第258話 兄、妹、弟
俺は現在、アケファロスとジェシカの故郷の国──ノースタルジアへ向かっている。
街道が伸びて続いており、周囲は草原や平原、たまに丘があるぐらいで何もない。ここ最近の旅で見慣れたと思うのだが、やはりつまらないし、退屈だし暇だ。
「はぁ……」
思わず溜め息を吐いてしまうのも仕方ない。
元々飽きっぽい性格の俺には、今のこの光景は真っ白な紙を眺めているのと同じようなものなのだ。
そんな状況で溜め息を吐いているだけで済んでいるのだからまだマシだろう。……真っ白な紙を破き捨てるよりは。
「どうしたのよ、溜め息なんか吐いて。最近そう言うの多いわよ?」
「退屈なんだよ」
あぁ、なるほどね。みたいな表情をしているフレイア。
フレイアの言う通り最近はずっとこんな感じなのでいい加減呆れてきているようだ。
「面白い事ないかなぁ……」
「あ、そうだ。前から気になってたんだけど、アキって何でそんな余裕がない感じなのよ?」
「余裕がない?」
「そう。私にはその、常に面白い事を求めてるその感じが余裕がないように見えるのよね。何か……焦っているような感じ?」
余裕がない……か。
……うーん。確かにそうかも知れない。……と言うか確実にそうだ。俺には余裕がない。
……生物には自分の死に際を察知する能力が備わっているのだと俺は考えている。所謂、『虫の知らせ』や『お迎え現象』のような第六感だ。
猫が死に際になると飼い主の前から姿を消すのと、寿命や病気などで衰弱している人間がどんなに元気な姿で体調がどれほどよくても、肉親や友人などに最後の別れを言ってからあっさり死んだりする事を知っているからそう考えている。……猫を飼った事はないが、病人のは実際に目にしたものだ。
これは一種の走馬灯のようなものなのだろう。自分が死ぬ未来が見えて……予知できて……と。
なら生物に本来備わっているその機能が働いていなければ……その機能が無ければ、それはつまりその生物に寿命がなく、老衰や病死を始めとした自然死などができないと言う事になる。要するに不老不死だ。
生物の理である、定命から外れた人外。
俺がそれだ。
普通の生物が死に際を察知できるのと同じように、あの時、人間を辞めた時から『俺には寿命が無い』と言うのが本能か何かで感覚的に理解できていた。それが人間を辞めた事の代償なのだろう。
不老不死になる。と言うような説明はなかったが、生物の一つである人間を辞めると言う事なのだから、『人間を辞める』には不老不死になると言う意味もあったのだろう。……『人間を辞める』なんて言う、直球かつ曖昧な説明なのだからもっと不老不死になると言うような予想外の事があってもおかしくない。
寿命で死ぬ事もなく、中途半端に強いせいで他者に殺される事もない。
つまり俺は生き続けるしかない。
『死んだから人間辞めた』と言うのに、『人間辞めたから生き続ける』なんて勘弁して欲しい。
……まぁ、ごちゃごちゃ言っても俺は死ぬまで生き続けるしかないので諦めるしかない。
ならその無窮の時を、進化も変化もない世界で自我を死なせずに完全な状態で生き続けるためにも、面白いものに傾倒しなければならない。世界に飽きてしまえば……生きるのを諦めてしまえば終わりだから。
……だが、それを『飽きっぽい』と言う性格が邪魔して許さない。だが、それでも傾倒しなければならない。
いずれ飽きると分かっていても、一時的にでもいいから没頭できるような『面白いもの』を探さないといけないのだ。そしてそれを繰り返して何とか生き続けるのだ。……快楽などに微睡んでいってもいいのだが、廃人になってしまえば生きているとは言い難いので無しだ。今の俺のままで生き続けるのが理想なのだ。
……だがしかしこの世界はそんな面白いものが皆無だ。だけど俺が死なずに生き続けるためにはなんとかするしかない。
