第253話 息 吹き上げる
フレイア達が話を終わらせて洞窟の外に視線を移した時には、もうすでに夕方だった。
それまでの間にクロカ達をここまで連れてきて一緒に遊んでいた。なぜか氷の女王も混ざっている。
俺はとっくに雪遊びには飽きていたので監視の糸を辿ってアデル達やマーガレット達、オリヴィア、父さん達、ティアネー達の様子を窺っていた。
アデル達は五体の魔物に殺されそうになったので取り敢えず助けておいた。
監視の糸は視界の代わりにもなるので、行った事がなくても転移門を使える。……フィドルマイアからソルスミードまでは通ったのでゲートの使用に問題はないのだが、そうする事もできると言う話だ。
マーガレット達は火の手が収まったゲヴァルティア帝国で帝国の人々の暮らしを少しでも豊かにできるように、貴族街へ続く門を開こうと頑張っていた。
マーガレット達がゲヴァルティア帝国に向かうのをエルフの国へ向かう途中に知ったから、マーガレット達がゲヴァルティア帝国に到着してから少なくとも一週間経っているはずだが、未だに解決していないようだ。
オリヴィアやその他の使用人達は、ゲヴァルティア帝国方面の街道に向かい、そしてその街道を外れて草原を馬車で走っていた。そのまま真っ直ぐいけばエルフの国とドワーフの国の間辺りに到着する事だろう。だが、それまでに黒龍や白龍、赤龍などの龍の里があったり、アンデッドが蔓延る沼地などが広がっているので確実に迂回する事になるだろう。
結果としては街道を普通に通った方が早く着くと思われる。
父さんや母さん、冬音と春暁は、店名の『移ろい喫茶シキ』の通りに移ろい始めていた。現在はゲヴァルティア帝国とエルフの国の間にある町の外れで店を開いている。
ティアネー達はマーガレット達と一旦合流した後に再びエルフの国方面に進みだしていた。なぜこの四人が一緒に行動しているのかは分からないが、何か共通の目的があるのだろう。
ここまででアデル達以外の全員が見事にゲヴァルティア帝国方面へと進んでいた。そちらに用事があるのだろうが流石に全員がこっちへ来ているとなれば共通の目的があるのだと思う。
考えられる理由は、ゲヴァルティア帝国を直接潰す……旅がしたかった。それ以外に思い付かない。俺達の行方を追っているのかも知れないが、だとしたら早々に移動する必要があるだろう。
あと、もし本当に旅をしたかったと言う理由だったとすれば、こちらに来ている理由は簡単なものだ。
アブレンクング王国の方へ進むとなると、確実に魔物に占拠されたフィドルマイアを抜けなければならなくなる。
街道を逸れれば別だが、そちらには『千剣の霊峰』などと大層な名前で呼ばれる山があるので不可能だ。
反対側にはミスラの森があるのだが、魔物がいるので危険だろう。浅いところにいる魔物は弱いが、奥まったところにいる魔物は一般人からすればとても強いのでオススメはできない。もちろん手練れでも戦闘が続くと危ないのでこちらもオススメできない。だからこうしてみんながみんな、ゲヴァルティア帝国方面へと進んでいるのだと思われる。
……関係ないが、こう言った理由でアブレンクングから行商人などが来ないので、ミレナリア王国は若干食糧不足気味だったりする。
「あ、みんながいるよ?」
話が終わって洞窟の外へ視線を向けたジェシカが俺達を指差して言う。それにつられたフレイアとクラエルとソフィア。
『アキー!』
体育座りで三人の話を聞いていたクラエルが、勢いよく立ち上がっていた飛び込んでくる。それを受け止めてから地面におろす。
「皆さんいつからそこにいたんですか?」
「結構前からいたのだ」
「何で声かけてくれなかったのよ?」
「話に夢中じゃったからのぅ」
