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第287話 逃避の先にあったもの

 ゲヴァルティア帝国に滞在していたクリーガーとアマリア。アルタとの政略結婚を漕ぎ着けるためにゲヴァルティア帝国へとやってきていた。そして無事にそれは成され、今は城で歓迎されているところだった。


 クリーガーとアマリアがノースタルジアに帰国するには騎士が足りなすぎた。ゲヴァルティアからノースタルジアまでは非常に遠いので、このまま帰国しようとしてしまうとクリーガーとアマリア諸共魔物の餌になってしまう可能性が高いのだ。


 だから、念入りに準備をしてから帰ろう、と。そうなって少しの間だけゲヴァルティア帝国に滞在する事になっていた。


 他国の城で世話になるなんて情けない、と自国の騎士の弱さを嘆くクリーガーだったが、嘆いたところで何も変わらないので王であるクリーガーもその入念な帰り支度を手伝う事にしていた。


 対するアマリアはそんな事は一切していなかった。これからどう生きるか、どう恋愛をしていくか、その恋愛を世間にどう隠していくか、そんな事を考えるのに夢中だった。恋愛に馳せるアマリアの姿は、まるで恋する乙女のようで中々人が口を挟めるようなものではなかった。


 だが、そんな穏やかな城での暮らしはすぐに終わりを迎えた。


 突如燃え上がる貴族街と平民街を隔てる堅牢な壁。そんな唐突な異常事態に、城にいる騎士や使用人はもちろん、貴族街に迎えている平民達の喧騒が聞こえてくる。


 自分に宛がわれた一室の扉を開いて、偶然側を通りかかった執事に何事か、とアマリアは尋ねる。


「分かりません。ですがこの国が何者かに襲撃されているのは確かです。アマリア様も早くお逃げください!」

「逃げて……と言われましても、私はこの城の構造に詳しくありませんからどうすればいいか……」


 執事はそう言うが、他国の姫であるアマリアがこの城の構造を知っているわけがなかった。緊急時に王族が避難するための隠し通路などを知らないのだ。


「あぁ! そ、そうでした! ではこちらへ、避難通路へ案内致します!」


 アマリアの手を取って廊下を進む執事。ドレスのせいで走る足取りが覚束ないアマリアに合わせて歩幅と走る速度を調整しているようだ。


 それに気付くアマリアは握られている手の平から執事の後頭部へと視線を向けた。くすんだ金髪は丁寧に整えられているようで、アマリアの目にはこの状況も相まってとても魅力的に映った。


 そうして廊下を走っていると聞こえてくる無数の悲鳴。執事の後頭部から視線を移したアマリアが次々と過ぎ去る窓から見た景色は地獄絵図だった。


 整えられた広い庭。その向こうに立つ炎。頼もしく見える大きな壁が燃えており、貴族街と平民街を繋ぐ門も崩れ落ちて塞がれている。そこに集まる平民は燃える剣を手にした男によって次々と斬り裂かれていった。


 魔物によって人が殺されていく様は見たことがあった。国外遠征と称して騎士を連れ出した時に散々見てきた。人の死には慣れたと思っていた。

 実際に、のうのうと育ってきた姫である自分が、魔物と戦う騎士と声を掛け合えるほどには余裕を持って人の死を受け入れられていた。


 だと言うのに目の前の……と言うには遠すぎる惨劇を見ていると吐き気がしてくる。人の死には慣れたはずだったのに、そう考えながらも口を押さえて蹲るアマリア。大した速度で走っていたわけではなかったので執事に引き摺られる事はなかった。


「ど、どうされましたかアマリア様!? も、もしかして速すぎましたか……っ!?」

「いえ、違うのです……ただ、窓から見える景色を見てしまいまして……」

「窓……?」


 心配そうにアマリアに駆け寄る執事と蹲って言葉を紡ぐアマリア。それを聞いてから執事は顔を上げて窓の外を見た。そこにはアマリアが吐き気を催した原因であろう凄惨な光景が広がっていた。


「……アマリア様、急ぎましょう。いつあの盗賊がここに来るか分かりませんから」


 かける言葉が見当たらなかった執事はそう言ってアマリアが地面の突いている手を持ち上げて立ち上がる。だが、座り込んだ拍子に腰が抜けてしまったのかアマリアは立てないでいた。


「あぁ……どうしましょうか……」


 慌てる執事の脳裏を過るのはこの城で働かされている、自分と親しい異世界人が話してくれる話だ。こう言う場面で腰を抜かした人間は抱えたりして運んでやるべきだと、そんな話を思い出していた。


