第359話 不穏は犇めき蠢き轟いて
剣についたそれを振り払って冬音に駆け寄る春暁だったが、その瞬間、体験した事のない振動が襲いかかってきた。ドリブルされるボールに蟻が這っていればきっとこんな揺れを味わうのだろうと想像できてしまうほどの衝撃に、視界は黒と白に点滅する。
──痛みはなかった。
大地は割れ、怪我によって動けなくなっていた騎士達は隆起と陥没を繰り返す大地に挟まれて、呑まれて、潰されて、打ち上げられて、串刺しにされて……ひしゃげて曲がって折れて粉々になって撒き散らして、絶えていく。騎士として誇り高く正義に生きて、その末路がこれだ。
世界が震えている。ペルティナクスが拳を振り上げて、それを地面に振り下ろしただけで。固有能力で枷をしなければならないほどの暴虐が、遠慮なく自由に力を振るえるようになってしまったせいだ。
その原因を生んだのはラヴィアの存在だった。村を焼かれて人死にを目にして攫われて奴隷にされて……そんな悲惨な道を歩んできたラヴィアがなぜペルティナクスの逆鱗に触れたのかと言えば、ラヴィアそのものに罪はなく、ラヴィアの耳を斬り落として耳を溶接した者がペルティナクスの逆鱗に触れたのだ。
人間に亜人の体を移植して、その特性を受け継がせる事ができるかという、非道な人体実験。犬獣人や猫獣人などの、それぞれの亜人が特性として持っている優れた感覚を、他のヒト種より技術力で勝っている人間に与える事ができたなら、究極の生命体を生み出せるのではないか。そんな考えによって行われた人体実験。
ラヴィアは犬獣人と猫獣人の聴覚を与えるための実験の被験体だった。そして、ラヴィアがクルトと会話できていることから分かる通り、聴覚の移植は成功していた。それも、犬獣人と猫獣人の混血だと思わせる事ができるほど自然に。……それだけだ。膂力や敏捷性などは普通の人間のまま。性質も何もかも。変わったのは聴覚だけ。そう、聴覚だけ。
ならなぜラヴィアは獣人が持つ発情期に呑まれていたのか……簡単だ。
ラヴィアの体内に入り込んだ貝の化け物──リビディン。こいつが原因だった。リビディンが持つ固有能力は【情欲】だ。これはその名の通り、色情に関するスキルである。このスキルの影響下にある生物は軒並み身体能力が向上し、その代わり、定期的に猛烈に性欲が強くなってしまう……そんなデメリットがあるが、向上する身体能力と信頼できる人物が常に一緒ならばそれほど大きな問題ではない。
……と、身体能力が向上していた理由が判明したラヴィアも、ペルティナクスの逆鱗に触れたせいで、今では、誇り高く生きた肉塊と肉片達の一部でしかないのだが。
凹凸が激しいここには雑木林があったはずだが、今では倒木が散見される程に自然の残骸が少ない。地割れに呑まれたせいだ。土煙が晴れてきて、見えなくなった夕日が遠くでまだ輝いているのが分かる。空は薄暗くて薄明かるい。ペルティナクスは拳を叩き付けたままの体勢で停止している。空を飛んでいたオーデンティウスはその余波と悲惨する岩群によってとっくに撃墜され、地面に横たわっていた。誰も生物らしく動く事がない、暫くの静寂と静止した空間。
それを破ったのは、瓦礫を押し退けて音を立てたマテウスだった。
鎧はボロボロで、両足はズタズタに引き裂かれてもう生えていないが、腕だけは両方とも無事なようだ。そうでなければ瓦礫を押し退けるなど不可能。しかし困った。治療してくれる誰かがいなければ一生このままで、ペルティナクスにもう一度殴られて終わりだ。周囲に見受けられる肉片と同じになってしまえば、不死身と言えども誰かに治療してもらうのは難しくなるのだから。
そんなマテウスの希望となるように、あちらこちらから瓦礫を押し退ける音が聞こえてきた。ドロシーはいないかと腕だけで瓦礫の上によじ登って首を動かす。見えたのは、いつの間にか居て戦いに加わっていた三人の子供達と、ドロシーのものとは違うローブを羽織った男……それだけだった。
