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第362話 命の拡散

 アデルとラウラが嵐の討伐に向かった直後、西の方で異変が起こった。

 距離があるせいで、魔物の咆哮が掻き消すせいで聞こえてくる事のなかったものが……人間の叫び声がオリアル達の耳朶を震わせた。たくさんの人間の悲鳴が重なって、そうして響いて届いていた。


 何が起こったのだろうと、チラリと声がする方へ目を向ければ、そこには濁流が走り、周囲の生物を溶かしながら自分を広げていた。地面の上を流れて広がっていく紫色の濁流は、やがて海のように広がり、動きをとめた。

 恐らくあの濁流は地面をも溶かしているのだろう。紫色の海の中心に、チンアナゴのように顔を出している大蛇は未だに毒液を吐き出し続けているのだからそうでなければおかしい。


 毒液故に体を守る鎧が意味を成さず、容易く体を溶かされているせいで多くの人間の悲鳴が木霊していたのかと……それを理解したところでどうする事もできないし、しない。今から助けに行っても助けられるとは思えないし、あんな死地に自ら赴くほど気は狂っていないのだから。


 幸いにも、毒と骸の海を作り出した大蛇がそこから動く様子はなく、ただ地面から生えているだけのようで、こちらには毒液の被害を及ぼす気はないようだった。


 それならば一先ずは安心だとオリアルは目の前の魔物に視線を戻す。

 遠くの方では腐敗した泥の巨人と、ソルロッド達の戦闘の様子が見えるが、全身鎧以外の全員が悪臭に弱いエルフである。そのため泥の巨人に近付いて攻撃をする際は息をとめねばならず、その不規則な呼吸のせいで必要以上の体力を消耗してしまい、苦戦してしまっているようだった。


 前衛の体力が少し回復し、後衛からの援護も受けられるからと言っても、こちらが不利なのに変わりはない。早々に泥の巨人を片付けてこちらへ戻ってきて欲しいところだったが、これ以上時間がかかるようならば、ここを離れてソルロッド達に加勢する事も考えなければいけないだろう。


「……不味いな」

「どうされました剣神様?」

「いや、改めて考えてみれば最悪な状況だなと思っただけだ。貴重な前衛であるソルロッド達は泥の巨人に苦戦し、魔物を間引いていた騎士団も瞬く間に壊滅した。そして私達はこんな少人数で最果ての魔物を相手にしているんだ。最悪でしかない」

「そんなの今さらでしょう。……仕方ありませんね、あのエルフの方々がいるのといないのとでは大違いですから、自分が加勢に入りますよ。少々負担が増えるでしょうが、剣神様ならば大丈夫でしょう?」

「インサニエル……分かった。お前がソルロッド達を連れて帰ってくるまでは私が凌いでみせる」


 一度も顔を合わせずに、淡々と魔物と戦いながらそう交わす二人。オリアルは少し逡巡した後に、インサニエルほどの実力があればあの均衡を崩し、良い方向に持っていく事ができるだろうと考えて、インサニエルの申し出を受け入れた。

