第277話 峻烈な世界
翌朝、起床して朝食を済ませてからヴァルキリーの宿を出たラモン達は四方をヴァルキリーに囲まれた。そのヴァルキリーが手にする剣は既に抜かれており、日差しを反射して眩しく光っている。
「む、どう言う事だ? ……まさかジャンク、グリン……お前達、魔が差してヴァルキリーに手を出したのか……!?」
「そんなわけないだろうが」
「ならどうして私達は囲まれているんだ?」
あるわけないと思いながらもライリーはジャンク達にそう尋ねる。返ってくる答えも想像通りだ。だが、だったらなぜ自分達はこうして包囲されているのか。
この場にいる全員がそれを疑問に思っていた。
「あなた達はこの宿と宿泊している客にとって迷惑になっていました。ですので逃げられる前にあなた達に裁きを下しに参りました」
「迷惑……? 逃げる……? 裁き……?」
「身に覚えがないと言った様子ですね。ならばなおさら裁きを下す必要があるでしょう。自覚のない悪が一番厄介ですから」
実は全員が、もしかして宿屋の部屋を多く取っていた事か? と思っていたのだが、もしそうだとすれば、この世界はどれだけ厳しい世界なんだ、と言う事になるのでそれを口にはしなかった。
剣を構えるヴァルキリー達に、これは話し合っている場合はないな、と判断したラモン達は武器を抜いた。
「敵対意思を確認しました。剣士が三人、魔法使いが二人、拳闘士が二人。気を付けて下さい」
「「「「了解」」」」」
リーダー格の白髪のヴァルキリーはそれを見て仲間に報告し、それに他の三人が返事をする。
「相手は四人だ。ヴァルキリーは単体では無力だが、二人……三人と数が増えていくにつれて強くなる種族だ。気を付けろ」
ライリーが全員にそう注意を促してから街中での戦闘は始まった。
三人の剣士の内、二人のライリーとマーガレットがリーダー格の白髪ヴァルキリーと戦い、残りのラモン、ジャンク、グリンでそれぞれ一人ずつ相手にする。魔法使いのエリーゼとティアネーそれの援護と、ヴァルキリーの連携を妨害だ。
なるべくヴァルキリー同士の連携をさせないようにこうして担当する人物が必要だった。だが、ヴァルキリーは連携をせずとも自分の周囲に仲間がいれば、それだけでステータスが一時的に上昇する。だから更にその状態での連携を妨げる必要があった。
戦力は分散されてこれでやっと拮抗していると言える状況だ。だが、エリーゼとティアネーの援護や妨害があるので、ややラモン達が優勢と言ったところだ。
「危ない!」
白髪のヴァルキリーが槍の形をした光魔法を放ち、グリンに追い詰められて劣勢になっていた青髪のヴァルキリーを助ける。
グリンはその光の槍を防ぐ事ができなかった。今攻撃以外の事に手を回したら目の前の青髪のヴァルキリーに反撃されそうだったからだ。追い詰めていたとは言ってもその程度で覆されるほどギリギリで追い詰めていた。
「助かったッス! ブラン隊長!」
「ならよかった。気を付けて下さい、アジュール」
「すみませんッス、油断してたんス!」
青髪のヴァルキリー──アジュールはリーダー格の白髪のヴァルキリー──ブランに礼を言ってからグリンに向き直った。
その目には先ほどまでの余裕はなく、グリンを明確な敵と認めたような眼差しに変わっていた。
これは厳しい戦いになるな、とグリンは静かに舌打ちをしていた。
「ルージュ、そっちは大丈夫そうですか?」
「問題ねぇぜぃ! それよりたいちょーは大丈夫かよ?」
「私はまだ大丈夫です。ですが、長引けば危ういですね」
「うっし! じゃ、あたしがコイツをさっさと片付けてそっちを手伝ってやらぁ!」
ブランと喋りながら力一杯ラモンと戦うのは男勝りで快活で活発で気力に満ちた雰囲気を放つ赤髪のヴァルキリー──ルージュだ。
「…おいおい、随分と弱く見られたもんだなぁ? えぇ?」
「はっはっは! 実際に弱いじゃねーか! あたしと同等って男としてどうなんだっての。根性が足りねぇよ!」
