第358話 死に様は生き様に報いず
襲い来る敵に気付いたのか、山は気怠げに視線を彷徨わせた。攻撃してくるクルトに、敵意を抱いて駆けてくるマテウスとレイモンドと春暁に……そして最後に、馴染み深い気配が仄かにするただの村娘へと視線を移した。
山はラヴィアを見つめる。魔法の猛攻を受けて尚、未だに微睡みが残っている寝ぼけ眼で。そうして山は朦朧とした意識の中で口を開いて言葉を発した。
「……あぁ……リビディンら……おぁよう。ろうしたの? リビディンがおえに干渉してくるあんて、めうらしい」
呂律の回っていないその言葉は上手く頭に入ってこないが、しかしその代わりに周囲へと災害を齎した。巨体の声は空気を震わせて、そのまま地面をも震わせる。なんの魔力もこめられていないただの言葉が咆哮よりも咆哮のように轟くのだ。遠くまで、それはもう、遠くまで。ここからそれなりに距離のあるフィドルマイアにすらも。
山へと駆けていたマテウス、レイモンド、春暁の三人は当然のように吹き飛ばされ、後方で魔法を放っていたクルトですら体勢を崩して転倒してしまっていた。負傷者の治療をしているドロシーも、山の攻撃を妨げるために構えていた冬音とステラも……誰もが一瞬にして凶悪な振動に振り回されていた。
それを見た山は寝ぼけ眼を見開いて、しまったとばかりに両手で口を塞ぐ。この魔物がこのような巨体でなければ、きっとその仕草には愛嬌が覗いていたのだろうが、生憎とこの山は化け物だ。その行動だけで周囲に再び風が吹き荒れて、攻撃の意思などないのに攻撃してしまう。
加減がどうとか、そんな考えはとっくの昔に思わなくなった。どれだけ動作を緩慢にしようとも必ず何らかの被害を齎してしまうので加減などありはしないも同然だったのだ。ゆっくりと一歩を踏み出そうとも、地面は大きく陥没する。柔らかい泥の中を進んでいるかのように、足の甲に土が被るのだ。歩くだけでもこれなのだから、もはや何をしても加減などできないと、早々に見切りをつけたのである。犬猫のような甘噛みは、この山にはできなかった。
そんな山の苦悩など知らない矮小な生き物達からすればこれは明確な攻撃としか映らない。どれだけ山が、しまった、とばかりの言動をしようとも、理解が及ばないそれを受け入れる事はできない。
「声だけでこの有り様か……厳しいな……」
マテウスは吹き飛ばされて、清潔なローブを土まみれにしたドロシーをチラリと見やってから、強敵の出現に顔を歪めながらも屈する事なく駆け出した。不死身であって、何度も死に至る怪我を体験してきたマテウスにしてみれば地面を跳ねて転がる痛みなどは些細なものでしかなかった。
……が、常人であるレイモンドにそんな不屈は真似できなかった。しかも、マテウスのような革が大部分を占めている軽鎧ならばまだしも、鉄の塊である重鎧を纏ったレイモンドは、ひしゃげて曲がった重鎧に動きを阻害されて身動きがとれなくなっていた。だが、痛みで動けない自分の弱さを重鎧のせいにする気はなかった。
レイモンドはひしゃげた重鎧を四苦八苦しながら脱ぎ捨てた。側には重鎧を纏って息絶えている騎士がいるが、鎧を剥ぎ取ったりなどして死者の尊厳を奪うような事はしない。生きて勝ち残るためには剥ぎ取って然るべきなのだろうが、そうしてしまえば、娘の憧れている自分の像が崩れてしまうのでやらない、できない。
……肌にぴったり密着して、筋肉を強調するインナー姿で大剣を手にしたレイモンドは山へとマテウスに続いて駆ける。
もう一方の春暁は地面を跳ねて全身を打ち付けた痛みに顔を歪めながらも立ち上がる。マテウスと違って痛みになど慣れてなどいない。それは心の強さからくる不可視の原動力だ。守るべきものがある、戦わなければいけない理由がある、死ねない理由が……背負っている命がある。どうしたって春暁は屈するわけにはいかなかった。
この世界で生きてきて今まで一度も見たことがないアニマと言う特別な力を、何の取り柄もない自分が持っているのには何かを意味があるのだろう。