だから、面白いものを見つけられない俺は焦っている。余裕がない。未来が定まらず、自我が死んでしまう事が怖くて。
……まぁ別に娯楽でなくてもいいのだが……だがそうするならば俺は何をすればいいのかを知らないし分からない。地球にいた頃は死んだように機械的に日々を過ごしてきたからだ。しかも化けの皮を被って普通を演じていた偽物の俺だったのだから。
それに、人との関わりも殆ど無かったからそれに楽しみを見出だす事もできない。
あぁ、人との関わりと言えば、恋愛などもってのほかだ。死なず老いない相手と付き合いながら自分だけが老いていき、死の足音を感じながら共に生きる。そんなのはあまりにも残酷で、とても愛する人にする事ではないだろうからな。
相手が俺に喰われるのを受け入れて、俺が『魂強奪』を使えるようになれば、完全蘇生させて俺と同じ、老いず死なない者同士で仲良くやっていけそうだが、まぁ……喰われたい、なんてそんな物好きはいないだろう。
ならば物作りとかか? ……手先は不器用だから物作りもできないし、絵を描く事もできない。
……スキルを使えば物作りも絵描きも可能だが、いったいそれで何が楽しいのか分からない。
スキルのレベルには上限があるのでそれに達してしまえば上達する喜びもないし、スキルのお陰でできた作品への感慨も何もないのだから。……それに、悪魔は創作者の心をズタボロにするのだ。俺はわざわざ自我の崩壊を招くような事はしない。
まぁ結局、力があってもできない事なんか山ほどあるのだ。
大事なのは自力だ。借り物の力から得た自力でもなんでもいい。自分でできるようになるのが何よりも大事だからな。
…………! そうだ。俺が記憶しているスキルを全て自力で使えるようにしよう。そうだそれがいい。軽く千を越えるスキルを持っているんだ。そう簡単には全部を自力化できないだろう。そしてその間に他の面白いものを探そう。取り敢えずは記憶している全スキルの自力化だ。
これは面白いものではないので行動方針は基本的に今までと同じで、それに、暇なときに全スキルの自力化を試みる。それが加わるだけだ。
要するに、暇潰しは見つかったが、俺がのめり込めるものはみつかっていないので、今までと同じように面白いものを求めて取り敢えず生き続けるだけだ。
「面白いものは面白いものだからな。俺が幸せになって生き続けるために必死こいて求めてるんだ」
「……ふーん……よく分からないけど、アキがそれが正しいと思うならそれでいいんじゃないかしら? ……まぁ、アキが幸せになるためなら私もできるだけ手伝うわよ」
「ありがとう」
フレイアはやっぱりいい奴だ。
俺も覚悟を決めておかないといけないな。
フレイア、クロカやシロカ、クラエルにセレネ、アケファロスにソフィア、ジェシカやスヴェルグ。他にもマーガレットやラモン、ラウラにエリーゼ、アデルにクルト。オリヴィアや父さん母さん、冬音に春暁。
思い返せば、俺にはたくさん大切にしたいと思えるモノができた。
だが、俺はこいつらが老いる姿を見て、俺だけが老いない無情な無窮の中で、こいつらの死を知って認めて受け入れて生き続けなければいけない。
やっとできた大切なモノだと言うのに、それらが死ぬのを経験して生き続けなければいけない。
そんなのはあまりにも酷すぎる。
寿命がなくなったのを理解したあの時には、大切なモノを増やせば俺がどうなるかを知っていた。だと言うのに、わざわざこうして大切なモノを増やしてしまった。
仕方ないだろう。
あの遺跡世界で長い間、一人で暮らして寂しかったのだから。1000部屋あった……正確には999部屋あった遺跡世界を一日に2、3部屋進んだ。少なくとも大体300日から500日以上はあの空間にいた事になる。なのにどういうわけか、まだ冬音は12歳、まだ春暁は8歳だった。
そう。あの遺跡世界では時間が進んでいないのだ。進んでいれば二人の誕生日が来ていたはずなのだから。つまり俺は流れない時間の中で生きていた事になる。肉体は16歳だが中身は17歳と言う事だ。
