第350話 流れる時間の中で
結界に進行を妨げられている砂嵐が佇むミスラの森。
ここは秋がフレイアと出会った森で、そこから秋とフレイアとオリヴィアが辿った軌跡からすれば、一番近い国はミレナリア王国にある冒険者の街フィドルマイアになるのだが、ミスラの森は広大だ。
ミレナリア王国のフィドルマイアとアブレンクング王国のシックサールの間を繋ぐほどには広い。なのでミスラの森は明確にどちらの国のものか定められておらず、半ば共有財産のような……そんな扱いとなっていた。
だが今回の件に関して言えば、アブレンクング王国側に領地の管理者としての責任があった。理由は単純に、問題の存在がミレナリアよりアブレンクングの方が近かったからだ。だから最果ての大陸の監視も、最果ての大陸の魔物に関する報告や対処も殆どアブレンクングが行う必要があった。
そのせいでアブレンクング王国の国王は禿げそうな思いで最果ての大陸及び最果ての大陸からやってきた魔物への対処に追われていた。
……そして、アブレンクング王国の国王が禿げそうになっている元凶のである砂嵐──セトや、その他の魔物達は、国王が念のためにと世界各地からかき集めた優秀な結界師に張らせておいた特大級の結界によって足止めを食らっていた。……規模で言えば ミレナリア王国に張られている魔物避けの結界と同等かそれ以上だ。
この結界はアブレンクング王国が管理しているミスラの森と、ミレナリア王国が管理しているミスラの森、そしてミスラの森に面した街道を境目に、隔離するようにしてキッチリと張り巡らされており、砂嵐だけでなく、全ての最果ての魔物達はミスラの森に閉じ込められてしまっている。
しかし、所詮は優秀な結界師が束になって張っただけの結界だ。何もかもが規格外の最果ての大陸で生きてきた魔物達が結界を破ろうと攻撃続ければいずれは破壊されてしまうだろう。短くて半日、長くて三日……その程度しか持たないだろうが、アブレンクングの国王の働きぶりからすればかなり準備は整えられるだろう。……他の国がどう動くかによって大きく変わってくる事を除けば、だが。
結界を破壊するために結界への攻撃を休むまもなく繰り返すセトは苛立ちで気が狂ってしまいそうだったが、狂えるほどの気がないのがセトだ。いくら圧倒的な強さを誇る最果ての魔物だからとは言え、殺戮のために人間の住まう大陸に繰り出すほどなのだから正気ではない。
砂嵐の足元……セトの付近で同じように有象無象の魔物達が結界攻撃する。嫌われ者として扱われていたセトと並んで……だ。セトがなけなしの正気で少しの嬉しさを覚えると同時に、セトは最果ての大陸の主要な存在がこれに加わっていない事に気付いた。……疑問に思って振り返って見れば、腐敗した泥の巨人などは後方に佇んで結界を攻撃する自分達を見ているだけだった。
何をしているのだとセトがそちらに向かう。嫌われ者の自分が他者に歩み寄ろうとしているその状況にハッとして、その衝撃のせいか、セトの頭には閃きが浮かんでいた。
セトは自身を覆う砂嵐を消滅させて目当ての魔物へと歩み寄る。
その魔物は人型だった。白い髪と白い髭が顔を隠しており、その人相を知るのは困難。胡座をかいている状態だが、尻は地面についていない……つまり宙に浮いている。胡座をかいているせいで正確な身長を推し測る事はできないが、この体勢でも平均的な人間の身長と同じぐらいなのでかなりの巨体なのが窺える。そして何よりも特徴的なのが、その魔物の背後に浮かび、時を刻んでいる巨大な時計だ。短針を長針だと見紛うほどに短針は長く、長針に至っては時計の枠からはみ出してしまっている。
カチカチと秒針が振れる時計を背後に浮かべた時鐘の老人にセトは接近し、そして話しかける。
「なぁジジイ、少し頼み事がある」
