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第263話 叫びの音色

 不死者の沼地へ進む春暁──の体を使っている水無月初夏を追跡するのは冬音だ。


 12歳の子供である冬音にできる追跡などたかが知れていて……水無月初夏がそれを振り切るのは簡単だった。


 簡単に振り切られて春暁を見失ってしまう冬音。

 そんな冬音は春暁を見失ってしまった事に焦りながらキョロキョロと周囲を見回すが、周囲には誰もいない。不死者の沼地だと言うのにアンデッドもレイスもいない。


 この沼地にアンデッドが蔓延る原因である、ずっととどまり続ける暗雲は強い風が吹いても微動だにしない。

 そんな暗雲に覆われた不死者の沼地は、まだ日がでている頃だと言うのに日暮れのように……街灯のない夜のように暗かった。

 不死者の沼地は日が差さないからジメジメしており、この沼地の泥が乾く事もない。


 こんな不気味な状況に心細さを覚えてしまった冬音が、アンデッドでもレイスでもいいから何かと遭遇したいと思ってしまうほどにだ。それほどまでにこの状況は人に不安と恐怖を抱かせるほどのものだった。


 地面を踏む冬音の靴が水溜まりのようになった泥を跳ね上げる。この不気味な沼地には水気が強い泥を冬音が踏む音だけが鳴っている。小鳥の囀ずりも、風が花や草木を揺らす音もない。


「は、春暁~? 水無月さ~ん?」


 静寂に飲まれていた冬音は不安を掻き消すためにも、春暁と水無月初夏を探すために、数度口を泳がせてから若干震える声で二人の名前を呼ぶ。

 ……だがしかし、どちらからも答えは返って来ない。結構な声量で叫んだはずなのだが、どうやら二人? 一人? には届いていないらしい。


「どこ行っちゃったんだろう……」


 続けて口から出そうになった「帰り道も分からないし……」と言う言葉は、冬音とは別の足音が鳴ったせいで妨げられた。足音に反応して勢いよく振り向いた冬音は「春暁!?」と声を出しそうになったが、そこにいたのはどう見ても春暁ではなかったので、その言葉を噤んだ。


「アぁアアああアああぁぁアアァあぁああアアアアあぁあ……」


 呻き声を上げるのはアンデッドだ。まだ距離が空いているのにも関わらず、風は吹いていないのにも関わらずに漂ってくる腐敗臭に顔を顰める冬音。冬音は兄に似ていないその可愛らしい顔を歪めてしまった。大人になったら母─夏蓮のような可愛い系美人になるのは想像に難くない。


 アンデッドの腐った肉が地面に落ちる。それはすぐに泥と完全に同化して、もう地面との区別がつかなくなった。


 冬音は思わず自分の足元の地面を見る。


(もしかして今私が立っているここも……)


 そう考えると寒気が止まらなかった。顔がだんだん青褪めていくのが自分でも分かる。襲い来る吐き気堪えて冬音はアンデッドを睨む。


 そして、冬音は意を決して腰に提げていた鞘から剣を抜き放つ。その瞬間にダンッ! と思い切り泥を跳ね上げながら力強く前に踏み出してアンデッドに接近し、一瞬で斬り裂く。


 この平和とは程遠い世界で培った剣技。それでハイ・ミノタウロスを一人で倒せる程には強くなった。

 しかし冬音の母である夏蓮は相変わらず、自分の子供達を魔物と接触させようとしない。当然と言えば当然だし、その気持ちも分かるのだが、そのせいでここまで成長するのに時間がかかってしまった。

 だがその分、自分の技術を見つめ直す期間があったわけだから、冬音も春暁もその年齢に見合わない強さを得ていた。


 だからアンデッドは真っ二つに両断され、塵になって消えてしまった。

 そしてそれを皮切りに次々と現れるアンデッド達。その中には物理攻撃が全く効かないレイスまでいる。


 冬音は高く跳躍して、そのアンデッド達を飛び越えて距離を取ろうとするが、そこから見えた光景は最悪なものだった。


 なだれのように冬音のいる一点に向かってくるアンデッドとレイス達。流石に地平線の彼方までいる……とはいかなかったが、それでも結構な数のアンデッドとレイスが冬音へと押し寄せて来ていた。