 インサニエルは強引に魔物達の間をすり抜けて、泥の巨人の元へと駆ける。ただ走るだけでは無駄だからと、魔物を斬り付けて多少の傷を与えながら走る。……そんな余裕に満ちたインサニエルの所業に小さな笑みを浮かべながらオリアルはその場を一旦離れ、アイテムボックスから千の剣を取り出し、少しでも多くの魔物を相手取ろうとそれを操り始めた。





~~~~





 最果ての魔物の中でも上位に位置する実力を持つ、腐敗した泥の巨人──グレンデルは、その異臭を存分に活かし、ソルロッド達に苦戦を強いていた。


「クッソ……どうすりゃいいんだよこいつ……思わず飛び出しちまったけど、壊滅的に俺らと相性わりぃじゃねぇか……! ……はぁ……匂いなんか構わず突っ込む全身鎧はあいつの泥を被ってくせぇし、これはマジで終わったかもな……」


 苦々しげな表情でグレンデルを睨み付けながら息を整えるソルロッド。息を整える事ができる距離にいるのだが、しかしそこでもグレンデルの異臭は漂ってくる。苦々しげな表情はそれによるものだったりするのだろうか。……そんな理由もあって、積極的に攻撃の姿勢を見せないグレンデルに一方的に消耗させられるだけだった。


「ソルロッド、ここは一旦退くべきじゃないか? あいつはそれほど敵意を持っているわけではないんだから、退こうと思えば退けるはずだ。……限界まで戦って、その結果周囲の魔物に袋叩きにされてしまえば目も当てられないぞ?」

「ここまでやってここまで消耗しちまったんだ。あいつを殺すぐらいの成果をあげねぇと割に合わないだろ」

「その、賭博で大敗した人間みたいな考えはここじゃ危険過ぎると思うんだけど……そもそも、殺すどころか俺達はあいつに傷一つ与えられていないじゃないか」


 ギルミアの言う通り、グレンデルの容姿に傷は一つもついていない。

 もちろん攻撃は何度も当てた。腕を斬り落とすほどの深手も与えた。

 だが、相手は泥の巨人だ。地面に落ちた腕を拾い上げ、或いは踏みつけて、そうして泥を吸収し、元通りになってしまう。その動作に魔力の使用は見られず、つまり延々と元通りになり続けるわけである。

 そんなグレンデルを倒すとすれば、落ちた腕をすぐさまアイテムボックスに収納してしまうか、一撃で塵も残さず葬り去る攻撃を与えるしかない。……あとは、風魔法で乾燥させたり水魔法で泥を薄めたりなどの方法があるが、前衛のソルロッド達の魔法は平凡ものなので、巨人を乾燥させたり薄めたりするなどできない。できたとしても、命の危機を覚えたグレンデルに蹂躙されてしまうだろう。


 アイテムボックスに収納するのは比較的簡単な方法ではあるが、エルフにしてみればアイテムボックスに収納するために、その腕に近付く事すらままならないのである。そして、一撃で葬り去るという方法だが、そんな事ができれば苦労はしていない。


 打つ手なし。せめてエルフではない誰かが……アイテムボックスが使える誰かがいれば泥の収納が可能なのだが……そう考えたところで、魔物ではない気配……人間の気配を感じ、振り返れば魔物を斬り付けながら走るインサニエルの姿があった。


「あんたは確か……インザビエルだったか? なぁ、アイテムボックスは使えるか……!?」

「インサニエルです。時空間魔法のなら使えますよ」

「そうか、そうか! よし、見えてきたぜ勝機が!」


 名前の間違いを訂正し、インサニエルが答えると、ソルロッドは拳を握り締め、誰が見ても分かるような笑みを浮かべて喜びを露にする。


「あの泥の巨人は再生しやがる……斬り落とされた腕を平然と拾い上げてくっ付けるような奴なんだ。だから、アイテムボックスに斬り落とした体の一部を──」


 ……と、ソルロッドがインサニエルに話したところで、遠くが騒がしくなった。喧騒が広がっているのは戦場の中央部だ。周りの魔物が邪魔で見え辛いが、魔物と魔物の隙間から僅かに見える。


 地面に王城を落とす事ができそうなほどに大きな穴が空き、その穴が最果ての魔物を食らうように飲み込んでいるのだ。中央部では多くの魔物が犇めき合っていただけに、かなりの数が死んだはずだ。「何が起こっているのか分からないが、運が良いな」とソルロッドは呆然としながらも喜ぶ。

 ……が、そんな喜びを踏み躙るように穴から這い上がってくる異形がいた。


 穴に飲み込まれて死んだ最果ての魔物達よりも圧倒的な脅威。あらゆる生物の身体的特徴を持つ生物。生物と呼んで良いのか怪しくなるほどに自分と他者を徹底的に冒涜する怪物。何もかもを敵に回すその化け物は──異質同体(キメラ)

 奈落から深淵から地獄から渾沌から這い上がり、冒涜し嘲笑し蹂躙し彷徨い続ける異形。そのキメラの名は──アビス。原型にして異形となった者。


「……こりゃあ運が悪いな。最果ての魔物を殺してるとは言え、あいつは敵でしかない……敵の敵は味方なんかじゃねぇわけだ。だがまぁ、無闇に関わる必要もない。干渉してこない限り放置しとくしかねぇな。取り敢えず俺達は目の前の汚物をぶっ潰す事だけに集中すんぞ」

「えぇ、もちろんです」





~~~~





 中央部に空いた巨大な穴と同時に、空から二匹の狼が駆けてきた。そして、人を模した魔物も二体現れた。どれもが、嵐ほどではないにしろ、それに近しい実力を持っているのは確かだった。


 二匹の狼はオリアル達を発見すると、一直線に向かってきて的確に戦いの邪魔をする。白い狼は空を駆け、体毛を硬質化させて針状にしたものを飛ばし、黒い狼は魔物の陰を縫うように駆け回り、見失ったところを背後から攻撃してくる。

