第300話 幸せを求め、赤い灰を喰らい奪う
明日は絶対に伝えよう。
伝えるのは明日の夜だ。明日一日を使って、竦んでしまわないほどに心の準備をするために夜だ。
夜と言うのは大事な話に向いているのだ。
外は暗くなり太陽も沈んで涼しくなる。
緊張で上昇する体温も夜の気温で冷やされ、燃えるように熱く回転する脳も冷やされる。暗闇のおかげで相手の表情も分かり難くなるから相手の顔色を窺う必要もなくなる。一日の終わりだから頭も冴えて真剣な話に集中し、言いたい事などを伝えられるようになる。大事な話を終えた後に就寝する際にも改めて考えを纏める事だってできる。
夜と言うのは過ごしやすいだけでなく、こういった真剣な話を持ち出すのにとても向いているわけだ。だから俺は夜に話す。
こうして先延ばしにすればするほど決心は揺らいでいくが、その程度で揺らぐならば話すべきではない。俺が明日一日でするのは決心を揺らがせず、今抱いているものよりもさらに強固な決心を抱く事だ。それができて始めてフレイアに打ち明ける資格を得られるのだから。
これは決心を抱くための決意だ。打ち明ける決心を抱くために、一日中決心を揺るがせずにさらに強固な決心を抱くと言う決意だ。
今まで散々決心や決意を不意にしてきた。自己中を極めるやらなんやらと言ってクドクドと自分に宣言してきたが、結局それに向かって行動した事など数えられるほどしかない。しかもそのどれもが中途半端に終わって、いつの間にか意識から外れてしまっていた。そしてそれを度々思い出しては、また中途半端に実行してまた意識から外して……最後までやり遂げた事がなかったように思える。
そんな俺だが、今度は……今度こそは絶対に完遂する。完遂してやる。
俺のために抱いてばかりだった決心や決意をフレイアに向ければ絶対に完遂できると言う自信がある。……だってこれは俺だけの決心や決意ではなく、俺とフレイアが幸せになるためのものだから。
翌日、早起きした俺は適当に他の七つの魔王城の内装を整えてから、その内に起床してきたフレイア達が集まっている小高い丘の上の魔王城の広間にて今回の事の説明をしていた。
「……それで、まず、アキはなんであんなにたくさんの魔王城を創ったんだったっけ?」
「俺が持つ特殊なスキルと同じ数だけの意見が出たからだ」
「そのスキルって言うのは何か聞いてもいいの?」
「あぁ構わない。【傲慢】【強欲】【暴食】【憤怒】【怠惰】【嫉妬】【色欲】って言う固有能力の事だ。これは俺がいた世界で『七つの大罪』って呼ばれてる人間を堕落させると言われている七つの欲望なんだ。負の象徴として扱われる魔王の配下にピッタリだろ?」
大罪スキルは魔王である俺が持つのではなく、四天王的な立場にするつもりの蘇生生物に持たせるのだ。
この場合、四天王ではなく七天王になるのだろうか。……うーん七天王じゃ違和感があるし……何か別の名数で呼びたいな……後で考えておこう。
「……それ、どこかで聞いた事あるわね。……確か、この世界に最初に誕生した【邪王】が持っていたって言われてる固有能力だったはずよ」
「魔王なら分かるが、邪王ってなんだ?」
「さぁ? 魔王と違って、邪王は全く伝承とか記録が残ってないから分からないわ。まぁ多分、魔王とそう変わらないんじゃないかしら?」
「そうか」
……邪王か。なんか魔王よりも危なそうな感じがするな。
「話が逸れたわね。……それで、その七つの大罪の固有能力が配下にピッタリってどう言う事よ?」
「俺が殺して喰った生物を蘇生させて、その生物にステータスとかスキルを自由に与えられるのはこの間話したよな。それで蘇生させた生物に大罪スキルを持たせて勇者や賢者の敵として対立させるんだよ」