あんな遺跡世界での暮らしで参っていたのだからこの先が思いやられるが……いや、あまりマイナスな事は考えないようにしよう。
……話が逸れたが、俺はフレイア達が死ぬ覚悟をしておかなければならない。
大切なモノが、残酷な時間に奪われる覚悟をしておかなければならないのだ。
──奪う者の俺から、大切なモノが奪われる事への覚悟を──
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最近、春暁の様子がおかしい。
いつもなら特にする事もないから店の手伝いをしていたのに最近はフラッとどこかへ行ってしまう。店の手伝い自体は私達の意思でやっていた事だから強制する事はできないけど、なんの前兆もなくやめてしまえば不安に思ってしまうのも仕方ないと思う。
強かに生きると決めた私が守りたいものが何か面倒事に巻き込まれているのではないか、と不安に思ってしまう。
幸か不幸か二度目の人生を再び前の家族と送れるようになったけど、そこは命が軽い世界だった。この世界と比べれば安全過ぎたあの世界でも家族を奪い去られてしまった。 なら前の世界より危険な世界に来てしまえば更に危険は跳ね上がり、大切なものが奪い去られる危険性がより明らかになる。
そんな世界での変化は自ら危険に近付くようなものだ。変わらなければ、普通であれば誰にも目をつけられずに比較的平和に暮らせる。普通の家族であった私達が強盗に殺されてしまっているのだから全く説得力はないけど、確かに普通であれば危険に巻き込まれる可能性は低いはずだ。
だからそんな春暁の変化が不安で不安で仕方なかった。
面倒事に巻き込まれて、またあの時のようにあっという間に大切な人達が死んでいくんじゃないかと。
あの時のように無抵抗で殺されるなどもう無理だ。死ぬのも、死ぬのを知るのも。三度目があるのかは分からないけど、きっと三度目では廃人のようになってしまって、生きているけど死んでいる、と言ったような存在になってしまうだろう。考えただけで寒気がする。
そうならないためにも私が強くなって、みんなを守って、そして自分が死んでしまわないように奪われないように全部守るしかない。お父さんもお母さんも春暁も。必要ないだろうけど、お兄ちゃんも。
人はあっという間に死んでしまうのだから頼れるのは自分しかいない。その自分すらもあっという間に死んでしまうのだからまだ頼りないけど、それでも信じられるのは自分しかいないんだ。
だから私がみんなを守るんだ。
そのためには、まず春暁が何をしているのかを探る必要がある。
春暁が店の手伝いをやめてからそれほど日は経っていない。何かの事件に巻き込まれているのならまだ間に合うかも知れない。相手が怖い人だったとしても多分大丈夫だ。お父さんとお母さんは過保護だからああ言うけど、これでも一人でハイ・ミノタウロスぐらいは倒せるんだから。
……今思えばお父さんとお母さんが過保護なのも私と似たような事を考えての事かも知れない。でも、私はみんなを守るために強くならないといけないから、過保護に任せてのうのうと暮らしてはいけない。
朝起きて、朝ご飯を食べて、歯を磨いて、顔を洗って……と、最低限の身支度をしてから春暁は店を出た。
少し間をあけて私は春暁を追う。
ここはドワーフの国があると言われる山と、ノースタルジアと言う、ミレナリア王国から見れば北にある国の間にある村だ。その村のはずれに店を構えてお金稼ぎをしている。
春暁が向かったのはドワーフ国に続く街道でも、ノースタルジア続く街道でもなく草原だった。しかもそっちは不死者の沼地と言う、アンデッドが蔓延る危険な場所だ。
もしかして……と、嫌な予感がする。
みんなを守るために動いているのはお父さんやお母さんだけでなく、春暁も……?