「…ははっ。言われてみりゃ確かにそうだな」
意外と気が合いそうな二人。こんな形でなければ仲良くなれていたかも知れない。ルージュはヴァルキリーとしては珍しく男嫌いではなかったのだから。
「ノワール……は大丈夫そうですね」
「うふふ、えぇ。問題ないわよ。この程度であれば余裕で相手できますもの」
ジャンクと戦いながら事も無げにブランと会話をするのは黒髪のヴァルキリー──ノワールだ。妖艶であり怪しく危険な得体の知れない雰囲気を放っている。
「やはり本気ではなかったか」
「あらあら、バレてました?」
「当然だ」
「うふふ……あなたも本気ではないのでしょう?」
「おっと、バレてたか?」
「えぇ、もちろん」
「ふはははは」
「うふふふふ」
何か含むような作り笑いを浮かべるジャンクとノワール。不気味で仕方ない。
ルージュとノワールは大丈夫そうだと判断したブランは再びアジュールへと視線を向けるが、油断をなくしたアジュールも問題なさそうに見えたのでブランは眼前にいる二人に目を向けた。
「味方の事を考えるのは素晴らしい事だが、気を逸らしていていいのか?」
「うぅっ!?」
視線戻した途端に鋭い一撃を放ってくるライリーの攻撃をなんとか受け止めながらも、隙あり、とばかりに斬りかかってくるマーガレット蹴り飛ばして距離を取る。その先に放たれるエリーゼの火魔法を、手にする盾で防ぎながらブランは体勢を整える。
「やはり二対一は不利ですね……思うように攻められません」
「それを相手にして未だに傷を負わずにいるのだから誇っていいだろう」
苦々しい表情で呟くブランに蹴り飛ばされていたマーガレットが迫りながら言った。
かなりの強さで蹴り飛ばしたはずだと言うのにもう復活してきていたマーガレットに驚きを表しながらもそれを迎え撃つと、金属同士がぶつかる甲高い音が響く。
それを迎え撃てば先ほどと同じようにライリーが迫ってくる。ブランはそれを同じように蹴り飛ばそうとはしなかった。相手は人種だ。二度も同じやられ方をするわけがない。それどころかその足を受け止められてしまい、動きを封じられてそのまま終わりへ向かうだろう。
だからブランはもう片方の手で持つ盾を使った。先ほどエリーゼの魔法を防いだものだ。ライリーの攻撃は難なく受け止められたが、やはり両手が塞がれてがら空きになったブランへとエリーゼの火魔法が放たれた。
それは想定内の攻撃だった。ブランはしゃがんで前に移動する。それに伴って剣と盾も下に下げる。すると、剣に体重を乗せていたマーガレットとライリーがつんのめる。二人がつんのめる先はブランが立っていた場所だ。つまりエリーゼの魔法が飛んで来ている場所である。
「あぁ!?」
このままでは二人に当たると気付いたエリーゼは咄嗟に魔法の軌道を制御して上空へと向きを変えた事より、火魔法は姿を消した。それはいいのだが、つんのめっていたマーガレットとライリーはお互いに頭をぶつけてその痛みによって地面に蹲っていた。
「抵抗をやめると言うのなら命までは取りません。武器を捨てて両手を頭の後ろで組ん──」
そこでブランに放たれる雷魔法。エリーゼは魔法の無茶な操作をしたので息を荒くしているので、これを放ったのはティアネーだ。
魔法と言うのは一度放ってしまえば再び操作するのは難しい。なぜなら自分の手を離れて射出されているからだ。その射出された時点で魔法は完成してしまっているので、再び手直しをするのは困難なのだ。
最初から操作するのが前提で放たれた魔法であればまだしも、操作する予定のない魔法であれば余計な集中力や魔力を使ってしまう。
なら最初から操作するには前提の魔法を放てばいいだろうと思うだろうが、これは謂わば放たれた魔法とその魔法の使用者を不可視の細い糸で繋いだような状態だ。
その糸が切れてしまえば魔法の操作不可能になってしまうので、どうしても魔法を慎重に操作する必要があり、それほど激しく動かしたり速く飛ばしたりができない。