 そして、牛の角に鳶の翼を生やした魔物は、カエクスのように空を飛び、鋭利な羽や魔法で空から襲いかかる。

 幸いと言うべきか、この中で一番危険そうな見た目をした蛸にも蜘蛛にも見える怪物は魔物も人間も構わずに攻撃している。おかげで周囲の魔物は減り、黒い狼の行動範囲は狭められていく。


「本当ににとんでもないな、最果ての大陸を生きた魔物は。どこからともなくやってきて、それまでの状況を、環境を変化させてしまう。そんな化け物が、私達人類を滅ぼそうと牙を剥いて襲い掛かってくるなど、どんな悪夢よりも恐ろしい」


 オリアルは呆れ気味に呟く。次から次へと巻き起こる状況の移り変わりに、もう心は疲れきっていた。

 天候ぐらいしか目立った変化のない山で暮らしていたから、変化の連続に疎いのもあるだろう。だが、天候ほどの大規模な変化にも慣れていたはずである。それでも心が疲れてしまう。きっと壮絶な出来事の連続なのだろうと覚悟はしていたが、やはり激しい変化を目の前にしてしまうと耐える事など難しかった。


 そんなオリアルの負担を少し軽減させる音色が響いた。剣が何かを断とうと衝突する音色だ。

 剣は剣の出来によって質が異なる。鉱物の純度だったり、刃の硬さだったり鋭さだったり……だから剣と剣がぶつかる音は唯一無二だ。だから聞き覚えのあるこの音に少し安心を覚えた。


「もう終わったのかアデル、ラウラ。十分は戻らないと思っていたのだが……そうか、それだけ強くなったと言う事なのだな」

「あ、あはは……それよりオリアルさん、この短時間でいったい何が?」


 大した苦労をしていないのだが、感慨深そうに言うオリアルに苦笑いを浮かべる事しかできなかったアデルは話を変える。


「私にも分からない。あっという間にこんな有り様になったからな。とにかく、早く戻ってきてくれて助かった。騎士団は壊滅し、ソルロッド達はまだ泥の巨人と戦っている。そのせいで私達の戦力は鼠程度しかないのだからな。ここからどのようにして猫を噛むかと考えればお前達がいなければならない。本当に助かった」

「買い被り過ぎだよ。ボクとラウラがいたって、この状況を何とかできるわけないって。でも、そっちの方にいる援軍と協力すれば、可能性はあるんじゃないかな?」


 アデルは自分達を取り囲む魔物の壁を指差す。魔物を援軍などと言っているのではないのは明白で、ならばその向こうに誰かがいるのだろう。それを悟ったオリアルは、力強さの宿った瞳でアデルに目を合わせ、アデルはそれに頷いた。


「聞いたか、お前達! 左だ、左側の魔物達を狙え! その先に援軍がいるようだ!」


 オリアルはスカーラ達前衛と、アマリア達後衛に指示を出す。アブレンクング王国を背にしているオリアル達から見て左側のと言うのは方角にしてみれば東だ。どうやらこの戦場の最東端は自分達ではなかったらしい。


 スカーラ達もアマリア達もその指示に従って、魔物の壁を突き破ろうと集中攻撃を繰り出す。そうして発生する魔物の咆哮と、魔法による衝撃波などで向こう側にいる援軍も他者の存在に気付いたのだろう。魔物の壁の奥からも同様の咆哮が聞こえてきた。

 そうなれば早かった。

 あっという間に魔物の壁は破れ、オリアル達と援軍の人間は顔を合わせる事となった。


 こんなところで出会うなどとは思ってもいなかった。久し振りに目にする懐かしい顔触れだ。黙っていなくなったせいで少々顔を合わせ辛いが、ここで合わせておかなければ、もしもの時に後悔してしまうから……と、アデルとラウラは勇気を振り絞って、マーガレットと、ラモンと、エリーゼのきょとんとした顔を見据える。


「な……!?アデルとラウラ……?」

「お久し振り……ですわね?」

「…こりゃあ、すげぇ偶然だな。こんなところでなんてよ。……ほら、しっかりしろマーガレット。ここは危険地帯だぜ? いつまで呆けてるつもりだよ」


 三者三様の反応を見せるマーガレット、エリーゼ、ラモン。変わらないその容姿と、変わらないやり取り……いや、少し立場が変動しているが、概ね変わらないやり取りに、アデルとラウラの胸と目尻が熱くなる。