本当にフレイア、ソフィア、ジェシカの熱中の仕方は異常だった。今にも頭突きをしてしまいそうなほどに近くによってキャーキャー騒いでた。そんな光景を前にして誰がズカズカ割り込めると言うのか。……心なしかクラエルが引いていたように見えた。
「え! いや、べ、別に夢中になんかなってないけど……」
「えぇ! 夢中なんかではありませんでしたよ!?」
「ぷぷぷ……よく言うよね~?」
王女や聖女と言う品位が大事な立場だからか、夢中になって話していた事を恥じている様子だ。そんな二人を見たジェシカが口に手を当ててクスクス笑っている。
「あのぅ~……早く出ていってくれません~……?」
氷の女王がおずおずと催促してくる。だが、まだ用事は終わっていないので帰る事はしない。
「まだ用事があるから無理だ」
「えぇ~……!? そんなぁ~……後は何があるんですかぁ~?」
「ドワーフの国に行きたいんだよ」
そう、本来の目的であるドワーフの国の観光がまだだ。あんな吹雪がずっと続いてたっぽいし、ドワーフがまだ生きている可能性は限りなく低いが、それでも行く。一般的に筋肉ダルマで暑苦しくて鍛冶中毒者のようなイメージがあるドワーフだが、実際は寒さに弱いらしいので更に望みは薄い。
スヴェルグは例外で、長年の修練の果てに寒さへの弱さを克服する事ができたので平気だと本人が言っていた。
まぁこれは国を訪れてスヴェルグに生態や文化を教えてもらうしかないだろう。寒さで滅んだのだから家屋はそのままの筈だしな。
スヴェルグに案内されながら氷の女王を伴ってやってきたのは、雪の平原だ。スヴェルグによると、ここにドワーフの国が、と言うかスヴェルグの生まれた村があるようだが、見渡す限り真っ白だ。夕日に照らされて赤みがかっているが、真っ白だ。
「あれ……? おっかしいね……確かここだったはずなんだけどねぇ……」
頭を掻きながらスヴェルグが言うが、結構な期間帰ってないんだから記憶違いがあるのは当たり前だろう。ジェシカがアンデッドになってスヴェルグと出会ったのが五百年前だから少なくとも五百年は帰っていない事になる。
「ここから見える景色や、あそこの斜面とか、あの崖に覚えがあるからそうだと思ったんだけど」
「山はそんなもの」
「そうんだけど……確かにここだったんだよ」
困ったように見回すスヴェルグは、何かに気が付いたようだった。それと同時に氷の女王が口を開いた。
「あのぅ~……何百年も吹雪が続いたら村なんて雪に埋もれてしまうと思うのですがぁ~……」
言われてみればそうだ。いつから氷の女王が現れたのか知らないが、何百年も続けばそりゃそうなるよな。
「えっと……じゃあ……ここを掘り返すの?」
「もちろん」
「うげ~……」
ジェシカが聞いてきたのでそう答える。嫌そうな顔をしているが、お前に出番はない。魔力の使い方を覚えたのだからこの程度の雪を片付ける事など簡単だ。
そうだな……今度はマナじゃなくてオドを使ってみようか。どちらでも消費MPは変わらないしな。
オドの方が魔力の質が高くて集束までに時間がかかるが身体強化などに向いていて、マナの方が魔力の質は低いが集束までに時間がかからず放出系の魔法に向いている。要するに質か量か、放つか放たないか、その程度の違いだ。
俺からオドが放出されているのが分かる。【魔力感知】がない普通の人間でも分かるほどだろう。オドの流れはマナより遅いが、その分濃密なエネルギーを秘めている。吹き出るオドが勝手に雪を吹き上げ、雪を降らせる。操作が難しく、無駄になってしまう箇所がある。
……だが、これぐらいあれば十分だろう。
「ちょ……何してんのよ……? …………あんたまさかっ!?」
「あ、あなた頭おかしいんじゃないですか……!?」
「逃げるのじゃああああああ!」
足を持ち上げ、足の裏にオドを集束させる。相変わらず、片栗粉を混ぜた水のような濃くて重たいドロドロした動きだが、それでも順調に集束していっている。