「ドロシー……?」
ドロシーは? ドロシーはどこだ? つい最近彼女になったばかりのドロシーはどこに行った? 一生寄り添って力になって守り抜くと決めた、あのドロシーはどこに居る? ……どれだけ疑問に思ったとしても、ドロシーの姿は見られない。
悟りたくなかったのに、悟ってしまって、無意識の内に顔を下に向けてしまう。そこで、見たいけれど、見たくもないものを見てしまう。荒野と化したこの場所には似つかわしくないカラフルな色合いをした、糸のようなものだ。凄く手触りがよかったはずのそれは、砂埃にまみれてザラザラになっていた。
「…………」
撫でるその手を止めて、カラフルな糸を掴む。瓦礫の下に沈んだそれを引き上げる。何も考えないで、何も考えられないで、結果が分かっているからこそ思い遣る気持ちを持たずに容赦なく引っ張れた。生者も死者も、聖者すらをも気遣う気持ちの余裕なんてそこにはなかった。
「ド」
ブチブチと音を立てて、糸のようなものが抜けていくのが分かる。痛みに悶える声は聞こえてこない。変わった色合いの雑草なのかも知れない。地中に生えていたせいで誰にも発見されなかったそれが大地の凹凸によって剥き出しにでもなっているのか。
「ロ」
分かっている癖にくだらない言い訳をして逃げようとする。その癖に退路を絶とうと、自分を追い詰めるように現実を直視しようとする、曖昧で歪な思考。マテウスすらも自分が分からなくなっていた。
「シ」
大きな感触の後にいきなり重みがなくなったかと思えば、それまでの抵抗が嘘のように容易く瓦礫を押し退けて、採れたての芋のようにして出てきたのは土で汚れた人間の頭部だった。首からは土で汚れた汚い血液ではなく、新鮮な赤々とした血液が流れている。片方の耳は千切れていて、綺麗だった眼球は腐ったように濁っていて、惨たらしく開かれた口内には唾液で濡れた土とそれに埋もれた歯がある。涙が流れていたのか、他の部分と違って土の付き方が違う部分があった。よく見れば鼻の下や口元もそうだった。
「ぃ」
掠れた声で紡いだマテウスの瞳はドロシーの瞳を真似るように暗くなり、目の端が痛くなるほどの勢いで涙を流す。砂埃で汚れていた頬を洗い流す涙は溢れるばかりだ。取り零したそれを想起させる涙を拭っても拭っても、涙は絶えず零れ落ちる。
「ぃ、い、いぃ、ぃいや、いや、だ、いやだっ、いやだっ! 嫌だっ!! 嫌だ!! ドロシー!! ドロシー!! ドロシー!! やめてくれ、やめてくれ、いやだ、お願いだ! 息をしてくれ! 頼むから!」
縋るように言うマテウスは生首を持ち上げて、唇についた土に構わず口を付けて、息を吹き込む。当然ながら、ドロシーが息をする事はない。頭と胴体が離れれば生きていられないのだから。
何度か息を吹き込んだところでマテウスはその行為の虚しさを知って、項垂れる。脱力感は全身の筋肉を弛緩させる。マテウスが後ろに倒れ込むと同時に、ドロシーの頭部が地面を転がる。引っ張っていたせいで抜けたドロシーの髪もパラパラと。汗ばんだマテウスの手の平には数本の髪の毛が。服でそれを拭いてからマテウスは無気力に視線を彷徨わせた。
瓦礫と瓦礫の間に空洞ができている。日も暮れてきているせいで全く奥が見えないが、目を凝らしているとだんだんと見えてきた。
人体が何かギラギラ輝いている長い物を抱えている。考えずとも分かった、これはドロシーの胴体だ。杖ならいざ知らず、なぜドロシーが剣を抱いているのだろうか。
そう疑問に思ったところで、マテウスはハッとした。
マテウスは剣へと手を伸ばす。そして柄を握り、自分の方へと引き寄せる。死んで間もないためか姿態は硬直しておらず、抵抗はなかった。譲り受けたかのようにあっさりと自分の方へと持ってこられたマテウスは、幸せに手が届いた幸福な人間のように表情を和らげた。
