第99話 理想の糸
気を取り直して俺は糸が垂れてきた空を見上げる。
俺は落ちてきた。じゃあ上に上がれば帰れる筈だ。
簡単な結論に辿り着いた俺は生物達を押し退け、これを登れ、と言わんばかりに垂らされた糸に手をかける。
すると、再び掴まれた。足だ。左足。
俺は掴まれていない方の足……右足で、左足を掴む手を何度も踏みつける。
中々離れないので思わず左足へ視線をやる。
左足を掴んでいたのは人間だった。
前までの俺なら怯んで踏みつけるのを止めただろうが、生憎俺は前までとは違うんだ。
俺は変わらず──いや、より一層踏みつける力を強めた。
手が痛くなり、力が緩んだのを感じた俺が思い切り踏みつけると、手が離れた。
俺はさっさと糸を這い上がるように登る。
だが、下からは無数の手が俺を引き摺り落とそうと掴み、引っ張ってくる。そして俺を押し退け、我先にと糸を登ろうとしている。
どいつもこいつも、自己中に他者を踏みつけ、蹴落とし、押し退け、投げ捨て、押し潰し、這い上がり……我先にと無我夢中に、自分の事だけ考え、糸を掴もうとしていた。
「……おぉ……ははっ……!」
俺は感嘆の声を漏らして笑い、満足気に頷いた。そんな事をしている場合では無いのだが、俺は高揚していた。
俺があの時決めた自分の生き方。
──自己中に、自由に気ままに、楽しく面白く、幸せに──
この光景はそれらを一遍に体現していた。
その光景を生み出した原因はこの細い細い一本の糸だ。
言うなれば──
───理想の糸
自己中に自分だけの為に進む。誰も彼もが色んなやり方で自由に這い上がる。俺はそれらを見て、楽しく面白がっていた。
だが
───地獄だ
複数の理想を目にした俺はその醜い光景に虫酸が走った。
───俺以外が好き放題するな
簡潔に感想を纏めるとそれだった。
俺の理想は──『俺が自己中に』『俺が自由に』『俺が気ままに』『俺が楽しく』『俺が面白く』『俺が幸せに』──だ。
最初こそ目を輝かせたが、俺以外の他者のそんな様を見ても『醜い美しさ』と言う矛盾した微妙な感想しか湧いてこない。
その上、自己中が集団で実行されたらもっと醜い。まさに地獄だ。
だから俺はこいつらに負けないよう必死に自分を可愛がった。
俺が、俺だけが登る。俺の為に踏みつけ、俺の為に蹴落とし、俺の為に押し退け、俺の為に投げ捨て、俺の為に押し潰し、俺の為に這い上がる。
不気味に蠢く生物達の山を、掴まれ、引っ張られ、踏まれ、蹴られ、落とされ、殴られ、引っ掻かれ、噛まれ、押し潰され…………登って登って登って───
やがて微細な光の筋の差し込む天井に最初に辿り着いた。
そう、天井だ。
だが、
───そこに出口は無かった