「そう言えばアキはそんな事ができるんだったわね。かなり印象に残る話だったはずだけど、その間に色々ありすぎてすっかり頭から抜け落ちてたわ」
フレイアがそう言って苦笑いをしている。
あぁ、そう言えば大罪スキルを持たせる蘇生生物の外見はどうしようか……魔王に仕える強力な配下……七天王として、強そうな見た目にしたいんだが、どうしようか。人型のでも、異形でもいい……まぁ、大罪スキルのイメージに合わせて人型か異形かを変えればいいか。
「えぇっと……アキに聞きたい事はたくさんあったはずなのにもう思い浮かばなくなったわ。一度ここで寝て起きて、落ち着いちゃったからかしらね。……みんなはどう? 何かアキに聞きたい事とかってある?」
どうやら聞きたい事を全て忘れてしまったらしいフレイアが振り返って尋ねるが、全員が首を横に振る。
なんだこれ。説明する気まんまんだった俺はどうなるんだ? 聞かれもしないのに一人でペラペラ喋るなんてアホらしくてできないし……やはり昨日無理矢理にでも説明してやるべきだったか? ……いや、疲れ果てているフレイア達に説明したところで全て頭を抜けてしまうだろうから無意味だ。
……つまり俺にはどうしても説明する機会が与えられなかったと言うわけか。とても残念だが、朝起きたフレイア達が城内を目を輝かせて見回っていたのを見れて満足しているのでまぁいいだろう。
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そして迎えた夜。一日を過ごしても揺るがなかった決意を胸に、秋は小高い丘の上にある魔王城の秋の自室にフレイアを招いていた。
秋は自室で寛いでいたフレイアをわざわざここに連れてきたのだ。決意を胸にしていたとしてもやはり緊張はするので、それを最低限にするためにこうしてわざわざ自分の部屋に招いていた。
そのせいでフレイアに余計な緊張を与えているのか、フレイアは体を強張らせてそわそわと落ち着かない様子で部屋を見回している。
自分が緊張していせいで、と申し訳ない気持ちになっているが、しっかり伝えるためなので我慢してくれと考え、秋はフレイアに話し掛けた。
「フレイア。大事な話をしたいんだが、いいか?」
「ふ、ふぇっ!? ぁぅ……う、うん……その……私、心の準備はとっくにできてるから……っ!」
フレイアの返事を聞いた秋は意を決して伝えなければならない事を伝える。大丈夫だ……フレイアは俺を受け入れて俺と生きると言ってくれた……だから大丈夫だ……絶対に最悪な結果にはならない、そう言い聞かせて再び口を開いた。
「……いつかは言わないといけないと分かっていたんだが、どうしても言うのに時間が必要だったんだ。すまない」
「……うん」
「俺はフレイアが好きだ。愛してる。幸せにしたいと思ってる」
「え、えへへ……私もアキが好きだし愛してる。一緒に幸せになりたい」
えへへと笑って答えるフレイアの言葉に惚けてしまいそうになるが、そうしてしまえば伝えるための決意が揺るいでしまいそうになるのでなんとか堪えて、秋は言葉を続けた。
「だが、現状ではそれは難しいんだ」
「…………え……?」
「勘違いしないでくれ。俺は間違いなくフレイアを愛してる。……だが、俺とお前では寿命が違う。人間として定められた命を持つフレイアと、異質同体人間……人外である俺は定められていない命を持っている。だから同じ時間に生きて同じだけの幸せを得る事が難しいんだ」
「…………」
沈黙するフレイア。
この間フレイアにニグレドやアルベド、クラエルやアケファロスについてのフレイアに相談した時と同じで、一度話し出してしまえばもうそこには躊躇いがなかった。
これはやっと伝えられた事からくる安心だろうか、それともフレイアが受け入れてくれると心のどこかで確信したからだろうか。