 しかし相手は他国の姫……その上、この人物はこの国の皇帝の嫁になる人間。使用人ごときである自分がそんな事をしてしまっていいのだろうか。そう考えて迷う執事だったが、すぐに考えを改めて行動した。


「アマリア様……失礼致します。四の五の言っている場合ではございませんので……申し訳ありません」


 謝ってからアマリアを抱え上げた。所謂お姫様抱っこと言うやつだ。


「ふ、ふぇ!?」


 そんな間抜けな声を上げて驚きを露にしているアマリアに何度も謝罪しながら執事は廊下を駆けた。

 執事の嗜みとして毎日の筋トレを欠かしていない執事であればそのぐらいは容易かった。


 すれ違う他の使用人からは青褪めた表情を向けられたが、先ほども言った通り四の五の言っている場合ではなかったので全て無視して避難通路がある場所へと真っ直ぐ向かう。


「あ、あのっ! も、もう自分で歩けますから……下ろしていただけないでしょうか……?」


 腕の中にいるアマリアが赤面して言ってくるがこれも無視する。ドレスなんかを着ているアマリアと一緒に走るよりこうしていた方が圧倒的に速いのだ。……別に疚しい気持ちなんか微塵もない。そんな気持ちを抱けば首を飛ばされるのは間違いないのだから。


 そうして度々訴えかけてくるアマリアを無視し続けて辿り着いた避難通路がある一室。そこは皇帝の寝室だった。


 城内で一番警備が厚い場所であるし、皇帝が真っ先に逃げられるように……と、こうした避難通路を隠しておくのにはうってつけの場所だった。


 そこの扉を蹴破って寝室を突っ切り、アマリアを下ろして本棚を退ける。その本棚の先にある部屋は、とても避難通路があるとは思えない執務室のような場所だった。


 何度も要求を無視された事に頬を膨らませて睨んでくるアマリアを無視して執事はズカズカと部屋を進み、机の裏にあるボタンを押して、それによって鍵が開いた引き出しにある鍵を手にとって、寝室へと戻る。


 次に向かうのはベッドを退けたところにあるフロアーハッチだ。そこに鍵を差し込んで鍵を捻り、慣れた手付きでハッチを開く。そしてアマリアの手を取ってゆっくりとその先にある階段を下りる。


「なんだか手慣れているようでしたけど、普段からこうするように、と訓練でもしているのですか?」

「いえ、別にそう言った事は何も……ですが頭の中で『こうするんだ』って寝る前に想像しているのでそのおかげですかね?」


 階段を下りきってからその先に続いている薄暗い通路を進む。

 皇帝の寝室は三階にあったのだが、その真下にある部屋は全て部屋の大きさが違っていた。言うまでもなくこの通路に続く階段のせいで圧迫されているのだ。


「寝る前にいつも……真面目ですねあなたは。……うちの騎士にもその真剣さを見習って欲しいぐらいです」

「え? なぜですか?」


 執事の問いに慌てて口を塞ぐアマリア。言ってから気付いた。これは言ってはいけない事だった、と。

 焦ったアマリアは急いで話題を変えた。


「そっ! そう言えば! まだあなたのお名前を聞いていませんでした!」

「あっ! そうでした! 申し訳ありませんでしたアマリア様。私はサートと申します!」


 名乗り忘れていた事を思い出した執事──サートは頭を下げてアマリアに言う。ちなみにサートは執事のような格好しているだけで、正式にはまだ執事ではない。近々執事の地位に就ける事になっていたので衣服の調整をしていたところにこんな事件が舞い込んできて……と言った具合だ。


 名乗るついでにそんな事をアマリアに明かした。


「そうだったんですね。サートさんは的確な行動とっていましたし、昇進も納得ですね」

「いえいえそんな……私ごときが執事など恐れ多いですよ。それに、畏まった口調と言うのがどうにも苦手でして……」

「私はそんな事は気にしませんから、砕けた感じでいきましょう?」

「そう言うわけにはいきませんよ。アマリア様は皇帝陛下の──」

「構いませんよそんな事。今の私は凄く気分がいいんです。安定が手に入る予定ですし、自由な未来も……ですからこのまま清々しい気分でいさせてはくれませんか? 堅苦しい敬語で接されるとこちらまで堅苦しくなってしまいます」