流れていく。どんどんと。いつも魔力を流している時ほど贅沢な流れではないが、それでも確かに失っていく。マテウスは魔剣に──生命力を注ぎ込む。ありったけを、死んでしまうほどに。意識が朦朧とする中で、猛烈な喪失感と飢餓感を覚えた。生命力の消費によって体が騒いでいるのだろう。
意思はこんなにも死に肯定的なのに、身体はこんなにも死に否定的だ。
ドロシーを失っても尚、生き続けようとする体なんかいらない。やはり死んで体とは離れるべきだろう。
永遠の死の中で、一足先に進んだドロシーを追いかけなければならない……そうしていつか追い付いて、永遠の中で生き続けよう。大丈夫だ。自分は騎士でドロシーは魔法使いだ。身体能力は雲泥の差、簡単に追い付ける。
「僕はドロシーを愛してる……だから、今すぐ君に会いに行くから、追いかけるから。君が僕を呼んでくれたから、僕は君のいない世界で生き続けないで済む。達磨にされた僕を救ってくれてありがとう。この世界で生きていた僕を殺してくれてありがとう。……ふっ……はは、また君への恩が増えちゃった。僕は何もしてあげられてないのに……でも、永遠の中で全部返していくつもりだから……そして甲斐性のある男になってドロシーを引っ張っていくから……だから……好きだよ、ドロシー」
小さく呟きながら薄れる意識。最後の方は自分でもなんと言っているか分からなくなっていた。何もかもが静かになっていく。髪を撫でる風も、向けられる同情の視線も、崩落しようと蠢く地面の僅かな振動も、流れる血液の脈動も、体に鞭を打つ心臓の鼓動も……何もかもが。
瞼の裏の暗闇に微睡むマテウスは沈んでいく。足掻く事なく、目覚める事もなく。力を失ったマテウスは、やがて剣を取り落とした。生を死へと追いやるほどの生命力が蓄えられた魔剣がカランカランと音を立てて地面を転がった。
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最初から最後まで、生きようと足掻いて死を選んだ男を眺めるしかできなかった春暁、冬音、ステラ、クルトの四人。あれだけ大勢いた人間は自分達以外誰もいなくなってしまった。もう一人の頼りになりそうな大人──レイモンドですら、すぐそこの隆起した地面と地面に挟まれて、白目を剥いて死んでしまっている。もう自分達しかいないが、それでも戦うしかない。自分達人間に激しい憎悪を見せたペルティナクスが、逃げた自分達を追ってきたらさらに大きな被害を出してしまうから、そもそもあの巨体から逃げられるわけでもあるまい。
以前に一度会ったことがあるのだが、それでもお互いに歩み寄って軽く名乗りあった春暁達とクルト。未だに地面を殴り付けた体勢のままで、何かを考え込むようにペルティナクスは停止している。攻撃する絶好のチャンスだが、中途半端な事をして、大した傷も与えられずペルティナクスの気を引いてしまってはいけない。自分の意思で立ち直られてもいけない。迅速かつ的確に行動を起こさなければならない。
「クルトさんの魔法はどうですか?」
「俺の魔法ですか……確かに外傷は与えられていましたけど、致命傷にはなっていませんから、どうしても中途半端な傷を与えるにとどまってしまうでしょうね。それに、敵はペルティナクスと呼ばれていたあの巨人以外にも、あのグリフォンがいますから、ペルティナクスを守るために渾身の一撃を妨害される可能性だってあります。そちらの対処も考える必要があると思いますよ」
自分の魔法では厳しい事と、オーデンティウスへの懸念を話すクルト。
