第355話 邪心を以て神と成れば
「……お前はどこまでも救いようがなくて、愚かで哀れな魔王だ」
「……僕がどうかなんて、誰よりも、本人である僕が一番分かってる。生き物の絶望を掬い上げ過ぎたんだ、僕は。そんな僕が今さら誰かに救われるなんて思ってないし、思えるわけがない。これでも僕は自分の罪を認識してるんだからね? ……周りがどうだったから……なんてのは言い訳でしかない。どうしようもない現状を打破した時点で止まらなければならなかったのに、優越感や全能感に呑まれて自分を見失った僕が悪いんだよ。……僕は僕だけど、僕じゃない。弱かった本来の僕はもういない……だからもうとまれない。見失って手が届かなくなったあの頃の僕にはもう戻れない。僕は進むしかないんだよ、この何もない無窮の未来を」
既に何度も諦めたような光のない眼差しをしているアルタはオリアルに返す。
どうしようもない現実と直面させられたアルタは醒めていた。冷たくて酸っぱい悲哀への陶酔から醒めていた……と同時に理解した。愛よりも深く胸に刺さっていた悲哀ですら一方通行の現実の醜さに掻き消されてしまうのだと。後悔もできずひたすら真っ直ぐ進むしかないと前向きで、しかし影が差しているその道の醜さに。
救いはなかった。今この瞬間救いは絶たれた。救われる資格がないと分かっていても、やはり心の奥底では救いを期待していたのかも知れない。だが、望みが絶たれたと言うのに不思議と絶望はなかった。……もしかしたら今まで殺してきた生物も絶望を味わわずに死んでいったのかも知れないと考えて、少し残念な気持ちになってしまう。
「無窮の未来? たとえお前が誰にも殺されなかったとしても、生物である限り寿命が存在するのだからいつかは死ぬ。いつかは終わるんだ。だからそう悲観的になるな」
「分かってないなぁ……君は勇者や賢者、魔王がどうして生まれるか知ってるかい? ……いや、知らなくてもいいや。あのね、魔王って言うのはこの世界にとってとっても重要で必要な存在なんだよ。だからこのクソみたいな世界が魔王を寿命だなんてなんの利益にもならない死に方を許さないんだ。つまり魔王には寿命が存在しない……が、誰かに殺されれば死んでしまう……そんなふざけた存在なんだよ、魔王って言うのは。……あぁ、僕は命がたくさんあるから殺されても死なない事の方が多い例外的な魔王だけどね」
どんな生き物であっても、魔王になってしまえば寿命の概念を無視する化け物になってしまう。人類でも魔物でも、魔王になってしまえば不老の存在へと至ってしまう。
これは世界が、神の勢力である勇者や賢者に対抗するための戦力として生み出した魔王を際限なく成長させるためのものである。完全な不老不死にしない理由としては、単純にそうする事ができないからだ。『神殺し』と呼ばれる称号がある事から、神は不老ではあるが不死ではない事が分かる。なのに、神に対抗する事ができない世界が、神ですら到達できない不老不死の力を誰かに与えるなどできるわけがないのだ。
……もし仮に不老不死化ができたとして、その生物とその生物が齎す未来へと馳せれば、生物に不老不死の力を与えるのは憚られた。
緩やかに変わる事しかできない世界に飽きて絶望して世界を崩壊させようとなどされてしまえば堪ったものではないし、それに対抗しようと新たに戦力を生み出したとしても、不老不死を殺す事などできないわけで、世界の終わりになんの抵抗もできなくなってしまう。だから仮に不老不死の力を与える事ができたとしても、世界は生物を不老にこそすれど不死にはしない。
もちろん、不老の魔王と敵対する勇者や賢者も、魔王を倒して勇者や賢者としての役目を終えるまでは魔王と同じく不老である。
「……そうか、一応お前でも命に限りはあるのだな。それが知れて安心した」
「死に行く存在だからって少し話しすぎたかな。……さて、良い冥土の土産も携えたみたいだしそろそろ終わりにしようか。……ありがとう剣神オリアル。君のおかげで、やっぱり僕は進むしかないんだって知る事ができたよ。ありがとう、それじゃあね──」
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アルタとオリアルが戦闘の手をとめる少し前、大聖堂の外へと避難したフレデリカ達やレジーナ達は大聖堂へと走っていったアデルとラウラの背中を見送って、これからどうするかなどと話し合っていた。