自発的に魔物が蔓延る場所に向かうなどその目的はレベル上げとしか考えられない。魔物の素材を得るために、かも知れないけどアンデッドなんかの素材は錬金術などにしか使えないのでその可能性は低い。春暁は錬金術なんかできないのだから。アンデッドの素材を売っている可能性もあるけど、それならこんな小さな村では話題になっているはずだ。『8歳の子供がアンデッドの素材を持ってきた』と。
お使いだとしても、普通はアンデッドの素材なんてグロテスクなものを8歳の子供に持たせる自体が異常なので、春暁が倒した倒してないに関わらず話題にはなるはずだ。
素材集めでもない、素材を売っているわけでもない。ならやっぱり、レベル上げ……?
私の鼓動が激しくなるのが分かる。呼吸も荒く、眩暈もする。足取りも若干覚束ない。村の人々からは心配そうな目で見られているがそれどころではない。
思いもしなかった。春暁がこんな危険な事をしているなんて。まだ子供なのに失う事の怖さを知って行動しているなんて。当時春暁は0歳だったけど、死の恐怖は小さい春暁にこびりついているんだ。
そう考えると視界が潤み始めた。春暁を哀れむ気持ちからか、それとも春暁が危険に晒されているからか、大切な人が悲しみを背負っているからか。
分からないけど私は春暁を追った。もしかしたらレベル上げなんかしていないかも知れないと思って。
だけど、そんな淡くて脆い希望はあっさり打ち砕かれた。
春暁は不死者の沼地に入ってアンデッドを狩り始めた。アンデッドの腐臭に動じず、飛び散る血飛沫に見向きもせず適当に拭って、アンデッドの断末魔に竦む様子もない。
到底、8歳の子供の精神状態とは思えない。
何が春暁をこんな風に変えたのかを考えたら、やはりあの時、強盗に家族が殺されてしまった時の絶望からだろう。
悲しんでいるなんて思いもしなかった。考えているなんて思いもしなかった。行動しているなんて思いもしなかった。そもそも0歳の時の事を覚えているなんて思いもしなかった。
思わず膝を突いてしまった。沼地のぬかるんだ地面のせいで泥が跳ねて膝だけでなく上の服にまで泥が付着した。
そして音を立てた。
私の存在に気付いた春暁が目を見開いて私を見つめている。……だけど……何かが違う……
「あぁ、春暁のお姉さん。冬音ちゃん……だったよね?」
「あなたは……誰ですか。 春暁じゃないですよね……」
不死者の沼地と言うのは何もアンデッドだけがいるわけじゃないない。希にレイスなどの、所謂幽霊と呼ばれる存在もいる。それをひっくるめて不死者の沼地と呼ばれている。
もしかして春暁はレイスに乗っ取られて……?
