第281話 最果ての
最果ての大陸の草原地帯に生息する喋る狼──スコール。
スコールは他者をバカにするのが好きだった。例えば残忍で狡猾な腐敗した泥の巨人──グレンデルのようなどこか抜けている生物を「バカが」「間抜けが」などと罵る事が好きだった。
そうした罵倒に激昂している生物を見るのも好きだった。みっともなく感情を露にしている滑稽な生物を見下したように蔑んで哄笑を上げるのだ。
そんな最悪な性格をしているスコールには双子の兄弟がいた。
その兄弟は、スコールが白い体毛なのに対して黒い体毛を持っていた。影のように黒い体毛を持つスコールの兄弟の名は──ハティ。
ハティは夜に溶け込み、月光のような金色の瞳で獲物を憎悪に満ちた視線で睨み、そうして音も立てずに命を刈り取る。
その獲物に特に恨みや憎しみがあるわけではないが、ハティに少しでも命の危険を齎す敵になり得る可能性があるのでそんな獲物にすら一々憎悪を向けて静かに刈り取るのだ。
蹂躙するような激しい戦い方をするスコールとは正反対の、擁護するような落ち着いた戦い方する。
この兄弟は双子でありながら体毛から戦法まで、何から何まで正反対だった。日光を愛するスコールと月光を愛するハティ。こんな趣味嗜好と言ったものですら正反対なのだ。
唯一同じものを挙げるすれば金色に輝く瞳ぐらいではないだろうか。
現在、そんな二匹が最果ての大陸で遭遇していた。
「久し振りだな、ハティ。何年振りだ?」
「…………」
「相変わらず無言か。……まったく、陰気な奴だ。その黒い体毛と言い、夜に浮かぶ月が好きなどと……陰気過ぎて燃やしたくなってしまう」
「…………」
スコールと向き合って微動だにしないハティ。視線は嘲るように首を振るスコールを追っている。
「グレンデルから話は聞いたか?」
「…………」
首を縦に振って肯定を示すハティ。
「勇者や賢者はエクディロシに足止めを十分にされていたはずだが、エクディロシが見失ってしまった隙に神器を入手していたと言う。……無能すぎて噛み殺してしまいたくなるが、老い耄れジジイの肉など食いたくないし、その朦朧ジジイはしっかり情報を持って帰ってきたのだから許してやろう」
余計な罵倒を挟みながらスコールはハティと情報の共有を行う。グレンデルの話で大体は伝わっているが、解釈の違いなどがあれば面倒なので遭遇したついでにすり合わせを行っておくのだ。
「……それで、勇者と賢者以外にも一人何かがいたそうだ。付き人か何かかと思ったが、勇者と賢者と同等の力を持っていた事から、また神々が新しい役割を持つ敵を放り込んできたようだ。だが、それは神々が新しい敵を放り込むほどに今代の魔王様は強力だと言う事の証明に他ならない。ならば、今回こそ憎き神々をこの世界から追い出すチャンスだ。……な? ハティ」
「…………」
新しい敵、憎き神々、と言った言葉に牙を向いて喉を鳴らして憎悪を露にするハティ。
敵や敵なり得る存在は憎悪を以て刈り取りたいハティからすれば、この世界に寄生する神々は目の上のたんこぶでしかなかった。だからこの転機を逃さずに絶対に神々を殺すか追い出すかしておきたかった。
「そうだ、ハティ。折角こうして再会したんだ。父のところへ顔を出しておこう」
スコールが突然思い付いたように言った事に対してハティは頷いて肯定を示して答える。
そんな二匹が向かうのは最果ての大陸の外、つまり人間や亜人、魔人に魔物と言った生物が生息する大陸だ。そこの中心部に位置するとあるダンジョンの最下層に二匹の親は封印されている。
このダンジョンは二匹の親を封印するためだけに人工的に造られたものだ。地の底で凶暴な二匹の親の封印に成功した昔の勇者と賢者が、その封印が解かれないように、とダンジョンと言う防衛機構を使って二匹の親を封じている結界を隠したのだ。
