18. ヒョルド月華の問い~小夜曲揺籃
※もう少し続けたくて、この回の後、もう一話続きます。
がらんとした素っ気無い部屋の中で、人間の女と、サブパメントゥの男が、静かに話し合う夜。
声が大きくなることは一度もなく。どちらも考えながら、誤解のないように言葉を探して慎重に伝えた。
もう、誤解は二度と要らなかった。
もう。そんなことに費やしている時間は要らない。
確かめながら、多くを話さず、少しずつ。おぼつかないことも、確かな気持ちだけを、伝え合う時間。
選び取った純粋なものだけを吟味して、目の前の相手に渡す。二人はそれを繰り返した。
テイジャは何度か涙を落としたが、それは長く続かず、一滴二滴、程度。
頬伝う流れる涙は、ベッドに並んで腰掛けたヒョルドが、その都度、指の背で掬った。
顔を覗きこむ、燃えるような澄んだ赤い瞳。テイジャは、その色の奥を見る。
自分が見つめ続けた瞳の色は、この色ではなくても、この色の向こうにある心は同じ――
20年の歳月は、長すぎるくらいに、テイジャを蝕み疲労させたが、たった今。テイジャは穏やかだった。
死のうと決め、破れかぶれにも似た、最後の行動が。まさか、凍った年月を溶かすことになるなんて。
そして今、憎み続け、それしか値しなかった男が―― 『自分に愛を注いだ男』と理解し、認識し始めている。
その認識は同時に、『自分が愛した男』だったとも裏打ちする。
「テイジャ。俺はこれからどう動いて・・・良いんだろう」
過去から今へ移った二人の会話。続くヒョルドの問いかけは、過去から未来へ移る。
テイジャは彼を見つめ、ゆっくりと答える。もう、正直に話そうと決めた後だから、抵抗はなかった。
「今すぐは分からない。だけど、何度かこうして話を続けたら。私たちがどう、これから動けば良いのか。見えてくるのかも」
「そうだな。そう・・・うん。そうか」
「 ・・・・・あなたは。あの。気になっていたけれど、あの消えてしまった草は、何かに使うの?」
唐突に、草の山の話に切り替わり、ヒョルドが少し驚いたように止まると、テイジャは気まずそうに、小さく息を吸い込んで目を逸らした。
「詮索じゃないのよ。あなたが、昔に牧場で仕事をしていたのを思い出したから」
働いていた男は、死んでしまった彼だったが。それを口にすると、胸が苦しくなるけれど。
でも、『これを越えよう』と決めたテイジャは、その時代しか知らないことを踏まえて、現在のヒョルドに『今はどうしているのか』を訊ねたつもり。
人間じゃないなら、仕事も関係ないだろうし、自分たちを養う必要もない今、あれは何か・・・彼の日常に繋がっているのだろうかと。ただ、ふと、そう思った。
それをどう訊いて良いのか分からずに、口に出てきた言葉が直接的だっただけ。
質問を受け取った男は『あの』と言い淀む。それから、何度か瞬きして、顔を窓に向けると窓の外を見つめる。言い難そうな表情に、テイジャは待つのみ。
「あの。何て言うかさ。ええっとな。あー・・・上手く言えないけど。姉妹がいてさ、人間の。その。俺が面倒見てた」
テイジャの顔がさっと変わる。それを見ないヒョルドは、窓の外に視線を向けまま、言葉を選んで続ける。
「そいつらが。うん、あの。多分、生活があんまりうまく行ってなくて。だから、そいつらの面倒見ている俺が、その。草は仕事で。姉妹の仕事で使うやつで」
言い難さが詰まりに詰まって、『姉妹は誰か』をひた隠しにしつつ、事情は正直に打ち明けるヒョルドだが、ここでこの話題を出した以上、聞いているテイジャは誰かなんて想像が付く。
そこまで分かっていないヒョルドは、隠しているつもり。以前、イーアンに相談した時『全部話してくれなきゃ分からん』くらいのことを言われた。
だから多分、これくらいじゃ分からないかもな、と。
「草は。彼女たちのために?」
「そう。頼まれてないけどな。俺は別に」
「面倒見ている・・・のよね?」
「それは、昔な。今はもう、っていうかな。うーん。俺が勝手に気にしてるだけだ。だから別に」
返答に困って、あまりこれ以上聞かれたくないように、ヒョルドは顔を背け、白い髪を乱暴に掻く。
困っている様子が丸出しの、横に座る男を、テイジャは見つめた。