「あぁ……あのグリフォンですか……実はあのグリフォン、少し前にこの近くで僕達が倒した奴なんですよ。体についた傷やあの大きさなどがそのまま全く同じなんです。……もしかしたら仕留め損なっていたのかも知れませんけど、お姉ちゃんやステラに経験値が入っていたそうですから一度は死んでいるはず……なので、何らかの不死性を持っているんじゃないかなって……」
「不死性……ですか……となれば捨て身でペルティナクスを庇いに来る可能性が益々高まりましたね。……ふむ、やはり勝負は最初の一撃だけのようですね。あのグリフォンがああして死んだフリをしている内に俺とステラさんの魔法でグリフォンを拘束し、春暁さんの剣を冬音さんが超音波で振動させて切れ味を向上させてペルティナクスを真っ二つに……とはいかなくとも大打撃を与える。あの巨体ですから痛みに疎くて、味わった事のない激痛には弱いはずです。痛がっている内の全員が全力で攻撃しましょう。……できそうですか?」
不死性の話を聞いてから作戦を立案し、最後に確認をとる。最後の確認は春暁達を侮っているわけではなく、春暁達の能力には未知が多いためにそもそも実行可能なのかどうかを尋ねただけである。でなければ一番重要なペルティナクスへの一撃を任せたりはしない。
「お姉ちゃん、お願い」
「うん、やってみる」
春暁は剣を顕現させ、刀身を冬音に近付ける。近付けられた刀身を冬音はデコピンをする要領で指で弾き、そして音を操作して刀身全体へと振動を広げていく。振動する剣を手近にあった岩へと近付けて、人参を切るかのような力で斬り付ける。それだけで岩には切れ込みが入って、ゆっくり剣を進めて行けば、それだけで岩は両断された。
「これなら大丈夫そうですね。……では、心の準備ができたら言ってください」
そう言って目を閉じるクルト。目を凝らさなければ分からないレベルで周囲の魔力を操作しているようだ。これは言ってしまえば準備運動の魔力版だ。心の準備が必要な春暁達をただ待っているだけでは時間が無駄だからと、少しでも魔力操作を用意にするためにクルトは魔力を操作する。
魔力を操作するクルトを横目に、春暁は満足そうな表情をして息絶えているマテウスの側へと歩み寄る。冬音とステラはこの状況で弔いでもするのかと目を向けるが、流石にそれほどの暢気さは持ち合わせていなかった。
春暁はマテウスの魔剣を手にとって、そうして目を閉じる。何をしているのかが気になって心の準備どころではない冬音とステラは春暁を見つめ続ける。
少しして、徐に目を開いた春暁はどうやったのか、魔剣に込められた魔力ではない何らかの力を吸い取っているようだった。次第に春暁の口角が持ち上がっていく。堪えきれないとばかりに肩を震わせて小さく笑っている。
漲る生命力に、春暁の心は歓喜しているのだ。本人の意思に逆らって笑みを浮かべさせてしまうほどに。今までに感じたことのないこの活力をどうにかして発散しなければ、どうにかなってしまいそうだった。走り出して絶叫して、衝動が襲ってくるが負けてしまうわけにはいかない。だけど落ち着いて心を休めるなどできない。他でもない心そのものが歓喜しているのだから。
「クルトさん、僕は……準備できました」
高揚感を抑えながら春暁はクルトに声をかける。口の端がヒクついていたからか、訝しげな顔をされたが、何も言われず頷かれた。
それからすぐに冬音とステラも心の準備が整ったとクルトに告げて、作戦は決行された。
「いきますよ、ステラさん」
「はい!」
「「せーのっ!」」
掛け声に合わせて、二人が同時に魔法を行使し、オーデンティウスを拘束する。それに気付いたオーデンティウスは焦ったように踠くが、地面から伸びる土の縄で拘束されたオーデンティウスの抵抗は無意味だった。人間の姿だったまだしも、腕や足を器用に動かせるだけの経験がなかったオーデンティウスにはどうする事もできなかった。だが、力任せに動かれれば逃れられてしまいそうだったので、クルトは土の縄に無数の棘を生やす事で対処する。少し遅れてステラもそれを真似る。それだけでオーデンティウスの足掻きは勢いを弱めた。