「す、すまない、驚いてしまって……」

「えへへ、その、皆さんが元気そうで安心しました」

「久し振りだね三人とも。色々話したい事はあると思うけど、それは後にして、今は協力して戦おう」


 ラモンに注意されて謝るマーガレットと、嬉しそうにはにかむラウラ、和やかな雰囲気を崩して目の前を見させるアデルに、弛緩していた表情を引き締めて、それぞれ魔物の攻撃を防いで反撃する。


「…やっぱいいなこの感覚……お前らと一緒に戦ってると感じられるこの安心感はよぉ。……あとは何だ? この場にいねぇのはクルトとフレイアとアキか。どこで何をしてんのかは知らねぇけど、俺達が会えたんだ、もうじき会えるよな? そうなりゃあ、もう敵なしだ」

「えぇ、もうそろそろここに来ますわ。そんな気がしてなりませんもの」

「そうなれば私達だけで最果ての魔物を一掃できてしまうだろうな」

「ね、みんなが揃ったら負ける気がしないよ」

「えへへ、懐かしいですね、この感じ」


 斬って、撃って、斬って、斬って、貫いて、暢気に会話をしながらも、五人のその手は殺伐としており、次から次へと魔物の命を奪っていく。


「…そういやなんだよ二人のその格好はよぉ。冒険者になりたての貴族か? ラウラに関しては腰周りから裾までの露出が半端じゃねぇよ。……どうしたんだ? お前らそんなやつじゃなかっただろ」

「勘違いしないでよ、これボクの趣味じゃないからね! 勇者としての衣装みたいなものなんだから!」

「そうですよ! 私だってこんな破廉恥なの着たくなかったんですから!」

「勇者……ですの……?」


 エリーゼに言われて口を滑らした事に気付いたアデルは少し狼狽しながらも、これで最後になる可能性があるのだから、隠し事をするのはやめようと、考えて話す事にした。


「……あ……うん、まぁ……ボク達が黙っていなくなったのそういうわけなんだ。みんなに勇者だなんだって迷惑をかけるわけにはいかなかったからさ」

「迷惑だなんてそんな事を思うわけがないだろう。私達は仲間なんだぞ。それに、そんな装備とか勇者だとかよりも……アデルの右腕だ。いったい何があったんだ?」

「え? あぁ、右腕はちょっと失敗しちゃってね……でも大丈夫! ボクは両利きだから、左手でも剣は振るえるよ! 最初は手間取ったけど、もう慣れた。心配しなくても大丈夫、ボクはちゃんと戦えるから!」

