第321話 魂の集合体
秋を追うために、クラエルにだけ見えるらしい、秋との繋がりの糸を頼りに行動するニグレド達だったが、色々なところへと凄まじい速度で移動しているらしい糸に翻弄され、ミレナリア王国のとある村で行動を止めていた。
秋がこちら以上の速度で移動している以上、こちらが動いたところで追い付けるわけないだろうと判断したのである。……夜の間に魔王城を出たであろう秋に少しでも追い付けるように、魔王城が建てられているアイドラーク公国跡地からこの大陸の中心へと急いで移動したつもりだったのだが、やはり追い付けはしなかった。その結果がミレナリア王国の村である。
だが、追うのを諦めたわけではなく、秋の行く先から、秋が何を目的に行動しているのかを知ろうとはしている。
ニグレド達が行動を始めた当初は大陸の中心にいたが
ふとした瞬間にゲヴァルティア帝国がある方向へと糸が移動した。
……このような行動から秋の行く先の共通点などを探しだし、そして先回りしてしまおうと言う事である。
大陸の中心からゲヴァルティア帝国に一瞬で移動した事に関して、恐らくは【転移】を使ったのだろうと確定に近い予想を立てるが、【転移】は自分しか転移させる事ができないため、誰か一人だけが【転移】のスキルを持っていても残りの何名かは置き去りにしてしまう事になるため、行く先を知ってもどうしても追いかけられなかった。
「大陸の中心とゲヴァルティア帝国の共通点ねぇ……大陸の中心と言ったらニグレドとアルベドの故郷があったと思うんだけど、そこに行ったって考えられないかい? ゲヴァルティア帝国とか関係なくさ」
「この間ニグレドちゃんの両親には会えなかったから、今日挨拶をしに行ったって考えればあり得ない話ではないね。……と言うか久遠さんがフレイアちゃんと駆け落ちしたんじゃないかって妄想を、勝手に真実だって決め付けて行動しちゃったけど、こう言う小さな用事を済ませるために一時的に家を空けたって可能性もあるよね……」
「…………」
ジェシカの言う言葉に顔を青褪めるニグレド達。
朝起きたら秋とフレイアがいない事から駆け落ちしたんじゃないかと言うふざけ半分の予想を立て、そしてクラエルの「秋は近くにいない」と言う発言により、それが信憑性を増してしまい、こうして行動するに至っている。
ただのふざけ半分の予想を元に行動してしまっている事に危機感を覚えるニグレド達はどうしたものかと頭を抱える。……ここで魔王城に帰っておくか、捜索を続けるか……どうするべきかを考える。
「今日は一度帰りませんか? 明日の朝になっても二人が帰らなければ本格的に探すと言う事で、今日のところは冷静になって一旦様子見をしましょう?」
「ん……ソフィアの言う通り。様子見をするべき」
「うむ、童も賛成じゃ。だいたい、行方不明になって一日と経たずにあの城に住まう全員が家を出て探し始める事自体がおかしかったのじゃ。……探すにも、せめて誰か留守番を残すべきじゃったろうに、いったいなぜ誰も留守番をしなかったのじゃろうか……?」
「アキとフレイアがおらんくなって、全員がそんな簡単な事すら思い付かぬ程に焦っていた言う事なのだ」
『ボク達はアキがいないとダメな体になっちゃったー?』
ニグレドとクラエルの一言に黙り込むアルベド達。そんな盲目的な信頼のような依存を認めたくなかったし、否定したかったのだが、思い当たる節はよくあった。それに、心のどこか深い場所で頼りにしていたのかも知れないと考えてしまえば何も言えなくなってしまう。
……普段の秋をよく知っていて、普段の行動をよく見ていれば、それだけで無意識の内に信頼と安心感を抱いてしまっていた。
