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第296話 人の為、自分の為

 この世の最果て、冥界……或いは地獄。そこの番犬ガルムによってグニパヘリルと呼ばれる洞窟に放り込まれたリニアル。


 そこで受ける刑はガルムの言う通り『同害報復(レクス・タリオニス)』と呼ばれるものだった。


 生前、リニアルが犯した罪をそっくりそのまま返ってくる恐ろしい刑。それと同時にグニパヘリルで最もメジャーな刑だった。人の痛みが分からない人でなしに最も効果的で反省を煽る事ができるからだ。


 自分が犯した罪を理解させて償わせて、そうして刑の後に天国へ送り、魂の浄化を行う。それがあの世と呼ばれる不可視の世界の役割だった。



 リニアルは何度も怒鳴られて精神を磨耗して、何度も殴られ蹴られて体に痣などの傷を増やして、様々な方法で殺される。


 斬殺、撲殺、絞殺、刺殺、殴殺、毒殺、扼殺、爆殺、圧殺、焼殺、抉殺、溺殺、射殺……など、リニアルのせいで死んでしまった人間が体験した死に方を全て同じ数だけ受けるのだ。その度に一々蘇生させられ、死の瞬間の記憶や痛みを受け継いでそしてまた何度も何度も殺される。


 死ぬ前に拷問を加えられた人間の分の拷問を受ける事も何度かあったが、拷問の途中からはだんだんと痛みに慣れてきた。頭がおかしくなってしまったのか傷付く事に抵抗がなくなり、痛め付けられる自分をどこかの他人のように感じられる事もあった。

 しかしそれも死んでしまえば全て初期化され、新しい拷問ではまたしっかりと苦しむ事になる。


 こんな永久にも思える死の体験にリニアルは不満を抱いていた。


 なぜ私がこんな刑を受けているのだろうか……確かに腹が立つ役立たずの無能には暴言や暴力を浴びせたが、実際に拷問したり殺したりしたのは私ではないと言うのに。……だと言うのにどうして私が拷問され殺されているのだろうか。


 そんなリニアルの不満に思う疑問の答えは、リニアルが王だからだ。何かの上に立つ者はその配下が犯した罪やミスなどの間違いを背負う必要がある。だからその配下が行った悪行の数々をリニアルは一身に、一心に受けた。


 リニアルの行った侵略で嬲られ、辱しめられ、人としての尊厳を奪われるほどに蔑ろにされた人間達。他国のスパイだとされて拷問された人間達。横暴な騎士が行った私的な暴力を振るわれた人間達。それ以外にもまだまだあるが、それら全ての被害者に加えられた悪行をリニアルは全て受ける。


 度重なる苦痛に精神が崩壊して廃人となって楽になろうとしても、一度死ねば廃人になった時の記憶やそうなるまでの過程を全て記憶している。そのせいでどう足掻いても苦痛からは逃げられない。


 グニパヘリルから逃げ出そうとも、グニパヘリルを管理する怪物達に捕縛されて逃げ出そうした分の罪が加算される。それどころか反省の色がないと見なされ、数回分の死の体験が加算される事もあった。


 一度「それがどうした、どうせ数えきれないほど死ぬんだ。それなら逃げ出して全て帳消しにしてやる」と何度も何度も何度も捕まって何度も逃げ出して、どれだけ刑が加算されたとしても諦めずに逃げ出そうとした事があった。


 それで一度だけグニパヘリルから抜け出せた時があった。


 しかし抜け出せたとしてもそこには番犬ガルムが……常に空腹で涎を垂らしているガルムがいる。

 そんな空腹のガルムに与えられる食事はグニパヘリルから抜け出してきた罪人だけだ。


 つまりリニアルはガルムの餌になるためにグニパヘリルを出たようなものなのだ。


 抜け出してきたリニアルを巧みに操る鎖で絡めとったガルムはその大きな口を開けて「あぁ……ありがとう、ありがとう……」と言いながら大きく開いた口へとリニアルを運ぶ。魂となった亡者をも溶かして栄養へと変換できるガルムの唾液は滝のように溢れ、道の外に存在する深淵─『次元の裂け目』へとダラダラと流れ落ちていく。


 この『次元の裂け目』はその名の通り裂けた次元であり、ここに落ちればどこか別の場所、或いは元いた場所に流れ着く。これを通って辿り着く場所に制限はない。魂の侵入が禁じられて植物すらも存在しない虚無の世界にだって流れ着く事ができてしまう。