私はそう考えるけど、春暁は首を振った。まだ何も言っていないのに。
「私はレイスなんかじゃないよ。私は水無月初夏。春暁のアニマ。つまり春暁の理想だよ。幻想でもない、春暁の理想」
「……その……アニマの水無月初夏さん? が、どうして春暁の体を?」
「春暁が力を貸してください、って言ったからだよ。 私はそれに応じてこうして力を貸しているの」
春暁の姿で水無月初夏と言う人がそう言う。その名前からは女性のような感じがする。
「力を貸しているって……今のそれは完全に乗っ取りじゃないですか!」
「そうだよ」
「あっさり認めるんですね……早く春暁に体を返してください!」
「レベル上げが終われば返すよ。 それに、これは春暁の成長のためなんだ。私の乗っ取りに気付いて、ちゃんと私と言うアニマを制御できるかの、ね」
「成長……?」
「そう。成長。 アニマの力を借りて行使するにはお互いの理解が必要なんだ。精神的な理解でも、肉体的な理解でもいい。とにかくお互いの何かを理解し合う事が大事。 だからこうして私の乗っ取りを理解させるんだ。春暁が力を求めているんだから私は精一杯それに応じる。嫌われてしまうかも知れないけどね」
何を言っているのか分からないけど、何となく分かった。この、水無月初夏に悪意がない事が。寧ろ春暁のために色々行動してくれているみたいだった。なら、大丈夫かも知れない。でも、心配だから私は水無月初夏を監視する事にした。
信用できるのは自分だけだから。
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春暁は自分の心と向き合い、理想と対峙する。水無月初夏と初めて出会った次の日の事だ。まだ水無月初夏に乗っ取られてレベル上げをしていない頃だ。
「あの……初夏さん。昨日のあれって……」
「昨日のあれ? あぁ、キスの事?」
あっさりその言葉を口にする水無月初夏にドキッとする春暁。そりゃそうだろう。自分の理想の女性にキスされた事を思い出させられるのだから。
相変わらず体育座りで背中合わせだが水無月初夏がどんな表情をしているのかが分からない。一度顔を見てキスをしてしまったが故に気になって仕方ない。
「う、うん……あれ、何でしたの?」
「春暁が求めたから」
「え!? 求めてないよ!?」
「私の力を貸して欲しいんでしょう?」
「……うん」
「ならやっぱり求めてるじゃない」
イマイチ要領を得ない水無月初夏の言葉に混乱する春暁。情けない姿を見せたくなかったが仕方ないのだ。まだ幼いから。
「アニマの力を借りるにはお互いの理解が必要なの。精神的な理解でも、肉体的な理解でもいい。とにかくお互いを理解し合う事が大事なんだ」
「それで、き、キスしたの?」
「そう」
このお互いの理解と言うのは水無月初夏の言う通り、精神的、肉体的を問わず必要なものだ。なんでもいいからとにかくお互いを理解するのが必要だった。どんな形であれ、理想と現実が向き合うのが大切なのだ。
例えば、お互いを解剖し合ってお互いを理解する事もできる。だが、精神体の死は本人の精神の死を意味するので無しだ。
次に愛情表現や性欲の表現に使われる性行為だ。これがもっとも手っ取り早く安全確実にお互いの理解を深め合える。性行為はお互いを求め合うものだからだ。……だが、8歳の春暁にそれはどうなんだと言う事で、水無月初夏はその選択肢を捨てた。
後はお互いの体液の交換、唾液や血液などだ。これも候補の一つだったが、やはり8歳には刺激が強すぎる、と言う事で無し。
抱き締め合う、などの健全な方法でもよかったがそれではお互いの理解が足りなすぎて、アニマの力の一部も引き出せず、春暁の力にならないのでなしだ。
そして残ったのがキスだったわけだ。
「初夏さん。ダメですよ。簡単にそんな事をしたら」
「春暁は嬉しくないの? 理想の女性にキスして貰えて」
「嬉しいとか嬉しくないの問題じゃなくて、親しくもない人にしたらダメですよ」
「私は春暁と親しいつもりだったんだけど……」
「それは初夏さんだけで──」
「ふふ、冗談だよ。うん。分かってる。 キスは特別な人だけにするものだからね」
悪戯っぽく笑っているのであろう水無月初夏。揶揄われた事に気付いた春暁は顔を真っ赤にして水無月初夏に問いかけた。
「ならどうして僕に……」