つまり、操作する予定のない魔法とは射出時の速度が変わってくるのだ。
だから基本的には操作する予定のない魔法して魔法は行使される。
「あああぁぁああああぁぁぁあっ!?」
「大丈夫ッスか、ブラン隊長!?」
「やったです! 私の存在忘れてたですねぇ?」
ティアネーの雷魔法を受けて悲鳴を上げるブランと、それを心配するアジュールと、小さくガッツポーズしてドヤ顔をするティアネー。
「あんた、よくもやってくれたッスね……!」
「え、あ、やめてです! 私近接戦闘できないですよ!?」
ティアネーを睨み付けるアジュール。今すぐ斬りかかられそうな気配を感じたティアネーはすぐにガッツポーズとドヤ顔をやめて弱腰になった。だが、そうなる前に注意力が散漫になっているアジュールの腹をグリンが殴り付けたのでアジュールは苦悶の声を漏らしながら地面に蹲る事になった。
「お前、誰を前にして余所見してんだ? あぁ?」
「うぐぅぅ……ぅう……ぐぅっ……ぐ……ぅ……ぉぉ……」
蹲るアジュールの頭を踏みつけながら苛立った様子のグリン。よほど戦いの最中に余所見をされた事が気に入らなかったのだろう。
それはお前なんか眼中にないと言っているも同然なのだからグリンが怒るのも無理はなかった。
「いぃ……いだっ……いだいっ! やめ、やめて……っ……足、退けて……っ!」
「やめるわけねぇだろうが。お前は俺達に襲いかかってきた敵なんだ。そんな危ねぇ奴を生かしておいてやる価値とか理由なんかがどこにあんだ?」
痛いから足を退けてと懇願するアジュールに嫌だと言いながらも頭を踏みつけ続けるグリンは、この際だから最近溜まっていたストレスを発散しておこうと考えていた。つまり八つ当たりだ。
短い間ではあったがヴァルキリーに嫌悪感を向けられながら過ごしていた事や、ノースタルジアの騎士と戦えなかった事や、長い旅路を大して思い入れもない相手のために手がかりもなく進む事、何より就寝時などに周囲に物がないのが一番腹立たしかった。
旅に出るまではガラクタまみれの道場で寝泊まりしていたグリンからすれば、ガラクタまみれのそれが快適な環境だったのだ。それがどうだ。何もない草原で野宿したり、綺麗に掃除された宿屋の部屋などは途轍もないストレスでしかなかった。
思い出せば思い出すほどにイライラは募っていくばかり。そしてそれに伴って頭を踏みつける力も強くなっていく。
「あああぁぁあああがががああがががあああ! 痛い痛い痛い痛い!」
「うるせぇんだよ! 黙って踏ませろよ!」
グリグリと足を捻って力を加える。強めたり弱めたり、死なない程度に適度に。グリンはアジュールが地面を叩いて痛がる様が堪らなく気持ちよかった。苛立ちが全て浄化されるほどに。
未だに痺れが抜けきらずに地面に倒れ伏しているブラン、想像以上に痛みが響いて頭を押さえているマーガレットとライリー。
「の、の、のわーりゅ…………あ、あじゅーりゅを……たしゅけてあげてくだひゃいぃ……」
痺れて呂律が回らないブランがノワールにアジュールを助けるように言う。それに了承の返事したノワールはジャンクを思い切り蹴り飛ばしてからアジュールを踏みつけるグリンの頭を掴んで近くの建物へ放り投げた。
ノワールは剣を手にしてはいるが、実のところノワールが一番得意な戦闘スタイルは素手よる暴力的な戦いだった。妖艶なお姉さんのようなイメージを悉くぶち壊すような戦い方だ。
グリンを放り投げた姿勢のまま固まっているノワールに掴みかかるのは、ノワールに蹴り飛ばされて地面を転がっていたジャンクだ。
それから始まるノワールとジャンクの取っ組み合いの喧嘩のような戦いはやがて苛烈なものへと変わった。
相手を踏み抜くつもりで放たれた踏みつけは石畳の道を砕いて、頭や胸部を打ち抜くつもりで放たれた殴打は建物の外壁を打ち砕いて……と、とにかく周りの被害が大きい戦いへと変わった。ヴァルキリーと人間の戦いを遠巻きに見ていた一般の亜人や魔物もそれを見て散り散りになって逃げ惑う。