この封印の隠蔽にダンジョンと言うシステムを使用した理由は、二匹の親は飢餓に晒されると急激に力を増すからであり、そうなればこの封印など易々と打ち破られる。そうなってしまわないようにダンジョンと言う施設を造り、そのダンジョンの内部で死んだ生物──人間や亜人の死骸をダンジョンに吸収させ、封印の内部にいる二匹の親に強制的に与え続けるのだ
ちなみにこのダンジョンに、スコールとハティ親が封印されている事は伝わっていないので、これは普通のダンジョンだと思い込まれており、このダンジョンに挑む者は後を絶たない。
封印の件は意図して人々に伝えられていない。なぜなら、こうする事でダンジョン攻略に向かい、死んでしまった人間達を安定して二匹の親へと食事として与えられるからだ。
二匹の親は強大な力を持つが故に、誰にも討伐される事がなかったのでこうして封印するだけにとどまっていたのだ。そのせいで変わり映えしないダンジョンの景色を見つめながら生きている。
二匹はそんな自分達の親に会いに行くために最果ての大陸を出た。
スコールは空を駆ける……地を照らして海を輝かせる太陽を追うように。
ハティは空を駆ける……今はまだ見えない月に追い付こうとするように。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最果ての大陸の砂漠地帯に生息するカバのように大きな口を持つ人型の生物──セト。
セトは亜人と魔物の間に位置する生物だ。セトは自身が生息する最果ての大陸の砂漠地帯にて魔物を殺しすぎてしまった。
最果ての大陸に生息する魔物は全て世界によって創造されたものであり、それらは皆が世界に寄生する神々に対抗するための生物──仲間同士である。
最果ての大陸には神に対抗するための戦力が蓄えられている。それ以外の生物は存在しない。
つまり最果ての大陸には肉類の食料などが存在しないので、空腹を満たすために行われる仲間同士の殺し合いや共食いなどはよく見られる光景だ。木の実を宿す草木ですら殆どが意思を持っているのでそんな争いは頻繁に起こっていた。
これは一種の厳選だ。自分の仲間にすら勝てないような……神に敵わないのが明らかな弱者は強者の養分──経験値になるのだ。
だが、だとしてもだ。
セトは過剰に魔物を殺しすぎた。腹を満たすためでもなく、強くなるためでもない。
ただただ沸き上がる殺戮衝動を満たすために殺し、抑えられない闘争本能を満たすために殺していたのだ。
必要以上に魔物を──仲間を殺しすぎた。故にセトは砂漠地帯と言う最果ての大陸の一部の地域で嫌われ者として扱われていた。
嫌われ者であるセトの周囲には魔物の一匹すら寄り付かない。
空腹を満たすための食料がないのだ。
セトは腹から大きな音を立てて砂漠を放浪する。砂嵐が絶え間なく渦巻く砂漠を放浪する。魔物を探して殺して食うために。
渇いた咆哮を上げてセトは耐える。いざとなれば砂漠地帯を砂漠地帯たらしめる膨大な砂を食らうつもりなので飢餓に耐える必要はない。
セトが耐えているのは殺戮衝動と闘争本能だ。誰も自分に寄り付かないので戦って殺せる相手が存在しないのである。
無限に沸き上がるその欲求は募るばかりだった。発散される事がなく、ただ募り続ける膨張して破裂しそうな耐え難い欲望。
発狂してしまいそうだった。自分を見失って災害かのように、欲望のまま暴虐の猛威を振るってしまいそうだった。
この暴力の欲望が満たされた事は生まれてから一度たりともなかった。一度だけでいいから満たされてみたかった。まだまだ足りない……満ちる速度より渇望が上回っているのだ。
セトは今も力を振るいたくて疼いている。体が震え、狂気を伴った笑いが浮かんでくる。
そんなセトには天敵がいた。それはセトの兄弟である──イシスだ。イシスの立ち位置としてはセトの妹になる。
セトはイシスの伴侶を殺した。セトはそれが妹の伴侶だとは知らなかったので殺した理由などはない。つまりは単にセトが殺した有象無象の中にたまたまイシスの伴侶がいたと言うだけだった。