 その顔を絶望に染めた冬音は泥を巻き上げ、泥に塗れながら着地した。


「……私一人でやるしかないんだよね…………ふぅっ……よしっ!」


 やる前から草臥れたように呟き、一息吐いてからやる気に満ちた表情に変わる冬音。どうやらやるしかないと考えたようだ。とても12歳の思考とは思えないが、殺らなければ殺られる……それがこの世界の生き抜き方だから仕方なかった。


 冬音は目の前に剣を構えてアンデッドとレイス達を見据える。見据えるが、アンデッドやレイス達はその後ろにも横にもびっしりといる。


 アンデッドに噛まれればアンデッド化してしまって終わり。レイスに取り憑かれれば精神を蝕まれてから体を乗っ取られて終わり。この魔物の質量に押し潰されても終わり。失敗条件のせいであまりにもハード過ぎる難易度になっているのだが、進まなければやられるのが分かっているので、冬音は退かない……退けない。


 強かに生きると決めたんだ。この程度で屈してはいられない。自分の身すら守れない者に人は守れない。

 だからまずは強かに全員倒して、自分を守りながら生き残る。


「はぁっ!」


 そう考えて冬音は真っ正面のアンデッドを目掛けて走り出した。







~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~







 春暁の体を乗っ取った状態の水無月初夏は、眠っている冬音が泥で汚れないように両手で首と膝裏を抱えて─所謂、お姫様抱っこの状態で抱えながら不死者の沼地を出て草原へとやってきた。……8歳の子供12歳の子供を抱えているのだ。


 水無月初夏は冬音を小高い丘にある木陰に入って冬音を下ろした。


「頑張ってね。冬音ちゃん」


 春暁の声で水無月初夏が眠っている冬音にそう声をかける。そうして優しく冬音を撫でた。


「頑張って自分と向き合って。春暁と私みたいに」


 冬音は夢を見ている。

 孤独な沼地で絶えず沸いてくるアンデッドと戦う、ただの夢だ。


 だが、冬音はこれを現実だと思って、生き抜くために必死で戦っている。

 そしてその夢を見せているのは他でもない水無月初夏だ。


 なぜこんな事をするのか。


 そう聞かれれば、冬音に備わった力を覚醒させるため、と答えるだろう。

 春暁が持つ『アニマ』のような特別な力を目覚めさせるためだ。


 そのためには窮地に陥れて力の暴発を誘う必要があった。そうしなくても冬音の力はいずれ自然に目覚めたのだろうが、そんな悠長に待っている時間はなかった。早急に力を目覚めさせて練習させ、最悪のタイミングで暴発させないように制御させる必要があったのだ。


 なぜ春暁の中に存在するアニマの水無月初夏がこんな事を知っていて、こうして行動しているのかと聞かれれば、それは──いずれこの世界を襲う脅威から世界を守るためだ。


 と、その時、冬音が苦しそうに悶え始めた。足をジタバタさせ、芋虫のようにくねくねと身を捩っている。呼吸を荒くして全身から汗を流している。

 それは何かに捕まったから逃げ出そうとしているようだった。



 それを見つめる水無月初夏に異変が起こる。衝撃が走り、何か……胸の内側から呼び掛けるような声が聞こえてきた。


 水無月初夏は意識を手放して春暁の元へと戻る。

 広がるのは青い海だ。透明な板が海上に浮かんでおり、そこに春暁と水無月初夏が佇んでいる。


「おはよう、春暁。どうしたの?」

「どうしたの? じゃないですよ、お姉ちゃんが……!」


 焦ったように言う春暁。それより先に問い詰めたい事があるだろうに、自分の姉を優先した。


「冬音ちゃんなら大丈夫だよ。あれはただ単に成長しようとしているだけ」

「成長……?」

「ふふ、兄弟揃って同じ反応するんだね。……そう、成長だよ。冬音ちゃんの中で眠っている力を覚醒させるための、ね。そうだね……春暁で言うところの私──アニマのようなものだよ」