焦げ茶色の体は、腰布を巻いただけの姿。真っ白いざんばら髪で、燃える宝石のような赤い目をした、年を取らない男が。『人間ではない』と、この数時間見ていても、そうとしか思えない男が。
あの日から、小さな子供を守って、今も。今も『勝手に気にして』助けようとしている。
テイジャは口を手で覆う。涙が溢れて止まらなくなった。
ふと気が付いたヒョルドが驚いて、どうしたのかと訊ね、涙がぼろぼろ落ちる女の頬に両手を添え、親指で何度も目元の涙を拭う。
「どうした。俺はひどいことを話した?」
「いえ」
「何で泣いてる。俺は分かっていない。教えてくれ」
両手に包んだ女の顔に、覗き込んで理由を聞きたがるヒョルド。ぎゅっと目を瞑って、小さく首を振りながら『違う』としか言えない、嗚咽の混じるテイジャ。
「ごめんな。何か言ったんだ。俺はそんな」
違うの、とテイジャは彼の体を抱き締めた。テイジャの腕が回された胴に、ヒョルドが戸惑う。テイジャはぐっとサブパメントゥの男を抱き締めて、その胸に額を当てて、涙を落としながら『違うのよ』と呟く。
泣く女の背中に、そっと手を回し、ヒョルドも静かに抱き締める。『じゃあ、何だ?』泣いているのは、何が理由か。テイジャは顔を上げないまま、答えた。
「有難う」
「え。いや、え?」
「有難う。ヒョルド」
「礼。でも泣いてるぞ」
「嬉しくても泣くのよ。人間って」
ヒョルドは、テイジャの顔を見ようと少し体を起こす。テイジャは見上げ、水色の目が濡れていた。でもその目は悲しそうではなく、顔には微笑が震えていた。
「嬉しいのか。どうして」
「あなたが。あの子達を見て育ててくれたからよ」
「いや、違う。俺は育てていない。離れなかったけど、でもレナタとミルカは」
うっかり名前を口にして、ぐっと唾を呑み込んだ。赤い目に動揺が映り、テイジャは一層笑みを深めて、また一層、涙を溢れさせて頷く。『レナタとミルカ』どれくらい振りに、この名前を口にしたか。
テイジャは、焦げ茶色の胴体に巻きつけた腕を解かなかった。
あの夜の言葉のとおり。本当に子供たちを守り続けてくれたこの男に、今はただただ感謝する。
そのまま。話を再開し、少しずつ質問を繰り返す。小さな質問で、一つずつ。教えてもらう、子供たちのこと。
観念したように、サブパメントゥの男は答える。一つの質問に、一つの答え。答えると、そこからまた質問が続く。
「それじゃ。あなたは、あの子たちを移動させて、自力で生きさせたくて。でも思い通りにならないから、手伝っているということ?」
「そんなところだ。俺はもう、あいつらには居ないと思われてる。俺は人間じゃないから、いつまでも一緒には居られないし」
――ヒョルドの返答を組み立てて、テイジャは複雑なものを感じながらも、彼が彼なりに子供たちを守ろうとしたことを理解する。
姉妹が、『教えた呪いで、人に頼って生活していた時期』の話には、何をしていたか想像が付いたが、それしか彼に教えられることがなかった・・・と思えば、彼なりの生きる知恵。
育てる彼なりの、親心だったと思えなくもない。
もう、この際どうであれ。生きていてくれた。無事に姉妹が揃って、今も。それだけで充分だ。
彼は守ってくれたのだ。姉妹は、王都のどこかで、元気に生活している。
「会いたい」
「うーん・・・勧めないぞ。もっと、しっかりしてからの方が」
「充分、しっかりしているわ」
私に比べたらずっと、と言いながら、テイジャの目にまた溢れる涙。自分が置き去りにした年月を、並べて考えてしまう。何も知らない子供たちは、自分の親も誰か分からず、生きていた。もう充分・・・充分立派だと、心から思う。
そんなテイジャの頭を抱き寄せて、ヒョルドは『だけど。簡単じゃない』会うのにも一苦労だろ、と困って答える。
「ヒョルド。あなたはどうやって、草を渡すつもり」
急に質問されて、ヒョルドは一瞬黙るが『置いてくる』見れば分かるから、と答えた。本当にそうするつもり。
テイジャは少し考えて、『あなたが関わろうとすると、何かが間違うこともある』冷たい一言を伝えた。
ヒョルドは、自分の体に抱きついている女の一言に面食らい、傷つく言葉の意味を訊ねた。
「何でだ。そんなわけないだろ。間違うって、草渡すだけだぜ」
「そこから先があるのよ・・・頼るわ。あなたがせっかく、彼女たちを見守ろうとして離れていたのに。