それを見届けた春暁は、魔力の消費が無駄だからと消滅させていた剣をもう一度顕現させるため、目を閉じて集中する。今回顕現させるのはオドの剣ではなく、先ほど吸収しておいた生命力の剣だ。
春暁は、夜明けを映す自分の深層へと語りかけ、生命力の剣を構築するようアニマに指示する。それを受けた水無月初夏の制御によって構築される生命力は眩い光を放ちながらもだんだんと形を成していき、そうして、やがて煌々と輝く剣へと姿を変えて顕現した。
命の輝きを鏡のようにそのまま映したその剣は、今まで春暁が生きてきて、見てきたものの中で、二番目ぐらいに神秘的だった。
一番はもちろん、精神世界で見たあの暁……と言うより水無月初夏だ。この剣が命の輝きだと言うのであれば、命そのもの──魂だけの存在である水無月初夏がもっと美しいのは当然なのだから。
「お姉ちゃん、お願い」
「あ……う、うん……!」
高揚感から解放された春暁は呆けている冬音へ能力の使用を催促する。言われハッとした冬音はすぐに輝剣を指で弾き、刀身を震わせていく。音を高くして高くして、広く浸透するように、小さく音を立てて震える剣を見て頷いた春暁は「頑張って!」と言う姉からの激励に手をヒラヒラと振ってペルティナクスへと駆け出した。
隆起して陥没した大地を、瓦礫と残骸の大地を、惨憺たる骸の大地を踏み締めて、踏み越えて……アニマが御するオドによる身体能力強化を受けて、弾丸のような速度でペルティナクスへ接近し、そして飛び上がる。
地面に膝と拳を突いて静止しているペルティナクスを軽々と飛び越えた春暁は、思い切り剣を振り上げて、体内のオドを全てかき集めて輝剣に纏わせる。オドで形成された、眼前の巨人が手にしているのが相応しそうな大剣は、輝剣と混ざり合う。生命力とオド……純粋な輝きと淡い紫色が絡まり合って、白みが強い紫色の光が地上を照らす。
夕日がなくなって暗闇に包まれたこの荒野には、希望を体現したかのような新しい白紫色の太陽が昇った。しかしその太陽は太陽と呼ぶにはあまりにも儚かった。
「はああああああああぁぁぁぁっ!!」
気合いの籠った掛け声をあげる春暁が腕を振り下ろすと同時に、剣の形をしたその太陽は簡単に沈んでしまい、世界を両断するかのように大地に轟く。そのせいで再び大地は隆起と陥没を繰り返し、巻き込まれないようにとクルトとステラは風魔法で自分の体を空中へと吹き飛ばし、冬音は声をあげたり手を叩いたり自身の衣擦れの音すら操作して向かってくる瓦礫を全て粉々にして身を守る。濁流の如きそれらは、襲い来る不死者の大群に比べれば大分マシだった。
少し煙が晴れて、そこに広がるのは両断された巨人の亡骸だった。力を失って左右に倒れたりしないその様は、どこまでも生物でいる事を拒否して、無機質な山でいようとしているかのよう。
地獄のような荒野にはもはや誰の亡骸も見当たらなかった。全て地の底へ沈んでしまっていた。マテウスもドロシーもレイモンドもラヴィアも、誇り高く生きた騎士達も……春暁と冬音とステラとクルト、この四人以外の生命体はもはやこの周囲には存在しないと言ってもよかった……が、彷徨う魂が一つ。その魂は、今までに味わった事のない衝撃に驚いて感心しながらも、またしても死に損なったと落胆していた。落胆しながらも、新しい器を探すため、また放浪を始めていた。
それを目で追った春暁はすぐに目を離して、不安定な足場に目をやった。
多くの人々を殺したペルティナクス。殺すのに無抵抗なのは都合が良かったが、どうしても、無抵抗な相手を殺めてしまったと言う事実が離れない。守るためとは言え、苦悩して思い悩んで無抵抗だった相手を殺しても良かったのだろうか。ここでペルティナクスを殺しておく事で誰かが救われたのかも知れないけど、それでも、これで良かったのか。