幼い頃……生まれて間もない頃に、生まれる場所を間違えたとばかりに早々に殺されて死に、そうしてやってきた世界で、何の力も持たず、身も心も幼子そのものだった自分を選んで宿ったアニマ──水無月初夏。大切なものを守りたいと宣うばかりの弱者でしかなかった自分を、なぜ選んで宿主と決めたのか……今まで歩んできた奇怪な人生も合わさって、自分と言う存在に意味を見出だしていた。
誰が何の目的で自分を導いているのかなど知らないが、その誰かが自分が欲してやまなかった大切なものを守る力を与えてくれたのだ、ならばそのために、それに報いるために生きなければならない。そうして守り抜かなければならない……父も母も姉も……必要ないとは思うが、兄も。
二度と大切なものを失わないためにも、無様に地面に寝転がって夢を見ている暇などなかった。
……突然の衝撃によって顕現状態を維持できず、消滅してしまっていた剣を再び顕現させ、春暁はマテウスとレイモンドに続いて山へと駆ける。後方には姉とステラがいるのだから、遠慮なく立ち向かえた。
山の足元へとやってきたマテウスは淡紫色に輝く剣で一閃する。淡紫色に輝く剣は言わずとも魔剣である。しかしこれは魔力を流しただけの状態であり、魔力が流れているおかげで多少強度は増しているが、魔剣そのものに宿った魔法の効果は発揮されていない。これほどの強敵を前にして未だに見た目の美しさだけに拘るマテウスだったが、頑なに魔剣の効果を発揮させないのには理由があった。
そもそもこの魔剣は魔力を流しても効果は現れないのだ。かと言って何の効果も持たない見た目だけの魔剣でもない。
……この魔剣は使用者の生命力を吸い取って初めて効果を発揮するのである。この魔剣の製作者であるアルロからそう聞かされたマテウスは「不死身の僕にピッタリな魔剣じゃないか!」と喜んで購入した。
しかし、この魔剣にピッタリな生物などこの世にはいなかった。
生命力とは即ち生きるための原動力である。それがなくなってしまえば死んでしまうのは当然であり、如何に不死身と言えども、生きるための力を失ってしまえば簡単に死んでしまうのである。……魔剣を使用している内に衰弱していく事でそれを悟ったマテウスは生命力を消費するのをやめ、魔力を流して使用するにとどめているのだ。
自分は不死身だ。生きている限り、死なない限り魔剣を何度でも振るえる。だから生命力などを消費して自分の命を削らず、魔力を消費して多少強度が高くなった魔剣で何度死のうとも相手を削る……それが不死身らしい堅実な戦い方だと。
「僕が不死身でいられるのは、傷を癒してくれるドロシーがいるから。ドロシーさえいればどこをどれだけ欠損しようとも生きていられる。達磨になったとしても、脳味噌を砕かれても、心臓が破裂しても、あらゆる外傷では決して死なない僕にはドロシーさえいればいい」
マテウスの固有能力【不死身】はあらゆる外傷による死を無効化するもの……つまり精神的なものや老衰、魂の崩壊、生命力の枯渇、それらが降りかかれば簡単に死んでしまう。決して不死ではない。生物を完全に不死化させられない神や世界にとってはこれができる限りの不死化だった。
「僕は何度でも立ち上がれるぞ、千剣の霊峰! 悠久を生きてきたお前と、不死身の僕……どちらが強いか、我慢比べといこうじゃないか!」
マテウスは何度も何度も山を斬り付ける。斬れば削れるが、それは微々たる損傷。そんな事を続けていれば、いったい何度日は暮れる事だろうか。しかし不屈のマテウスはそんな途方もない作業を続けるつもりのようである。
そんなマテウスの啖呵が聞こえてきたレイモンドは「アホか」と呟いてから山に斬りかかるのではなく、山の足を登り始めた。ひしゃげて曲がった重鎧を脱ぎ捨てたレイモンドは身軽になったその身で山を登り、やがて口内へ侵入し、体内から攻撃するつもりであった。しかしそれも途方もない所業であった。山が千剣の霊峰と呼ばれていた頃……横たわっていた頃ならば可能であっただろうが、屹立……起立している今であれば登山ルートなどは存在せず、一生続く断崖絶壁、雲の高さを軽々と越えているその山を登るなど、ただの人間にできるわけがない。正気ではない。それはレイモンドも承知の上であるが、そうでもしなければ天を穿つこの山を討伐する事などできないと思ったのだ。