これがきっかけで、まだ近くにいると気が付けば。助けてくれると思うもの。
だから、ただ草を置いてくるだけじゃ、ダメなのよ」
「そうか?置くだけだ。別に俺を呼び出すことも出来ない。名前を教えてない。教えれば呼べるが」
そうじゃないのよ、と言いながら、テイジャは『名』の話に止まる。『名前。あの子たちは、あなたの名前を』少し驚くと、サブパメントゥの男は首を振る。
「俺は君に教えた。でも、普通は言わない。俺たちの世界は、そういう立場だからだ。
姉妹に関しては、『俺が親』だと思いたくないだろ?それに、離れて生きる日が来るのは、最初から分かっていた。都合良く呼べるようにはしない」
「私に名前を教えてくれたのね。有難う」
「テイジャは。いいんだ。もっと早く伝えたかった」
少し。お互いに嬉しい二人は、ぎこちなく微笑んで、また沈黙。
テイジャは静かな嬉しさを感じながら、先ほどのことを考える。
今の話を聞いていて、ヒョルドは自分なりに『関わり過ぎない』ことを選んでいたと分かった。
気にして見守っていても、人間の姉妹に自分が親だとは言えない。それも彼の配慮。離れる日を理解していたから、教えなかった名前。
それはとても直接的な感覚で、『名前を知らなければ呼び出せない』そこが決定打のように考えているらしかった。
そして彼は、それだけを守れば、後は自分の行動がどうであっても、そう影響しないと思っている様子。
深く考えないのではなくて、途中の、感情の小さい動きや連結を、あまり意識しないのかも知れない。だから『間違える』と思うのに・・・・・
黙っているテイジャに、ヒョルドは話しかける。
「草だけど。別にそんな『大したこと』じゃない、って気がする」
気にするなよと言う男に、そう思えないことをテイジャはもう一度、丁寧に教えた。
分からなさそうに、何度か瞬きするヒョルドを見て、本当にピンと来ないんだと思うと・・・テイジャの子供たちのことだし、私も何か手助けした方がと、段々思い始める。
――今更。 今更。母親面して会いに行こうなんて、考えてない。
そう思ったら、自分とヒョルドが姉妹に対して、似たような立場に居ることに気が付いた。
ハッとした顔を上げ、見下ろすヒョルドを見つめる。『相談よ』テイジャの口から、思いつきが流れ出す。ヒョルドは不思議そうに、彼女の『相談』を黙って聞き続けた。
「じゃ。俺と」
「ええ。そう・・・どうやって移動するのか、分からないけど」
「ここ。君の家?」
「違うわ。友達にずっと、貸してもらっているの。だから明るい時間は、彼女や家族が近くに」
「いいよ。それは俺がどうとでも出来る。おっと、何も悪いことはしない。大丈夫だ」
ギョッとした目を向けたテイジャに、急いで『何をすれば気にされないか』を話し、テイジャが困惑したようでも了解したので、ヒョルドは微笑んだ。
「もう、君に嫌われたくない。大丈夫だ。おかしなことはしないよ」
そう言うと、サブパメントゥの男はゆっくりとテイジャの腕を解き、ベッドから立ち上がった。コマ送りのような一つずつの動きを、ぼうっと見ている女に『もう眠れ』と囁く。
「俺は平気だけど。君は眠るだろ?いつ行くんだ。早い方が」
「明日。これから少し眠って、それでお昼前に。農家は朝が早くて、お昼までの間は外だから」
テイジャの答えに頷いて、ヒョルドは背を屈めると、テイジャの顔の前でニコッと笑った。
『黒い馬が来る。白い鬣の。その馬が来たら、馬も君も誰の目にも映らない。背中に乗ってくれ』魔法のような言葉を伝えると、ヒョルドは嬉しそうな笑い声を残して、部屋の影に消えた。
突然に立ち去った男に、呆然と驚くテイジャ。今までの時間が夢だったのでは、と頭を振り、すぐに気が付く。自分の胸の中に、ヒョルドの笑顔がある――
「夢じゃない」
呟いた声は小さな笑顔を生む。何かが、大きく変わる。変わったのかも知れない。自分の中の、終わりないと思っていた、長大な泥濘と重圧が消えていると知る。
少しそのまま、じっとして。それからテイジャは短い睡眠をとることにした。明日、子供たちに会うために。
お読み頂き有難うございます。
3~4話で完結予定でしたが、何とも引きずる思いが断ち切れず(※私の)。
ヒョルドの話は5話まで続きます。どうぞお付き合い宜しくお願い致します。