「俺は人間じゃない。寿命も存在しない。……だから、寿命があっていずれ死んでしまうフレイアとはどうしても幸せになれないんだ。フレイアだけが老いていき、俺だけがこの姿のままなんだ」
「分かってるわよ……って言うか気付いてた。……私ね、今期待してたのよ? アキが部屋に呼んでくれた、私はこれから初めてを迎えるんだ……って」
「は、初めて……?」
フレイアは「やっぱり自覚なかったのね」と小さく笑ってヒントを与えた。
「夜、恋人の部屋に招かれ、恋人は真剣な顔をしている。恋人がベッドに腰掛けた……」
「あぁっ! ……そう言う事か……す、すまない」
「いや、良いのよ」
そう言ってフレイアは微笑み、そして秋の隣に腰掛けた。
たった今、そういった事を意識させられてしまったために、隣に座ったフレイアに心臓が激しく反応している。
これはフレイアなりの仕返しなのだろう。だから黙って受け入れておくしかなかった。思わせ振りな態度をとった自分が悪いのだから。そう考え、黙って受け入れるが、しかしそのおかげで僅かに残っていた緊張が完全に消滅していた。
「自分に寿命が無いのを知っていて、それでも私に愛の告白してくれた。口から漏れただけの告白だったみたいだけど、私はそれが嬉しかったからそれに答えたのよ……アキと同じで思わず口にしちゃったのよ。アキに寿命が無いって知っていながら……それでアキが思い悩むのを知っていながら。……ごめんなさい、私のせいで悩ませちゃって」
「いや、最初に告白したのは俺だ。謝るべきなのは俺だ」
フレイアもフレイアで悩んでいたと知り、秋は自分がフレイアの悩みに気付いてやれなかった事を悔やむ。
フレイアは俺の悩みに気付いていたのに、自分が気付いやれなかった事に言い様のない悔しさを覚える。
そんな秋を見てか、フレイアが口を開いた。
「……でもお互いに後悔はしていないわよね」
「当たり前だ。俺は本心からフレイアを愛してる。俺とお前が……中心が重なるほどに愛してる。後悔なんか微塵もしていない」
秋が真っ直ぐ見つめてそう伝えると、照れ臭そうにはにかんでからフレイアは言葉を続けた。
「アキが考えていた事は全部分かっているわ」
「……え?」
「どうせ色々考えた末に独占欲とか所有欲とか支配欲に駆られて、わがままで自己中な結論を出したんでしょう?」
「あぁ、そうだ。どうすれば二人で幸せになれるかを考えて、出た結論は最悪なものだった」
お見通しよ、とでも言うように堂々と言うフレイアにそれを肯定する。
わがままで自己中な、愛する人の命を奪って蘇生させると言う、考え得る限りでもっとも最悪な結論だった。だが、これが一番確かな方法であった。
あるかどうかも分からない不老不死の研究に没頭して老いるフレイアを見て生きたりするより、これが秋にとって一番確実で簡単で最高で最悪な結論なのだ。
「聞かせて貰えるかしら?」
「俺の能力である『蘇生』で蘇らせた生物は、俺が消えろと念じるか、誰かに殺されるまで決して消える事はない。そのせいで老衰ができないので寿命が存在しない。だからそれを利用して、俺がフレイアを殺して喰うんだ」
「私を殺して喰う……」
「やっぱり無理だよな、ごめん」
「私は別に構わないわよ。アキになら殺されてもいいし、喰われたっていい。……ただ、アキが大丈夫なのか心配なのよ」
秋になら殺されても喰われてもいい、微笑みを浮かべてそう言うフレイア。まるでそれが当然かのように言い放つフレイアが続ける言葉に耳を傾ける。