そうして大人二人よりも成果を上げているのが春暁だった。アニマの力で顕現させたその剣はマテウスの魔剣よりも鋭く強固で、山の足の指を切断するには至らなかったが、大きく斬り裂いた。クルトの魔法も山の膝の部分を魔法で破砕し続ける。それによって発生する落石は冬音が発する音の振動で砕かれ、砕き損なった岩をステラの魔法が悉く木っ端微塵にしていく。
巨体故に痛覚も鈍い山はそれらの感覚に気付かずに地上を、懐かしい感じがする村娘を見つめ続ける。そんな山に見つめられ続けるラヴィアは大きな瞳による視線を一身に受けているせいで全身を怯えが支配して動けなかった。
「く、クルトさん……っ」
「ラヴィアさんはそこから動かないでください。なぜだか分かりませんが、ラヴィアさんがあの魔物を惹き付けているようですから、余計な事をして痛覚が鈍いあの魔物に俺達の攻撃を悟らせないようにそこにいてください」
「で、でも……そんなぁ……!」
助けを求めるようなラヴィアにそう言ってから、できるだけ山を脆くしようと全体的に魔法を叩き込む。脛、膝、太腿、綣、脇腹、鳩尾、胸元……山が攻撃に気付いても力を合わせれば何とかできるようにと全体的に脆弱にさせる。砕けた山の体は当然落下するので足元にいる人達に当たってしまうので、冬音とステラがいる前提のような行動だ。……ちなみにレイモンドは早い段階からクルトの魔法による爆風で山から落下してしまい、強く尻を打っていた。もちろんわざとではない。クルトから山までは離れているし、レイモンド自体も小さく見えて、魔法による被害を想定し辛かったのである。
レイモンドはそれを「無謀な事はやめろ」と言う意味を込めて放たれた魔法だと勘違いし、痛む腰を擦りながらマテウスと春暁と共に山の足の破壊に取りかかる。
「ステラちゃん……みんな足を攻撃してるけど、あの魔物がバランスを崩したら大変な事になるよね…? この辺り一帯が荒れ地になるよね……?」
「うん……前に倒れてこられたらどうする事もできないと思う。後ろに倒れられてもフィドルマイアが下敷きになっちゃうね……でも、ハルの事だから何か考えがあるんだと思うよフユちゃん」
「……うーん……ハルって賢いように見えるけど、時々間抜けになっちゃうお兄ちゃんみたいなところもあるから……でもまぁ、流石に分かってるよね! だって春暁の他にも大人が二人もいるし、後ろには全体が見えてる魔法使いの人もいるしね」
心配を抱く冬音だったが、すぐに周囲の大人達の存在を思い出し、無理矢理にでも自分を安心させる。そしてステラへち向けていた視線を前に戻せば、雑木林と馬車の残骸が広がっている場所から、山の足元を目指して騎士が走ってきていた。鎧を着ていたり鎧を脱いでいたりと様々だ。
騎士がやってきている方向には、休まずに聖魔法を使い続けるドロシーの姿があった。額に汗を浮かべて、少し荒い呼吸で必死に騎士を治療している。魔力は残り半分程度と言ったところ……魔法の連続使用に疲弊しているのは明らかだ。他の聖魔法使いはどこにいったと見回すが、そこで見つけたのは馬車からはみ出ている白い衣服……記憶が確かならあれは聖魔法使いが着ていたローブのはずだ。なるほど馬車から逃げ遅れたかと理解すると同時に、旗色の悪さを察した。
……だからと言って、今の仕事を放り出すわけにはいかない。山の落石を防ぐ自分達がいなくなればさらに負傷者が増えてしまうのだから。冬音は疲弊していくドロシーから目を離して再び落石の破壊に勤しんだ。
「マテウス団長、このままじゃ埒が明きませんよ!」
「そうですよ! いつこの魔物が私達の攻撃に気付くか……! それに、もしこのまま蹴り飛ばされでもしたら一網打尽にされてしまいます!」
「何か打開策を!」