 何もない空間に放り出されて負荷をかけられて一瞬で魂ごと消滅したり、次元の狭間に放り出されて存在自体を八つ裂きにされたり、どこか別の世界に辿り着いて不死者(アンデッド)とはまた違う形の亡者となって放浪を続けるだけの存在になったり、それとも地獄のどこかに再び辿り着くか。


 そんな完全な運による次元の流れに乗れば、リスクは途轍もなく大きいがガルムからは逃げられたかも知れなかった。


 ガルムにとって久し振りの食事だ。極上の食事を味わうためにゆっくりゆっくり焦らすようにゆっくりと口元へと運ぶ。


 鎖に絡めとられたリニアルはこれから先、自分どうなってしまうのかを考えて焦ったように必死の形相で、死んでいるせいで青白い顔をさらに青くして踠く。


 そうして踠くリニアル。そしてそこに降り注ぐのはガルムが流した涎の一部だ。継続的に流れ続ける涎は、移り変わり切り替わる次元の流れによって段階的に分けられていた。それがこのバケツから撒かれたような一塊の涎だった。


 無窮に広がっているせいで、神すら把握しきれない程に広い無数の世界の中で、この涎の塊はこの世界の地獄に、それも丁度ガルムの頭上に出現した。途轍もないほどの確率だが、継続的に流れているせいで数打ちゃ当たると言ったような状況になっていたのが事実。それでも凄い確率なのに変わりはないが。


 何度も何度も世界を渡って成分が変わって変わって変わりまくったガルムの唾液は異質な効果を持っていた。その効果が表れるのは大口を開けてリニアルを捕食しようとしていたガルムに表れる。


 涎を被るガルムはみるみる内に形を変えていった。

 骨が浮き出た暗い紫色の体と、喉元に付着した死者の赤黒い血液。

 そんな特徴を持つガルムは人のような姿をとったかと思えば虫のような姿に変形したり……と次から次へと姿を変えていった。

 もちろんそんな変化の最中にリニアルを捕食する事はできず、その上リニアルを縛りつけていた鎖の操作も覚束なくなり、やがて鎖から解放されたリニアルは恐れるような表情で変形を続けるガルムから距離をとった。


 どうなっているんだ、そんな考えが頭の中を駆け巡る。思い当たる節はあるのだが、どうしてもそこから考えが進まなかった。地獄に来て、何度も死んで、恐ろしい怪物に食われそうになったかと思えば怪物は次々と形を変えていっている。

 いったい誰がこんな状況で冷静に思考できると言うのか。


 ただそんな光景を見つめるリニアルは久し振りの安息を享受していた。思考は纏まらないが、心は急速に癒されていく。目の前で変化を続ける番犬だったものを見て癒されているのかと錯覚しそうなほどにリニアルは安心得ていた。


 そんなリニアルの頬を伝うのは涙だ。その涙は一瞬だけ温かい感覚がするが、すぐにそれは冷めてしまって冷たい水のようになってしまう。そのお陰か自分の状況を思い出す事ができた。


 自分は罪人として地獄に連れて来られ、そして酷い仕打ちを受け、逃亡している最中なのだと。


 そんなリニアルの脳裏を過るのは生前、リニアルが血眼になって追跡部隊を送っていた異世界人達だ。

 彼ら彼女らもこんな安らぎのない状況の中で必死に逃げて生きていたのかと思えば、今すぐにでも謝りたいと言う気持ちになる。死を何度も味わったからこそ分かる、死の危険を感じた人間が自分を守るために逃げ出そうとするその気持ちが。


 先ほどのガルムの涎のように止めどなく溢れる涙は拭っても拭っても止まないので、仕方なくそのままにしてリニアルは考える。いや、考えるほどでもないだろう。


 深淵に落ちたはずのガルムの臭い涎の一部がガルムに降り注いでガルムは自滅したのだ。つまりあの深淵の先にはどこか別の世界に繋がっており、どこかへ移動ができるのだろう。

 あれに飛び込むなりすればこの地獄から逃げられるだろうが、またここに辿り着いてしまう可能性も高い。それに、この涎のように一部だけがどこか別の場所に送られてしまうかも知れない。


 そんな事をうだうだと考えるが、結局リニアルに選択肢はなかった。こんな地獄などと言う亡者が集うような、自分の力で抜け出せるのかすら分からない世界なのだ。抜け出せる光が差しているこれに縋るしかないだろう。


 そう決めたリニアルは迷いはなかった。未だに変形し続けるガルムから視線を離して底が見えない深淵へと飛び出した。瞬間、何かジャラジャラしたものが足に巻き付くが、深淵に呑まれるリニアルはそのジャラジャラした物と共に『次元の裂け目』へと落ちていった。