「……それは……寝起きで頭が回らなかっただけでしょう。私がそんな些細な事で焦り覚えるはずがありませんし。きっとあなた達もそのような感じでしょう」
「でもアケファロスちゃんは朝早くに起きていっぱい素振りしてたじゃん。それで寝惚けてたって言うのは通じないと思うなー、私」
「うぐっ……」
寝起きで頭が回らなかったと言い張るものの、アケファロスの鍛練を見ていたジェシカにあっさりと言い負かされてしまうアケファロス。
真剣な戦闘になればこのポンコツさはなくなるのだが、戦闘以外となるとどうしてもこのポンコツさが目立ってしまうのだ。……そのせいで秋やジェシカなどには揶揄われ、悔しさ半分嬉しさ半分と言ったような複雑な思いをしている。
「さて、アケファロスちゃんが言い訳しようとして自爆したところで……取り敢えず今日のところは魔王城に帰って、三日ぐらいしても久遠さんとフレイアちゃんが帰らなかったら、留守番を残して探しに行く……って言う事でおっけーかな?」
「それでおっけーなのじゃ」
「ん、それでいい」
そう決めてから、話し合いの場としていた飲食店で運ばれてきた昼食を摂ってから店を……村を出て、魔王城が建てられているアイドラーク公国跡地へと足を進めた。
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『嗚呼嗚呼嗚呼、あまあまあまあま、アマリアがアマリアが! 儂ら貴様らのアマリアが連れ去られて行くぞ!』
『甘々な自己犠牲をありがとう!』
『反吐が出る。虫酸が走る。他者を真に救えるほどの力がお前にあるわけがない。弱い自己犠牲など誰にとっても鬱陶しいだけだ。犠牲にすべきは他者であるぞ。他者のために生きるなど無意味』
『うるさい黙れ。死に行く人間への教育の方が無意味だ。心底どうでもいい。黙って甘々な自己犠牲君を取り込めばいい話だ』
「自己犠牲の何が悪い。私は……俺は俺の大切なものを守るために俺の身を削る。お前は俺の意思に口出しできるほど高尚な存在でもないでしょう。……ふぅ……あぁ、これが最後だ俺。俺は全てを尽くしてお前を足止めする……っ!」
そう意気込み啖呵を切って、魂の集合体と対峙するサート。
矮小な人間が道を阻んでいる事に嘲笑う魂の集合体は、火山が噴火したかの如く、魂の集合体の体の一部であろう人間の頭が吹き飛び、紫や緑や橙の煙が吹き出す。それに伴って茶色と黄色が入り交じった液体が、吹き飛んだ頭部……首の付け根の辺りから漏れ出ている。液体が地面に触れると一瞬で地面が溶け出して異臭を放つ穴を空けた。
「……っ」
思わず後退りをしてしまうサートだったが、ここで退いてしまえばアマリアとディーナ、サリオンとディニエルがこいつの追跡を受けてしまう事を思い出し、足を止めるのだが、しかしガクガクとみっともなく震える膝を叩くサートを見て魂の集合体は言った。
『愉快、愉快、勇ましく構えていたと言うのに、儂ら貴様らの頭が吹き飛んだだけでこれほどに驚くとは……やはり貴様にアマリアは任せられんな。ならば、逃げるためとは言え、儂ら貴様らだけの愛しいアマリアの手を許可なく握った事への制裁を加えよう』
『残酷にやるわ、飛びっきりね。儂ら貴様らのような醜い姿へと変えてしまいましょう。そうね……ディーナとか言うあの女に変わり果てたこいつをお披露目するのよ。こいつに加担して愛しいアマリアを連れ回した罰を与えなきゃならないわ』
そう言うのは、恐らく女性の人格だろう。言葉遣いは変わっても、声は変わらないのでイマイチ判別ができない。