やいやいと騒ぐ騎士達は、目の前の脅威への恐怖を怒りに変換してそれらを温厚な上司にぶつける。頭ではよくない事だと分かっていても、押さえきれない恐怖が騒ぎ立て、言葉となって吐き出される。その際の爽快感もいけなかった。病み付きになってしまいそうだった。
そんな騎士達に上空から落下してきた岩が天罰のように直撃した。何も言っていない騎士にすら直撃していることから天罰ではないようではある。今までなかった出来事に山の足元に集う人々は静寂に陥ってしまう。
そしてそのせいで察してしまった。遠くから……フィドルマイアがある方向から近付いてくる、眼前の山と同等の存在に。しかも一つではない、二つだ。誰かがハッと振り返ってもそこには何もいないが、何かがあった。
空に浮かぶ島……それはまさに御伽噺や伝説として語られる空島そのものだった。子供の頃に読み聞かせられた御伽噺が脳内で蘇る。
世界を旅する空島と空島に建てられた立派な城。
やってきているのはまさにそれだった。あれも眼前の山のように生きているのだろうかなどと考えてしまうが、そうではないのはすぐに分かった。
ゴマのように小さい人影が立っている……あれだ。あれが一つ目の威圧感の正体だ。まだ沈みきっていない太陽を背にしているせいで逆光となってどんな容姿なのかは分からないが、偉そうに腕を組んでいるのは分かった。
冬音とステラが手を止めた原因はそっちではなく、空島の側を飛んでいる生物の方だった。それはシルエットとなっていても、なんと呼ばれる生物なのか理解できた。あれはグリフォンだ。ただのグリフォンではなく、自分達が殺したはずの、他とは逸脱した戦力を持つグリフォンだった。
どうして生きているのだと思うと同時に、以前とは桁違いな威圧感に全身が凍り付いてしまっていた。
「騒がしいと思って来てみれば、蛆虫を集らせてどうしたんだペルティナクス?」
空島は山の綣の辺りで動きを止める。そしてよく響く声で千剣の霊峰──ペルティナクスへと人影が語りかける。
「……?」
「……あぁ、痛みを感じていないのか。無価値な有象無象は所詮烏合の衆でしかないか。……これだけ集まっていながらペルティナクスに痛みの一つも与えられないなど、無能と称するに相応しい。そんな雑魚……足元のそれを蹴散らしてしまえ。お前一人が侮られたせいで俺達まで舐められては敵わん」
なんでもない事かのように言う人影に、ペルティナクスは少しの狼狽を見せてから言い返した。
「前からおえは意図的に生き物を殺さないって、言ってうれしょ? グーラやブリンドネスのようになりたくないんらよ」
「はぁ……眠りながら山として生きる内に生物への慈愛に目覚めたか? 今さら生物への慈しみを覚えたところで俺達が荒廃させてきた世界の生物達は帰ってはこない……今さら引き返せるなどと思うなよペルティナクス。……さて、自分の命と他者の命、お前はどっちが大切なんだ?」
「…………」
一言発する度に地面と空気が揺れ、雲は割れる。それだと言うのに空島と空島に立つ人影は微動だにしない。……治療を終えたばかりの騎士達は再び吹き飛ばされ、負傷する……中には死んでしまう者もいた。マテウスはペルティナクスの体に剣を突き立てて、大剣を突き刺すほども余裕がなかったレイモンドは地面に指を突き立てて、春暁は剣を消失させてからドーム状の盾を顕現させてその中に隠れる。冬音は音の振動を使って周囲の振動を相殺して自分とステラを守り、クルトは風の防壁を作り、土魔法で周囲の地面の強度を高くして揺れを抑える。……ラヴィアはこの災害の中で直立している。
「……選ばないか……まぁいい。それならば俺が──待て、この気配は……リビディンの……ふん、人間の小娘を宿主に選んだか。リビディンが好きそうな異様な容姿をしている。溶接されたあの獣の耳に限らず、リビディンは変わった女が好きだからな。……それにしても、くくく、そうか、人体実験か。やはり空からでは見えるものに限りがあるようだな? ……ほら、この世界を滅ぼす条件は整ったぞペルティナクス。非人道的な行為による被害者が平気でのさばっているような世界だ、血迷ったお前が慈愛を示すべき相手ではないだろう?」