 これは地獄からの転落。

 この最悪な状況自体もさらに転落しなければいいが、そうチラリと考えてリニアルは苦笑を浮かべながら落ち続けた。







~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~







 火の海と化したゲヴァルティア帝国から逃げるアマリア、サート、ディーナの三人。時々休憩を挟みながら森を進むが、そうしていても後から人がやってくる事はなかった。そして振り返ると、木々の葉っぱと葉っぱの間から窺えるゲヴァルティア帝国の帝都はますます火の勢い強めていくばかり。


 こんな酷い有り様では私達以外はもう……アマリアはそう考えて暗い気分浸ってしまう。


 強くない無能とは言え、それなりに親しくしていた騎士達。それは友達が一切存在しないアマリアにとって楽しく笑い合える数少ない存在だった。

 そして強引に政略結婚をさせてきた父とも、アルタがアマリアに興味を持たず、アルタの寛容な対応のおかげで仲直りできたと言うのに、結局あれから何も話せていない。国のためなら、などと言う微塵も思ってもいない事を最後に言ってから何も話せていなかった。


 悔いはたくさんある。

 大切な人が顔も知らない盗賊に襲われて火の海に沈んでいった。どこか憎めない無能な騎士も、たった一人の父親も恐らくは死んだ。自分が何か行動すれば変わっていたのだろうか。変わったとして、それはいい方向に変わっていただろうか。

 ありもしない、もしもの世界に思いを馳せるアマリア。


 不安もたくさんある。

 王である父は死んだ。この先、生きてノースタルジアに帰ってもどこかの国に戦争をしかけられて滅んでしまうだろう。結婚の約束を漕ぎ着けたゲヴァルティア帝国も今では火の海だ。寛容な対応をしてくれたアルタは帰ってきたらどう思うだろうか。

 自分や自国の未来、優しくしてくれたアルタの事を考えればとても心が苦しかった。


 先ほどまでの自分は緊張感が足りなかった。今まではだいたいの事はなんとかなっていたから今回もきっとなんとかなるだろうと思っていた。

 しかし、失ってしまったものは取り戻せない。傷付いてしまった事をなかった事にはできない。大切なものを失う痛みを知った温室育ちのお姫様はこんな苦しみに耐える事ができなかった。


 並んで歩くサートとディーナの後ろをトボトボと歩くアマリアは密かに涙を拭いながら、泣き顔を見られないように鼻を啜らずに無音で泣いていた。

 しかし負の気配と言うのは意識していなくても漂ってくるものであり、アマリアが一度涙を拭っただけでサートが振り返ってアマリアに駆け寄った。


「あ、アマリア様!? どうされました!?」

「どうされました!? じゃないわよ。アマリア様はあの強国、ノースタルジアのお姫様なのよ? こんな状況になるなんて想定する事があるわけないじゃない。怖いのよ、この壮絶な状況が」


 やや錯乱したようにアマリアに駆け寄ったサートにディーナが突っ込む。それもそうだと頷いたサートはしかしどうすればいいのかが分からない。怖がっている人間をあやしたことなどないのだから当然だ。


 オロオロするサートを押し退けてディーナが言った。


「こう言う時はね、こうやって頭を撫でながら抱き締めてあげるのよ。怖がって怯えている人は言ってしまえば子供と同じ。こうして優しく包み込んで安心させてあげるのが一番なのよ」


 なるほど、と言って泣いているアマリアと抱き締めるディーナをよく観察するサートに、女の子の泣き顔を観察するんじゃないわよこの変態、と言ってしっしと手を虫を払うかのような動作でディーナはサートを遠ざける。


 それに従って距離をとったサートはする事がなくなったので側にあった木の元に座って木に凭れかかる。意図したわけではないがそこからは燃え盛る帝都がよく見えた。いったいどうすればあれほどに城が燃えるのだろう……と、他人事のように考えるサート。


 そんなサートの背後で草むらが揺れる。ガサガサと言う音に反応したサートは立ち上がってそこから距離を取る。ディーナの時と同じように使用人かも知れないが、もしそうだとすればなぜ道を通ってこないのか、そう考えれば使用人の類いではない可能性は高かった。


 考えるサートの予想通り、草むらから現れたのは魔物だった。これはコボルトと呼ばれる魔物だ。醜悪な見た目で青い肌に犬のような耳を持つ人型の魔物だ。手には錆びている剣を持っている。