「……じゃあ、お姉ちゃんは大丈夫なんですね?」


 心配そうに確認する春暁に大きく頷いて肯定する水無月初夏。それを見て安心したように息を吐く春暁。こうも簡単に水無月初夏の言葉を受け入れるのは信頼の現れだろう。


 しかし、冬音のあれは夢を利用した精神世界であるので、夢の中で負った怪我は精神攻撃として冬音に反映される。例えばあの夢で死ねば精神壊れて廃人となってしまうので安心とは言い難かった。


 だが、そうなる事はないだろう。冬音の強さがあればアンデッドごときに傷つけられる事はないし、もし窮地に陥ったとしても死なない限り安全だし、求める事ができれば、もう力の覚醒は完遂したようなものだ。


「それで、初夏さん。どうして僕の体を?」

「お互いの理解を深めるのがアニマの力を行使するのに必要だって話はしたよね? だから今回は私の反抗心を理解して貰おうと思ってさ。……乗っ取ってごめんね?」

「そう言う事だったんですね……確かに反抗心だったら僕に理解されるわけにはいかないですからね。……裏切られたのかと思って悲しかったんですけど、ならいいです」


 理解した春暁はホッと胸を撫で下ろす。が、水無月初夏はそんな春暁の様子を見て顔を驚愕に染めていた。

 当然だろう。出会った当初は、分からない、ふーん、ばかりだったのがここまで成長しているのだ。……今思えば、二度目に出会った時もここまでではなかったが成長していたように思える。


「どうしたんですか、初夏さん?」

「ふふ、何でもないよ」

「……?」


 誤魔化す水無月初夏に不思議そうに顔を傾げる春暁だったが、水無月初夏に「ほら、早く意識を取り戻さないと。意識がない冬音ちゃんを守らなくていいの?」と言われて、ハッとした春暁はすぐに目を覚ます。

 春暁は寄り添うように、看病するように未だに踠く冬音を見守る。


 春暁がいなくなった海上で水無月初夏は、若干恍惚としたような感嘆の吐息を漏らした。


 アニマ──その男性が理想とする女性の像。

 アニムス──その女性が理想とする男性の像。


 理想の異性像は個人によって違うので、この世に一つとして同じアニマ、アニムスは存在しない。


 アニマやアニムスの存在を言葉で説明されたり、書物を読んで知っていても、アニマやアニムスを認識できない生物が殆どなのでアニマやアニムスを自覚している存在は希少だった。……なのでアニマやアニムスに関しては不確定な要素や、検証や実験や参考になるサンプルが足りない部分、未知の部分などが多々あるので同じアニマやアニムスが存在しないとは言い切れないのだが、現状では少なくとも同じものが見られていないので暫定的に存在しないとされているだけだ。


 それらの、アニマやアニムスの認識、或いはそれらとの触れ合いは、精神の成熟を早めると知っていた水無月初夏だったのだが、それでもここまで早いものだとは思わなかったのだ。

 まるで自分が春暁の親となって春暁を育てているかのような感覚に恍惚とした感嘆の吐息を漏らし、成熟していく春暁に期待と感嘆の吐息を漏らしていた。


 そんな水無月初夏の吐息は誰にも届く事はなかった。

 ただ、海上を吹き抜ける風に流されていくだけだった。







~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~







 何百体とアンデッドを斬り捨てた冬音は疲労のせいで足を縺れさせて転んでしまっていた。泥が冬音の可愛らしい顔を汚す。


 そこで自分に覆い被さるようにして攻撃しようするアンデッドを察知し、剣を振るうついでに仰向けになって空を見上げる。その空を囲う額縁は夥しい数のアンデッドだった。斬り裂いたアンデッドの血液が冬音に降り注ぐ。