クリーガーが魂の集合体となって取り込んだ魂の全ての記憶を共有し、一番目アマリアへと強い愛を抱いていたであろうクリーガーの気持ちを知ろうと、クリーガーの人格が多い魂の集合体の中では珍しいものだ。
『……儂ら貴様らのアマリアに触れたのは許せないが、そこまで残酷にならなくてもいいだろう。こいつを取り込めば、怯えた表情で懸命に走るアマリアの記憶を得られるのだぞ? 儂ら貴様らが決して見た事のない追い詰められて焦燥するアマリアが見られるのだぞ? 秘境で安穏とした暮らしをするならば絶対に見られない光景なのだぞ。取り込めないほどにぐちゃぐちゃにして、魂の認識を難しくして良いのか?』
『嗚呼嗚呼嗚呼、貴重な愛娘との思い出は少しでも多く欲しい。欲を言うならばアマリアが今まで出会ってきた人間全ての記憶が欲しい。……それはいいとして、しかしこの者を取り込むなど、つまりそれはその穢れを儂ら貴様らに移すも同義であるぞ。……そうだ洗浄してしまおう。腹を裂いて頭も裂いて股も裂いて、儂ら貴様らの聖なる体液で皮も肉も内臓も浸してしまえば浄化は成されるはずだ。……嗚呼嗚呼嗚呼、そうだそうだ……なればアマリアも洗浄せねばなるまいよ。この者の穢れが移っておるやも知れぬ』
運動会などで叫びながら子供の写真撮っていそうな人格の発言に、嗚呼嗚呼嗚呼と発する人格が答える。
『おいおいおい、お労しやアマリア様。このような下賤な者に触れられてしまったなどと……汚されてしまったなどと……しかしまぁ、穢れてしまったアマリア様もとても麗しかった。汚泥にまみれながらも美しく咲く蓮のようだった! この私、願わくば穢れたアマリア様と永遠を添い遂げたく思います。生死は問いませぬ。生きていようと、死んでいようと、この身に取り込まれていようと、アマリア様はアマリア様でございます。……できればバラバラはやめていただきたく思います。分断されますと魅力もその数だけ減少します故。……ああでもやはり生きていた方がいいかも知れませぬ。死んでしまってはこの身を震わすあのお声を聞けなくなってしまします……ああでもアマリア様の断末魔も聞いてみたいでございます!』
『黙れ。どいつもこいつも喧しい。先の事をああだこうだ言う前に、やるべき事があるだろう。こいつを捕縛してからアマリア達を捕縛する。そうすれば逃げられる事なくじっくりと考え込める。同じ記憶を共有していると言うのにここまで知能に差があるとは思わなかった』
『一々、一々、学の記憶などに目を向けるわけないだろう。儂ら貴様らが望むはアマリアただ一人。しかし儂らをらの言う事も一理ある』
魂の集合体に備わる無数の……数えるのも億劫になるほどに多くの頭部が空気と一体化していたサートへと向けられる。
意思を持って向けられた頭部ではあるが、しかしそれは死体のものであるため、死に顔でしかない。眼球が存在せず眼窩だけが広がっていたり、瞳孔が開ききっていて虚ろで曇った瞳、白目を向いていたり……と一度目にしてしまえば二度と忘れられない地獄で見るような光景。
この魂は天国や地獄などのあの世に逝かずに、現世を彷徨っているのだから、これが地獄と言うのも強ち間違いではないのかも知れない。
「ぁ……ぁぁ……ぁぁああっ……ああああああああああああああっ!!!」
現世に生きる人間が想像すらしなかったような、想像もつかないような地獄の体現者に、怯えて情けなくみっともなく、痙攣するように小刻みに震えてしまうのは仕方のない事だと言えた。
寧ろ泡を吹いて気絶していないサートの胆力を褒めてやるべきだ。……そして、今すぐにも殺して楽にしてやるべきだ……厳しいこの世界で生きてきた冒険者や騎士、傭兵の一部ならそう言っていただろう。