セトが時鐘の老人──エクディロシに話しかけるが、エクディロシはまだ幼いために言葉を話せない。エクディロシは老人のような見た目をしているが、生まれて間もない赤子である。世界全体の時間の流れを操作する代償として新品のその身の寿命を支払った結果としてこのように老いてしまっているのだ。
長命である魔物の寿命を殆ど支払ったとしても、時間の神と力関係を鬩ぎ合わせる程度の力しか得られなかったので、時間の流れをいつでも何度でも制限なく時間を操作できると言うわけではない。……実を言えば勇者や賢者の周囲の時間を操作するだけでもギリギリだったのだ。
エクディロシがこの世界全体の時間の流れを操作する理由は異世界と時間の流れを近付けるためだ。この世界と他の世界の間に流れる時間の歪みに、世界が喚んだ異世界人が呑まれてしまわないようにするためだ。
時間の……時空の歪み──『次元の狭間』や『次元の裂け目』などと呼ばれる、世界間の流れに呑まれてしまえば、どこにだって無差別に流れ着いてしまう。
……何もない空間に放り出されて負荷をかけられて一瞬で魂ごと消滅したり、次元の狭間に放り出されて存在自体を八つ裂きにされたり、生物が生きられない世界に飛ばされ亡者のように彷徨うしかなくなったり、本当に何も存在しない無の世界である虚空世界にだって放り出される。元いた場所にだって流れ着いたりもする。とにかく、神にだって予想できないどこかに流されてしまうのだ。
自分達の都合で世界を渡らせるのだから配慮はしなくてはならないだろう……と言うか次元の狭間に呑まれてしまえばこちらの戦力を増強する事ができなくなってしまうので時間の流れを整えるしかなかったのである。
「この大陸全体の時間の流れを遅くしてくれ。……この森に近付けば近付くほど時間の流れを遅く……もっと言えばこの森の周辺だけは他よりも一層時間の流れを遅くして欲しい」
セトがエクディロシに言う。拒否されるなどとは微塵も思っていないようで、あまりにも淡々とした口調で昂然と言う。
「そうすれば俺の……俺達の上陸に気付いた人間共が俺達を倒そうと一遍に集まって来ることができ、俺達は移動する労力などを省いて人間共を確実に一網打尽にできる」
魅力的な案ではあるが、しかしエクディロシにはそれができなかった。理由は時間の神との力関係の維持にある。もしセトの案を受け入れて大陸全体の時間の流れを遅くしようものなら、時間の神はエクディロシの大胆な行動に目を付けて、力の行使によって消耗しているエクディロシを殺すなりして時間操作の力を剥奪し、世界が他の世界から援軍を喚べないようにするために他の世界との時間の流れを大きく歪ませることだろう。
そうなってしまえば、有利を悟った神達とその戦力である人間達からの執拗な猛攻を受けて徐々に戦力を削られ、そしてその内、世界と共に自分達は終わってしまう。
そんなエクディロシの思考を読んだかのようにセトが口を開いた。それはエクディロシを頷かせる言葉であり、エクディロシに決心を抱かせるものだった。
「先のことを考える必要はない。俺によって二つの大陸は繋がれた。もう不干渉ではいられない。……たとえ俺達がこの場で退いたとしても、臆病な人間は俺達の襲来を恐れて何度も何度も俺達を討伐しようとやってくるだろう。そうなればお互いに少しずつ損耗していくだけの無意味で無価値な戦いしか生まれなくなる。それに、大陸が繋がれたとなれば人間の絶滅を危惧した神が勇者や賢者に連なる役割を持った者を生み出すはずだ。そうなってしまえば俺達が不利になるだけ。……だからお前は先のことなど考えず、この戦いに全てを賭せばいい。これはお互いの存続を賭けた戦いの終わりとなる最終決戦だ。全てを擲って臨むしかない。分かるだろ?」