このまま足を振り下ろしてもいいが、それだけでは大惨事になるのは免れないので、魔力の伝わり方を操作しなければならない。
要領としては発射した火球を動かすような感じで、放った魔力を操るのだ。広く伝わり、下から吹き上げるように……雪に手を突っ込んでを掬い上げるように。掬い上げられた雪にまで魔力を残留させて雪を消滅させる。埋もれている家屋を壊さないように。
そうイメージを定めて思い切り、そして慎重に足を振り下ろした。
瞬間、轟く衝撃波。低く唸るような音をたててオドは広範囲に広がって慎重に積雪の底を目指して伝わっていく。
そんなオドは底に到達すると性質を変化させ、間欠泉のようにして雪を吹き上げた。飛沫を上げる水と吹き上げられる白い雪には大した差はなかった。
これが唯一間欠泉と違ったのは、吹き上げられた物質が落下せずに、物質が消滅すると言う点だ。吹き上げられたものが落ちてこないと言うのはとても不思議な光景だった。……呼吸のようなものか。吐いた息は戻ってこないし。
俺はそんな光景を、足を積雪に叩き付けた直後に、フレイア達が避難していたところに転移して眺めていた。
『おー! きれー!』
「ん。……滅茶苦茶」
「私の世界がぁ~……一瞬でぇ~……」
喜ぶ者、呆れる者、絶望する者など、反応は様々だったが、ドワーフの村は発見できたので問題ない。 ちゃんと雪崩が起きないように加減をしたので本当に問題ない。
常識的に考えれば問題あるのだが、人間を辞めた俺に細かい常識は通じないのだ。
それから暫くドワーフの村を歩き回ったのだが、ドワーフの村は人間の村と大差なかった。違うすれば、鍛冶場が滅茶苦茶大きかったぐらいだ。村の半分を占めているほどだ。まぁ……他にも、家の入り口の上に武器やら防具やらが飾ってあったり、村に武器や防具が落ちていたりと、どれだけ好きなんだと言わざる得ない感じだったが、殆ど人間の村と変わりなかった。
スヴェルグによると、家の入り口の上に飾ってある武器や防具は、そこの家主の最高傑作だそうだ。盗られないのか? と聞いてみたが、家の入り口と言う、衆目の前に晒されている武器や防具を盗っても、すぐに犯人がバレるのであり得ないと言われた。
そんなあまり面白くないドワーフの村を出て下山する。日も暮れてきたし、氷の女王がうるさいし、飽きたし、そこら辺に転がってる凍死体いうんざりしたので下山する。
そう言えば、凍ってカチカチになっていた地面を爪先でつつき続けていると、どんどんシャリシャリになっていくのも面白かったな。ドワーフの村よりこっちのが面白かったかも知れない。
勝手にやって来ておいてこの言い様は相当酷いだろうが、事実なので仕方ない。ドワーフの村に住んでいたスヴェルグが、「いつになってもつまらないね、この村は」などと呟くほどだ。
「さようならぁ~……もう来なくていいですよぉ~……」
そう言いながら手を振っている氷の女王に見送られながらドワーフの国を後にした。
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世界各地で時間の流れがおかしいと話題になっていた。
ミレナリア王国からアブレンクング王国まで徒歩で一週間。
ミレナリア王国からゲヴァルティア帝国まで徒歩で一週間。
この世界では、どこの国と国との間にもそのぐらいの間がある。……多少の誤差はあるが、数時間程度の違いだ。
なのに、同じ日にミレナリアを出て、ゲヴァルティアへ、エルフの国へ、ドワーフの国へと三週間かけて移動した者と、ミレナリアからアブレンクングへ、そこからミレナリアのフィドルマイアとソルスミードの街道の間……およそ一週間と四、五日しか経過していない者が干渉しあっていた。
アデル達と秋だ。