 視界が一瞬赤に奪われた。


 顔を振って血を振り落とせば、その頃には一体のアンデッドに馬乗りになられていた。他のアンデッドはそれを眺めているだけでこれ以上近付こうとしない。


 腐り落ちたアンデッドの顔面の肉が冬音の腹の上に落ちる。とても臭い。

 だが、そんな事を言っている場合ではなかった。馬乗りになったアンデッドが、前のめりになっているのだ。まるで冬音を頭から喰らおうとしているかのように。

 腐った顔面がどんどん冬音に落ちていく。腹へと、肩へと、首へと──


 目の前がグラグラ揺れている。地震が起きているかのように全身が震え

る。その震えに一瞬気付けなかった冬音だったが、すぐにこれらの震えが恐怖から来る震えなのだと気付いた。


 怖い……怖い……怖い……怖い……このままじゃ食べられる。助けを呼ばないと…………誰か……! 助けて! 誰か助けて! お願い! 聞こえていないの!?


 必死に口を動かすが声がでない。喉の奥から絞り出すようにしてみるが、それでも出ない。掠れた音すらでない。消音にしたテレビのように。音は鳴らない。鳴るのはジタバタと暴れる音だけだ。

 そんな冬音の無音の喘ぎは誰にも届かない。目の前で口を空けているアンデッドにさえも。


 どうしようもなく涙が溢れて来る。とめようにも……拭おうにも……止まらない。涙を拭う手は押さえ付けられていて使えない。



 情けない。情けない。 ……あぁ、あぁ、情けない。

 自分の身も守れずにどうして人を守るために……などと言えるのか。欲張りが過ぎた。


 失いたくないから守りたいのに、自分が死ねば全てを一瞬で失ってしまう事に気が付かなかった。見えなくなっては、聞こえなくなっては、発せなくなっては、感じれなくなっては……守れても意味がないと言うのに。


 助けを求めれば、誰かが助けに来ていたのだろうか。あの時、強盗に殺されてしまってから、助けを求める事が……他人に何かを求める事に拒否反応がでるようになってしまった。些細な事であれば問題ないのだが、生死などの大きなものが関わってくると、どうしても求められなくなってしまった。



