人間と魔法使い
石畳の上を、大きな音をたてて何台もの馬車が通り過ぎていく。
杖を鳴らして歩く紳士や洋傘をさす貴婦人、それからボロボロのコートを引き摺る少年も、
街を行き交う人々は白い息を吐きながら帰路へと急いでいる。
その様子を、リーンハルトは金髪を風になびかせ見つめていた。
薄青かった空が暗闇に溶け、星が瞬き始めた頃になり、漸く彼は腰を上げた。
人はもう、まばらにしか見当たらず、リーンハルトは、これからどうしようか、とぼんやりとした頭で考える。
回らない頭のまま大通りから逸れて、十字路を曲がった時だった。
「早くその荷物を寄越せ!でないともっと痛い目にあわせるぞ!」
怒鳴り声の後、リーンハルトの耳に、骨が折れる音が聞こえた。
こんな光景は、日常茶飯事だった。
リーンハルトが今日一日で見慣れてしまうくらいに。
唇を噛むと血の味がした。
見て見ぬふりをするのは、これで何度目だろう。
ショーウィンドウの中の自分と目が合った。
ガラスに映った姿は、情けない自分を非難しているみたいだった。
その独りよがりの考えに自嘲的な笑みが零れる。
(それでも良いか)
自分が吹っ切れた音がした。
声の聞こえた裏路地を覗くと、身なりの良い男が、もう一人の大柄な男に蹴られていた。
蹴られている男の腕は、おかしな方向に曲がっている。
大柄の男は蹴っている相手の反応に夢中で、リーンハルトのことに気づいていないようだ。
リーンハルトはこっそりと男に近づいて、短く息を吐くと同時に、男の首元に手刀を打ち付けた。
「う゛ぁ…ッ、?」
ぐらりと傾いた男が、地面に伏せたままの彼に倒れないように、襟首を掴んで後ろに引っ張ってやる。
「大丈夫ですか?」
蹴られてボロボロになった男の顔を覗き込む。
気絶しているのかと思ったが、彼はその目を見るからに輝かせて自分のことを見ていた。
(な、なんだこいつ)
一歩引いてしまったのは不可抗力だと思う。
彼は目を輝かせながら、背中を壁に預けながらゆっくりと立ち上がった。
「助けてくれてありがとう少年!!
僕の名前はソルシエール!
なぁ少年!僕を助けてくれた君に、何かお礼がしたいんだけど、なにがいい?
僕の力を持ってさえすれば、どんな願い事でも、なんだって叶えてあげられるよ!」
あぁ、この頭のおかしい人はどうしてこんなに元気なんだろう。
そのエネルギーを少しでも分けて欲しいくらいだ。
さっきまでこの大男に蹴られていたところだったのに。
しかも願い事を“なんだって”叶えてくれる、ときた。
どこの貴族の坊ちゃんだか何だか知らないが(どう見ても坊ちゃんではない)、
この変な男を困らせてやろう。
気分はさながら、とんち小坊主の一休だった。
「じゃあ、僕を魔法使いにしてください」
つい最近まで四六時中つくっていた爽やかな笑みを浮かべ、リーンハルトは言った。
子供が短冊に飾るような願い事である。事実、この願いはリーンハルトが幼少期に書いたものだった。
ソルシエールは驚いたように目を見開く。
そして、笑った。
「ふふ、好都合だよ。リーンハルトくん?」
そして緩慢な動作で倒れたままだった大男の懐を探り、青い石が嵌め込まれたネックレスを見つけた。
「よしよし、これで帰れるね」
そう呟いて、ソルシエールはリーンハルトの方を振り返る。
「僕、実は魔法使いなんだ」
しかもかなり偉い方の、と彼は続けて言った。
さぁ、どうする?
ついて来るなら、暫く“ここ”には戻れないよ。
何故ソルシエールが自分の名前を知っていたのか、という疑問は頭の片隅に転がっていき、
いかにも怪しい、新興宗教の誘いにも見えなくはないこの男に着いていくか、
というか、そもそも自分は本当に魔法使いになりたいわけでは___…
リーンハルトは結構長い間悩んだつもりだったが、結論として、ソルシエールについて行くことにした。
なぜって?
もちろん、面白そうだから。