残るはラモンとルージュだけだ。エリーゼとティアネーもいるが、二人はジャンクとノワールの戦いの被害を受けないように走り回るので精一杯だったので、実質的に残っているのはラモンとルージュだけになる。
「ちょっとストップだ。あれは流石に止めねぇとヤバくねーか?」
「…だよな。ライリーとマーガレットは蹲ったまま。グリンも宿屋に突っ込んだまま動かねぇし、ティアネーとエリーゼも逃げるので精一杯みてぇだしな」
「こっちも、たいちょーは痺れたまんまだし、アジュールは気絶してる」
以外にも冷静でまともなラモンとルージュ。
「…つってもあれどうやって止めんだよ。俺らじゃ無理じゃねぇか?」
「あたしはか弱い女の子だから無理だぜ。……あー、誰か男気溢れる格好いい奴はいねーかなぁー?」
「…は? マジで言ってんのかお前? 俺に一人で行けって?」
「おう!」
「…おう! じゃねぇんだよな……まぁ仕方ねぇから行ってきてやるよ」
全てをラモンに押し付けるルージュ。普段のラモンならばこんなにあっさり受け入れずに多少は反発しただろうが、ルージュの清々しさに負けてすぐに折れてしまった。
頭を掻きながらジャンクとノワールの戦いに向かっていくラモンを満足そうに眺めるルージュ。
宿屋の部屋を多く取った事から始まった戦いは、周囲の人々を逃げ惑わせるほどの激しいものへと変貌していた。建物は穴が空き、石畳の道はひび割れたり陥没したりしている。それから生まれた瓦礫は地面に積み上げられるばかりで、場は混沌を極めて行くばかりだった。
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「ん……んんぅ……」
身動ぎをした拍子にナルルースは目を覚ました。そしてナルルースはその寝惚け眼で周囲を見回す。
明るい。地面が硬くない。体の横側から風が吹いている。周囲には緑が広がっている。
ハッとしたナルルースは勢いよく立ち上がって腰に提げていた剣を鞘から抜き放った。
穴から引っ張り出されたのは理解していた。だが、まだ男達が近くにいるかも知れないのでこうして警戒している。もし近くに男達いるのならなぜ拘束されずに寝かせられていたのか、などを考えずに反射的にそうしていた。
そうして暫く真剣な眼差しで周囲を見回していたナルルースの視界に、赤いものが映る。鉄臭い匂いと若干赤黒い色からそれが血液だと判断する。
だが、だとすればこれは誰の血液なのか。あれほど大量に溢れていれば間違いなく人の一人や二人は死んでいるはずだ。だと言うのに、どこにも死体が見当たらない。不信感を丸出しにしてその血液を見回すナルルース。
そんなナルルースに声がかけられた。
「おはようナルルース。よく眠れた?」
「……っ!?」
突如背後からかけられた声に驚いたナルルースは振り返ると同時に剣を振るった。だが、何かを斬ったような手応えはなく、剣が宙を斬ったのは明らかだった。
振り返って一人の人間の姿を視界に入れたナルルースはこれ以上ないほどに警戒してその男を睨みながら剣を構えた。
ニコニコとあどけない笑顔を浮かべてはいるが、その体から溢れ出る魔力は途轍もなく異質なもので、この男がそもそも人間なのかすら疑いたくなるほどだ。
「何者だ……」
「僕はアルタ。敵じゃないよ」
一歩二歩と迫ってきたアルタに合わせて後ろに下がるナルルース。アルタはそんなナルルースを見て笑みを深めた。
「……証明はできるのか?」
「君があの男達に攫われていない事が何よりの証明じゃないかな?」
「あの男達はどこに行った?」
それもそうだ、と認めそうになるが目の前の男はさっきの男達と同じ人間だ。限りなく儚い可能性だが仲間の可能性もある。そう考えたナルルースは先ほどから疑問に思っていた事を口にする。
