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朝いつものように登校して自分の下駄箱を開けると、一通の手紙が上履きの上に置いてあった。
「ああ、これは……」
それを手に取ろうかと固まっていると後ろから、
「うへー。もうかよ。まだ入学して二ヶ月ちょっとだよー。相変わらずモテますなぁ」
驚いて振り返ると柑奈がやや、うんざりした顔で覗き込んでいた。なんで柑奈がそんな顔するの?
「やっぱり女の子から?」
慌てて胸元で隠す。恥ずかしい所を見られてしまった。
例え相手が女の子でも好意を寄せられるのは……うん。まぁ嬉しい。嫌じゃ無い。友達も多くないし、そんな機会もないわけで。好きって言われて嫌な気はしない。うん。人として。
でも、女の子が好きなの? って聞かれると、そうじゃない! と強く否定したい。
きっと手紙っていう形がどこか、架空の物語でもあるかのように感じるのかもしれない。
それはまだ私がちゃんと恋をしたことが無いからかもしれないけど。この手紙を――好き。を書く気持ちが、まだ良く解らない。名前を確かめる。柑奈の予想通り女の子からだ。
けど顔も解らない人からの好意は、私にとって受け入れがたい事だった。正直、怖いのと会いたくない気持ちが先にくる。
男子からなら、もっと嬉しいのかな? でも知らない人なら同じかも。残念ながら、男の子からは貰ったことがないので解らない。
どうしよう……会うの嫌だなぁ、話すこと何にもないのに。
「返事! ちゃんとしてあげなよ」
「……わかってる」
「由結! 髪やってあげる」
柑奈が髪を梳かしてくれる、三つ編みに結ってくれることもあれば、お団子にされたり、ただ梳かしてくれるだけのこともあった。そうしているとクラスの誰かが声を掛けてくれる。
私は声をかけづらいオーラでも出してるんだろうか? きっとこの優しそうな笑顔に引き寄せられて来るんだろう、外面はいいからな、柑奈は。
クラスメイトと柑奈が楽しそうに話しているのを、髪を梳いてもらいながら聞く。二言三言くらいは会話に参加する。
「二組の佐伯さん、田中くんと付き合うことにしたんだって」「えー、うそー」「もうキスとかしたのかなぁ」
いつもの私たちの日常。
「柑奈ちゃんはキスとかしたことある?」
「え? 私? ないよ、ないよー」
「……」
どうやら、あれは数えないらしい。
私が初めてキスをしたのは、四年生の頃だった。相手は眼鏡をかけた可愛らしい女の子。
その子は宮内柑奈ちゃんという、それはそれは、とても可愛げのある女の子だった。
柑奈は小さい頃からとてもマセていて、大人のやることをいつも興味津々に見入っていた。特に性に対してマセていたように思う。あぁ、それは今とあまり変わらないな。
そんな柑奈がある日、二人で遊んでいる部屋で私にこう言った。
「キスってどんなだろうね!」
パラパラと家から持って来た、ananだったかな? そんな名前の雑誌をめくりながら、つぶやく。
そのころにはキスがどんな行為なのかは、柑奈から教育されたいた。もちろん教科書は、家から持って来たお母さんの愛読書だ。
けど、さして興味も無かった私は、「しらなーい」と答えていたように思う。いや、そう思いたい! で、おもむろにああなった。
「決めた! 今日は、由結にキスする! だから動かないで!」
「な……なんで?」
「キスが何か、知りたいから!」
「えぇーー! やめようーよ!」
私は、ベッドで押し倒され、バタバタと抵抗する。手足を押さえつけられて、ただただ柑奈の言うがままになっていた。
「柑奈ちゃん! 柑奈ちゃん! 待って! 待ってって!」
未知なる挑戦か何かへの、期待に胸を膨らませた、柑奈の顔が物凄い勢いで近づいて来たのを覚えている。
顎を引いて少しでも遠ざかろうとすると、
「大好き、キスしたいから目を閉じて」
そう柑奈は耳元で優しく囁いた、どうしたのか、その時の私は、恥ずかしくも、抵抗をやめて目をギュッと閉じたのを覚えている。
そうして、私たちは優しい愛に満ちたキスをした。と言いたいところだが、このキスは愛ではなく。実験だったので、実際はコークスクリューパンチのごとく回転の加わった、柑奈の口が、私の口を襲う、弄る様なキスだった。
「んーーーー!」
「由結の口、グミより柔らかいね」
「噛むなぁー! 食べるなぁー!」
あの時、柑奈の言ったセリフが、そっくりそのまま雑誌の特集『キスの時に言われたい言葉ランキング』に載っていたのを発見したのは、数分後だった。それはもう心底ガッカリしたのを覚えている。