そんな仲間でインサニエルとカエクス、教皇は少し離れた場所でコソコソと話し合っていた。
「あぁ……大聖堂が崩落して……どうしましょう……魔王の討伐も最果ての魔物の殲滅も不可能になってしまいました……」
「大丈夫です。きちんと宝玉は持ってきてありますので、計画に支障はありませんよ聖下」
宝玉とは崩落から避難する際にインサニエルが持ってきたものだ。教皇はインサニエルがアイテムボックスから取り出した、光すら呑み込む黒々とした球体を見て花が咲いたように表情を明るくさせて、そしてすぐに咳払いをしていつもの無表情を張り付ける。
「あの魔王が引き起こした街中や大聖堂での殺戮のおかげで、宝玉には負の感情が十分に集まっているようです。ですので、手順を踏めば今すぐにでも邪神様を降臨させて、あの魔王を始末する事ができます。もっと言えば、既にこの大陸に上陸しているらしい最果ての魔物を殲滅する事だって可能でしょう」
「…………」
そう言うインサニエルに教皇は考え込む。今ここで邪神降臨させるべきか、静観するべきかを。
大聖堂の地下にある広間に準備してあった完璧な魔法陣が瓦礫に埋もれてしまったせいで邪神降臨の儀式の際にちゃんと邪神を支配下におけるかも分からないし、通り魔による殺戮のせいで遠くに見える王都の街並みは喧騒に包まれている。それを静める騎士も勇者と神徒を助けるために王城を襲撃したフレデリカ達とオリアルに痛手を追わされて人員不足であるために静められていない。こんな状況下で邪神を復活させてしまえば王都は壊滅的な混乱に巻き込まれ、最悪の場合、邪神の瘴気に精神を侵食された一般人が凶行に走ってしまう可能性もある。
……などと、あれやこれやと考え込む前に【運命視】を使用してみたのだが、何度使用しても何も見えないと言う異常事態に陥っているせいで正確な判断ができず、しかも視界が黒で埋め尽くされていたために、自分が見たものがいつのものかも分からないせいで迂闊に行動ができないのだ。あの真っ黒な光景が復活させた邪神によって滅んだ世界なのかも知れないし、称号持ちが大勢集まってきた結果なのかも知れない。考えれば考えるほどに行動を制限されてしまうのだ。
まさに絶望的な状況だ。騎士団は役立たずで民衆は混乱していて邪神降臨の儀式の準備も整っていない。
賭けるのならば邪神降臨の儀式を行うべきだ。復活した邪神への支配が完全なものにならない可能性があって、もしそうなってしまえば邪神が好き勝手してしまうかも知れないが、支配が成功した場合の恩恵は途轍もないだろう。
縋るのならば勇者と神徒がなんとかしてくれるのを信じるべきだ。だが、まだまだ余力を残している様子の魔王に対してあれならば勇者や神徒がなんとかしてくれると言う望みは限りなく薄いだろう。
どうするべきなのか……考えて出した結論は不完全な状態でも邪神を降臨させると言うものだった。
どの道ここで賭けに出なければ世界は終わりなのだ。勇者や神徒が相手でも勝ち目の見えない魔王に、絶大な力を誇る最果ての魔物の到来……どちらかがどうにかなっても、激しく損耗した人類ではもう一方に滅ぼされるのみでしかない。
……賭けられるのも縋れるのも信じられるのも、全て邪神の存在しかないのだ。
「魔法陣の準備をしましょう」
「了解しました」
「承知」
教皇は二人にそう言ってから、共にフレデリカ達の側を離れて近くにあった空き地へと移動する。
大きな屋敷の跡地なのかかなりの広さで、空き地になって間もないのか、きちんと手入れが施されているかは分からないが、草の一本も生えていない。当然小石などは転がっているが、邪魔なものがなくて広さも十分。
教皇は満足げに頷いて、アイテムボックスから魔石を磨り潰して粉末状にしたものを取り出し、それを水魔法で溶かして液状にする。するとそれは次第に泥状へと変質していき、魔法液と呼ばれる物質へと姿を変える。教皇はそれを使って魔法陣を描き始めた。地面に垂れた魔法液はその瞬間に完全な固体へと変質する。
途中何度か魔法液の補充をして、そうしてゆっくりと的確に、空き地全体を存分に使って巨大な魔法陣を描いた教皇は魔法陣の中心に黒々とした宝玉を置いて魔法陣から出てしゃがみこみ、魔法陣の一角に人差し指をそっと触れさせ、魔法液で構成された魔法陣にゆっくりと魔力を流し始める。
「さすが聖下。何も見ずにここまで綺麗に魔法陣を描くとは……まさかあの巨大な魔法陣を記憶していたと言う事ですか?」