『甘々甘々アマリア甘々甘々甘々アマリアアマリア甘々アマリア』
『嗚呼嗚呼嗚呼……これが魂からの叫び……聞き慣れた魂の軋む音が聞こえてくる。儂ら貴様らは、貴様のそんな悲鳴が聞きたかったのだ。悔いろ悔やめ、後悔して懺悔せよ! 神をも凌駕する儂ら貴様らの愛しいアマリアの手を握って手を引いた事を! 人のアマリアを許可なく助けた事を! 貴様が助けなければ今にでもアマリアは儂ら貴様らの一部と化していたはず! お前が助けたせいでアマリアは未だに自分で動いている! 可哀想だとは思わぬのか……? 弱者が淘汰されてしまう、冷酷無慈悲な世界を未だに自力で歩んで生きているアマリアが……!』
「あああぁぁああああああああぁぁぁあああああぁあっ!!」
『可哀想……かわいいそう……可愛いそう、そう可愛い。アマリア可愛い。儂ら貴様らだけのアマリア可愛い。だからそう……早々に、可愛いアマリアを取り込んで一つにならねばならんのだ』
「ぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁあああああぁあぁあ……っ!」
語る魂の集合体に、混じって木霊する悲鳴、叫喚、発狂、絶叫、慟哭。
サートの叫び声はここを離れたアマリア達の耳に微かにだが届き、その耳に入った幻聴の如き叫び声からは想像もつかないほどに大きくアマリア達の心を揺さぶる。
突如現れた魂の集合体に呆然としていたアマリアはそれを耳にした途端に引き返そうとサリオンの腕の中で暴れだすが、ハイ・エルフであるサリオンはその見た目通りの腕力を誇っており、ジタバタ暴れる非力なアマリアの抵抗など、蚊に血を吸われている時と同じ程度の効果しか持たなかった。
アマリアのそんな必死な様子を知らないサートは未だに頭を抱えて叫ぶ。
一斉に向けられた死に顔の衝撃で気絶できていればどれだけ楽だっただろうか、気絶したい、逃げ出したい、誰か助けてくれ……そんな簡単な事を考える余裕もない。
クリーガーはそんなサートを見つめながら【探知】のスキルでアマリアとディーナ、サリオンとディニエルの行方を追っていた。
『あのクソエルフめ。どさくさに紛れてアマリアを担ぎ上げておる。手を握るこいつでも許せないと言うのに、担ぎ上げるだと? 逃げるためなどと宣っておるようだが、結局はアマリアに触りたいだけなのではないだろうか……いやそもそもアマリアがジタバタ暴れて嫌がっておるではないか。可哀想に……今……今すぐにこの儂ら貴様らが助けてやるからな』
クリーガーはそう呟いてから発狂するサートを置いて、森を枯らしながら移動を始める。移動する際には絶対にサイケデリックな煙を吹き出してしまうようで、森の木々を悉く朽ち果てさせている。
別にサート見逃したわけでも、殺すのをやめただけでもない。
ただ、殺す順番を変えたと言うだけだ。アマリアの手を握ってその手を引いて襲撃者から逃げていたサートよりも、アマリアを肩に担ぎ上げ、手の平よりも多くのアマリアの体に触れているから、先にサリオンを始末しようとしているだけである。
……サートの生体反応は記憶したので逃げられる心配もない。
自身が取り込んだゲヴァルテイア帝国の民の死体の手足を使って、無数の手足が生えた松毬のような見た目のクリーガーはあっという間にアマリアとディーナ、サリオンとディニエルへと追い付き、その進路へと回り込む。
全てを一つに……と、一体化する死体の山の中心……花の柱頭の辺りにいるのは、鼻の下から首の付け根までが蛆虫に喰い破られており、骨が露出しているクリーガーだ。
服などはとっくにサイケデリックな煙によって溶かされているが、しかし臍から下はクリーガーと一体化した数多の死体に覆われていて隠れている。