大陸が繋がれてしまった事によってお互いに退けなくなってしまった……つまりこれが世界と神の争いの最後になるのだから、出し惜しみをしている場合ではない……セトが言うのはそんな事だ。
それを聞いて、顎髭を擦りながらどうするかを考え込んでいたエクディロシはやがてそれに納得して頷いた。
それを見たセトは振り返って結界を攻撃する魔物達の側へと戻っていく。期待と狂気と愉悦に歪んだ表情をエクディロシに見られないようにするにはそうするのが一番手っ取り早かった。
セトが考えるのはいつだって殺戮だけだ。最終決戦だなんだと宣ってはいたが、セトの頭にあったのは多くの命を一遍に散らす事だけ。世界の意思を無視して大陸を渡ったことからそれは明らかだ。……エクディロシの力によって時間の流れを歪めて、それによって多くの人間が集まってきたところで自分が蹂躙する。
考えれば考えるほどにセトは笑みを深くしてしまう。
いけない、こんな表情を他の魔物達に見られてしまえばこの策略が散ってしまうかも知れない。……けれど笑みは消えない、消せない。だからセトは砂嵐を生み出して姿を隠した。殺戮に震えて、いつものように。
緩慢な時の流れの中で、誰もが足掻くように活動していた。緩やかな時間の流れを生み出しているエクディロシ本人でさえも例外ではない。
勇者も、賢者も、魔王も、それらの友人や親族、それらと関わりの薄い者達も…………一部には例外もいるが、この世界に在る大体の生物が時間の流れの変化に気付くことなく最果ての大陸……いや、ミスラの森に向かっていた。
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ミレナリア王国の王都ソルスミード。
王城から自分の屋敷へと帰宅したオリヴィアは帰宅して早々にミアと季弥と夏蓮の三人に話した。話した内容は最果ての大陸関連の話だ。普通なら打ち明けるべきではないのだろうが、話せ、と思考や感情にも似た勘が告げるのだ。……もしかしたら思考や感情そのものなのかも知れない。
オリヴィア自身の子供がそこに向かっているから、それとの仲直りを望むミアに話しておくべきだと。季弥と夏蓮の子供もそこに向かっているのは確実だから話しておくべきだと。
そんな話を扉越しに聞いてしまっていた春暁と冬音。大人達がコソコソしているのを見つけたから好奇心に負けてしまって後をつけてしまったが故だ。
最果ての大陸。
それの存在は良く知っていた。小さい頃からこの世界で育った二人は地球──アースガルズの御伽噺よりも、この世界──ヴァナヘイムの御伽噺の方を聞かせられて育っており、馴染み深いものとなっていたからだ。
誰も生きて帰ってこられない魔境。その話を聞かせられた当時は怖くて暫く悪戯などの悪さをする事ができなかったものだが、今は違った。二人は絶大な力を手に入れ、季弥とミアとステラと共にだが、グリフォンの群れを退けられるほどに強くなったのだ。もう並大抵の魔物は目じゃない。
だから、二人は最果ての大陸に恐れや畏れではなく興味を抱いた。抱いてしまった。
扉の向こうに広がっている部屋の中からは誰々がいつどうやって最果ての大陸に向かうのかが話し合われている。それを真剣に聞いてどうすれば自分達も一緒に向かえるかを考える。……連れていってくれるように直接言うのはなしだ。心配されて引き止められるのは目に見えているのだから、コッソリついていくしかないのだ。
「馬車で向かうみたいだから……荷台にでも忍び込んじゃえばいけそうだね、お姉ちゃん」
「そうは言うけど、騎士団の馬車だよ? きっと気配の探知に優れた人がいて、その人にバレちゃうに違いないよ。それに、アブレンクング王国までは早くても一日はかかる。その間のご飯とかお風呂、トイレとかはどうするつもりなの?」