「……私が言いたいのはそうじゃなくて…………まぁいい、後でじっくり言い聞かせてやる。……さぁ、話しは終わりだ。生き抜くためにも今からは本気だ。行くぞ、みんな!」


 後で。

 その言葉に、マーガレットの意思を感じた。負けるなどとは、このまま滅ぼされるなどとは微塵も思っていない様子だ。彼我の差が分かっていないわけではないだろう。きちんとそれを弁えた上でこう言っているのだろう。何を信じてそんな風に断定できるのかは分からなかったが、その堂々とした態度には勇気付けられ、マーガレットの号令に力強く頷き、返事をする事ができた。





~~~~





 マーガレット達と合流し、少々の会話を繰り広げたアデル達の周りを飽きることなく駆け回るのは、二匹の狼と一体の女性型の魔物だった。

 白い狼──スコールと女性型の魔物──イシスは空から、黒い狼──ハティ地上から。


 先ほどまでは簡単に攻撃する事が可能だったが、スキュラの見境のない攻撃によってそれらは妨げられていた。蛸のようにうねる足がスコールとイシスの攻撃を受け、ハティが潜むための魔物を掴んで食らい……と、スキュラは三体の魔物にとって邪魔でしかなかった。

 スキュラは元々はマーメイドと言う、魔物か人類かが怪しい存在であり、最果ての魔物との協調性は皆無に等しかった。故に魔物も何もかもを見境なく襲い、強くなると言う目的のために、周囲の生命を手当たり次第に殺すわけである。


 そんなスキュラが邪魔で邪魔で仕方なかった三体の魔物は、協力してスキュラを殺そうと奮闘し始める。

 だが、スキュラの体はスキュラのものであってスキュラのものではない。

 六つの犬の頭部はそれぞれが自我を持ち、二本の前足……合計十二本を駆使してイシス達の攻撃に抵抗する。

 蛸とも烏賊ともつかない足を持つスキュラだけを相手にしているはずなのに、そのせいで複数の魔物を同時に相手にしているかのように錯覚してしまう。


 もはやそこにスキュラの意思はなかった。あるのは、憎悪に汚染された贈り物の意思だけだった。マーメイドの上半身に嘗ての善良な意識はない。怪物としての意識に呑み込まれていた。いなくなったわけではない。深い眠りについているような、そんな感じだ。

 マーメイドの上半身は両手を広げ、高笑いする。人間を殺していた頃の比じゃない経験値に、強くなっていく自分に、喜びを覚えていた。


 空を駆ける目障りな白い犬畜生を誰かが掴んでいた。唸り、吠えて、噛み付こうと口の開閉を繰り返す。よく似た姿の黒い犬畜生は影を巧みに操って白い狼を掴む誰かに攻撃を繰り返すが、それをまた別の誰かが阻止する。


 体の構造的に二匹の狼に干渉できない誰かは背後の雑多な魔物を殺して食らう。

 空を飛ぶ目障りな蠅はその様子に戦いているのか、滞空したままその様子を見守っている。

 その蠅の表情には見覚えがあった。スキュラがまだマーメイドであったころによく見た表情だ。……戦う術を持たないマーメイドは外敵に恐れ怯えて逃げ惑う暮らしを強要されていたのだが、その頃にたっぷりと目にしていた。


 懐かしい記憶に少々の自我を取り戻したマーメイドの上半身はその哄笑をやませ、憐憫と優越感に満ちた目を向けた。……侵食されているその自我は純粋な憐憫を許さなかった。侵食に気付き、せっかく取り戻した自我もまた強制的に眠らされる。


 スキュラは再び哄笑を上げる。その頃にはもう、蠅はどこかへ消え去り、誰かが掴む白い犬畜生(スコール)は息絶えており、それを見て絶望したのか、体力を失ったのか、はたまた絶命したのか、黒い犬畜生(ハティ)は動かなくなり、別の誰かに掴み上げられ、邪悪な唾液を垂らすその口内へと運ばれ、咀嚼された。


 スキュラ……マーメイドの上半身はその唾液を憎々しげに睨んでいた。


(犬が、犬が、犬が……私をこんな姿に変えたのも犬の唾液、私に生えるのも犬、犬が食らうのも犬……何もかもが犬だ。畜生が、畜生が、畜生が、お前達犬畜生が私をこんなに変えたのに、勝手に争って、勝手に食らって、勝手に私を『同族喰らい』に仕立て上げやがった。何もかもの元凶が、幸せそうに咀嚼して嚥下して、私はそれを眺めているだけ。……赦せない。弱い私が、何もできない私が、何よりも私をこんな目に遭わせた犬共が……)


 犬を憎むマーメイド。今日何度目だろうか、こうして自我を取り戻し、体を動かして思考するのは。でも、そのおかげで自分を強く持つ事ができた。憎しみが自分を駆り立てるのだ。憎しみが自分を自分たらしめているのだ。


(報復しなければ、復讐しなければ、私が弱いからと蹂躙する畜生共に)





~~~~





 スキュラの元から逃げ出したイシスは、怯えた表情をそのままに、しかし嬉々とした表情を浮かべてもいた。


 何はともあれ、死骸の山がこれだけあればもう十分だ。ちょうど戦場の中央部で暴れ回っているキメラもいる事だ。不自然に思われる事もあるまい。


 イシスは鳶の翼で滞空しながらさらに高い空へと両手を翳す。


 忘れたわけではない。忘れられるわけがない。この怨恨、この悔しさ、この憎悪、この喪失感……暴虐の渦に巻き込まれ挽き肉にされた番の仇を討つ。そのために今まで生きてきて、今この場にいるのだから。生と死への強い干渉力を持つ自分だからこそ、骸で溢れるこの草原は復讐に持ってこいの場所だった。


 戦場に草原に散乱する全ての死骸が意思を持ったかのように蠢く。あるはずのない事象。理に反した現象だ。亡骸が不死者(アンデッド)と化したわけでもないのに動くなど、あってはならない事だった。けれど、死骸はうごめいてある一ヶ所を目指す。死骸が向かうのは戦場の中心にぽっかりと空いた穴だった。次から次へと死骸は落ちていく。渦に吸い込まれるように。


 誰も彼もが動きをとめた戦場。一部の狂気に侵された者や、匂いに敏感過ぎるものは無遠慮に静かな草原で戦いを繰り広げているが、それ以外は完全な静寂だった。


 やがて全ての死骸を穴の中に落としきると、その穴の中から瘴気と呼べるほどに禍々しい空気が漏れだしてきた。とびきりの憎悪を込めて全てを練り合わせたのだ。瘴気が溢れてくるのは当然だろう。