「僕が殺しておいたよ。そこの血溜まりが証拠だね」
「ならその死体はどこだ?」
そんな事は分かっている。アルタが醸し出す魔力を見ればそんな事は考えずとも自然と理解させられる。ナルルースが気になっているのはその死体の行方だ。
「あぁ、死体なら僕が喰ったよ」
「……く、喰った……?」
喰った。その一言を理解するには少し時間がかかった。
人間が人間を喰った。
魔物同士の共食いはまだ理解できるが、人種同士の共食いは理解し難かった。人肉食は忌み嫌われる行為で大罪だ、禁忌だ。禁忌を犯したと言うのに平然としている。
悪びれる様子も、狂いそうになる様子も、罪の意識を感じる事もなく、何でもない事のように振る舞っている。
狂人。それが率直にナルルースが思った事だ。
……いや、先ほども言ったようにこいつは人間ですらないかも知れない。こんな禁忌を犯したくせにへらへらにこにこ笑っているのだから。こんな破綻者は、欠落者は、人間ではない。人間であろうと人間ではない。人肉が生命線の魔人や一部の亜人なら分からなくもないが、こいつは紛れもない人間だ。だから人間ではない。
そんな考えに至ったナルルースは侵食するような寒気が背筋を撫でているのを感じていた。
「人でなしめ……」
「あはは、そんな酷い事を言わないでよ。僕は君を助けてあげた恩人なんだよ? それにあのまま死体を放置するのももったいなかったし、別に良いでしょ?」
「いくら恩人であろうと、共食いは看過できない」
アルタは楽しみが崩れていくのを感じていた。
アルタの予定では、ナルルースは自身の安全に気付きアルタに礼を言って去って行こうとしたところに命令をして行動を縛り、ナルルースに支配した事を告げて絶望を掬うはずだったのだ。
だが、そうはなっていない。ナルルースがアルタを警戒して謎の正義感を燃やして敵対寸前といったような事になってしまっている。
警戒心を抱かせないようにしていた笑みが裏目に出たのだとアルタは考えて溜め息を吐いた。
「面倒臭いね君。黙って僕に感謝していればいいのに。そうすれば簡単に絶望できて簡単に折れれて、ただ僕に従うだけの人形になれたのにさぁ……どうして意思を強く持って辛い道を行こうとするのかなぁ? 理解できないよ僕には」
「本性を表したな人でなし……! 人形のように生きる事をさも幸せな事のように言うな!」
剣を鋭く構えてアルタにそう叫ぶナルルース。それにアルタは動じず、面倒臭そうに呆れたような視線ナルルースに向けるだけだ。
「……? 幸せじゃないか。絶望して感情を捨て去って、何をされても何も感じず、何を言われても決して傷付かず、全てを適当に受け入れる事により得られる母親のような包容力、失うものがないから後先を考えずに行動できる圧倒的な強さ」
無機質に輝いている瞳で虚無を見つめ、夢を語る子供のような無邪気さを伴って言葉を紡ぐアルタ。その全てがナルルースには理解ができなかった。唯一理解できるのはどうしようもないほどに目の前のアルタと言う男が異常だと言う事だけだ。
「……幸せじゃないか。とてもとても幸せじゃないか。これを幸せと言わないなら何が幸せなんだ。動じず、傷付かず、失うものがないから何も奪われない。絶望は平和そのものだよ。一切合切変わる事がない不動の平和。そして絶望は強さそのものでもあるんだよ。 喪失を恐れない揺るぎなき不動の強さ。絶望は強くて平和で安全で……この上ない至高の幸せだよ」
ナルルースは自分では到底理解できない事を当たり前の事かのように語るアルタに戦慄する。
こいつはどこまで狂っているんだ。どこまで異常なんだ。
何をして、何をされて、どんな環境で、そしてどんな考えをしてどんな考えに至ればこんな人間に育ってしまうのだろうか。
そう考えるナルルースも胸の中には戦慄の他にも同情や哀れみ、そして好奇心など芽生えてきた。だがいくら好奇心が芽を出そうとも、これを深く知らない方がいい、これには少しも関わらない方がいい。理性と本能でそう察していたナルルースは同情などを押し殺してアルタを見つめる。