「アキが私の事を異常なほどに大切に想ってくれている事は十分に分かってるわ。だから私はその気持ちに本気で向き合って答えるの。だからアキになら殺されてもいい、アキになら喰われてもいい。だけどね、アキは大丈夫なのかしら……私を殺して喰うだなんて。……私はね、アキが壊れちゃうんじゃないかって心配なのよ」
「……フレイアを殺してフレイアを喰う事はもちろん怖い。死んでしまいそうなほどに怖い。だが、俺はフレイアを蘇生させるまでは絶対に壊れない。だから大丈夫だ、安心しろ」
俺はフレイアを殺して喰って、そして完全に蘇生させる。
だからそれを成し遂げるために決して俺は折れない、壊れない、死なない。蘇生させたあとにその我慢の反動がきたとしても、その時はフレイアが支えてくれるだろうから心配はしない。だから大丈夫なのだ。心配する事は何一つとして存在しない。
心に刻むように……言い聞かせるように思考する秋に、フレイアが一度頷いてから言った。
「分かったわ。私はアキを信じる」
「あぁ。信じていろ。……フレイアの恋人として生きるのだから、俺はいつまでも弱いままじゃいない……情けないままじゃいない。俺はお前を守って幸せにするって決めたんだからな」
「じゃあ私はそれに甘えようかしら」
戯けて言うフレイアに、二人は肩を並べてクスクスと笑い合う。
強くならないといけない。この世界に来た当初、いつか必要になるからと、そう考えていた意味がやっと分かった気がした。
フレイアを守るために強さを求めていたのだ。
付き合っている事について誰にも文句を言われないために、誰にもフレイアに手出しをさせないために。俺を受け入れてくれたフレイアのために。
そのためならば多少の犠牲は厭わない。【強奪】のレベルを上げて【魂強奪】を覚えるためならば神すらをも殺す。
俺の心も精神も意思も意識も自我も……全てを懸けてでも絶対に。
殺されても喰われてもいいと言うフレイアと、全てを懸けてでも絶対に完遂すると決める秋。流石、相手に重い愛を抱く恋人同士と言えるだろう。
「…………」
「…………」
クスクスと言う笑いが静まれば沈黙が場を支配する。居心地が悪い沈黙ではなく、どこか落ち着けるような気分のいい沈黙だ。
そんな中で秋は考える。
この間、邪神が言っていた事が真実ならば俺が【強奪】で奪った魂は俺の中に存在し続けていると言う事になる。これはただ俺の中に存在しているだけであって、今の俺が干渉できるわけではないのだろう。……例えるならば、商品をレジに持っていく途中と言ったところだろうか。魂を手のひらの中にキープしてはいるが、実際にはまだ俺のものではないのだ。
つまりここでフレイアを殺して喰ってもフレイアを完全蘇生させる事ができるのである。そうする意味は俺が揺らぐからだ。
俺の決心や決意はとても揺らぎやすい。……今ここでフレイアを蘇生させると決心して決意したとしても、フレイアや他のみんなと生きている内にそれが揺らいでしまうかも知れない。だからここでフレイアを殺して喰らって、もう後には退けないのだと自ら退路を絶つべきだ。
こんなのは自分の都合でしかないのだが、確実性を求めるためだ。揺るぎない決意をしている今の内に行動に起こすべきだ。
そう考えて結論を出した秋は沈黙を破ってフレイアに話し掛ける。
「フレイア。今から殺して喰ってもいいか?」
「いいわよ」
「いいのか? 心の準備とかは?」
思ったより簡単に出た許可に戸惑う秋は思わずそう尋ねてしまう。受け入れてくれるのならそれでいいと言うのに、そう尋ねてしまった。しかしそれは結果として秋の心を温めるものとなった。
「そんなのはいらないわ。アキなら絶対に私を蘇生させてくれるもの。だからするだけ無駄なのよ」
「……そうか」
この信頼を裏切るわけにはいかない。絶対にフレイアと幸せにならなければならない。何度目かは分からないがそう再認識させられる。こんなにも自分の心を揺さぶる存在は今まで存在しなかったし、これから先にも絶対に現れないだろう。