「……うん……俺が間違ってた。気付かせてくれてありがとうロングス、リビディン」
人影の言葉に目が覚めた様子のペルティナクスは、しっかりとした口調で、先ほどまでの気怠げな様子とは一転して、活力に満ちた眼差しをしていた。そしてペルティナクスは両の拳を力強く握り締める。力を溜めるように、一撃で全てを終わらせようと、強く強く。
「くはははは!俺達が持つ【居丈高】や【艶羨】と違って、ペルティナクスの【無精】は枷でしかない。凶悪な力を持ち、暴虐の限りを尽くしたあいつに滅茶苦茶にされた世界が、置き土産として与えたマイナススキルでしかない。……が、たった今ペルティナクスの枷が外れたぞオーデンティウス。……それじゃあ邪魔にならない程度に、クソったれなこの世界を殺してやろうか」
空島に立つ人影はそう言って飛び降りると、そこにオーデンティウスと呼ばれたグリフォンが現れ、人影を背中に乗せてペルティナクスの足元にいるレイモンドへと滑空し、その鋭い鉤爪はレイモンドの背中を掠めた。
「何をしているんだ、と言いたいところだが、新しい体はやはり扱い辛いか。人間からグリフォンとなれば随分勝手が違うだろうからな」
人影だったものはその通り人間にそっくりな外見をしているが、決してまともな人間と呼べるような容姿ではなかった。亜人とも魔人とも呼べないその姿には、肌色の皮膚の他に、金属光沢を放つ部分があった。この世界には存在しない科学の片鱗が窺えるその姿は、一目見ただけでこの世界で生まれた者ではないと察せてしまう。
「なっ!? ……き、機械……?」
皮膚と機械が合わさったサイボーグが如き姿をする者の名はロングス。
そんなロングスに反応したのは、前の世界での記憶が僅かに残っている冬音だった。
「……誰だ……? 今、機械と口に出した者は……?」
機械と言う単語に反応して首を翻すロングスの、生まれもった緑の右目と、改造された結果埋め込まれた黄色い左目が真っ直ぐに冬音を捉える。
ロングスはオーデンティウスの首を掴んで強引に方向転換させて、冬音の元へと進ませる。自分をこんな姿にした人間と人間の文明を憎むロングスにとっては看過できない呟きだったのである。
「お姉ちゃん逃げて!」
危険な佇まいのペルティナクスを早く殺さなくてはと必死になって斬り付ける春暁は後方での不穏な気配を察知して叫ぶが、遅かった。オーデンティウスから飛び降りたロングスはその勢いのままに冬音の頭部を鷲掴みにして地面に叩き付けた。皮肉な事に、機械の腕は思った通りに力加減ができ、機械の脳では高度や落下速度などを瞬時に計算し、死なない程度の苦痛を的確に味わわせる事ができた。
「お前、今俺の事を機械と言ったか? この世界の人間が機械の事を知っているわけがないのだが、お前は所謂転生者とか転移者とか言う奴だな? つまり、ここより遥かに高度な文明が築き上げられた世界の人間なわけだ。……幼いお前が文明の発展に関与していたなどとは思っていないが、少しでも高度な文明を体験したのならば生かしてはおけない。お前がいつあの文明を再現しようとするか分からないからな。……そんなわけで、申し訳ないがお前にはここで死んでもらう」
「ぐ……っ……ぅぐ……ぁ……ぁ……」
憎悪を露に、しかし淡々と、憎悪などないかのように機械的に処理しようとするロングスは、冬音の首を締める。側にいるステラなど眼中にないかのように、一度命令したら止まらない動作不良を起こした機械のように。
実際ロングスは失敗作だった。強い感情を抱けば表情に出さずともその感情に従って行動してしまう……それに自制や他者からの制止はきかなかった。人間性と機械の融通の利かなさが絡まりあってしまった失敗作でしかなかった。
だから簡単にステラの横槍を食らってしまう。風の刃で機械の腕を裂かれたロングスは冬音から手を離す事になってしまい、咳き込む冬音に距離を取られてしまう。