「えぇ、魔法陣の記憶に関しては自信があるのですよ。複雑故にそれぞれが違った形を持っていて、私にとってはとても記憶しやすく映るのです」
「なるほど……普通は複雑すぎると記憶できないものなのですけど、まぁ複雑な運命を見てきた聖下だから言える事……と言うことなのでしょうね」
魔法陣に魔力が浸透するまでの時間でそんな雑談をする二人。今から邪神を降臨させると言うのに気軽すぎないか、と思うだろうが、これは緊張の裏返しだ。普段であればこの程度の雑談などはしないのだが、今は緊張をまぎらわそうと他愛もない会話で気を逸らしているだけなのだ。
そんな他愛もない会話には唐突に終わりがやってきた。魔法液の回路が淡い紫色の光……魔力の光を放ち出したからだ。魔法液を完全に教皇の魔力が浸透したと言うわけである。
あとはこの魔法陣を発動させるための呪文を唱えればいいだけだ。
教皇は固唾を飲んでから、背後で見守ってくれているインサニエルとカエクスに声をかけた。
「……いきますよ? お二人とも準備はよろしいですか?」
「はい、自分は大丈夫です」
「同じく」
震える声を抑えながら言う教皇に短く返す二人。流石にインサニエルの声色には緊張が見られたが、カエクスはいつも通りの堅苦しい口調で微塵も声色を乱さない。
「すぅぅぅ……はぁぁぁぁ……」
深く息を吸って吐いた教皇の覚悟を決めた。邪神を支配できるもできないも、あとは即興で完成させた自分の魔法陣を信じるのみだ。これはもはや賭けではない。魔法陣を作ったのは自分なのだから、失敗すれば自分の責任だ。人類の存続を脅かす敵を排除できるか、人類の存続を不可能にする敵を増やすか……希望を生むか絶望を深くするか……ただの空き地と言うなんの感慨もない場所で、しかもたった三人の目の前で、人類の存続を揺るがす儀式が行われるのだ。
人類の命が全てこの手の中にある……その異常な状況と重すぎる責任に押し潰されそうになりながらも、教皇は覚悟の下に声を発する。
「──」
言葉を発そうと口を開いた教皇はそのまま動きをとめてしまった。後ろ儀式を見守るインサニエルも、インサニエルの腕にぶら下がるカエクスも。
人間の頭部ほどの大きさの黒い宝玉が地面を瘴気で侵食しているのだ。魔法陣を構成する凝固された魔法液が放つ淡い紫色は、真っ黒な瘴気と混ざって、どこか星雲を彷彿とさせる。星雲のように綺麗な煌めきをを放っているわけではないが、その色合い的に星雲と称せば分かりやすいだろうと言うだけだ。……そう、綺麗ではないのだ。一切の煌めきは存在せず、寧ろ光を呑み込んでいると言ってもいいほどに禍々しいのだ。なのに、そのはずなのに、なぜか惹かれてしまう。目が離せない……動けないわけではないのだが、なぜだか動きたくなくて、いつまでも見ていたかった。
今から現れるのは邪神と呼ばれるロクでもない存在なのに、邪神の支配に失敗して終わりを招いてしまったのに。
地面だけでなく、魔法液から漏れでる淡い紫色のオーラまでもが侵食され、大気が瘴気に呑み込まれていく。瘴気を身近に感じてしまったからだろう……気分が悪くなってきた教皇やインサニエル、カエクスはそこで漸く暗黒に染まった空き地から離れ出すことができた。
逃げながらもチラチラと後ろを振り返る教皇が見たのは、自分達を追いかけるように広がっていく瘴気だった。侵食された場所が増えれば増えるほど侵食は加速していく。空き地に面した家屋や店……それらは瞬く間に黒一色に染められてしまう。
街灯が少ないこの世界の夜は真っ暗だ。それこそ、影の世界と言っても通じてしまうほどに。だからこれ以上の暗闇は存在しないと思っていた。……だが、それは間違いだったと認識を改めざるを得なかった。
これは影などではない……闇でもない……暗闇でもない……漆黒でも暗黒でもない。
これはもはや無だ。物と物の境界が分からないほどに黒いのだからそれは黒の壁に過ぎず、しかし触れられるわけでもないので存在するかも不確か……故に無だ。ただの虚無だ。先ほど見た星雲のような光景も合わさって、さながら宇宙が迫ってきているかのようだった。
そんな宇宙の如き侵食は突然動きをとめた。黒い宝玉から円形に広がりつつあった瘴気がそこでとまったのだ。チラチラと振り返っていた教皇はそれに気付いて足をとめた。「何をしているのですか!?」と叫びかけたインサニエルもそれに気付いて足をとめて教皇の斜め前へと位置取った。