 縋るように言うアマリアから距離を取りながらサートは渋々それを受け入れた。


「二人きりの時だけでしたら……」

「それで構いません」

「分かりました……あぁいや……分かった」


 この通路を抜ければ城の外だ。フロアーハッチが開いていなかった事からこの先に誰かがいるわけはないだろうが、それでも避難してきた人間が集まってくればこうして気安く喋る機会もなくなるだろう。だから今だけなら別に良いか……そう考えてサートはそれを受け入れた。


 それから暫くタメ口で会話しながら通路を進む二人。その正面には重そうな鉄の扉が立ちはだかっていた。装飾もまるでされていないその鉄の扉は囚人を放り込んでおく牢獄のもののようだった。


「この先が外のはず……」

「何だか物々しいですね」

「そりゃあこれは避難通路の扉なんだからこれぐらいするでしょう。一応外は植物でカモフラージュされているらしいけど、絶対に誰にも見つからないとも限らないし、簡単に破られないようにしないとダメなんだよ」

「それもそうですね。行きましょうか」


 そんな会話をしながら二人はその鉄扉を開いた。鉄扉には鍵がかかっていたが、それは地面に落ちていた鍵を使えば開けられた。


 外に出て広がるのは蔦や蔓の植物だ。それはカーテンのように光の侵入を妨げていた。植物のカーテンを潜って目の前に広がるのは、これまた緑だった。避難通路の先はゲヴァルティア帝国の帝都の外にある森だった。


 サートは鉄扉を開くのに使った鍵で鉄扉の鍵を閉め、格子状になっている部分からその鍵を投げ入れ、そして植物のカーテンで扉を隠した。

 これで外からの侵入を防ぐ事ができて、次にこの扉を使う人間も問題なくここを通れるわけだ。


 ここは森の深部であるから、滅多に人は寄り付かないのでこの程度の防犯設備で問題なかった。例えここを突破されたとしても、皇帝の寝室に辿り着くのは困難を極める。

 この通路は一方通行なのだ。反対側から通ろうとすると結界によって幻覚効果を与えられ、引き返そうとしない限り永遠にこの通路を歩く事になってしまうのだ。


「じゃあまずは、避難所に行こうか。前に正体不明の盗賊に襲撃されたから避難所自体が無事かどうかは分からないけど……」


 ゲヴァルティア帝国は【冒険王】とティオ=マーティに襲撃されて国全体に大きな被害を受けている。アルタが邪魔をしなければ最初の襲撃で全てが終わっていた事だろう。

 なので帝都の貴族街や平民街などを問わずにゲヴァルティア帝国全域が廃墟のようになっている。避難所が無事かどうかすら分からないほどに酷い有り様だった。

 だが、クリーガーが政略結婚を諦めないほどには立ち直ってきていた。人間の数がとにかく多い事がゲヴァルティア帝国の売りなので、復興する速度もはやかった。


「ここは魔物が生息する森なのですか?」

「そのはず。魔物避けの結界が通路になるように張ってあるみたいだから分かり難いだろうけど」

「だから気配だけが伝わってくるのですね。しかし……なるほど魔物避けの結界ですか……でしたら安心して森を抜けられそうです」


 先ほどから視線などの生物の気配を感じていたアマリアがそれを知って胸を撫で下ろしていた。


「サートさんは魔物とは戦えるのですか?」

「いや、全くダメだよ。殴り合いの喧嘩すらした事ないのに魔物なんかと戦えないよ。頼りなくてすみません」

「あー、いえ! 頼りないなんて思ってませんよ! 先ほどのサートさんの冷静で的確な判断を見て、とても頼りになる方だなと思ってたぐらいです!」

「買い被りすぎだと思うけど……まぁアマリア様が不安に思っていないのならよかった」


 そんな時、後ろから誰かが走ってくる音が聞こえてきた。使用人の誰かが……或いはこの国の貴族やクリーガーなどの偉い立場にいる人物が来たのかと思い、サートとアマリアは同時に振り返った。