……だが、一つの目的を完遂させるにはもってこいの作品だった。どれだけ体が錆び付こうとも、どれだけ妥協しそうになっても文明の破壊のために動き続けるのだから。
腕がなくなっても冬音を殺そうと駆け出すロングスの背後に浮かび上がるのは剣を振り上げた子供の影は春暁。
「お姉ちゃんに手を出すなああああああっ!」
振るわれた剣によって頭から股の向こうまでを真っ直ぐに裂かれるロングスは、冬音への接近を強制的に中断させられ、立つ事すらできなくなり、転倒する。断面からは人間の血液と、機械の中を流れる人工的に作られた薄紫色の血液が混ざり合う。
剣についたそれを振り払って冬音に駆け寄る春暁だったが、その瞬間、体験した事のない振動が襲いかかってきた。ドリブルされるボールに蟻が這っていればきっとこんな揺れを味わうのだろうと想像できてしまうほどの衝撃に、視界は黒と白に点滅する。
──痛みはなかった。
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春暁と冬音とステラがいなくなった事に気付いた季弥、夏蓮、ミアの三人はオリヴィアの屋敷で慌ただしく駆け回っていた。
ただ外出しているだけかも知れなかったが、親としての勘だろうか。胸騒ぎがしていた。何かとんでもない事に巻き込まれた……いや、首を突っ込んでいるのではないかと。……三人が外出しているとなればその可能性が高くなってしまうので、それを否定するためにも屋敷を駆け回っている次第である。……が、頭では分かっていた。既に春暁達はこの屋敷にはおらず、どこかへと旅立ってしまっていた事が。
誰が呼び掛けたでもなく自然と広間に集まった季弥と夏蓮とミア。焦りに呑まれて、静かに錯乱している三人を纏めようとオリヴィアもやってきていた。
「ど、どうしましょう……子供達がみんないなくなってしまったわ……ねぇどうしましょうアナタ……」
「僕だって混乱してるんだ……僕に聞かれても困るよ……でもまぁ、だけど、そこまで心配する必要はないと思う。夏蓮には黙ってたけど、この際だから打ち明けておくよ」
顔面蒼白な夏蓮を安心させようと、季弥は話す。春暁も冬音も、ステラでさえも、並大抵の脅威を打ち払えるほどに腕っぷしが強い事を。この間、とある村で話題になっていたグリフォンや雑多な魔物の死骸の山を築いたのは他でもない春暁達と自分なのだと。焦る夏蓮を宥めるために、春暁の生存確率が高いものだと理解させるためにそれらを話した。
しかしそれは夏蓮を落ち着かせるには至らなかった。
「はい!? 子供達がそんな危険な事に関与しようとしていたのにアナタはとめなかったんですか!? とめなかったんでしょうねぇ!? だってアナタも一緒になって戦いに参加しているんですもの! はぁ……信じられない……気付かなかった私も悪いんですけど、それでも……はぁ……」
激情を露にする夏蓮は一頻り怒鳴った後、悩むように額に手を当てて頭を左右に振る。思考を整理するための行動であるが、一向に思考は纏まらない。
「……まぁまぁ夏蓮さん。子供達に戦える力があるって分かっただけでも収穫じゃないかしら? 焦っていても何にもならないし、ここは一旦落ち着いて考えましょ?」
季弥が話を暈したおかげで夏蓮の怒りが向けられなかったミアはそのお礼のように、季弥から少しでも意識を逸らさせようと夏蓮を宥める。
「ミアさん……でも……いえ、分かったわ」
「ん……それで、これからどうしましょうか。探しにいくのは当然として、あの子達がどこに行ったかが分からないと迂闊に動けない。だからまずはあの子達がどうして急にいなくなったか……そうなった原因を探ろうと思うの。推測でも妄想でも勘でもなんでもいいから、とにかくアテが欲しいわ。最近の変化……子供達の言動を思い返してヒントになりそうなもの、子供達や私達の周囲での出来事、色んな事を広くみて、ね」
頷いた夏蓮に短く返事したミアは捜索の目処を求めて冷静に思考しようと話す。最近までなんのアテもなく離れ離れになった家族を探していたミアが言うからこそ、捜索にアテが必要だと言うのは犇々と伝わってきた。どんなものでも良いから取り敢えずが欲しいのである。