同じ日に国を出て、国から国へとおおよそ同じ距離を移動している。日の高さは違えど、同じだけの時間を過ごしているはずだ。 なのに過ごした時間に一週間近くも差がある。
原因は『最果ての大陸』から出た六体目の魔物だ。
砂の巨人、氷の熊、雷の鳥、溶岩のスライム、風を纏う死体。
秋が纏めて喰らったこの五体の魔物の他にももう一体、最果てからやって来ていた。
人型で胡座をかいており、髪と髭が顔を覆い尽くした老人のように皺くちゃな魔物。その魔物の背面には大きな時計があり、時計の枠を越えた長針と、本来の長針と同じ長さの短針が時を刻んでいる。
ちなみにこの時計は時鐘であり、3時、6時、9時、12時、15時、18時、21時、24時の時に音を鳴らす。
その音色は老人の声だ。高音と低音を同時に発して「ボーンボーン」と音のズレた言葉を発する。数字の大きさが大きくなるほど老人の不快な声は大きくなっていき、3時でそれは元通りだ。
この魔物は、時間を司る神が世界に降臨する前に創りだした魔物だ。
当然、魔物より神の力の方が強いのだが、それより前に同じ立場の生物がいた事により、時間を司る神の力は薄れて、時間を司る魔物と同列まで堕ちてしまっているのだ。
そして世界が生んだ時間を操作する魔物は、【勇者】【賢者】【神徒】と、その周囲に流れる時間の流れを遅くして成長を妨げている。
この魔物はアブレンクング王国付近に潜んで常に【勇者】【賢者】【神徒】の時間を遅くしている。能力行使するにはある程度近付かねばならないからだ。
そのせいでアブレンクング王国では、「不快な叫び声が聞こえる」「バンシーが現れた」などと老人の時報で騒ぎになっている。
バンシーと思われるものの叫び声の正体を探るために冒険者や騎士が、王国の周辺の捜索を始めたので、時鐘の老人が人間に見つかるのは時間の問題だと言えるだろう。
……あくまでも見つかるだけだ。
時間を操る事ができる時鐘の老人は、過去にいた地点に戻る事ができるので倒すのは難しい。 ……時鐘の老人が本気を出せば、その生物の誕生する時間まで遡り、その生物の誕生を阻止する事もできるのだが、そんな横暴を働けば時間を司る神より力関係が弱くなり、世界の時間の流れを、時間を司る神に完全に奪い取られてしまうのでできない。
精々時鐘の老人にできるのは、未来に攻撃を仕掛けたり、傷口の化膿を進めたり、過去の地点に戻って逃げ回る事ぐらいだろう。
それでも随分と厄介なのには変わりないが。
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久遠季弥と、久遠夏蓮は、失踪した息子を探すために……久遠冬音と、久遠春暁は、失踪した兄を探すために、移ろい始めた。
各地を移ろい、そこで喫茶店を開いて金を稼ぐと同時に秋の情報収集をも行っているのだ。
秋が失踪してからだいたい二週間が経つ。それから今までで移ろった場所は、ソルスミードとゲヴァルティア帝国の間の村々、ゲヴァルティアからエルフの国がある森までの村々だ。一日で店を移して進んでいた。
たくさんの女性を侍らせて旅をしている人物の情報収集など、それはもう簡単だった。聞かずとも話されるほどだ。
「秋にいちゃん、なんでどこか行っちゃったんだろうね?」
「分かんない。 目的もなくフラフラしてるわけじゃなさそうだけど……」
春暁が冬音に問いかけるが、二人に分かるはずもないだろう。【魔王】になったからそれらしく【勇者】や【賢者】から離れるため、観光をするため。などと言う理由など。
そもそも秋は足繁くシキに通って冬音と春暁と接していただけで、全く自分の事は語らなかった。だから二人は秋の人間性を知らない。
これが長年一緒に暮らしていた兄弟であれば語らずとも分かるか、予想できたりしたのだろうが、八年も接点がなかったのだから二人が分からないのも当然だろう。言ってしまえば他人も同然の関係だ。