だが、その死体も上半身や下半身がはみ出ているものは服を溶かされているために、クリーガーと大して変わらない有り様だ。下半身が丸出しのものに至ってはクリーガーより酷い有り様である。
「な──」
『儂ら貴様らのアマリアにベタベタ触れるな。穢らわしい』
サリオンが驚きの言葉を発する前に、アマリアを担ぎ上げている腕を斬り裂き、落とすクリーガー。一体化したその身に余分に存在している肉……それに、森を朽ち果てさせるような瘴気を纏わせて武器としたのである。要するに脂肪を伸ばして刃のようにし、瘴気を纏わせて傷口に塩を塗るが如き苦痛を与えたと言うわけだ。
魔力と深い関わりがあるエルフにとって、瘴気と言うのは毒ガスのようなものだった。
瘴気とは生物の死体などで淀んだ空気や、生物が抱く負の感情が一ヶ所にある程度蓄積されたりすると発生するものだ。
魂の集合体が生まれるきっかけとなった、死体の山のせいで死臭にまみれた酷く淀んだ空気、襲撃者によって蹂躙される人間が死の間際に抱いた悪感情……見事に瘴気が発生してしまう条件を満たしてしまっているのだ。
そして一度発生した瘴気は周囲の魔力──マナを変質させてさらに広がっていく。体内に宿る魔力──オドを持つ生物だって瘴気に長い間触れ続ければ、オドが瘴気へと変質してしまい、身体に異常をきたしてしまうのである。
……魔力との関わりが深いエルフの場合はそれが他の種族よりも致命的な毒となってしまうために、瘴気を纏った肉で腕を斬り落とされたサリオンがアマリアを取り落としても焦る事なく、絶叫しなければと言う一心で地面をのたうち回っているのである。
「さ、ささ、サリオンさん……! だ、大丈夫で……ぅぐっ……!?」
サリオンに駆け寄るディニエルだったが、サリオンの肩に濃く残る瘴気に吐き気を催したディニエルは方向転換し、草むらへ向かって嘔吐する。肩に残された瘴気の残滓だけでこれである。そんな瘴気で裂かれたサリオンは死んだ方がマシだと思えるほどの痛みを味わい続けているわけである。
『なんて事だアマリア。痛かっただろう……乱暴に地面に叩き付けられて、さぞ痛かっただろう。だがアマリアも悪いのだぞ? 儂ら貴様らが側にいながら他の男に触れたりするからだ。自業自得と思え?』
「いやああああっ!」
地面に横たわるアマリアに近寄るクリーガーだが、抑えきれぬ瘴気が俯せに倒れるアマリアの背を溶かす。あっという間に服を溶かし、背中の皮膚を溶かす。うなじの辺りから腰の辺りまで、そして二の腕の裏側なども溶かされている。
絶叫するアマリアに戸惑うクリーガーだったが、間に割って入るディーナによってその雰囲気が鋭いものへと変わる。
「あんたが放つ瘴気のせいでアマリア様は苦しんでるのよ! 本当にアマリア様を大切に思っているならとっとと離れなさい!」
アマリアよりもクリーガーの至近距離に立つディーナは言葉を紡ぐ間に見る影もない姿になっていた。服はもちろん溶かされ、下着ももちろん溶けてなくなり、そして露になった肌は欲情できる隙も与えずに何がなんだか分からないほどに焼け爛れている。
全身が溶ける痛みに少しも顔を苦痛に歪めず、苦痛に叫んだりはしない。
サートが命を張って守ってくれた命であるが、やはり主人に仕える使用人としての性だろう。この場で生き残って、好意を寄せる相手……サートと添い遂げようとするよりも、主人のために命を懸けてしまった。
『儂ら貴様らがアマリアを傷付けているですって? そんなバカな。儂ら貴様らとアマリアの愛を持ってすれば酸性の瘴気にも耐えられるはずでしょう? だからこれは儂ら貴様らが放つ酸性の瘴気とは関係ないはずよ。もっと近付いてその証明を──』