そうして静寂に包まれる広間。
椅子も机もない、そもそも部屋ですらないここで立ち尽くし、ひたすらに考え込む季弥、夏蓮。ミアとオリヴィアは特有の優れた勘で大体の予想がついていたが、それに任せきりと言うわけにもいかない。
懸かっているのは愛する子供達だ。優れた勘を持たない季弥と夏蓮の考えを聞いて、擦り合わせをするかのように、万全を期する必要があった。それが推測でも憶測でも妄想でも、何でもいいから思考の果てに辿り着いたそれが欲しかったのだ。
……そこから少しした頃、幾つかアテとなりそうなものは挙げられていたが、もっと確信に迫っていて、ピンとくるものが欲しいと言う事で季弥と夏蓮は未だにこうして考えるに至っていた。そうして、思考はオリヴィアとミアが覚えた勘へと近付いていく。
「……最近では、やたらと成熟した言葉遣いをするようになっていたけど、本質的にはまだまだ子供で、そして強さに異常に固執していた……あの子達に影響を与えそうな最近の周囲での出来事と言えば、オリヴィアさんから聞かされた最果ての大陸の魔物しかない……あの場にあの子達はいなかったけど、扉に耳を当てて……そうだ、冬音が持っている、音を操作する能力があれば僕達の会話を盗み聞きするなんて簡単だ……! ……じゃあ……だとすると、三人を最後に見たって言う使用人の人の話とも合う……三人は……最果ての大陸へ……?」
……子供特有の好奇心と守るための強さを一遍に手に入れられるちょうど良い場所があって……情報を得るのにちょうど良い能力があって……そこに向かうのにちょうど良い乗り物があって……そんなお粗末の思考を経て辿り着いた結論は、春暁と冬音とステラの三人が最果ての大陸へと向かったかも知れないと言うものであり、それはオリヴィアとミアの勘と全く同じものだった。僅かな裏取りが取れたオリヴィアとミアはここぞとばかりにそれを肯定し、その度に夏蓮の雰囲気が暗いものへと変わっていく。
信じたくないのだろう。認めたくないのだろう。欲や好奇心に負けて行動する事は危険だと、子供に理解させるための寓話のように語られていた最果ての大陸に愛する子供達が向かってしまったという絶望的な話を。なのに無情にもその考えが肯定されて、そうなのだと認めざるを得なくなってしまう。
「大丈夫だよ夏蓮、あの子達は強い。強い魔物だと言われているミノタウロスを一人でも倒せる僕が言うんだ。だから、僕と同じぐらいの強さを持っている夏蓮にとっても、あの子達は強く映るはずだよ。だから大丈夫、信じていい」
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アルタが見回す周囲に走るは黒い曳光。囲まれている……嘲るように周囲を走り回られている。触れれば侵食されてしまうそれに、どうする事もできないアルタは苦々しげに顔を歪め、自分を取り巻く『本物の死』そのものにただひたすら命の危機を覚えるばかりだった。
消えない曳光はそこに残り、やがてドームのようにアルタを覆った。
これで完全に退路は絶たれた。そしてアルタの脳裏を過るのは黒い曳光が太くなって、そしてそれが液体のように広がっていく光景だった。自分の爪を黒に染め上げて、爪を剥がさねばならなくなってしまうほどの状態に追いやったあの光景。であれば自分を覆っているこのドーム状の曳光も粘度の高い液体のように変質してドロドロと滴り落ちてくるのだろうか。
そうして黒が触れた衣服を……或いは皮膚をその黒で侵して、蝕むような無慈悲な死を齎すのだろうか。じわじわとだんだんとじりじりと。
死の恐怖に気が狂って自我を失うその時まで間近に死を認識させるのか。どれだけ絶望しても足りない無情で無残で冷酷で残酷で残忍で非道で非情で、永遠にも思えるほどに長くて永い時の中で、ただ一人自分だけが死と同一化するのか。