達成感とは全く違う感覚に陥る春暁だったが、ふと感じる温かさに思考を現実へと引き戻される。何かが後ろから包み込むように抱き付いてきている。この感覚には覚えがあった。自分と深い関係のある相手だ。ここは現実だから自分の意思で振り返れるかもと試して見るが、やはりいつものように振り返る事は叶わない。
──振り返らなくていい、春暁はただひたすら前に進めばいい。自分が信じた正義なのだから、恥じず悔いず、真っ直ぐ進めばいい。春暁は弱くないから、春暁は強いから、燻って腐らないように進んで。大丈夫、春暁には私がいる。春暁が間違った道を進もうとしたら私がとめてあげる。だから安心して前に進んで。
幻聴の如きその囁きは、脳の奥まで届いて、心の奥まで届いて、荒んでいた春暁に否応なしに安心感を齎してくれた。
「春暁ー!」
「ハルー!」
遠くから自分を呼ぶ声が聞こえてくる。いつの間にか背後の誰かはいなくなっていて、振り返れるようになっていた。まだ少し漂っている砂煙の中から駆けてくる姉と友人に手を振って答える。その向こうには小さく笑みを湛えているクルトがいる。……そう、何も間違っていない。振り返る必要などなかった。不穏分子の出現を危惧して強くなろうとしている自分が、一度危険な存在に成り下がった生物への殺生を振り返る必要などなかった。
大切なものを守るためなら手段は選ばないと心に決めたのだから。
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黒いドームは崩れ落ちた。そのドームに覆われていたはずのアルタはそこにはおらず、そこには黒いシミだけが残っていた。
黒い人型に突然放り投げられたせいで素っ頓狂な悲鳴をあげてアデルとラウラに受け止められて、そのまま二人の腕の中にいるオリアルはそれを見て、羞恥で赤くなっていた顔を真っ青へと一変させていた。
アルタが逃げたなどとは微塵も思っていない。戦闘の中でアルタが長距離を一瞬で移動できるスキルを持っていないのは確認していたからだ。ただ単に隠していただけかも知れないが、長距離転移を使わなければ危なくなる場面などたくさんあったために、限りある無数の命を犠牲にしてそこまで秘匿する意味はないだろうと踏んでいた。
だから、アルタがあの黒いドームによって殺されてしまったのは明らかだった。まだまだたくさん命があるとでも言うような口振りだったアルタが、一瞬にして死んでしまった事から、あのドームであの短時間で何度も死んでしまったのだろう。
一人で殺そうとして一度も敵わなかったあのアルタを、魔王をこうも簡単に……眼前にただ佇んでいる黒い人型は到底自分達が敵うような相手ではない。前を向いているのか、後ろを向いているのか、それすらも定かではない。見られているのか見られていないのかが分からないから、迂闊な行動ができない。
「…………」
一言も言葉を発さない黒い人型。そもそも言葉を話せるのだろうか。
緊張感と静寂がこの場を支配する。
そんな現状を覆すのは異変を察知して駆け付けたフレデリカ達のざわめきだった。「アデルさーん!」「ラウラさーん!」「オリアルさーん!」と心配するような呼び声が聞こえてくる。黒い人型には耳らしき部位がないが、それが聞こえたのだろう。首を動かしてそちらへと視線を向ける。目はないが、その動作からそうなのだろうと察せた。
鼓動が速くなる。アデルとラウラの腕の中から降りて、いつでも戦闘が行えるようにと臨戦態勢になる。オリアルを降ろしたアデルとラウラもオリアルと同様に戦うために武器を抜く。もはや瓦礫の撤去だの、遺体の回収だのと言っている場合ではない。