「じゃあ……いくぞ……」
「えぇ。頑張ってねアキ」
震える声を押さえようとする秋とは対照的に、堂々と振る舞い、殺す勇気を振り絞れないでいる秋を応援するフレイア。そんな二人はベッドから立ち上がり、そして向かい合う。
恋人を恨んで憎んで殺すわけでもなく、恋人を愛して幸せにするために自らの手で殺す。
秋にとって家族よりも格段に大切な存在であるフレイアと言う人間……それを自分の手で殺す。
家族を強盗に皆殺しにされた時でさえ、あれほどのショック受け、今も尚それを引き摺っている秋に、愛する人であるフレイアが殺せるのか。
腕を動かそうとする度に、しつこい程に恋人の死に様が頭を過る。そんな光景は生まれてから一度も目にした事ないはずなのに、今視界に映るフレイアという現実の存在よりも鮮明に脳味噌に焼き付く。
一瞬でも脳味噌を通過して記憶してしまったその残酷な光景はもう二度と消える事はない。[脳味噌の大樹]を喰った事による弊害は時折顔を覗かせて、秋が生きるの事を邪魔するのだ。
早く殺らねば、早く喰わねば。そうしなければ頭を過るフレイアの死に様が無駄に連写した写真のように増えていく。
なぜ……なぜこんな事になっているんだ。なぜ殺さなければならない。なぜ俺は寿命がないんだ。なぜ人間を辞めてしまったのか。なぜフレイアは睨みもせずに優しく微笑んでいられるんだ。
何もかもが理解できなくなる。今まで理解できていたそれですら、適当に切り裂かれてばら撒かれた肉片のように、どこがどこなのか、何が何なのかが分からなくなってしまう。
地震のように揺れ震わす意思の陸。
津波のように押し寄せる感情の海。
台風のように吹き荒れる思考の空。
自然災害のように無慈悲に無情に壮絶に……一切の容赦なく自我を苛むフレイアへの愛。
揺らされ流され吹かれて、虚無と消失へ追いやられるようだ。あの時のように、自分の魂が消失してしまうかと思うほどの異常な危機を覚える。
このままでは自我が死んでしまう。
そう思った時には秋の腕はフレイアの胸を貫いていた。
腕が変形していないのは、微かに残っていた秋が持つ愛する人への想いのおかげだろう。
何よりも特別な人を喰らう時はこの口で……何よりも特別な人を殺す時はこの手で。
そんな歪んで重くなった愛情を僅かに残して秋に影響を齎したのは、秋が持つ【生存本能】と言う固有能力のせいだった。
この固有能力は、【生存本能】の所持者に重大な危機が訪れた時に勝手に発動するものだ。
所持者に死の危険が迫っている時はもちろん、所持者本人が危険だと認識して、それがどうしようもないものであった場合、どんな手を使ってでも解決しようとするスキルだ。その過程で所持者が傷付こうとも、所持者の意識を奪おうとも、所持者が最終的に生きていればいいのでこのスキルは容赦なく完遂しようとする。
今回の場合は自我の崩壊……秋が死と捉えるものの訪れがきっかけとなって【生存本能】が発動し、自我の崩壊を招くきっかけとなったフレイアを排除したのである。
「……あ……ああ……」
言葉にならない声を漏らして秋は地面に血溜まりを作るフレイアに駆け寄る。僅かに意識があるフレイアはそんな秋に微笑み浮かべて、そして声を掛けた。
「……信じてるわよ……アキ……愛してるわ」
「……俺も……愛してる……!」
みるみる内に顔色が悪くなっていくフレイアはそれでもアキを勇気付けようとそんな事を言う。悲痛な姿を目にしたアキはフレイアの上半身を起こして、抱き締めながらそう言葉を返す。
それに満面の笑みを浮かべたフレイアは、血溜まりに浸されて赤く染まっている、まだ温かい手のひらを秋の頬に当て、自分の方向に引き付けるように力を加えた。