結構離れたのと、全てが黒に染まっているために辛うじて見える空き地だったであろう場所。その中心には朧気にだが何かが佇んでいるのが見える。周囲の黒と同化しているせいで輪郭すらロクに認識する事ができないが、見つめ続けているうちにやがてそれが人型を取っているのが窺えた。
気怠げな猫背は教皇達に弱々しさを抱かせるはずだったが、どうしてもその人型が放つ威圧感が拭えない。魔力を絶えず撒き散らしているのかとも思ったが、どうも何かが違う。あれは魔力と呼べるほどに清浄なものではない……瘴気や邪気と呼ばれる禍々しい魔力の一つだ。
この世の負を全て詰め込んだかのようなその悍ましさは教会の頂点に君臨する教皇ですらどうこうできるレベルのものではなかった。
それも当然だ。
あれは教皇らが崇める神に連なるそれなのだから。
──邪神
あれは邪神だ。
邪神と成ったばかりに無意識下で世界を瘴気や邪気で満たしてしまう罪深き者だ。
見ればその瞬時に脳が、本能が理解した。人の手が及ばない超常の存在……その中でも邪悪な存在である邪神なのだと。
自分で復活させて降臨させておいてなんだが、これは関わってはいけない類いの存在だと思い知らされた。この時、インサニエルは恩人の言葉を思い出していた。邪神に向けられた言葉ではなかったが、『触らぬ神に祟りなし』と……いくら人類の希望になり得るかも知れないからと言っても、やはり触れるべきではなかったのだと後悔するしかなかった。
もし仮に大聖堂の地下に描いてあった万全な魔法陣で降臨させたとしても、絶対に支配はできなかっただろう……復活したての今の状態ですら絶対に。……教会の魔法陣なら支配できていたのにと言う自信を全て覆すようなそれは、自分が置かれた状況を把握するために周囲を見回している。
どこに顔があるのかは全てが真っ黒なために窺い知る事はできないが、その動作でなんとなく理解する事ができた。
こちらを向いた邪神と目が合う。すると邪神は輪郭を揺らしてこちらへと歩みを進めてきた。敵意は感じられないが、絶えない威圧感に逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、逃げるわけにはいかなかった。
自分は邪神を降臨させてしまった本人なのだから無様に逃げ回る資格はないのだ。自分の生殺与奪の権利は既に邪神の手中にあるのだ。
一歩、一歩、また一歩……と確実な歩みが懐かしい。とうに忘れた平常時の心臓の鼓動と同じリズムで刻まれるその歩みが、激しく鳴動する心臓には懐かしく感じられた。
やがて、すぐそこにある、色の境目までやってきた邪神は無言で瘴気に佇む。無言と言っても、ズイッと顔を近づけてきて、全てを覗くような視線を向けてきている。今までの記憶や思考などの、自分達の過去やらを覗くようにジィッと観察してきているのだ。
それが不気味で悍ましくて恐ろしくて、泣き出しそうで笑ってしまいそうで……狂ってしまいそうで、そして侵食の二文字が脳裏を過る。蝕まれるようなその感覚を自覚してしまえば、教皇はとうとう立っていられなくなった。
へなへなと崩れ落ちる教皇を視線で追わなかった邪神は、顔を引っ込めて直立の姿勢を取ってから、侵食の世界から足を踏み出した。生気のないその動作に心を氷漬けにされるインサニエルとカエクスは、終始一言も発することなく邪神と教皇を眺めるしかなかった。
体から黒い水滴のようなものを滴らせて地面に黒点を残しながら……心臓の鼓動のような歩みは足跡となって残り……邪神は瘴気の残骸を残しながら、オリアルとアルタが会話している大聖堂へと歩みを進めていた。
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空を進む魔王城密集地帯は、地上に影を落としながらミスラの森へと進んでいた。小高い丘の上にある魔王城はニグレド達との約束通りアイドラーク公国跡地へと置いてきており、そのせいで空いた土地には元々空島に配置していた魔王城を移植する事で対処している。
そして最果ての魔物の殲滅時にニグレド達が避難する魔王城に関しては、ミスラの森についてから適当に創ればいいだろうと考えて、まだ創っていなかった。
そんな秋は魔王城を出て、絶えず吹き続ける風に吹かれながら、時間の流れの変化に眉を顰めていた。
始めは暇潰しにと流し目に見ていた、アデルとラウラ、別行動しているクルトに、マーガレット達、オリヴィアや季弥に夏蓮……そう言った自分との関わりの深い人物達につけていた監視用の蘇生生物が見せる光景だったが、見ている内に違和感を抱いてしまい、それから注意深く見てみた結果、アデル達とオリヴィア達のいる場所などでは大きく日の高さが異なっていた。
