婚前はこんなじゃなかったのに。それは愛美の方も同じだったろう。恐らく「こんなじゃなかった」ことは昨日今日出て来たことではなく、ずっと前から自分達の中にあったことだ。
孝介も愛美も、それぞれの仕事の忙しさにかまけてそのほころびを直視しなかった。それがいけなかったのだと、今は思う。小さなほころびだったものはいつしか広がり、亀裂となり、沙奈恵が産まれた頃には埋めようのない溝となっていた。
二人をかろうじて夫婦として結びつけていたのは、ひとえに沙奈恵の存在だった。しかし、限界は近づいていた。このまま家族と一緒にいるか、家族の手を離してバラバラになるか。猶予はもうあまりなかった。
そんな時、降って湧いたように出て来たのが、この旅の話だった。抽選に当たったという連絡メールを見て、手が震えたのを覚えている。これが家族の最後の思い出になるのは明らかだった。
「パパ、食べないの? おいしいよ」
沙奈恵の言葉に、孝介は我に返った。食事の手が止まっていたようだ。
「あ、ああ、食べるよ。こんな美味しい料理、しっかり食べないとな」
多分、こんな料理は二度と食べられないだろう。
「……あのね、パパ、ママ」
沙奈恵はおずおずと、だがしっかりした口調で言った。
「学校の先生が言ってたの。離れ離れになっても、パパもママもわたしも、ちゃんとみんな家族だって。クラスのみんなも、ずっと友達だって。だからわたし、大丈夫だよ」
沙奈恵のクラスの担任は、若いけれどいい先生だと評判だった。これから自分の手を離れて行く教え子に、最後にかけてくれた言葉だろう。沙奈恵は周囲の人に恵まれていた。
と同時に、自分達が沙奈恵にまで気を使わせていたことを感じ、孝介と愛美は気恥ずかしくなった。
「さあ、ごはんを食べちゃおっか。この次はデザートだぞ」
「わあい、デザート食べる食べる!」
出発はその翌日だった。
見送りの人達が、様々な国の言葉で旅立って行く者達に声をかけている。
「元気で!」
「身体に気をつけて!」
「頑張ってね!」
「私達はいつでもあなたを見守っているからね」
そのうち、孝介と愛美の番が来た。
目の前を運ばれて行くのは、半透明のカプセルだ。その中に、固く目を閉じた沙奈恵が眠っていた。それはまるで、ガラスの棺に眠る童話の白雪姫を思わせた。
「……おやすみ」
孝介の横で愛美が呟いた。
「おやすみなさい、沙奈恵。百年の旅の間、きっとお星様がいい夢をくれるわ」
彼らの遥か頭上には、昼間でもうっすらとわかる星がある。それは、もうじき地球に激突する予定の超巨大隕石だった。
小惑星レベルの巨大隕石が地球に激突すると発表されたのは、五年前のことだった。世界各国の複数の天文学者がどう計算してみても、結果は同じだった。この隕石はまともに地球に激突し、その結果恐竜絶滅時以上の壊滅的な被害をもたらす。それどころか、地球自体が破壊されてしまう可能性が高い。
当然ながら、世界中がパニックに陥った。あちこちで暴動が起き略奪が起きた。宗教にすがったりアルコールや薬物に逃げる者も多かった。
だが、人類の全てが刹那的な衝動にかられていたわけではない。多くの者は目の前の滅亡を見ないようにして普通に暮らしていたし、一部の者はその中でも前向きな手を打とうと努力していた。その努力の結果の一つがこの『旅行』だった。
宇宙空間に存在する粒子を取り込みつつ進む亜光速エンジンも、人間を冷凍睡眠させる技術も既に確立されていたが、本格的に活用されるのはまだ先の話だと思われていた。各国の科学者・技術者は連携して恐ろしいまでのスピードでそれを形にして行った。
太陽系外への移民船団。目的地は、百光年程離れた場所に発見された、地球と似たような気候の惑星だ。もっと近場にも地球型の惑星はいくつか存在したが、事前にテラフォーミングする必要があった上、一部の金持ちや権力者が自家製の宇宙船で近場の星々へ行って占有しているという報道がされていた。誰の手もつけられていない場所が好ましかった。
無論、地球にいる全ての人間が行けるわけではない。星間移民に選ばれたのは、世界中の応募者からAIによって忖度なく抽選された者達だった。ほとんどは三十代以下の若者達で、中には子供も含まれていた。命の選別だという批判もあったが、全員が助かる手段はないならば、未来ある若い者を優先させる方がいいという判断だった。
ダメ元で応募した移民の抽選に、見事当選したのが沙奈恵だったのだ。
「冷凍睡眠の間って、夢を見るのかしら」
愛美は言った。
「さあ? 見ないんじゃないかな、睡眠って言っても仮死状態みたいなもんらしいし」
「見てればいいのにな。百年も眠ってるんだから」
沙奈恵が旅立つ前夜。寝付いた沙奈恵に寄り添うように、孝介と愛美は横になっていた。キングサイズのベッドは、親子三人が川の字になれる程の大きさだった。こんな風に過ごすのは久しぶりだ。
「思い出すわ。この子、小さい頃はすぐに寝付けないことが多かったのよ。怖がりなくせに怖い話とか好きで」
「そうだったな。そんな時、よくこうやって寄り添って寝たっけ」
「『沙奈恵はいい子だから、お星様が素敵な夢をくれるわ』って言ったら、安心して寝てくれたのよ」
愛美は眠る沙奈恵の髪を優しく撫でた。
「この子が行く場所が、どんなところかはわからない。でも、何があっても、ゆっくりと眠って素敵な夢を見ていて欲しいわ」
沙奈恵達を乗せた船が、港を出る。ゆるやかに離陸したAI制御の宇宙船は、速度を上げて空に向かって飛んで行った。
地球に残った人々は、皆でそれを見送っていた。これが移民船の最後の便だ。百年かけて自分達の子供や孫は宇宙を渡り、他の星に根付く。後に希望を残せたと感慨にふける者、永遠の別れに涙する者、大仕事を終えて一息つく者、様々だ。
「ねえ。わたしね、昨夜夢を見たの」
愛美は宇宙船の軌跡を目で追ったまま、横にいる孝介に話しかけた。
「……俺もだよ」
孝介は答えた。
――どことも知れぬ建物の中。窓から一人の少女が顔を出す。よく見知っている、しかし見たことのない顔。それは、今より少し成長した沙奈恵だ。
沙奈恵は一面の星空に向かって言う。
「パパ、ママ、おやすみなさい」
これが彼女の毎夜の習慣なのだと、一目でわかった。
彼女の見る先に、もう地球はない。だが、もう失われた地球の光は、きっと彼女にいい夢をもたらすのだろう。
愛美は、孝介は、そう思った。
あれは「お星様」が見せてくれた「いい夢」だったのかも知れない、と二人は思っていた。誰かの心の中にある「お星様」が。
合わないところは山程ある。だが、沙奈恵の幸せを願うことにおいては、誰よりも信用出来る者だと、二人は互いに感じていた。
二人はじっと宇宙船の行く先を見つめていた。その手はいつしか、しっかりとつながれていた。