 後ろに向かって何か吠えているようだが、人間であるサートにはコボルトの言葉が分からないが、しかしそれが仲間を呼ぶものであるのは分かった。


 だが、だから何だと言う話だ。この道にはこの道を覆うようにして魔物避けの結界が張られているのだ。近付く事はできても耐え難い嫌悪感のせいでいずれどこかへ行ってしまうだろう。……あくまでこれは魔物避けだ。侵入を拒むものではないので、侵入しようと思えば魔物は侵入できてしまう。なのでサートは警戒を怠らずに後ろにいるディーナへと、コボルトが近くにいるかた気を付けるようにと伝えた。


 サートもディーナもアマリアも戦えない。伝えて警戒したところで強引に突破されれば終わりだ。伝えるだけ無駄のような気もするが、コボルトやゴブリンが一体程度あれば一般人でも倒せるらしいので一応だ。何かあればサートは戦うつもりだった。

 アマリアを避難させるためとは言えここに連れ出したのは自分であるから責任をとって自分が守らなければならないし、城で働いている時にできた唯一の親しい友人であるディーナを守るためにも万が一の時は戦うのだ。


 ディーナに伝えたサートが視線をコボルトへと戻せば、そこには数体のコボルトがいた。先ほどのコボルトが呼んだ仲間だろう。何かを話し合っているように見える。


 するとさらに草むらの奥から現れた他のコボルトより一際大きいコボルトがそれらのコボルトを押し退けてサートを睨み、そして笑みを浮かべた。あれを呼ぶとすればハイコボルトになるのだろうか。魔物への知識が乏しいサートが捻り出した呼び名はそんなものだった。


 サートを見て笑ったハイコボルトは弓を手にしたコボルトに指示を出して、そしてサートを目掛けて矢を放たせ、それを避けきれないサートは肩に矢を掠めてしまう。


 いかに魔物避けの結界が張ってあろうと魔法や矢などは普通に通ってしまう。警戒していたがそれの無意味に終わり、矢を掠らせてしまった。

 血が滲む肩を押さえるサートはコボルト達の矢が尽きるまでの辛抱だと考えてコボルト達が放つ矢の回避に専念する事にした。コボルトの一体ならなんとかなっただろうが、コボルトは数体いる上にハイコボルトまでいる。下手に手出しをして大怪我を負わないようにするのが賢いと考えたのだ。


「ディーナ、アマリア様! 矢に気を付けてください!」


 サートは背後にいるディーナとアマリアにそう声をかけて矢を回避し続ける。もしディーナやアマリアに矢が当たりそうな時は身を呈して矢を防ぐつもりだが、できればそんな事はしたくないので隠れるなりなんなりして欲しかったのだ。

 それに、もう体力が尽きそうだったのだ。コボルト達の気を引くためにわざと大きい動きで躱していたがそれも限界だった。大きい動きをしたせいで、ただでさえ多いとは言えない体力の消耗が激しい。一般人も同然のステータスしかないサートが飛来する矢を見切って回避するだけでも相当な集中力を使う。戦闘経験がないただの執事には集中してコボルトの気を引くのは厳しすぎた。


「早く逃げるわよサート!」

「誰かが気を引いていないとずっとコボルト達と並走するはめになるんだよディーナ、コボルト達は近寄れないだけで追っては来れるんだから!」


 そう、サート達がいるのは結界に覆われた一本道だ。しかもその上魔物達にその姿は見られている。ここを走って逃げようと結界の外から追ってこられればただの人間であるサート達は魔物であるコボルトから逃げきる事はできない。

 だから誰かが囮になって残りの人間が逃げるための時間を稼ぐ必要があった。


「でも……! それじゃサートが……っ!」

「大丈夫だよ、ディーナ。私は……俺は絶対に二人を追いかけるから」


 コボルトの襲撃で泣き止んでいたアマリアはディーナと共にサートを見つめ、アマリアを抱き締めているディーナはサートの心配をする。


 それに、大袈裟な動きで矢を回避し続けるサートは一瞬だけ振り返って笑った。追いかけられる保障はない。寧ろここで体力が尽きて結界が放つ嫌悪感を乗り越えたコボルト達に殺されて食われてしまう可能性の方が高かった。と言うか確実にそうなるだろう。

 先ほども言った通りただの一般人同然ステータスしかないサートが疲労が蓄積した体で逃げられるわけがないのだから。


「サートさん……絶対……ですよ……?」


 泣き腫らした顔を隠すようにディーナを盾にしながらアマリアがサートに言う。が、しかし一々振り返って返事をするほども余裕がなかったサートはそれに答える事ができなかった。