それに激昂したイシスは普段の温厚さを欠いて兄であるセトへ殺意を剥き出しにして襲い掛かった。生物の再生を妨げる呪いが付与された呪槍を使用して。
そのせいでセトが負った傷は今も癒えていない。
腹部にポッカリ空いた穴。これはイシスが投擲した呪槍による傷だ。【再生】と言うスキルがありながらも、呪槍の効果のせいでその傷は癒えずに残っていた。
肉親からも嫌われるセトは自分を嫌う者がいない地へと旅立つ事にした。その旅路がセトの現在だ。
まずは砂漠地帯をイシスから逃げるように抜けて草原地帯へと向かう。そして草原地帯でも嫌われ者の地位を築けば今度は海へ出る。海へ出ればそのまま進み、人間が住む大陸へ向かうのだ。
セトは砂漠地帯出身でありながらも海を渡る術を持っているのでこの進路に心配はなかった。
嫌悪される者──セトは砂漠を進む。砂嵐のせいで視界が悪い乾いた土地を……他者との関係ような荒んだ土地を進む。
生まれた地に住む全ての生物からも、肉親からも嫌悪されてしまったセトは、自分を嫌悪する者がいない場所に向かいそしてまた嫌悪されるのだ。
ただ衝動と本能に従い行動するだけで嫌悪される事を厭わずに、決して潤う事のない砂漠のごとき殺戮と闘争の欲求を満たすために、セトは砂漠地帯を進む。
~~~~
セトに夫を殺害されたイシスは血眼になってセトを追う。鳶の翼をはためかせ、牛の角が生えた頭をキョロキョロと動かして上空からセトを探す。
暴虐の砂嵐によっていとも容易く命を吹き上げられてしまった、今は亡き夫の仇を討つために。
絶対に赦さない……殺してやる……バラバラに裂かれた夫のようにできるだけ残虐に、非道に、無残に、生きていた頃の原形をとどめさせない程にぐちゃぐちゃに、砂嵐に巻き上げられる瓦礫によって八つ裂きにされた人体のように。
呪槍でセトを貫いた瞬間を見たわけではないが、貫いたと知った時にはなにものにも変えがたい爽快感がイシスを襲った。まだまだ八つ裂きには程遠い一撃だったが、それはここが砂漠だと忘れさせるほどの潤いイシスに齎した。
呪槍を手にして飛行するイシスは砂嵐を避けて地上を見下ろす。当然そこにセトはいない。なぜならセトは砂嵐の中を進んでいるからだ。
歩く砂嵐とでも言えるほどに砂漠のように砂と共に生きるセトは、翼を持つイシスの天敵だ。嵐と言うだけで翼を持つ生物には脅威になり得ると言うのに、そこに砂まで加わってしまえばもはや手に負えない。
ならどうやってイシスはセトに攻撃を加えたのか。
それは呪槍の投擲だ。
投擲された呪槍は見事に砂嵐の中にいるセトに命中し、痛みに悶えるセトは砂嵐を霧散させ、呪槍に貫かれているセトは姿を表した。
それだけだ。偶然与えた一撃に悶えるセトを見ただけでイシスは潤いを感じていた。そんな一撃でも少しは満たされてしまうほどにイシスはセトが憎かった。温厚だったイシスの存在を否定したくなるほどに。
イシスはセトがいる砂嵐から少し離れたところを飛んで並走する。セトからこちらは見えないが、砂嵐の中にセトがいると知っていればイシスが並走するのは当然だった。
もう一度呪槍を投擲してもいいが、あんな偶然はそう何度も起こらないだろう。そう考えたイシスは無駄な手出しをして余計な警戒をセトに与えないように黙って並走し、いずれ砂嵐から出てくるであろうセトを待ち構える。出てきたところに襲い掛かるのだ。
簡単に完遂できそうな復讐を前にしたイシスは口元に手を当てて上品に笑っていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最果ての大陸の近海に生息する特殊な生い立ちの醜い魔物──スキュラ。
このスキュラは元々、マーメイドと呼ばれる亜人と魔物の中間に位置する生物だった。マーメイドは、上半身が美しい女性のもので下半身が魚類のような姿をした生物だ。
綺麗で汚れのない清浄な海を泳ぎ、美しい歌声であらゆる生物を魅了し、生きたマーメイドの下半身の肉……魚類の部分を食らえばその生物は不老不死になると言われている。