「んーー、なんかよく分かんないね」
そして柑奈が言った言葉が、そのままファーストキスの思い出になった。
「まじ、ヤバくね!」思わずボソッと声が漏れる。
「ん? どうかした? 由結」
「よく考えたら、あれはDVだと思う!」
「な、なんの話かなぁーー?」はははは。
笑い声、乾燥してるよ、柑奈も覚えてるんだ。
「ううん、まぁ、何でもないよ。にしても、いい天気じゃのー……」
そんな茶番でも始まろうかって和みの時間に、彼女が教室に入って来た。
今日は学校指定のカーディガンじゃなく、鼠色のパーカーを着てフードもスッポリと被っている。
両手は袖口に引っ込めていて、正直肌が露出しているところはない様子だ。唯一の顔ですら、お面に隠れているのだから。
今日はそこまで寒くはないはずだけど。
いつもと違って席にもつかず私の前で立ちすくんだままモジモジとしている。私は柑奈をそっと見上げるが、目の前の神木さんに気付く様子もなく。
「ほんにぃ、ええ天気じゃのぉ……爺さんやぁ……ははははは」
茶番継続中だった。目の前に立った彼女からはその表情を窺い知ることはできない。
いつもの狐のお面だ、いや今日のは前までとはちょっとデザインが違う。目尻が赤と黒で強調され釣り上がっている。ちょっと怖い。
微動だにしない彼女を見詰め返す度胸は私にはなかったが。
スッと机の上に新しいマスクが差し出された。袖口からは細くて綺麗な指が覗いていたが、薬指が少しささくれだっていた。
「き……昨日はマスクありがとう」
彼女の声はいつも綺麗で消え入りそうだ、でも昨日先生に注意された時は、はっきりと聞き取れる声だった、きっとあれが彼女のいつもなんだろう。
だからこの消え入りそうな声は、たぶん他所行き。
ここではないどこかでは、大声で笑ったり、馬鹿話をしたり、恋話したりしてるのだろうかと想像した。
どんな顔で笑うんだろう?
「風邪大丈夫でしたか?」
そう言った瞬間後ろから、
「ん? おかげさまで風邪ひいてないよ。ってか独り言? さっきから心の声が漏れてるよ」
振り返って柑奈に、じぃーーっと視線を送る。
なんで、目の前に神木さんいるのに気づかないの! 居るでしょ!
彼女も目の前でただ立ち尽くしている。いつもより怖目の狐で私を見下ろしている。
後ろでは柑奈が、じゃなんなのよ! と困惑気味にこっちを睨んでいる。
い…居た堪れなくって思わず下を向いた。
ほんとやめてほしい。
予鈴がなって柑奈が自分の教室へ戻って行く、ぞろぞろと全員が席につき始め、担任がホームルームを始めに教壇に一歩上がっても、彼女はじっと見つめて立っていた。
「えっと、あの。何か?」
ハッとしたような動きをして、両方の手を握りしめた。何かを言いたいようなそぶりをしたが、諦めたのか、そっと席についた。
言いたかないが、最近になって柑奈のコミュ力のおかげで少しずつクラスの女子とも話し始めるようになってきた。ポツンと教室にいるよりも誰かと話している時の方が案外話しかけやすいのかもしれない。
休み時間にもなれば、数人の女子たちが柑奈と共に、おしゃべりをしに私の机に向かって来る。
思いがけないことで、嬉しかった。
人見知りで自分から話しかけることが苦手で。
「話題なんてさ、なんだっていいんだよ、動画の話とかさ、気になる男子の事とか、いろいろあるでしょう!」 と柑奈は言う。
簡単そうに言うから腹が立つ。
それが出来ないから人見知りなんだ! と何度説明したことか。そんな私でも話題を振られてそれに答えることくらいは難しいことではない。そう、話すお題さえあれば別に人と話せないわけじゃない。
それは多分、神木さんとでも。
その彼女が、私の机の隣にたった今、立ってこちらを見ている。
正確には柑奈たちに席を譲る形で、自分の席を追い払われた彼女が窓際に立っている訳だが。
外を眺めていることもあれば、本を読んでいることもあったが、今はじっと私を見詰めているようにも見える。その視線に気がつかないフリをしてクラスメイトとのお喋りに興じていたのだが、十分のわずかなやすみ時間さえ、神経が摺り減る気がした。
もう直ぐ昼休みだ、しかたがない、本意ではないが、もうこれ以上貴重な休み時間に奇妙な視線を浴びせられては堪らない。
現国の授業中、ノートの端をやぶり手紙を書くことにした。
メモはこうだ(今日、どうかしたの? なにかあった?)かなり慣れ慣れしいだろうか? 友達でもないし……でもこれ以上角の立たない聞き方が思い浮かばなかった。切れ端を綺麗に四つ折りにして、深呼吸した。
渡すべきか迷う。
深呼吸、深呼吸! よし! 迷うな!