 瘴気に紛れ、黒く禍々しい肉塊が穴の淵を掴む。恐らく手だ。それも人間と同じような形の手だ。なのだが、指の本数は五本などではなく、軽く三十本は越えており、それらは触手のように蠢いていた。それと同じものがもう一つ淵を掴むと、恐らく頭部だろう。頭部はひしゃげて曲がって、握り潰した粘土のように歪な形をしていた。それも指と同様に幾つか生えており、首の長さはそれぞれが別だった。禍々しい肉塊が、アザラシのように地上へ乗り出すと、隠れていた下半身の全貌が露になる。胸から下は幾つかの胴体に分岐しており、胴体によって足の本数はバラバラ、足によって指の本数はバラバラ。全身の大きさは三階建ての建造物と同じぐらいだ。

 ……逆立ちすればイソギンチャクのように見えたりするのだろうか。


 イシスはこんな異形を、キメラのアビスがいるから、キメラだと言って誤魔化せるとでも思ったのだろうか。……いや、思ったのだろう。イシスの恍惚とした表情を見れば、これが失敗作ではなく、成功作だと言う事は明々白々。


「……ここからじゃあんま見えねぇけど、あれがとんでもねぇ化け物だってのは分かる。瘴気を垂れ流してるやつなんかロクな奴じゃねぇかんな」


 腐敗した泥を被ったソルロッドが泥を拭いながら言う。


「うし、魔物共が動きを止めてる間に泥の巨人も倒しきったし、今のうちにオリアル達んとこ戻るぞ。あんな奴がいるってのにこんなところで孤立するわけにはいかねぇ」

「えぇ、そうしま──」


 ソルロッドが言い、それに賛同して動き出したインサニエルの言葉が途切れる。何かあったか、とソルロッドが振り返り、そして斜めにズレる景色の中で、頭部を斜めに切断されたインサニエルを見た。そして、自分の状態を理解すると同時に、意識が黒に呑まれていった。


「「……っ!?」」


 突如目の前に現れ、インサニエルとソルロッドを殺した異形に声すら上げられないサリオンとギルミア。無表情で、何かを感じる事ができないと言うギルミアですら表情は驚愕に染まっている。


 複数の足で歩みながら腕を振り回し、手当たり次第に周囲の生命を奪い、死骸を瘴気で満たして触手の如き足で取り込む。それはまさしくスキュラの上位互換のようだった。イシスのスキュラへの恐怖がそこに作用しているのだろう。


 だんだんと迫ってくる異形から逃げようと、気付かぬ内に足を動かしていたサリオンとギルミア。気付けば走っていたせいで、自分達がどこを駆けているのかすら分からない。どこを見ても魔物、魔物、魔物……方向感覚はあっという間に狂い、魔物で構成された肉の迷宮を彷徨う。幸いにも魔物達は瘴気の異形に怯えて動けないでいるようで、攻撃される事はなかった。


 木々の合間を縫って縫って、駆けて駆けて、躓いても転倒しないように手足を振り回して堪えて……そう、錯乱していた滅茶苦茶に走って走って……拓けた場所に出た。


 ……おかしい。拓けた場所に出たはずなのに、情報量は森の中を駆けていた時よりも多い。錯乱していたせいもあるだろうが、それでも視界に飛び込んでくる情報は関係なく膨大な質と量だった。


 向かって右側には森の面影などなく火山地帯のように溶岩が広がっており、向かって左側にも森の面影などなく氷雪地帯のように雪景色が広がっている。そしてサリオンとギルミアの正面には砂漠が広がっていた。左右から迫る溶岩と吹雪を退けて、強かに佇んでいた。