 すると、サートに走る重い衝撃。


 何かに飛びかかられた。一瞬だけ見えた影は人の形をしていた。

 サートの「ぐふっ……!」と言う呻き声を聞いたアマリアは襲撃者が追ってきたのかと思って、じわりじわりと後退りしながらゆっくりとサートの方を見やる。

 広がる血溜まりと、気になりかけていた人物の死骸。それを想像しながらゆっくりと。


 緊張感を伴いながらやがて視界に映ったのはそんな最悪なものではなく、メイド服を着て泣き喚く女性に頬擦りをされているサートの姿だった。







~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~







 アデルとラウラから離れて行動するクルト。

 草原で神器を全て脱いでアイテムボックスに入っていた普段着に着替えた。そして普段着の代わりに神器アイテムボックスへと放り込んだ。


 着替えた理由は泥だらけのままでいたくなかったから。クルトは若干潔癖症のような節があるので、いつまでも泥にまみれていたくなかったのだ。ついでに言えば水浴びをしてかぴかぴに乾いた薄い泥を洗い流したかったが、流石に屋外でそこまで開放的になる事はできなかった。……神器はアイテムボックスにしまう前に洗い流しておいた。


 普段着に着替えたクルトが向かうのは、スコールとハティを追っている途中に通りすぎた近隣の村だ。そこの体に薄く付着した泥を公衆浴場で泥を洗い流すつもりだった。その後はどうするか特に決まっていない。【賢者】の役割を放棄したとしても特に目的はなかった。なので取り敢えず適当に放浪しようかと考えていた。



 とぼとぼと歩いていると村が見えてきた。通りすぎる瞬間に聞こえてくる話し声は殆どが、空を駆ける白と黒の狼、それを追う煌びやかな服を着た三人の男女の話だった。


 それらに特に関心を示さないクルトは木造の湯屋へとやってきた。どこかジメジメしているその湯屋に好印象を抱かなかったが、不思議とここは落ち着いた。風呂上がりであろう顔が紅潮した中年から老人までの人間が男女を問わずに長椅子に座って仲良さそうに笑い合っている。その手には様々な飲み物が握られていた。


 それが落ち着いた。だがそれと同時に酷く自分が場違いのように感じられた。余所者だと言う事や、あんな風に人と笑い合えない自分のせいでそんな感覚に溺れていた。


 早く済ませよう。そう考えてクルトは代金を払い、ロッカーの鍵を受け取ってから青い暖簾を潜った。

 ここに扉がないからジメジメしているのだな、と悟ったクルトはロッカーキーに対応しているロッカーの前に立ち、いそいそと服を脱ぎ始めた。そこで誰かに声をかけられた。


「見ない顔だが、旅人か?」

「あぁ……まぁ……そんなところです」


 我ながら愛想がないな、と内心で冷めた笑い浮かべるクルト。風呂に浸かれば少しは溶けるだろうか、などと考えながら話しかけてきた男の反応を服を脱ぎながら待つ。


「あんたがどんな旅をしてきたのかは知らないけど、そんな顔になるなんて……よっぽどの事があったんだろう?」

「さぁ……? ところで、俺は今どんな顔をしているんですか」

「何かに興味がなくなったような……いや、諦めたような顔をしてるよ。それも相当規模の大きい何かを諦めたような顔をしてるよ」


 そうですか、とだけ返して全裸になったクルトはタオルを腰に巻いて歩きだした。それに男も付いてくる。それに何かを思ったりはしない。だって同じ目的を持ってここに来ているのだから。行き先が同じなのは当然だ。

 水が流れる魔道具の前にある椅子に隣り合わせに座っても、浴槽でも隣り合わせになっても……


「よかったら相談に乗ろうか?」

「いえ、結構です。赤の他人に自分の事を語りたくはないので」

「憖親しい相手より、赤の他人だからこそ遠慮なく話せる事もある。それに、銭湯ってのは裸の付き合いをする場所だ。だからほら、身も心も赤裸々にして悩みを打ち明けてみな」


 断るのも面倒臭くなったクルトは話した。自分が【賢者】である事も、くだらない劣等感に苛まれてどうでもよくなってしまった事も、何者かに思考を掻き消されていた事も、自分に巣くう不満や疑念の全てを。


「ほほう【賢者】ときたか……それの真偽はさておき、劣等感ってのは厄介だなぁ。諦めるか、自分が優れた人間になるしか逃れようがないからなぁ…………きっとお前は諦めてしまったんだろうな、優れた人間になる事を。原因は信仰心を蔑ろにされた事だろうな」


 思考を整理するように呟く男。そう言えば名前を知らないな、と考えるがそれでいいのだと考え直した。それを知ってしまえば赤の他人と言う関係が崩れてしまうのだから。だから【鑑定】を使って強引に見たりもしない。自分のために真剣に考えてくれているのだから。