「心配だわ……駆け落ちなんかじゃないといいけど……」
「流石にそれはないと思うよ?」
「分かりませんよ? オリヴィアさんは協力的でしたけど、ニグレドちゃんやアルベドちゃん達の親御さんが嫌がったから……って可能性がありますし」
「うーん……でもそれだと全員が秋の事が好きで、駆け落ちしたって事になるよ? まさか人の駆け落ちについていくなんて人はいないだろうし」
そんな会話をする両親を尻目に春暁は必死に思いだそうする。
自分が0歳だった時の事を。
思い出せるわけがないが、春暁は記憶を探る。
過去を遡って秋の人間性を知るためじゃない。当時の秋との記憶を思い出すためにだ。家族の中で自分だけが昔の兄を知らない……そんな疎外感が耐えられないから。
ああ……きっと兄はこれより辛かったのだろう。家族に……弟に忘れられているなんて。
日差しのように暖かい家族との思い出を辿っていく。
どこまでも深い、八年間も培ってきた膨大で広大な記憶の海に垂らされた細い糸を徐々に下りていく。
深層に近付くにつれて負荷が大きくなっていき、辿るのは困難になっていく。それでも耐えて耐えて、目を凝らして下をみつめる。
この負荷を耐えるのが危険なのは分かっている。虎の尻尾をおもいっきり何度も何度もわざと踏んでいるようなものだと。それほどに、成長の真っ只中である幼い脳へ負荷をかけるのは危険すぎた。
朧気に揺蕩いながら海面に向かう泡沫。そこに覗く自分の記憶。
これは4歳の事だったか。今まで辿った人生の半分の年齢だ。
特に何もない日々の中で輝く一筋の光。それに照らされるのは、自分と同い年だと言う赤髪で赤目の少女。
春暁は4歳にして初恋を経験していた。
……幼い春暁にはまだ『愛』と言うものが何か分からないのだが、それは確かに初恋だった。
……今になって思えば、その少女は兄が連れてくるフレイアと言う女性に似ていた気がしないでもない。……やはり兄弟の好みは似ているのだろうか。
それを境に、思い出の中で、思い出の泡沫が次々と海中を過る。
今まで感じていた負荷が嘘のように、泡沫はぶくぶくと海面を目指して浮上していく。何かに吹き上げられるようにして……まるで何かの呼吸のように、息吹きのように。
これは3歳の事だったか……これは2歳の事だったか……これは1歳の事だったか……これは0歳の事だったか……これは──
これは……いつの記憶だ……? 覚えがない。
気付けば虚無にも思える世界にいた。
そこは深い霧がかかった、濃霧に包まれる海上だ。春暁は透明な板の上で体育座りをしている。
時間は明け方ぐらいだろうか。遠くから朝日が覗いている。尤も、日の出自体は見えないのだが、ただ薄く霞んだ暖色の光が見えると言うだけだ。
背後からは誰かの呼吸が聞こえる。気になって首を動かそうとするが、首は動かない。それどころか全身が動かない。
背中の感触から、背後の人物と背中合わせになっているのが分かる。
「水無月 初夏」
突如発せられた言葉に疑問符を浮かべる春暁。こんな異常事態だと言うのに動揺ではなく、疑問符を浮かべる余裕があった。子供故に危機感が薄いのか? 否、危機感ならしっかり持っている。その上での反応だ。
「私の名前。水が無い月って書いて水無月」
海のさざ波の音にすらかき消されてしまいそうな、小川のせせらぎのような声だ。だが不思議と聞き取れる。大地のように地に足つくような安定感と包容力のある声色。海のように寛大で、どんな罪も罰も受け止めてくれそうな声色。春暁の全てを認めて、全てを肯定するような安心感と依存性。
「ここには水がたくさんあるし、もう月も無い」
「お姉さんの名前と真逆だ」
「ふふ、そうだね。しかも今からやってくるのは夜明けの太陽だから、月の私の、また後ろだね」