 なるほどこれが本物か。そうかこれが本当の姿か。

 森という環境を塗り替えるほどに凄まじいエネルギーを誇っている、これが最果ての大陸を死地たらしめている原因か。

 生物とは研鑽を積めばこれほどまでに強く強かになれるのか。

 自分の脆弱さと矮小さを言外に叩き込んでくれるその優しさに感動すら覚える。


 今際の際に神秘を目にできたその事実に、錯乱は否応なしに収まっており、本能が理性が神秘を目に焼き付けようと、その光景から目を離す事を許さない。だから、自分の死に気付くのに少し時間がかかった。





~~~~





 瘴気の異形から一人逃げ帰った全身鎧は、やはり言葉を発する事なく、いつも通りの何を考えているか分からない佇まいで、いつの間にかオリアル達の側へとやってきていた。


「……本当とんでもないな、最果ての魔物は。どんな生存競争を生き抜けばあのような異形が生まれるのか、知りたくもないし考えたくもない」


 知ってしまえば、その余りの壮絶さに自分の存在の無価値さを痛感させられてしまいそうで怖かった。永い時間の中で研鑽を積んで生きてきた自分が、どれだけ小さいのかを知ってしまいそうで怖かった。

 だから、自分のためにも、人類のためにも、最果ての魔物を淘汰して、安穏とした世界の訪れを待ちたかった。


「どうすんだよあんなのどうしようもねーぞ。……っと、初めまして勇者サマ。あたしはルージュってんだ」

「あ、ウチはアジュールって言うッス。見ての通りヴァルキリーッスよ」

「私はノワール。……で、私のご主人様はそこのラモンさんよ。よろしくね」

「申し遅れました、私はここのヴァルキリー部隊の隊長を務めているブランです。足手まといにはなりませんので、よろしくお願いします勇者様方」

「あぁ、どうも、アデルです」

「えっと、私はラウラです。勇者でも賢者でもなくて、神徒って言う新しい役割を与えられてます。よろしくお願いします」


 あちこちが混乱に包まれて動きをとめている今、自己紹介をしておくべきだと判断したルージュに続いて、アジュール達も自己紹介する。それから一通りの自己紹介を終えて、それぞれの役割を理解し合う。


「あの、気になってたんですけど、元聖女だった教皇聖下ならアデルさんの右腕を治療できたりしませんか?」

「私が聖女であった頃ならば可能だったでしょうが、聖女としての力を失った今では、多少優れている程度の聖魔法しか使えません。もし、欠損して日が浅いのであれば私でも治療が可能だったかも知れませんが、見るに勇者様の右腕は斬り落とされてからかなり時間が経過しているご様子……これでは不可能でしょう」

「……そうですか……」

「すみません、お力になれなくて」

「あぁ、いえ!」


 スカーラの問いに教皇は不可能で答える。


「それはともかく、もうこっち側の魔物はあの化け物に一掃されそうッスから、ウチらは西側の魔物の相手をしにいった方がよくないッスか?」

「それは無理であろうな。なんせ西側は毒の海と化しておるのだから」

「え……毒の海ッスか?」

「うむ。大蛇が周囲の魔物と騎士団に毒液を吹き掛け、全ての生命を根絶やしにしておった。故にもう西部には魔物どころか生命の一つも残っておらぬ」

「じゃあウチらはあの化け物の側で戦い続けるしかないんスか……」

「いえ、そうでもなさそうですよ」


 提案を元エルフの王に無理だと切り捨てられ、落胆するアジュールだったが、フレデリカがそれすらも否定する。


「見てください、あの化け物を……何かに苦しんでいる様子ですよ。誰にも何もされていないのに、何かに苦しんでいるんです。……まるで、毒でも盛られたかのように」

「毒……ふむ、なるほどそういう事か。彼奴は毒の海で死んだ生物の肉体でも構成されておるわけだから、亡骸に染み込んだ毒液によるダメージを受けてしまっておるわけだな」

「えぇ、恐らくは。生物を瞬く間に死へ追いやるような劇毒ですから、いくらあの生物が脅威であったとしても、いずれ死んでしまうはずです」


 いずれ毒で死んでしまうのなら、わざわざ自分達が戦わずとも、瘴気の異形に魔物の殲滅を手伝わせ、自分達は体力を回復させながら、離れた場所で息を潜め、瘴気の異形が死ぬまで待てばいい。


 そう結論を出し、瘴気の異形を刺激しないよう慎重にその場を離れる。アデル達は、そうして休憩を始めた。自分では分からないが、相当疲れが蓄積されていたのだろう。一度地面に腰を下ろしたら、もうその腰は自分の意思では上がらなかった。





~~~~





 イシスは困惑していた。成功作だと思って喜んでいたのだが、実際は成功作でも失敗作でもない、不良品だった。完璧な性能を誇っているのに、思ったように動作しないそれはまさしく不良品と呼ぶに相応しかった。


 こんな事のために生み出したのではない。世界への裏切りのために生んだのではない。その逆だ。世界の意思に背いて勝手な行動を繰り返す者を始末するために生んだのだ。番を自らの衝動と欲望のために殺し、のうのうと生きているあの、セト殺すために生んだのだ。