それでフレイアが何を求めているのかを察した秋は目尻に浮かぶ涙を拭ってからそれに従って顔を近付け、唇を軽く突き出しているフレイアの唇に自分の唇を重ねた。
今までのどこか甘い感じがしたその唇からは、口内に広がっているであろう血液の味がしていたのだが、そんなものは今の秋には知覚できていない。
秋が感じているのはまだ生きているフレイアの存在だけだ。
抱き締めるだけでは足りないからと、生きているフレイアの愛情を感じようと、こうして唇を重ねているだけに過ぎない。……自分の心を満たすために独り善がりに味わっているわけではないのだ。
だんだんと冷たくなっていくフレイアの存在を……燃え盛る炎のようなフレイアが冷たくなっていくのを防ぐため、自分の体温で温めるように抱き締める力を強くするが、それでもフレイアが灰のようになっていくのを止める事はできなかった。
拭ったばかりの目尻からとめどなく涙が溢れてくる。それは秋の目から零れてフレイアに滴り落ちた。その涙がフレイアが宿している命の灯火の消火を進めているように感じられてとても苦しかった。
どれだけ苦しくともその涙は止まらないし、フレイアを見つめるのを止める事はできなかった。
「アキ、泣かないで。私が好きなのはいつものアキなの……だから笑って?」
精一杯そう言って首を傾げ、儚げにはにかむような微笑みを浮かべるフレイアに言葉を返す事はできなかった。頑張って笑みを浮かべるのに必死で、言葉を返す余裕がなかった。
「ふふ、あんた、普段あんまり笑わないでしょうが……」
「……あぁ……笑わないな」
そんな秋が浮かべた不器用で下手くそで、作っているのが丸分かりな嘘の笑みにフレイアは小さく声を出して笑う。
揶揄われていた事に気付いた秋はしかしその下手くそな笑みを浮かべたままそう答える。
「次に会うときはそんな悲しい笑顔じゃなくて……ちゃんとした幸せな笑顔を見せて欲しいわ」
「……あぁ、見せてやる」
「……約束よ。私と一緒に幸せに笑って一緒に幸せになりましょ」
「……約束だ。お前と一緒に幸せに笑って一緒に幸せになる」
そう言う秋の頭を優しく撫でるフレイアは、最後に軽く秋と唇を触れさせてから小さく何かを呟いて……秋の頭を撫でる手の平を、自分が流した血溜まりの中に落とした。
それを見届けた秋は、一人だけとなった部屋の中で最後にフレイアが呟いた言葉を心の中で噛み締め、亡骸となったフレイアにそれに対しての答えを返した。
「──俺も愛してる──」
最後に涙を一粒だけフレイアの頬に溢した秋は、崩壊しそうになる自我を、自分が言った事を守るために無理やり押さえ付ける。【生存本能】が勝手に発動する前に自分の力で……自力で押さえ付けるのだ。
もう後には退けない。
──強くならないといけない。
そんな固い決意を胸にして秋は口を開け、そこにある肉を噛み千切って、咀嚼し、嚥下する。
その肉は今まで食べたどんな食事よりも美味しかった。秋の大好物である、母が作るオムライスよりも──愛する人の生肉の方が美味しかった。
……だが、どれだけ美味しくとも二度と喰いたいとは思えなかった。
最果ての大陸の魔物を鏖殺しても、神殺しをしても……【強奪】のレベルを上げて【魂強奪】を手に入れて強くなってフレイアを『完全蘇生』させて一緒に幸せになる。……全てを理想じゃ終わらせない。
強く……強く……そして固い決意。
やがて秋は愛する人の全てを喰らい尽くした。肉も臓物も骨すらも。全てを喰らうために地面を砕いて地面にこびりついた血液までをも喰らい尽くした。
「俺は絶対にフレイアと幸せになる」
秋は自分自身と、自分の中に存在しているフレイアの魂にそう宣言した。