 とめどなく溢れる思考の波。


 ハッと気付けばアンデッドの頭は横に割れて万力のように大きな口を開いていた。冬音程度の頭であれば簡単に噛み砕けて、飲み込めてしまうだろう。


 死が迫っている。……また……また死が迫ってきている。


 階段を上るような淡々とした足音を立てて。無情に、情け容赦なく、善悪を区別せずに等しくやってくる。


 息を吹き返すかのように蘇る記憶。終わりが到来し、始まりが待ち構えるあの日の記憶が蘇る。


 トントンとゆっくり迫る階段を上る足音。兄が帰って来たのだと希望を抱き、不安から救済されたと思っていたがそんな朧気な幻想は簡単に打ち砕かれた。


 音を立てて開かれる扉。覗くのは見知らぬ大人。その手には不気味に輝く刃物が。そうして瞬く間に自分の腹部に突き立てられる刃物。


 驚きに叫ぶ。痛みに叫ぶ。助けを呼ぶように叫ぶ。死にたくないと言うように叫ぶ。

 その時、冬音は一度だけ叫んだ。二度目はなかった。消えかけの蝋燭が灯る炎を強める事はないのだから。





 冬音は叫ぶ。


「いやあああああああああああああああああああ──!!!」



 その叫びは木霊する。


 その叫びは反響する。


 その叫びは震え轟く。


 その叫びは咆哮(ロア)となって全てを塵芥の如く吹き荒らし、崩壊を招き、到来をも招く。


 吹き飛ぶのは周囲の全てのアンデッドとレイス、不死者の沼地と覆う暗雲、そして果てには世界までもを吹き飛ばした。


 そして到来するのは新しい世界だ。一面が草花や草木の緑で、滝が静かに流れ、小鳥が囀ずっている。とても自然の力を感じる幻想的な場所だ。

 そんな自然の中で異彩を放つ自然は、冬音を覆う樹冠を持つ大樹だ。色とりどりの木の実を実らせ、落葉する様子を見せずに荘厳に屹立している。

 そんな大樹の根元には滝が静かに流れ落ちており、地面を削って大樹の根を露出させている。その滝は、そこに湧き出る泉の水と混ざりあっていた。


 大声で叫んで喉が渇いた冬音は泉を見つけるなり、自然とその泉へと歩いていった。

 泉の側に来ても滝からは一切の音が発せられていなかったが、そんな事を気にしている余裕がなかった冬音は泉の水を、何度も掬って何度も口に含んで何度も嚥下した。


「ぷはぁーっ!」


 冬音が息継ぎをしたのは十回ぐらい、掬って含んで嚥下して、を繰り返したぐらいの事だった。


(……ここは……森の中……?)


 そして漸く見覚えのない土地にやってきた事に気が付いた。

 周囲には人間どころか生き物すら見受けられない。小鳥の囀ずりは聞こえるのだが、肝心の小鳥が見えない。あるのは草、花、木、大樹。そんなものばかりだった。

 木漏れ日が差している。涼しい。穏やか。風も程よく冷たい。


 眠りに落ちてしまいそうなほど和やかな世界。先ほどまでの地獄とは真逆の世界だ。


 ふと、泉に視線を落とした冬音はある物を見つける。


 滝に削られた地面から露出している大樹の根は泉に浸かっているのだが、その根の先端には奇妙な形をした笛……角笛が引っ掛かっていた。

 吹き口がない……ので笛の類いではないのかも知れないが、冬音にはそれが角笛のような形状の笛に見えた。


 気になった冬音はそれを手に取ろうとする。大樹の根は泉の中心部まで伸びているので手を伸ばす必要があった。


 グーっと手を限界まで伸ばすと、そこまで苦労する事なく角笛らしき物に手は届いた。そこまではよかった。


 だが、冬音の手が角笛らしき物に触れると同時に角笛は眩い光を放ち始め、次に冬音が目を開けた時には角笛はどこにも見当たらなかった。


 冬音は目を閉じていたと言うのに角笛がどこに消えたかを知っていた。見えなかったが、感覚は残っていた。纏わり付くような、飲み込むような、吸い込んでいくような……そんな気味の悪い感覚だ。


 冬音はその感覚が残る右手を見つめる。右手を見つめる冬音の顔は嘗てないほど青褪めていた。


 ……その感覚は薄れる事はなかった。どんな痛みもいずれは薄れていくと言うのにその感覚は薄れるどころか染み付いていくようだった。

 しかし右手に残るそんな奇妙な感覚は姿を変え、ついには位置をも変えて冬音に宿った。

 鼓動するかのような極自然な感覚……それは全身に広がり、そして気味の悪い奇妙で不快な纏わり付くような感覚を変化させて、ほんの僅かな清涼感と共に薄れていった。


 新しい臓器ができたかのような不思議な感覚。新しい器官が増えたような不思議な感覚。


 奇妙な感覚のせいで意識に入らず認識できなかったのだが、冬音はたった今気付いた。先ほどまでは無音だった静かな滝は大きな音を立てて泉を打ち付けている。


 冬音は耳を塞いで泉の側を離れながら、それの正体を──あの角笛の事を冬音は理解する事ができた。


 ならそれを取り込んだ私は角笛の効果を受け継いでいたりするのだろうか? そんな予想をしながら冬音は右の掌と左の掌を叩き合わせた。


 ……二回、三回、四回、五回。


 音が出ない。全くの無音だ。

 両の掌に残る痛みを、手を振って緩和させながら冬音は理解した。


 その後も冬音は検証を重ね、重ね……角笛を宿した自分ができるようになった事を粗方把握した。角笛の全てを知っているわけではないので、まだ知らない効果もあるのかも知れないが、冬音はここで検証をやめた。

 今知った情報量だけでも相当強力なものだからだ。


(これなら……! これなら……この力があれば……私も、春暁も、お兄ちゃんも、お父さんとお母さんも守れる……!)