何事だとアブレンクング王国からミレナリア王国まで【転移】で赴いたりして太陽の移動速度を観察してみた結果、何者かが時間を操るスキルで広範囲に渡って時間の流れを操作しているのだと認識できた。誰がなんの目的を持ってこんな事をしているのか分からないが、それなりに力を持ったものでないと為せない行動であるために警戒しておく必要があった。
絶えない風に吹かれながら、暇潰しに親しい人達の行動を眺める秋は、そのついでに周囲の警戒もしておく事にした。……したのだが、次にやってきた問題は周囲など全く関係なく、それは自分に起こった重要な問題だった。
前々から邪神とシュウが何かを企んでいるのは察していた。だが、肉体を持たない二人が何かを為そうとするのは不可能ではないにしろ、長い年月が掛かるだろうと考えていた。
昔の勇者や賢者に封印された、いずれ世界を呑み込むと言われるほどのフェンリルですら今の今まで魔力の回復に専念していたと言うのだから、邪神とシュウもそれぐらい掛かるだろうと余裕を持っていたのだ。
だが、二人はたった今行動を起こそうとしていた。
精神世界に入って二人を粛正しようとする秋だったが、精神世界への侵入が拒まれているようで、何度か試しても精神世界に入る事ができなかった。何が起こっているのかも分からず、気怠さが……力を奪い取られて、力が抜けていくような、そんな感覚だけが襲い来る。そうしてどんどん減衰していくステータスのせいで、体がついていかなくなってしまい、やがて膝を突いてしまう。
精神世界に入れないせいで何の抵抗もできずに奪われていくステータスに、秋が覚えるのは焦りのただ一つだけだった。このまま弱体化してしまえば【魂強奪】への道が遠ざかってしまう……そんな焦燥だけだった。
いや、やはり【魂強奪】などは邪神のでっちあげだったのかも知れない。強くなって【強奪】のレベルを上げれば、フレイアを完全蘇生させられると希望を抱かせて、それに釣られて必死になって蓄えたステータスをこうしてかっさらっていくための嘘だったのかも知れない。
……だとすれば自分はとんでもない道化だ……始めは疑いこそしていたが、時間が経つに連れてどうするべきか早く決めないとと焦って、そして結局信じてまんまと二人の思惑通りに動いたのだから。……そうだ、確かにそうだ。どうしてこの世に唯一無二の固有能力である【強奪】の事を邪神やシュウが知っていたのか……これも疑う要素一つとして入っていたはずなのに、決定的な疑いの要素だったのにどうして……焦燥の思考で秋はそんな事を考えていた。
そうしている内にだんだんと秋の体からどす黒い瘴気邪気やらが漏れだしてくる。何かが体内から抜け出そうとしているような、そんな感覚だ。
思い浮かぶのは蝶の羽化だ。破られる殻にでもなった気分だった。成長のための手段として用いられ、用済みになったら呆気なく捨てられるその気持ちが理解できそうだった。
文字通り、魂が抜けていく感覚は……激痛だった。生きたまま内臓引き摺り出されたらこんな痛みなんだろうなと言う想像を、何十倍にも、何百倍にも膨らませたような……死の痛みに勝るとも劣らない、そんな異常なまでの激痛。死の痛みは死んでしまえば無くなってしまうが、この痛みは死という終わりを持たないせいで、魂が抜けきるまで終わる事はない。
叫び出したいほどの……近頃めっきり味わう事のなくなった久しぶりの酷い苦痛。ニグレド達がいる魔王城に響いてはいけないからと、到来する継続的な痛みを全て噛み殺す。歯茎から血が流れてくるほどに噛み殺す。手の平に血が滲むほどに噛み殺す。蹲って額を地面に打ち付けながら痛みを噛み殺す。痛みを和らげるついでに、痛みを痛みで掻き消そうと四苦八苦するが、所詮は苦。
外的な痛みで、内的な痛みがどうにかなるわけがなかった。
ひたすら痛みに耐える秋から漏れだす瘴気や邪気は、充満して魔王城密集地帯を侵食する事なく、漏れだしたそばからどこかへと移ろっていた。
やがて、魂が抜けきって壮絶な痛みから解放された秋は、服についた汚れを払って立ち上がり、ルキア以外に誰もいなくなった精神世界へと訪れて、邪神とシュウの不在を認識した。
二人がどこへ行ったのかは分かる。
目的地を変える事なく、半分以下にまで減少したステータスを自覚しながら、秋は魔王城密集地帯で空を進む。