第210話 聖女
アブレンクング王国
聖女ソフィアは退屈で窮屈な生活を送っていた。
毎日毎日、長時間祈りを捧げ、教会にやってくる信者達の懺悔を聞き、聖女として得たスキルや光魔法と聖魔法の訓練、そしてとうとう得た睡眠時以外の安穏にも常に目付役が付いて回る。
それらの束縛に嫌気が差したソフィアが教会からの逃亡を決意するのにはさほど時間を要さなかった。
と言うか、元よりソフィアに信仰心など無いに等しかったのだ。ある事件からこのソルスモイラ教に抱いた恩に報いるために……そして行く宛もないので渋々入信を決意しただけだったのだ。
そしてソフィアはこの宗教が崇める神が気に食わなかった。
──運命の女神ベール。 女神ベールはあらゆる生物の運命を司ると言われている。
だが、ソフィアは神や運命と言った、姿が不可視だったり朧気で蜃気楼のように曖昧なものが……そしてそれに縋るのが嫌いだった。
何事もできるだけ自分で見て、決意して、決断して、実行したい……と言う、儚げで大人しそうな見た目からは想像し難い強かな少女だったのだ。
神、運命、姿が見えない。
そんなソフィアが嫌うものをおおよそ詰め込んだ、夢の嫌がらせ福袋が、運命の女神ベール及びソルスモイラ教なのだ。
そしてソフィアにはまだ気に食わない事があった。
それは【運命視】などの聖女専用スキルの存在だ。
それにより、運命の女神の存在を嫌でも認識させられ、そして運命を体感させる事で強引に不可視を可視化させられる。
そんな、自分の嫌いなものを強制的に補わされるような、与えられるような、そんな感じが気に食わなかった。
ソフィアはそう言った様々な理由から、ソルスモイラ教を捨てて逃亡しようと言う判断に至った。
当然、その後の宛などなく、厳しい生活になる事は明らかだったが、このまま運命の女神が選んだ聖女として死んだように生きるぐらいなら、本当の死を味わう方が幸せだと判断したのだ。
勿論、最善の道は死なずに聖女の役割を果たさず平穏に安定した生活を送る事だが、確実と言っていい程にそんな生活を送る事は不可能に近いだろう。
だが、それでもソフィアは逃亡を、前途多難な茨の道を選んだのだ。
自分の手で自分の幸せを掴み取る為に。
向かうは隣国のミレナリア王国だ。
教会関係者が大勢住まう寮のような建物の一室。
目付役の監視から解き放たれたソフィアは動きやすい服……ボーイッシュな服に身を包み、長くて邪魔な透き通った銀髪をキャスケット帽子の中にしまう。 そして、前々から準備していた必要最低限の荷物を携えて窓を開き、そして窓に足をかけた。 ソフィアの部屋は二階で、下には丁度生垣……垣根がある。それから分かる事だが、ソフィアは今からここを飛び降りて逃亡を図るのだ。
怪我は免れないだろうが、そこはソフィアの自慢の聖魔法で癒す事ができるので心配はなかった。
自分がなぜここから逃げたのかを記した置き手紙も机に残した。 友への感謝や謝罪、他にも友愛の思い出などを記した置き手紙も残した。
もうここにはやり残した事も、心残りはない。
「即死だけはしたくない……!」
そう呟いてソフィアは生垣へ狙いを定めて勇ましく大胆に窓から飛び降りた。
そしてそれは狙い違わず生垣の中心へと、音を立てて落下した。
枝などで腕や足に傷が付くが、そんな事は今はどうでもよかった。今は大怪我をせずに無事に生き残り、逃亡への第一歩を踏み出せた事による歓喜がソフィアの胸中を満たしていた。
が、ソフィアはパッと気持ちを切り替え、さっさと傷を癒して足音を殺し、外へと走り出した。 生垣に飛び込んで生き残ったとて、それでも相応の物音は立てているのだ。 不審に思った誰かしらが様子を見に来てもおかしくないからだ。
もうソフィアの長く険しい逃亡生活は始まっているのだ。 もう今までのように気を抜く事はできないのだ。
「ソフィア」
そこでソフィアを呼び止める声が聞こえた。