「さっきもいったけどお互いの理解のためだよ。あと、私は春暁の事を特別な人だと思ってるよ。キスしても問題ないような、ね」
「また冗談ですか……」
「いや、これは本気だよ」
「……え?」
思いがけない言葉に思考停止する春暁。気付けば背中合わせのまま水無月初夏が春暁の手の甲を手のひらで包んでいる。
水無月初夏の柔らかい女性的な掌。それが春暁の小さいな手を包んでいる。背中から漂う甘い香り。
春暁は必死にお互いの理解を深めるための触れ合いだと言い聞かせるが、それでも鼓動は収まらない。
春暁は理性で本能を抑えるのは難しいのだと知った。だが、だからと言って本能に従っていれば、立派な廃人の仲間入りだ。
春暁は危機感を覚えて必死に堪える。だが鼓動が、脳が、本能が、理性もが、このまま水無月初夏に身を委ねろと言っている。
春暁は──だが折れなかった。子供が持ち得るはずのない確立された自我でそれを堪える。春暁が元々聡い子供だった事もあるのだろう。警鐘に従ってなんとか堪える事ができた。
「ふふ、我慢できて偉いね。 春暁」
「は、初夏さん! あ、あの! 力を貸してもらうって話の事なんだけど、どんな風に力を貸してくれるの……!?」
いつの間にか振り返って春暁の背中に抱き付くようにしていた水無月初夏から意識を逸らすために質問を投げ掛けた。
「春暁が望んだままに力を貸すよ。ステータスを分けてと望むなら分けるし、武器が欲しいと望むなら武器として顕現してあげる。もちろん防具だってそう。春暁が望むなら春暁を守る防具になるよ」
「望んだままに……」
「そう。望んだままに。 ……私は春暁の理想。私が春暁の理想であるためには春暁に好意を向けて貰わないといけない。そのためには何にだってなる。もちろん春暁だってそう。私の力を借りるには私を理想として私に望まないといけないの。 つまり春暁と私は共依存のような関係なんだよ。お互いに理解して深く知り合わないとダメなの」
水無月初夏は言う。春暁に凭れかかるように抱き付きながら。しかし春暁は落ち着いた心で水無月初夏の話に耳を傾ける。
「でも、これは最悪の関係」
「え?」
「人間って言うのは満たされれば理想を抱かなくなるんだよ。つまり春暁に彼女やお嫁さんができたら私は消えてしまう。満たされた人間に理想なんて存在しないから、理想であろうとした私は呆気なく消える。……逆に、彼女やお嫁さんがいても私がいれば、春暁はその人に満たされていないと言う事になる。春暁が欲しかったものが理想ではないと現実を突き付けられる。最悪だとは思わない?」
「……最悪だ。どちらにしても初夏さんは傷付いてしまう。そして関係のない僕の彼女やお嫁さんにも申し訳ない……」
体育座りの状態で膝に顔を埋める春暁を優しく抱き締める水無月初夏。それは媚を売っているようにも見える。「私を好きになって。私を愛して」と言うように。「他の女に現を抜かして私を消さないで」と言うように。
そして同時に春暁に償っているようにも見えた。
「ごめんね、春暁。……私がいるせいでステラちゃんに素直になれなくしちゃって。……初恋の邪魔してごめんね。……約束通りちゃんと力は貸してあげるから……私にはそれしかできないの。……ごめんね、私を赦さないでね」
「初夏さん……もしかしてそれで……?」
水無月初夏は答えない。だが、それが答えであった。
「大丈夫だよ初夏さん。僕は気にしてないから」
顔を上げて春暁は言う。……完全な嘘だ。
「……ふふ、春暁は優しいね……辛いのに私のために励ましてくれるなんて。……でも、私に嘘は通用しないよ。私は春暁の理想だけど、確かに春暁でもあるんだから」
「だとしても僕は言うよ。気にしてないって。人が悲しむ姿を黙って見てるなんてできないから」
何かきっかけがあってこんな事を言っているわけではない。何かに悲しんだり後悔して言っているわけではない。
生来、生まれもった春暁の善性がそうさせるのだ。
「……そう。 ……ありがとう春暁……ごめんね、でも好きだよ」
そんな春暁の肩から顔を覗かせた水無月初夏は囁いてから春暁の頬にキスをした。
お互いの理解を深めるためか、それともただの愛情表現か。分からないが、春暁は言葉通りに受け取って愛情表現だと思う事にした。だが、鼓動が鳴り止まないのでお互いの理解を深めるためだと思い込もうとした。
 