 それが、今では大量虐殺を繰り返すだけの兵器となっている。どうにか言う事を聞かせようと、どうにか支配しようと、イシスは瘴気の異形のスキルを使い続ける。……それがいけなかったのだろう。


 瘴気の異形は滞空するイシスへと首を捻り、そして嗤った。顔のパーツなど一切ないが、確実に嗤った。もし嗤っていなかったとしても、瘴気の異形は殺意を漲らせてこちらを見据えている……イシスが怯えて絶望するにはそれだけで十分だった。


 瘴気の異形の姿が掻き消えた。……と同時にイシスの意思はこの世から失われた。何が起こったかも理解できないまま、イシスは死んだ。他者から見れば、イシスが一瞬にして迫った瘴気の異形に喰われた事が見て取れたが、イシスは何も理解できないまま、仇も討てぬまま、志半ばで、何も成し遂げられず……無意識によって踏み潰された蟻のように簡単に死んだ。


 瘴気の異形は嗤う。自分の記憶に鮮明に残っている、命の尊厳を蔑ろにするような何の感慨もない死に方を……毒の海に有象無象ち沈むような、何の特別性もないくだらない死を、与える側の生物に与えてやった事に。そして嘲笑する。上位者の呆気ない無様な死を。


 瘴気の異形は満たされていた。

 弱者の記憶ばかり持つ自分が、弱者ではなく強者になれたことに満たされていた。


 だけど、この世は無情だ。

 弱者が強者に淘汰される無慈悲な世界だ。


──弱肉強食


 弱者は肉となり、強者に喰われるだけ。

 それを理解していたからこそ、瘴気の異形は理解していた。もう自分はこの場においての強者ではなく、次の弱者が自分になってしまった事を。

 束の間の優越感は十分過ぎるほどに謳歌した。

 笑いながら、笑い声を上げる事すらできないまま、瘴気の異形は……灰色の魔狼に喰われた。





~~~~





 一瞬の出来事だった。牛の角と鳶の翼を持つ、先ほどまで自分達と戦っていたあの魔物が、瘴気の異形に喰われたかと思えば……すぐさま、どこからか現れた灰色の狼に喰らわれてしまった。


 重石のように重かったはずのアデル達の腰は自然と持ち上がっており、無意識に新たに現れた脅威へと臨戦態勢をとっていた。

 いつもなら、これほどまでに激しい状況の移り変わりについていけず狼狽していたはずだが、ハッキリと本能が警鐘を鳴らしている今、狼狽は許されなかった。


 だが、灰色狼は自分達の事など眼中にないとばかりに、最果ての魔物を喰らい始める。その大きさのせいで分かり難かったが、一度認識してしまえば、その灰色狼が窶れている事に気付く事ができた。


 空腹だったのだろう。いったいいつから飲み食いしていないのかは分からないが、地面を削って地面を諸共喰らっているほどだ。相当空腹だったのだろう。……だが、そんな事はどうでもよかった。


 ただひたすらに腹を満たそうと食事をしていだけなのに、それだけの行為に覚えてしまうこの悪寒。相手には敵意など微塵もない……腹を満たしているだけなのだから当然だ。灰色狼は地面にぶちまけられた餌を喰らっているだけに過ぎないのだ。


 だけど、あまりにも異常過ぎる。自分達が三時間以上戦って、一向に殲滅できる気配がなかった最果ての魔物を、ものの数十秒で半分以下にまで減らしていたのだから。

 戦ってすらいないのに、敵意すら向けていないのに……それなのに……そう考えれば、全てが馬鹿馬鹿しくなってどうでもよくなって、あれに襲われても抵抗するだけ無駄だと……今まで頑張って生きてきたけど、もう生きる必要などないのだと。自分達はアレの餌でしかないのだと。

 先ほどの嵐の魔物など可愛いものに見えてきた。どこからともなく現れて自分達の敵を餌として喰らう本物の天災がここにいる。


 嘗て味わったことのない深い絶望。今まで何度も絶望から脱してきたが、これほど深い絶望に堕ちてしまえばもうどうにもならないだろう。


 間違いない。確信を持って言える。今この瞬間が、この世界の歴史の中で、一番命が散っていく瞬間だと。無意味に無価値に無造作に、生命が抱いていた決意も覚悟も全てが踏み躙られる。

 人類と魔物が存亡を懸け、この地に集束した命と想いが散っていく瞬間だった。

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