その声にソフィアは顔面蒼白となり、あわあわと動揺を露にした。
「きょ、教皇聖下……っ!」
「静かに。 貴女はここから去るのですよね? なら声を荒らげてはいけませんよ」
叱責されると思っていたソフィアは予想外の言葉に顔色を元に戻して、目を丸くした。
「私は別に貴女がここを去るのを咎めるつもりはありません。 ……悲しくはありますが、私も貴女の味わった聖女の苦悩を知っているので引き止めたりはしません」
「…………」
そう言う教皇を無言で見つめるソフィア。 その目には先程とは別の驚きと感謝と、信頼、信用が見て取れた。
「いいですか? ソフィア。 これから貴女の歩む道は途轍もない悪路でしょう。 ですが絶対に折れては、諦めてはいけません。 ……そうすれば、その先には希望にも絶望にも何にでも変化する冒涜的な生物の王が貴女を守ってくださるでしょう」
「冒涜的な生物の王……?」
「えぇ。 その方が希望であるか絶望であるか、生であるか死であるかは、私如きには分かりませんが、その方がどんな形であれ貴女を守ってくださるのは確かです」
ソフィアは混乱していた。 希望にもなり絶望にもなり得るような存在に心当たりもなく、そんな意味不明で曖昧な存在に思い当たる節もなかったからだ。
……そんな不可視のものにどうして頼り、どうして庇護を求められるだろうか。
「教皇聖下、もう少し分かり易くは表現できませんか? ……聡くない私には何も分かりません」
「……ごめんなさい。 少々難し過ぎましたね。 えっと……変幻自在でありながら無形であり異形の…………うむむむ……」
表現に苦しむ教皇を見つめるソフィアは口元に静かに微笑みを宿していた。
人外や機械などと呼ばれる無感情で無感動で、淡々としているあの教皇の人間らしい一面を再び見ることができたからだ。
「何を笑っているのですかソフィア」
「ご、ごめんなさい……今の教皇聖下がとても微笑ましくて……つい」
「それは褒め言葉ですか? それとも悪口ですか?」
「どちらかと言うと褒め言葉ですかね」
「む……ならいいのですが……」
どこか納得いかなさそうな表情の教皇は、徐に辺りを見回すと、ソフィアの背を押しながら駆け足のようにさっきの続きを話しだした。
「えっと……そうですね……黒髪黒目の男性です……それで性格は……適当……な人ですね……それ以外は何も視えませんでした」
「……その方が、希望にも絶望にもなり得る存在で、私を守ってくださる方なのですか?」
「そうです。 ……どうです? ちゃんと伝わりましたか?」
「まぁ……大体は……」
そんな適当な人間が自分を守ってくれる存在なのか……と心配になるソフィア。
だが、明確な目的の無い逃亡に目的ができたのは僥倖だったと考え、頭に浮かんだその心配事を払拭しようとする。
と、そこで背中を押していた教皇の手が離れた。 ここは、寮の裏口のような場所で、もう誰も使わないし誰も近付かない、まさに逃亡に打ってつけの出口だった。
その出口へと歩きだすソフィアに教皇が声をかけた
「…………では……どうかお元気で。 ソフィア」
「…………はい。 さようなら。 ……お母さん」
振り返ったソフィアは、悲しそうな微笑みをして教皇にそう返した。
自分を産んでくれた産みの親はもういないが、それでもここまで自分を育ててくれた育ての親に別れを告げ、再び前を向いて歩きだす。 茨の道へと……厳しい悪路へと。
もうこの人と二度と会うことはないだろう。
これはまさに今生の別れだ。
(来世はこの人が本当のお母さんだったらいいな……)
そう考えて涙を堪えるソフィアは、次に耳を打った産みの親以外の誰にも言われた事がない言葉を……育ての親にも言われたくて堪らなかった言葉──ソフィアが眠れぬ夜、ソフィアを安心させる為に産みの親がいつも言っていた愛の言葉。
それ受けてソフィアは過去を振り切るように走り出した。
「おかあさんはいつまでもソフィアを愛してますよ」