いつの間にか晴れていた霧。遠くでは朝日が春暁と水無月の二人を覗いている。正確に言えば、そこに春暁は含まれない。
──なぜなら春暁自身が──
暫くの沈黙を経て春暁は口を開いた。
「『はつか』はなんて書くの?」
「最初の夏で初夏。君と似てるかな」
「僕と?」
「そう。春暁は……春の暁、つまり春の夜明け……春の到来だから、春の最初」
「ふーん」
暁などと言われて通じるレベルではない春暁は適当に流す。幸いここは海だ。無事に話は流れていった。
興味なさげな春暁を放って、水無月初夏は話し出した。
「私は春暁のアニマ」
「アニマ?」
「そう、アニマ。 春暁が理想に思う女性の像」
「……うーん……よく分かんないけど、なんで初夏さんはここにいるの?」
「春暁が求めたから。自分で無意識に無意識の根源を探したから」
やはり何を言っているのか分からない春暁は、日の出に意識を傾けた。理想や像、無意識に根源やアニマ。
普通の大人ですら理解に苦しむような水無月初夏の説明を八歳の春暁が理解できるわけがない。
「私は春暁の力になれるよ。春暁が日の出。私が月の出。……どう?」
「どうって……よく分かんないよ」
「春暁とは真逆の季節であって、日の出の春からは見えない日暮れの『秋』を探すための力が必要なのなら……春暁とは別の方向で真逆の月の出で、秋にある意味近い私の力が必要でしょ? ……ほら、神無月と水無月って似てるじゃない?」
「……分かんないけど、分かった」
子供特有の適当な了承。難しい事を言われ続けた春暁は思考放棄して水無月初夏を受け入れる。
「秋にいちゃんを探すのに初夏さんの力が必要なのなら……お願いします。僕に力を貸してください」
春暁は立ち上がり、振り向いて水無月初夏へと頭を下げる。何がどうであれ、秋を探したい様子だ。
「なんで春暁がお願いするの? 私がお願いしていたのに。 ……でも、春暁が私を認めてくれるのなら、私はいくらでも力を貸してあげる」
水無月初夏は、体育座りの状態から正座になるようにして振り向き、答える。そして膝立ちになった水無月初夏は微笑みながら両手で春暁の頬を包んだ。
「これからよろしく。 ──春暁」
懐かしくて……だけど覚えの無い水無月初夏の容姿に見惚れる春暁。
朝日に照され、艶々と輝く黒い髪は海風に揺られ、春暁を真摯に真っ直ぐみつめる水のように青みがかった黒い瞳。
その顔立ちは日本人そのもので、大和撫子を体現したような洗練された雅を感じる。浮世離れした整った容姿。
ここがこの世かあの世かは分からないが、水無月初夏が生きている人間だとは到底思えない。そもそも本当にここに存在しているのかすら怪しいぐらいだ。
そして水無月初夏は、自分に見惚れる春暁へと徐に──顔を近付けた。
脳漿に唾液を絡めるような激しい衝撃で目を覚ます春暁。
目の前には自分の姉である冬音がいる。春暁はいつの間にか机に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。
「春暁、いきなり寝ちゃうからビックリしたよ?」
「あ、あぁ……ごめんお姉ちゃん」
「別に謝らなくていいけど……で、それでね──」
楽しそうに話し始める姉の話に適当に相槌を打ちながら春暁はさっきの体験を思い出していた。
春暁を包む海風。春暁と水無月初夏を照らす日の出の日差し。それによって生じる黒い影。水無月初夏と合わせていた背中の感触。
それらは紛れもなく本物だった。
今でも鮮明に思いだせる。
目覚めるきっかけとなった──
──水無月初夏の唇の感触も
その感触を思い出した春暁は、頬を朱に染めて無意識の内に唇をなぞった。……八歳ながらに随分とマセている事だ。
それを見た姉が「喉渇いたの? お水入れてくるね」そう言って台所に向かう。そんな姉を見送りながら春暁は、ホゥッと息吹き上げた。