『いやいや、もしかしたら儂ら貴様らの愛が足りぬだけやも知れん。もしそうであればこれ以上近付くわけにはいくまいて』
「それでいいのよ。あんたも一応は理性があるみたいだからきちんと話し合いましょう?」
ドロドロに溶けて人間とは思えない、水で濡らされた土人形のような見た目をしているディーナはクリーガーにそう語りかけるが、クリーガーは返事をせずにアマリアが瘴気の影響を受けない位置まで後ろに下がる。
「話し合いはしないのかしら?」
『当然だろう。アマリア以外の人間と話し合って何になると言うのだ。……それよりも邪魔だ退け。愛しのアマリアが良く見えぬではないか』
「あんたのせいで溶けた私の皮膚が地面とくっついちゃって動けないのよ。どうしてくれるのよ? ……ディニエルさん、サリオンさんとアマリア様を連れて逃げて……!」
クリーガーと会話をしながらも小声で、嘔吐しているディニエルへと言うが、ディニエルはそれどころではないようで、何度も嘔吐きながらも懸命に体内の瘴気を吐き出そうとしているようだった。……嘔吐などで瘴気は吐き出せないが、それでも気持ち的には楽になるのである。
「ああもうっ……どうしたら……私は動けなくなっちゃったし、アマリア様とサリオンは痛みで気絶しちゃってるし、ディニエルさんはそれどころじゃないし……っ!」
上唇の肉が溶けて下唇と一体化してしまいそうなディーナは叫ぶように小さく呟く。その心の内では、ここにはいないサートをを求めていた。
(こんな時にサートがいればきっと何とかしてくれたはずなのに! ……そうだ、サートは? サートはどこに行ったのよ……? ……え……あ……ま、まさかあの化け物にやられちゃったの……?)
求めれば、求めに応える者がいなくなってしまったと知ってしまう。
味わうのは嫌な予感と絶望。もうすぐこの口は上唇に覆われてしまい、何も口にできなくなってしまうだろう。目も瞼に覆われて見えなくなり、鼻も耳と同様に……五感を失って、封じられてしまうその直前に味わうのが絶望の味だなんて勘弁願いたかったが、いくら嫌だと願っても、身動きがとれないのだからどうしようもない。
動けない焦燥、救いがない事への絶望と、生きる事の諦め、このまま瘴気によって朽ちていくのだと言う最悪な未来予想。
その未来は限りなく鮮明に思いを浮かべる事ができて、現実のように、体験したことかのようにあっさりと簡単に思い浮かべられる。
最後の晩餐の如き絶望を味わっていると、一陣の風が吹いた。
皮膚が溶けたせいで筋肉が意味を成さなくなる瞼は垂れ下がるばかりで、徐々に視界が奪われていくのだが、溶ける瞼の隙間から見えるのは朽ち果てた森の残骸だけだった。
目の前には化け物がいたはずだが、どこへ行ったのだろうと考えて、ふと視界の端に奇妙な光景が移っている事に気が付いた。見覚えのない人が立っているのだ。
黒い髪に黒い瞳、異世界人が持ち込んだと言われている学生服と言うらしい服を着ている。
そして大きく抉れた地面と朽ち果てた森。その両方が大きく抉りとられており、そのせいで眼下には小規模な崖が、眼前には対岸が生まれていた。
一目見れば分かる光景だったはずだが、一陣の風が吹き抜けてからまず最初にクリーガーを探してしまい、一目見ただけでは気付けなかったのである。追い詰められた人間はどうしても思考や視野が狭まってしまい、周囲を広くは見れないのだ。
崖と対岸に目を奪われるディーナには何がどうなったのかは分からないが、ディーナは自身の体を優しく包み込む温かい光に安堵を覚え、やがて意識を手放した。