 サートの体力に限界が迫っているのは明らか。だがそれでもディーナはサートの言葉に従って、信じてアマリアの手を引いてこっそりと歩き出した。サートが大きな動きで注意を引いてくれているからだと言う事をしっかりと噛み締めながら。


 前を向いて慎重に進むディーナとは反対に、アマリアは心配そうにサートを見つめていた。やがて木々に阻まれ見えなくなったとしても、サートがいるであろう方向を凝視し続けた。

 それから嫌な予感を募らせながらも、アマリアは喪失のショックに耐えるために前を向き、サートが追いかけてこれるようにと手を引くディーナの隣へと並び立った。





 ディーナとアマリアが立ち去ったのを確認したサートは急な諦めの念に駆られる。もう守るべき人達は逃げたのだからもう頑張らなくていいんじゃないか、これ以上時間を稼げそうにもないしもういいんじゃないか。

 最初から最後まで人のために生きた。小さな人助けをしていた子供時代から、皇帝のために働く執事へと至れた。己の生き様をここまで貫けたのだしもういいんじゃないか。


 そう考えるサートは、しかし心のどこかでもっと生きたいと思っていた。とっくに諦めているのにも関わらず、動きをとめずに逃げ回っている事を見れば明らかだった。コボルトが予想以上に粘る獲物に脂汗をかいてしまうほどに必死に逃げ回っている。


 弱者だと思っていた相手がしぶとく生き残っている。その事実に憤りを覚えるハイコボルトは足元に落ちている石ころや木の枝などを投擲し始めた。

 コボルトが弓を使って放つ矢と同程度の速さと威力を誇っていそうなそれに恐怖を覚えながらも、諦めながらもどうしてか足は動き続ける。大袈裟な動きもいつの間にかできる限り最小限に抑えられている。


 自分の体と意思が自分のものではなくなってしまったかのような錯覚を覚えるほどに生き意地汚く足掻ている。


 そんな時、サートの脳裏を過るのは前にディーナに言われた一言だ。


「サートってどうして人のために率先して動けるの?」


 ディーナにとっては何気ない問いだったのだろうが、ディーナに肩を揺すられるまでサートは考え込んでしまっていた。


 確かにどうして俺は人のための動いているのだろうか。親にそう教えられたからか、他人であっても力になりたいと思うほどに優しかったからだろうか、助ける事で誰かに認められて褒められたかったからだろうか。


 熱を帯びた脳では正しい答えは導けなかったが、その変わりに自分がどうしても生きたいんだと言う事が分かった。体の内側から湧いてくる誰かのために、と言う衝動がどんどん大きくなってきているのだ。そして同時にそも衝動の範囲が狭くなってきている。

 赤の他人から親しい人間までに広かった衝動の範囲が、親しい人間からアマリアとディーナのために、と言う物凄く限定されたものに変化していた。


 そう、そしてサートは気付いた。人のため、人の為、偽。

 人の為の人助けが偽りであり、それは自分のための人助けだと言う事に。誰にでも分け隔てなく与えていたその衝動がたった二人の親しい人間に限定されている事に気付いて、それが分け隔てない無償の人助けではない事に気付いた。


 サートは誰も失いたくないから助ける、傷付いて欲しくないから助ける。


 いや違う。誰も助けたくなかった。

 そもそも誰かが危険に晒される事自体が嫌だったのだ。自分が助ける必要がないほどに安全な環境で生きていて欲しかった。


 わがままな優しさと甘さを詰め込んだだけのスイーツのようなものが自分なのだ。その癖に自分は甘い環境に置かれる事が嫌だった。いつでも自分を削って誰かを助けて、自分はスイーツを提供する側でありたかった。


 昔も、今も、これからも。


 ここで生き残って、人を堕落させるほどに優しく甘い誘惑の香りを放つ最高の甘味を提供し続けたい。

 だから今もこうして必死に生き残ろうと足掻いているのだ。


 サートはそれを理解するが、コボルトの矢は一向に尽きる気配がない。自分の限界が消え失せてしまったかのように体が軽く体力が尽きる気配がない。


 これが人間の底力か。


 自分で自分に感心するサートは尚も矢を躱し続ける。

 こうして回避し続けていればいずれ諦めるだろう、矢が尽きて撤退していくだろう。余裕ができた事によるそんな甘くて楽観的な思考をするサートは最小限の動きで矢を見切って回避する。


 ただの一般人と同程度の力しか持たない人間がそう長く限界を越えていられるわけがないのに。底が尽きてしまえば終わりなのに。

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