「僕達も騎士団の人となり同じタイミングですればいいじゃん。初夏さん……アニマの力を使って気配を消す外套を顕現させればいいんだよ」
アニマの力はアニマを宿した本人にしか効果を持たない。だが、アニマを宿した本人と顕現させたものを共有するのであれば問題ない。この場合であれば、気配を消す事ができる毛布などを生み出して、それに一緒にくるまれば効果の共有が可能である。
「す、凄いね……アニマって武器以外にも形を変えられるんだ。いいなー、私のより便利そう」
「お姉ちゃんのも凄いと思うよ。自分が立てた音だけとは言え、音を自由に操作できるんだからさ。……手を叩いた音とかでグリフォンとかも落とせるし、音の振動を利用して相手の視界や脳を揺さぶったりもできるし、圧縮した音で直接攻撃もできる」
「うーん……やっぱり春暁のアニマには負けるよ。……よぉし、弟に負けてらんないから、お姉ちゃんも頑張らないとね!」
扉から耳を話して腕捲りをする冬音はそのまま春暁の手を引いて、自分達がいる事になっている庭へと戻った。それから間もなくして扉が開かれてミアと季弥と夏蓮が出てきた。冬音は室内から聞こえる人間が立ち上がる音を耳に入れて春暁を連れてこの場を離れたのであった。……本人はそれほど便利ではないと思っているようだが、使い方を把握さえすれば便利すぎる能力なのである。
庭に戻った二人は、放置されたことに頬を膨らませて怒っているステラに謝ってから先ほど聞いた事を話して、一緒に行かないかと誘う。……友達からの誘いだ。友達を求めてやまなかったステラはそれを断ることができず嬉しさに負けてしまい、危険を承知でそれに頷いていた。
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ライリーの屋敷に集まっていた者達は数時間後の日が暮れた頃にもう一度出会う約束をしてからそれぞれ散っていた。
最果ての大陸からやってきた魔物との戦いに備えるための準備や休息はもちろん、それ以外にも解散してからやるべき事はたくさんあった。……家族への別れ、死んでしまった時のために遺書を書いておいたり、身の回りの整理をしたり、馴染み深いこの街を最後に堪能しようと街中をゆったり散策したり……そう、大半の者が死への歩みとも呼べるそれを着々と進めていた。
準備を終えたラモンとマーガレットとエリーゼの三人は、下手に休んでやる気がなくなってはいけないと考えて街中を散策していた。目的などは一切ない。ただ、興味が湧いた店などに手当たり次第に入っていくだけだ。
そんな穏やかで楽しい時間を過ごしている内に、いつの間にか王都のはずれの方までやってきていた。活気がある王都の中心部からはずれたここでは子供達がボールなどで元気に遊んでおり、楽しそうな声がそこら中から聞こえてくる。
すると、どこからか飛んで来たボールがラモンの頭に直撃した。硬いボールではなかったので痛みは全くないが、思わずボールが当たった場所を撫でるラモンに、遠くから「ごめんなさーい!!」と声が届いた。隣にいるマーガレットとエリーゼからは、ぷくくく、と言う笑いを堪えるようなものが聞こえる。少々の怒りを抱くラモンはそれを堪えながらボールを拾い上げ、走ってやってくる少年にそれを手渡した。
「あ、ありがとうございます……じゃなくて! あの、ごめんなさい、頭大丈夫ですか!?」
「「ぷっ……あはははははは!」」
頭大丈夫ですか!? ……少年のそんな心配する言葉が別の意味で聞こえてしまったマーガレットとエリーゼは堪えきれずに吹き出してしまった。殴りたい衝動に駆られるラモンだったが、目の前には心配そうに見上げてくる少年がいる。少年の教育に悪いと我満してヒクつく口を端を持ち上げながら答えた。