そんなマーメイドは人間が住む大陸の海にはもちろん、最果ての大陸の近海にも生息していた。最果ての大陸の近海に生息しているマーメイドは言うまでもなく世界が生み出した存在だ。
世界が生み出したマーメイドの一人がなぜスキュラなどと言う醜い存在に変貌してしまったのか。
それは、そのマーメイドが毒物で酷く汚染されている海を泳いでしまったからだ。通常のマーメイドであればその汚染を感知して近付きすらしなかっただろうが、しかしそのマーメイドは幼かった。だから危険なものだと認識できずに泳いでしまった。
その毒物の影響を受け、この幼いマーメイドはスキュラ言う悍ましい生物へと姿を変えてしまった。
上半身はそのまま美しい女性のままだが、問題は下半身だった。魚類の下半身を覆うように幾つもの犬の頭部と足が生えている。まさに異形だ。
スキュラの下半身を覆う犬の頭や12本の足は基本的にスキュラの制御下にあるが、スキュラ本人の感情が高ぶったり敵と交戦する際などはそれぞれが意思を持って行動する。
自分の体なのに思うように動かない事に怯えつつもスキュラはそれでも悲しみのなかを生き続ける。幼かったとは言え己の知識の無さや感覚の鈍さを悔い、どんどん侵食するようにスキュラを乗っ取ろうとする下半身に生えた犬と12本の足を制御しようと奮闘しながら生き続ける。
やがてやってくるであろう神々との戦いのために力を蓄えて、寄生される世界のためにその身を捧げるのだ。
それと、もし叶うのであればスキュラは自分をこんなにした毒物の元凶と会ってみたかった。いったいどんな生物が毒を撒いたのか、どんな意図があってこんな事をしたのか、そんな疑問を解消したかった。
仕返しや恨みを晴らすなどの思考していないあたりに元のマーメイドらしい温厚さを感じる。
だが、最近ではその温厚な考えすらも侵食されてきていた。
日が経つにつれ凶暴性を増していくマーメイドしての自分はスキュラが呑まれていっているのを感じているのだ。
腹が減っているわけでもないのに食事を繰り返して力を付ける。最果ての大陸に近付こうとする船や最果ての大陸の近くを進む船などを襲って多くの人間を殺した。
取り返しの付かない事をしている自覚はある。だがもう抗い難いのだ。マーメイドをスキュラに変えた強烈な毒物の影響に抗えないのだ。
自分がマーメイドからスキュラに染まっていくのだ。見た目はもう取り返しがつかないから心だけはマーメイドでいようにも、それすらもスキュラに染まっていくのだ。
自分を失うわけではない。作り変えられるだけだ。
それがなおさら怖かった。絶望したり失望したり怒りに震えたりして人格は変わるのであればあっさりしていてよかったのだが、これは違う。徐々に変わってくのを常に感じさせられるのだ。
臆病なマーメイドに迫るスキュラと言う怪物の存在。
怖い……怖い……怖い……怯えても怯えてもスキュラは歩みをとめない。
助けて、変わりたくない、離れて、やめて、近付かないで、さわらないで、私を蝕まないで、嫌だ、出ていって……どれだけ拒絶しても否定してもスキュラと言う、毒物から成る怪物はマーメイドを蝕んでいった。
犬の頭が獲物を貪る。12本の足が縛り上げ締め付け縊り殺す……他のマーメイドを。美しい歌声を発するその口からは悲鳴だけが上がっている。
毒物に汚染されて数年経った今、遂には制御が意味を成さなくなった。犬も足も全てが勝手に動いている。
……唯一意思を持って動かせるのは上半身だけだった。人間と同じ両腕は涙が伝う頬を拭い、涙が流れる瞳で、犬の頭に貪られ足に縊り殺されるマーメイド達を無感情にみつめていた。見たくないのに見てしまう。……あぁ……上半身も制御を奪われていたようだ。
あまりにも自然に蝕まれて、マーメイドかスキュラか分からなくなった自分と一体化しているから気付かなかった。
よく感じてみれば体を動かす感覚が馴染んで来ている。マーメイドを食らう感覚も縊り殺す感覚も全て自分に伝わってきている。