 その真摯さは絶対に見失ってはいけないものだ。


「もう一度やり直してみろとしか言えないなぁ……信仰心を蔑ろにされたのは俺にはどうしようもないし、アドバイスのしようもない。なんせ俺は宗教を信じないからな……人並みに願ったり祈ったりはするが、それは反射的なやつだから無しな?」

「はぁ」

「人と比べるのをやめて、優れた人間になれるよう努力しろ。それしか言えねぇよ俺には。それができないからこうなってるんだろうけどな」


 男の言う通り、それができないからこうして相談をするはめになっている。大人のように強く格好よく堂々と振る舞いたいクルトからすればこれは屈辱でしかなかった。


「お前は人間に価値を求めている。だからそれを見比べて優劣を判断して勝手に決め付けてるんだ。少しでも自分に価値を付けようと見栄を張ってるが、それが上手くいかないと勝手に傷付いている。お前はこんな面倒臭いやつだ」


 クルトはそれに頷いて話し始めた。


「今まで人に価値を付けている自覚はなかったんですけど、言われてみればそんな感じで生きてた気がします。見栄を張っていると言うのも確かにそうでした」

「お、当たってるか……ならよかった。俺も結構な歳だが、まだ耄碌はしてないみたいだ」


 男は五十代ぐらいでまだ筋肉があって日々を元気に活発に過ごしていそうな雰囲気だ。この男が耄碌するのはまだまだ先になると思われる。


「妹のような存在の幼馴染。その憧れでいたかったから常に一歩先を歩こうと頑張ってきた。精一杯知的に振る舞って見栄を張って……弱くて幼い自分を偽って生きてきた。だけど、幼馴染はどんどん俺に近付いてきた。そしていつの間にか俺の先を歩きだした。いつも俺の前に立っている。それを俺は眺めているだけ」

「…………」

「あいつは一度でも俺に憧れを抱いてくれていたのかな……尊敬してくれたりしてたのかな。……でも、今となってはそんな事すらどうでもいい。さっきまでは執着してたけど、不思議と今はどうでもいい。吹っ切れたのとはまた違う……俺はあなたの言っていた通り諦めたんでしょうね、どれだけ繕っても隠せなくなってしまったから。だからその見栄がバレる前に逃げ出した。あいつとの最後の記憶に憧れの俺のままで残っていられるように」


 一度語り出せばそれは暫く続いた。それを男は自分の子供を見守る父親のような優しい穏やかな目で見守っていた。


 クルトは自分がよく分からないと思っていたが、この男に引き出されるようにして話したからだろうか。この男の言う事を一度でも肯定したからだろうか。この男の存在自体を認められたからだろうか。

 分からないが、どんどんと自分の事が分かってきた。沈んでいた気分も大分浮き上がってきた。洗い流されるようにして思考が鮮明になっていく。


 単純だな、と思わなくもないがそんな事より今はこのまま、間欠泉から湧き出る水のように吹き上がる自分への理解を浴びていたかった。浸されていたかった。ここが温泉ならばどれだけよかっただろうか。そんな惜しさを胸にクルトはそのまま男に話し続けた。



 それからクルトの口が動きを止めたのは、クルトの口から殆どの水分がなくなった時だった。気付けば体力が尽きるまで全力疾走した時のようにカラカラに喉が渇いていた。湯に浸かっている体ももの凄く熱い。クルトはハッとして男に謝ろうと隣を見るが、そこに男はいなかった。液体になって溶けてしまったのか、はたまた熱さにやられて文字通り蒸発してしまったのか。


 視線を前に向けたクルトは「あっつい」と小さく呟いてから湯船を出た。


 体を拭いて服を着ながらクルトは男について考える。より一層自分を理解できた事によってそんな事を考える余裕ができていた。


 あの男は名前も知らないが、どこか親近感を覚えてしまうような人物だった。初対面のはずなのに、初対面じゃないような。どこか落ち着けるような安心感と偉大さを感じた。



 それからロッカーキーを返して村を出たクルト。自分を理解できたとしても、根本的な解決には至っていないので未だに目的は定まらないままだ。

 先ほどまでと違うのは気の持ち方だ。暗い気分は毛穴の汚れと共に流れていった。その代わりにクルトに染みていったのはあの湯船の温かいお湯だった。


 赤の他人と全裸で赤裸々に語り合ったからか、身も心もさっぱりしていた。あの男に言われた通りにしていてよかった。

 そう思わずにはいられないクルトだった。

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