「…おう、俺は大丈夫だぜ。……ほら、これボール。……まぁ、これからはもっと気を付けて遊べよな? 今みたいに誰かに当たったら危ねぇからよ」
「うん。ありがとう、それからごめんなさいお兄ちゃん。……えっと……そうだ、手当てしないと!」
「…あ? いや、大丈夫だって……」
「でも、もしもの事があったらダメだから!」
ボールを手渡すためにしゃがんだラモンだったが、心配そうな顔をした少年に頭を撫でられてしまう。
「ふっ……はは、そうだぞラモン。私達は今から大変なんだから慎重にならなければいけない。ここはその子の言う通り手当てを受けておけ」
「小さい子供の親切心を断るのはよくないですわ。……ふふっ……」
子供に頭を撫でられるラモンと言う光景にマーガレットとエリーゼはクスクス笑いながら言う。屈辱に顔を真っ赤に染めるラモンは溜め息を吐いてから少年についていく。この少年と遊んでいたと思われる他の子供達も連れて、怪我も何もないのにどんな手当てをするつもりなのだろうかと疑問を抱きながらもついていく。
そうしてラモンとマーガレットとエリーゼがやってきたのは孤児院だった。清潔感に満ち溢れた外観で、子供達の衛生面に問題はなさそうだ。窓の向こうに見える内装もかなり整っている。ラモンがそんなところを気にしてしまうのは昔自分がいた孤児院がそれほど裕福ではなかったからだろう。
目の前の孤児院を見ていると少しだけ懐かしい気持ちになり、そして思い浮かぶのは自分の世話をしてくれた親代わりのような人物だ。
以前ラモンが暮らしていたフィドルマイアの孤児院を出る際に少しだけ揉めて、最後に酷い事を言ってしまったのが心残りだった。王都に着いて暮らす中でその内謝りに行こうと思ってはいたのだが、そうする前にフィドルマイアは滅んでしまった。
『家族の為に行動するのはいい事だと思うけど、その為に貴方が手を汚す事が……私……凄く悲しいの。ラモン君……私じゃダメかな? ……私じゃ貴方の家族にはなれないかな……?』
ラモンが自分の家族を襲った強盗を殺すための力として魔法を学ぼうと、フェルナリス魔法学校に入学すると言った時に親代わりの女性からかけられた言葉だ。
『…エマさんには感謝してるけど、あんたは俺の家族じゃねぇ。どれだけ俺に尽くしてもそれは変わらねぇ。俺の家族はあの人達だけなんだ』
『そう……分かった……ごめんなさい』
自分の事を本当の家族のように考えてくれている親代わりの人間に対して『あんたは俺の家族じゃねぇ』なんて言葉を発してしまった事を後悔していて、心残りとなっていた。
その時に見せた悲しげな表情が今でも鮮明に思い出せる。笑顔の絶えなかった優しい表情が、涙の滲んだものに変わってしまったのだ。
そしてそれ以降の残り僅かな孤児院での暮らしで見せたよそよそしくてぎこちない態度。明らかな愛想笑いに、どこか怖がっているような震える手……思い出せば思い出せば……思い出すほどに後悔は深まって、自分がダメになってしまうような気がしてくる。
……そしてこの心残りは決して拭えないものだ。謝罪をしようにも、孤児院が、街そのものが存在しない。しかもフィドルマイアから逃げてきたなんて言う人物を見たことも聞いた事もないから、特別運動ができたわけでもない親代わりの人物が生存している可能性は極めて低い。もし生きていたとしても、あと一時間ほどで自分は死地に向かわなくてはいけない。この、たった一時間で今まで出会う事のなかった人間と出会うなんてまずあり得ない。
……そう考えれば親代わりの人間への謝罪と言う不可能なものは心残りになどならずにすんなりと諦めることができ、そして心残りになるのは酷い事を言ってしまった記憶だけだ。
孤児院を見上げてそんな後悔の記憶に浸るラモンは子供達に手を引かれるまま孤児院に招き入れられ、ラモンの振る舞いに不信感を抱いたマーガレットとエリーゼは顔を見合わせてからそれに続いた。