「理解できないな」
「そう? 残念だよ。……それで、ナルルースはどうしてこんなところにいたの?」
何気なくアルタが発した言葉に引っ掛かりを覚えたナルルース。思い出して見れば目を覚ました時もそうだった。
「……待てアルタ。なぜ私の名前知っている……?」
「なんでって……配下の情報を把握しない上司がどこにいるんだい? 支配したらステータスを確認する。それが当たり前だよね?」
「配下……? 上司……? 支配した……? ……お、おおっ、お前ぇ……! ど、どど、どう言う事だ……っ!?」
嫌な汗が止まらない。これは……目眩だろうか? 視界もぐるぐるしている。回り続ける視界のせいでふらふらしながらもアルタを見つめるナルルース。見つめると言っても視界がボヤけているのでハッキリと姿を捉える事はできていない。
「僕が寝ている君を【生物支配】って言うスキルで支配したんだ。だから僕は君の上司で、君は僕の配下。……これを知った君が絶望する瞬間を見たかったんだけど、無理だったね」
「……なぁっ……ぁぁぁ……そそ、そんな……さ、流石に嘘……だよな……?」
全身と声を振るわせながら縋るような目でアルタを見るナルルース。
そんな惨めで情けないナルルースの姿を見たアルタは口元に三日月を携えて、狂気を孕んだ嗤いを響かせながらながら言った。
「くくっ、くふ、ふふふ、はははははははは! あはははははははは! もちろん嘘じゃないよ。僕は君を支配した、本当さァ! あぁあぁ、そうだよそれだよそれ! 僕は君のそんな絶望に歪んだ顔を見たかったんだよォ! 最高だ……最っ高だァ! 綺麗な整った顔が悲痛に歪んでいくそれ! あっははははは! 僕が作った絶望! 僕が生んだ絶望! 落ちて落ちて落ちて、至高の絶望を存分に味わって! 強さと平和と安全を一生感じて、一生僕に従って、そして幸せに!」
裏切りの工程はなかったから十分な絶望を与えられない思っていたが、どうやらナルルースを深い絶望に落とすにはこれで十分だったようだ。
アルタは膝から崩れ落ちたナルルースを見て腹を抱えて嗤う。
「……──……──……ぁ……ぁぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
喘鳴のような呼吸はやがて声へと変わり、それは動悸のせいで再び呼吸へと変わる。
激しい動悸のせいでやってきた胸の痛みに耐えきれず、胸を押さえてナルルースは蹲る。
アルタのような狂人に支配されてしまった。この世界に存在する支配系のスキルを使われて支配されてしまうと、決して主に逆らう事はできない。
壊れるまで……壊れたしても玩具として永遠に遊ばれるのだろう。
救いを求めるのを諦めても、生きる事を諦めても、ひたすらに遊び続けるのだろう。壊れた残骸が無に還るまでずっと遊び続けるのだろう。この世に一瞬でも存在していた事を後悔させるほどにズタズタに。
或いは壊れた玩具には用はない、とあっさり捨てられてしまうのだろうか。絶望させて、絶望する様を見て満足したらそれで終わりなのかも知れない。
それも酷いのだが、残骸を壊すような真似をされないのならそれでよかった。後は希望一切持たずに屍のように生きるだけでいいのだから。
だが、支配されたと言う事実がそれを許さない。支配されてしまったからには主に飽きられたしてもそのまま一生を生き続けるしかない。ハイ・エルフが生きる長い長い時を、一切の自由なく。
何も見えない未来。それを見ながら世界が凍り付いて錆びれていくような錯覚に囚われてナルルースは蹲って泣き続けた。声も上げずにただひたすらに。蕭索に囚われて。
少しでも希望を抱く余地がある生活ができるように願いながら。
希望を抱いている事に気づかないままナルルースはそう願っていた。