眼前のあれは魔王だとか勇者だとか賢者だとか神徒だとか、そんな次元を超越してしまっている正真正銘の化け物なのだから。
そんな存在と戦おうと臨戦態勢を取るのは愚かで傲慢だろうか? ……あぁ、愚かで傲慢だ。戦って敵いもしない事が分かりきっている相手に身の程を弁えず歯向かおうとしているのだから、愚かで傲慢だ。
それでも、脅威に無抵抗で臨むなどできなかった。そうしてしまえば、今まで生きてきた履歴を全て否定してしまう事になるから。抵抗するにも無抵抗でいるにも、大きな何かを失ってしまう。……ならば少しでも失わずにいられる可能性を高めるために、抵抗するしかない。
そんな自分達の雰囲気を察したのか、黒い人型は背後にいるはずの自分達へと視線を向けた。あり得ない首の可動域に頭が真っ白になる。梟のような、そんな生態なのかも知れないが、どうしてもそれが受け入れられなくて、不気味で仕方なかった。最初どこを向いていたにしろ、フレデリカ達の気配へと顔を向けるために横を向き、さらにその横へと首を動かしてしまえばそれは、人間ができない首の動きだ。
黒い人型にあるはずのない目と、自分達の目が合う。ジーっと、ただひたすらに。生まれてから今までを、何をして何を考えて何を思ってどうして生きてきたのか……自分の全てを覗かれているような感覚を覚える。こっちは何も分からないのに、相手だけが何もかもを知っていくその感覚が酷く不快で気持ち悪くて、背筋が冷たくなる。
不可解で不可解で、理解できなくて理解できなくて、何もかもが分からなくなる。知っていたことですら分からなく……自分が誰なのかすらも分からなくなる。あるはずのない瞳に吸い込まれて、自分の存在を感じられなくなってしまう。黒色に崩壊していく自分と世界が、グルグルと回っていて、でも、実際には何も起こっていない。ただ、そこに世界が広がっていて、自分が立っているだけ。
不快で気持ち悪かった感覚は心地好い感覚へと変わっていた。懐かしくて、安心できる。
万物万象の始まりを感じていた。この黒から何色が抽出されて何が生み出されるのか。
万物万物の終わりも感じていた。この黒色は何色を混ぜ合って生み出された色なのか。
期待と想像に胸が膨らみ、そして弾けた。破裂した。
現実に引き戻される。いつから意識が戻ったのか分からない。眼前にいた黒い人型はもうどこにもいなかった。幻覚だったのかと思ったが、口を開けて自分を見上げているアデルとラウラを見れば、あれが幻などではないのだと理解できた。
「何か異様な気配がしたのでやってきましたが、皆さんどうされ……いえ、お怪我などはありませんか?」
「だ、大丈夫だよフレデリカさん」
「でしたら構いませんが……それで、あの魔王はどこに……?」
アデルに向けて放たれた問いだったが、アデルではない者が答えた。
「アルタは死んだ。私を覆うように……何もかもから絶つように縛り付けていた支配の感覚がなくなっている。何があったかは知らないが、助かった……ありがとう、勇者達。お前達……あなた達は私達の恩人だ」
「あぁ、本当にありがとう。これで俺達の本来の目的を果たす事ができる。本当にありがとう。……だが、その前にこの大陸が、俺達ヒト種の未来が危ないんだよな」
アルタ──魔王の脅威は去った。この場にいる誰もが張り詰めていた空気が弛緩するのを感じていたが、だが、アデル達にはまだ……魔王なんかよりも、もっと大きな問題が残されていた。
「……最果ての大陸の魔物」
そう、一体いるだけで村を滅ぼせると言われている最果ての魔物の存在が残っている。アルタ一人に手こずっていた自分達に最果ての魔物を相手にする事ができるのだろうか。
いつかやってくるのではなく、既にこの大陸に上陸していて、戦闘が避けられないそれを、退ける事ができるのだろうか。