孤児院に入ってまず最初に出会ったのは微笑みを湛えた老婆だ。
「おや、お客さんかい?」
「ううん……じゃなくて……そう。僕達が遊んでて飛んでいったボールがこのお兄ちゃんの頭に当たっちゃって……」
「あら、そうなのかい。……すみません、うちの子供達が」
「…俺はこいつらの親切心を無下にしたくなかったからここにいるんだ。別に怪我とかしてるわけじゃねぇから気にすんな」
「それは……本当にありがとうございます」
頭を下げて礼を言う老婆に調子が狂うラモン。そこでまたもやマーガレットとエリーゼが口を開いた。
「せっかくだから子供達と遊んで帰ろうか。な、エリーゼ、ラモン?」
「まぁ、それはいい案ですわね。わたくし小さい子供が大好きですのよ」
「…は? おい、なに言って……」
「あの、よろしいのですか?」
「あぁ、日暮れまで暇だったからちょうどよかった」
「本当にありがとうございます、親切な方々。ほらみんな、お兄ちゃんとお姉ちゃん達が遊んでくれるんですって」
老婆が言う三人の周りを取り囲んでキャッキャキャッキャとはしゃぐ子供達。あまりの勢いにラモンを揶揄っていたマーガレットとエリーゼも焦りを抱き、そのまま孤児院の庭へと連れていかれた。その後ろには微笑ましそうに老婆がついていっていた。
「あの、本当に怪我などはされていませんか?」
「…大丈夫だ。これでも冒険者やってるから見た目よりも頑丈なんだぜ俺は」
「冒険者ですか……そう言えばこの間ここを訪れた方も冒険者をやっていると仰ってましたね。冒険者の方々は優しい方が多いのでしょうか」
「…そうでもねぇよ。冒険者ってのは世間のイメージ通り粗野で乱暴な荒くれ者ばっかりだぜ。だがそれでも、冒険者はかなりの数いるから、そいつみてぇな善人も紛れ込んでるだけだ」
子供達とマーガレットとエリーゼがやいやいと遊ぶ様子を眺めているのはラモンと先ほどの老婆──シャノンだ。
なぜラモンが子供達と遊ばずにシャノンと話しているのかは、子供達が「お兄ちゃんつまんなーい」と言ったからだ。加減をしようとは努力していたのだが、それでも子供達に合わせる事ができなかったのである。
「ラモンさんは力加減こそ上手ではありませんでしたけれど、子供達との遊び方は分かっている様子でした。……ラモンさんには弟さんか妹さんがいらっしゃるのですか?」
「…俺が子供と遊び慣れてんのはそういうわけじゃねぇよ。……実は俺も孤児院にいたんだよ。それも割と最近まで。だから子供と遊ぶ職員を見て自然と……って感じだな」
「そうだったんですね。ちなみにどこの孤児院か伺っても?」
「…フィドルマイアだ」
「…………」
孤児院のことを楽しそうに、懐かしそうに話していただけに、孤児院がフィドルマイアにあるというのはシャノンにとって苦しいものだった。
「……ごめんなさい」
「…気にすんな、気にしても仕方ねぇ話なんだからよ」
そうして落ちる沈黙の帳。数分にも思えるそれは実際には十数秒程度あり、その沈黙を破ったのはシャノンだった。こんな空気にしてしまった責任から口を開いた。
「あ、そ、そう言えば、私達もここに来る前まではフィドルマイアの孤児院にいたんですよね。私みたいな老婆を連れて逃げても全員が生き残れているんですから、きっとラモンさんと過ごしていた方々も無事なはずですよ」
この話を掘り起こすのは確実に間違った判断だったが、しかしこの場合は間違いではなく、正解だった。
「…は? 本当にあんたらはフィドルマイアの……冒険者の街フィドルマイアの孤児院にいたのか?」
「え? えぇ、そうですけど……あの、何か?」
「…こりゃあいったいどういう事だ……? フィドルマイアにある孤児院は、俺がいたところだけのはずだが……」