……あぁ、これは自分の意思だ。全て自分で殺っているんだ。
これが侵食か。気付かない内に侵食を終えて原形を作り変えてしまう。自分を曖昧にして、新しい自分の感覚に気付かせるこれが侵食か。
意識するまで何も気付かなかった。
あまりにも自然に自分の意思を持って同胞を殺して回っていたから気付かなかった。
同胞を殺すのが当然になっていたから気付かなかった。
変わってしまった。犬の頭も12本の足も全てが思うように動かせる。本当にいつの間に変わってしまったのか。そう考えるがもうどうでもよかった。
今はただ何かを殺していたい。
温厚さを凶暴さに作り変えられた元マーメイドはスキュラとしての生活を享受し始めた。容赦ない無慈悲な殺戮を。悪逆無道な殺生を。
生んでくれた世界に感謝して、救いを齎さない神を更に敵視して。
この世を憎みながらも、世界のために動くその意思だけは変わっていなかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
冥界……地獄と現世の境界を守護する番犬──ガルム。
その見た目は、骨が浮き出た暗い紫色の犬だ。その喉元には地獄から抜け出そうとした死者の赤黒い血液が付着していた。死者の血液は聖なる力で浄化しなければ消える事がないのでガルムの喉元に付着した血液は消えない。
言うまでもなく脱走しようとした死者はガルムに食われていた。それがガルムにとっての唯一の食事だから。しかし、地獄から脱走しようとする者は意外に少なく、ガルムは常に空腹に苛まれていた。
そんな空腹のガルムが首を振って意図せずに振り撒いた涎は死者が歩む一本道を逸れて、道の外に広がる暗い深淵へと垂れていった。
その深淵は『次元の裂け目』だ。落ちればどこに辿り着くか分からない。
身体への負荷が激しい虚空に放り出されて一瞬で魂ごと消滅するか、次元の狭間に放り出されて存在を八つ裂きにされるか、どこか別の世界に辿り着くか、はたまた地獄のどこかに再び辿り着くか。
今回ガルムが振り撒いた涎は、『ヴァナヘイム』というガルムが存在する世界に極めて近い世界にある、最果ての大陸と呼ばれる大陸の近海に辿り着いた。
世界を跨いだ事によりガルムの涎の成分は、涎に触れた者をガルムの眷属へと変貌させる効果を与えるものへと変質していた。
その涎はすぐに海水で薄れてなくなってしまった。
すぐになくなったとは言え一人のマーメイドがそれに触れて異形へと変貌していたのだが、それはガルムの知るところではない。
ちなみに本来のガルムの涎……唾液には触れたものを溶かす効果があった。
それが地獄に落ちて魂だけとなった死者をも溶かし、冥界の番犬であるガルムが栄養を摂取できる糧へと変えるのだ。
そんなガルムが番犬として勤める地獄へやってくる者がいた。その者は例のヴァナヘイムからやってきた皇帝の地位に就く者だと言う。……その名をリニアルと言った。
ガルムはリニアルへと告げた。
「強欲に溺れし哀れな俗物」
「なんなのだここは! なんなのだお前は!」
喚き立てるリニアル。そんなリニアルを慣れた手捌きで足元にある鎖を操って縛り上げる。そのついでに鎖を猿轡のようにして言葉も封じる。
「ヴァナヘイム、ゲヴァルティア帝国皇帝──リニアル。 恐らくお前に与えられる罰は、お前の都合で死んでいった生物と同じ数だけ死を味わう、同害報復の刑になるだろう。幾度となく死を味わう覚悟をしておけ」
リニアルが疑問を呈する間も無く、ガルムがそう告げるや否や、リニアルはガルムの後方にあるグニパヘリルと呼ばれる洞窟へと、巧みに操られる鎖によって投げ入れられた。
グニパヘリルの先は比喩などではない正真正銘、本物の地獄だ。そこでガルムの主による判決を受けて死者に刑が執行されるのだ。
ガルムが言った『同害報復』と言うのは、ガルムがリニアルに下されるであろう刑を予想して言ったものだ。
リニアルをグニパヘリルへ送ったガルムは次の死者を案内を始めた。