今まで散々他者の尊厳を貶め、死に至らしめてきたアルタだったが、自分にその番が回ってくるとなれば恐ろしくて堪らなかった。死の恐怖を知らなかったわけでも忘れていたわけでもない。けれども、ただ、恐ろしかった。
散々に味わって味わわされてきた『死』が死んでもいないのに触れられそうなほど近くに感じられるのだから、その奇跡のような体験に、恐れて怖れて畏れるような狂喜を露にするしかなかった。
──やっと死ねる、と。
壊されれば壊れるのが常であるが、壊されて尚稼働し続けるそれは狂いながら悲鳴を上げるように稼働する。「さっさと殺してくれ」と叫んで懇願するように必死に、それはもう狂ってしまうほどに必死に……誰にでもなく、或いは誰でもいいから、自分に死と言う救済を齎して完全に壊してしまってくれと。不老でこそあれど、自分は不死ではないのだから。
けれど、どれだけ乞い願おうとも、救済されるに値する華々しい死は見つからなかった。相応しい死が見つからなかった。
──死ぬなら劇的に、死ぬなら華やかに美しく格好よく、死ぬなら歴史に名を残すほど、死ぬなら喜ばれながら、死ぬなら誰も体験した事がないような方法で、死ぬなら、死ぬなら、死ぬなら、死ぬなら、死ぬなら、死ぬなら、死ぬなら、死ぬなら──
そんな死への理想。理想が夢の妨げとなって、理想も夢も、僅かにあった更正の機会をも……何もかもを阻む障壁なっていた。
腐敗との歩みだけが勝手に進んでいくこの救いのない世界で生きるには、腐敗していく自分を楽しんで愉しむしかなかった。
そこでアルタに差したのは希望の光などではなく、得体の知れない黒い曳光だった。……いや、アルタにとっては希望の光だった。
確実な死を齎してくれるその曳光は希望でしかなかった。救われる死の条件にも殆ど当てはまっていて、自分が恋い焦がれた死そのものだ。
「あァ……暗く輝くこの曳光……救われたいと足掻く愚者のようで素敵だ……腐敗した僕でも無遠慮に侵してくれるこの見境のなさ、容赦のなさ、決意の固さ、強い、強いよ、とても、とても。僕が望んでいたのはこれだ……」
黒い曳光の渦に覆われたアルタは、滴落ちる黒い液体を浴びながら、恋い焦がれる乙女のように恍惚と、黒くて低い虚空を仰ぐ。
「僕の中に秘められた……僕が掬い上げてきた全ての絶望を、漸く解放して救ってあげられる。僕の我が儘に付き合わせて、何の理由も無しに命を絶たれた生物達の掬われなかった希望を、救って欲しいと言う希望を、僕に死んで欲しいと願うその最も大きな希望を……僕の手の平から救ってあげられる」
黒い曳光は、独り言を続けるアルタに構わず降り注ぐ。
黒い雫が一滴零れ落ちて、アルタの皮膚に触れる度に一つの命が潰えて費える。どこかで平穏無事に、或いは波乱万丈に……そうして暮らしていた生物は突如黒く染まる自分の体に困惑しながら、現状を理解する事もできずに命を侵されて死を知る。
配下の生物の死によって、決壊したダムのようにステータスが減少する。そのせいで重くなっていく体は凍り付いていくかのようで、自分がこうして大胆に行動する事になった原因を思い出させる。
結局最後まで一人だった。欲を言えば誰かの側でこのような死を遂げたかった。悲しんでくれるのなら尚良し。しかし現実のクソさをとっくの昔から十分すぎるほどに理解しているアルタはそこまでを望まない。今こうしていられるだけでも救われるほど満足だった。
衣服も皮膚も元から黒い黒髪も、全てが『生』を『死』に塗り替えるように降り注ぐ。
怨嗟の雫、慈悲の雨、神の涙……何かを怨み憎しむ者がいる、慈悲を与えなければならないほどに哀れな者がいる、神を信じなければならないほどに不安定な者がいる。
どれも見飽きた現実を想起させるに足るもので、アルタはやがて黒い雫を何かに例える事を諦めた。最後の最期にまで何かを諦める自分には苦笑いしかない。なかった。
黒いドームは崩れ落ちて、シミのような黒い水溜まりだけがそこには残っていた。自分はここまで生きたのだという証明。一人で生きて一人で死んでいった孤独な人間が、誰にでもなく遺した──生きた証だ。