 冬音は心底嬉しそうな笑みを見せて意識を手放した。

 この時、冬音はまた一つ角笛の効果を知った。


 角笛の力を使い過ぎると気絶してしまうと言う事を。恐らく何かを消費していたのだろうが、新しい力の実験に夢中だった冬音は気付かなかった。





「あ、お姉ちゃん!」


 冬音が目を覚ますと、その傍らには春暁がいた。見渡せば草原と吹き飛んだはずの不死者の沼地が遠くに見えた。


 そして冬音は溜め息を吐いた。夢だったのか、と。


 まぁそうだろう。叫んだら魔物も雲も吹き飛んで……そして世界まで吹き飛んで、幻想的な世界やってきて、角笛が手に吸い込まれて、新しい力が使えるようになった。


 ……とても現実的じゃない。

 それを魔法やスキルなんてものがある世界で言うのもおかしな話だが、それでもあまりにも現実離れし過ぎている。


 ……そう思いたいのだが、そのはずなのに、夢だったはずなのに……冬音は未だに自身の体に宿る角笛の感覚が感じられる。夢の感覚を覚えているとかではなく、手足を動かすが如く当たり前の感覚のように感じられるのだ。


「えぇっと……水無月さん……? じゃないよね……?」

「お姉ちゃん、初夏さんを知ってるの!?」

「あぁ……うん」

「あ、そうか。初夏さんが僕の体を使っている時に……」


 やけに水無月初夏と親しそうな口振り……下の名前を呼び捨てにしている春暁に引き攣った笑みを浮かべながら冬音は返事をした。

 8歳の癖に中々進んでいるなと思わずにはいられない冬音だったが、いや、8歳だからこそ自覚なくそう呼んでいるのかも知れないと考え直した。


「……それで、どうだったの?」

「……?」

「お姉ちゃんは力を手に入れられたの?」


 春暁から投げ掛けられた質問に驚きを隠せない冬音は手を右往左往させ、目までも泳がせている。


「え……え……? な、何で春暁がそれを知ってるの?」

「初夏さんが言ってたんだ。お姉ちゃんは力を覚醒させるために──って」

「あ、そう言う事……」


 春暁の説明に納得するが、しかしこれで冬音の体に残るこの感覚が本物だと裏付けられたようなものだ。


 固唾を飲み込んで冬音は得た力を試してみる。

 なぜだろう。夢の中では何度も何度も使った能力だと言うのに、いざ現実で使うとなると緊張してしまう。


 だが冬音はその緊張を押し殺して優しく手を叩いた。狙いはここから離れた不死者の沼地に生える、どす黒い木だ。


 冬音が手を叩いた音は周囲に広がる事なかったが、それは爆音に変換されており、その音の向きをどす黒い木の一点に集中させたのだ。だから周囲に響く事はなかった。

 圧縮された音の線はどす黒い木を苦もなくへし折り、地面を少し抉ったところで止まった。


「お姉ちゃん、何したの?」

「音を圧縮してあの木を折ったんだよ。私がさっき手に入れた力は『音の操作』音の大きさや向き、響き方とかを自由の変えられるの」

「強そうだね……」

「春暁には水無月さんがいるでしょ? 私かしたらそっちのが羨ましいよ」

「何で?」

「何でって……だって水無月さんみたいなのがいたら、いつどんな時でも寂しくないでしょ?」


 冬音は首を傾げながら、当たり前でしょ? とでも言うように言った。

 それを見て笑った春暁は揶揄うように言った。


「お姉ちゃんは寂しがり屋さんなんだね~」

「なっ!? 私は寂しがりなんかじゃない! 4歳も年下の弟の癖にお姉ちゃんを揶揄うなんて生意気!」


 冬音は怒ったように立ち上がって逃げる春暁を追いかけ始めた。しかし、怒っていたはずの冬音も、逃げているはずの春暁も、二人ともが笑っていた。そんな仲のいい追いかけっこはどちらかの体力が尽きるまで続いた。


 そして笑っていたのは二人だけではなかった。

 春暁の心に住む理想である水無月初夏もまた、微笑ましそうに駆け回る二人を見て優しく笑っていた。

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