机に少し乗り出して、彼女の背中をチョンチョンっと叩く。
姿勢良く授業を聞いている背中がビックっと上下に揺れる、ゆっくり、本当ゆっくり振り返る。
差し出された手と、そこに持ってる紙片を見て、彼女は自分を指差して(私?)と問う、うんうんとうなづいて返事を待つ。
昼休みになって、机に掛けてある鞄に手を伸ばして、今日はお弁当が無い事を思い出した。
お昼買いに行かなきゃ。
慌てて行くこともないだろう。急いで行ったところで他の生徒を押し除けて、買い物が出来る気などしない。予想通り購買のある食堂付近になると。ガヤガヤと教室の喧騒とは比べ物にならない賑やかな音が聞こえる。見なくてもわかる、沢山の人の気配だ。
クラスメートに付いて来てもらえば良かったと内心思ったが、それが頼めるなら苦労はない。
それにもう食堂の前まで来てしまっている。大勢の生徒を見ると気が重くて仕方なかった。
せめて柑奈が居てくれれば……。
はぁ……っと大きくため息をついて、ほとんどの生徒が買い終わるのを廊下で待って、品物の無くなった棚から食べられそうなパンを2つ選んだ。先に会計をしていた生徒二人が、
「いつもこんなに混んでるんですか?」
購買のおばさんに問いかけている、おばさんは無視気味に、んっと無言のままアゴで掲示板を指した。同じ疑問を持っていた私もつられてそちらを見る。
(金曜日、四つ葉ベーカリー 焼き立てパン半額 先着100名)
はぁ……なるほど、噂の美味しいパン屋さんとのコラボ企画だ。
ようやく手にしたパンを小脇に抱えて、キョロキョロと空いている席を探す。ありがとうの一言をレジのおばちゃんに言えなかった、また次の時にがんばろう。まずはありがとうからだと柑奈に教えられた。
もう昼休みはわずかしか残っていなかった。
初夏の太陽が今真上にあって校舎を満遍なく照らしている、大きなガラス張りの、明るい食堂から見える日向はどこも暖かそうに見えた。
外はまだ、寒いだろうか。
中庭を囲むようにコの字に建てられた校舎で、開けた側にあるグラウンドに繋がる階段の先に、二つに分かれた通路の右端、そこに見慣れたお面を見つけた。
客観的に見ると、怖いとか、奇妙とか言うよりも、ちょっと馬鹿っぽくて笑った。彼女はいつも昼休みは教室を出て、どこかへ消えてしまうので、見つけた嬉しさが少しあった。
やはり直射日光の熱は暖かいのか、教室では来ていたパーカーを脱いで、半袖の夏服姿になっていた。いつもの狐のお面はかぶって居るのでは無く頭に乗せている、ちょうど食事中の様だ。見つけたのはこの頭にのったお面だった。
お祭りに行って、階段でたこ焼き食べてるような雰囲気。神木さん、浴衣が似合いそう。
いつか夏祭りに――。
私は引き寄せられる様に、階段へと歩いて行った。
現国の授業中には結局、手紙の返事は帰って来なかった。
人の気配を感じたのか、彼女は慌てた様子でお面をかぶって、振り返りもせずに後ろから来る気配が過ぎ去ってゆくのを待っているようだ。
自分でも思いがけなかったが、彼女の隣に座った。自然とそうすることが普通に感じた。
「天気も良いし、一緒にご飯たべよう」
神木さんは驚いて私の方を向いたまま固まっている。
「…………」
「今日は、お母さんが同窓会で実家に行っててね」
「………………」
「初めて購買に行って来たの、人がすごく居てね、ほら私、人見知りだから……」
「………………」
「学校来る前にコンビニ……寄って…………。」
「…………」
「………………」
「…………」
間が持たないよー! 私今、顔真っ赤なんじゃないの?
「……は、話しかけられるの迷惑だったら、ごめんね」
慌てて立ち去ろうとすると、彼女が腕を、グッと力を込めて掴んだ。
「なんで? 見えてるの?」
「見えてるのって、へ……変なこと言わないでよ。そりゃ見えるよ、普通見えるでしょ! 普通だよ」
「……普通に見えるの?」
「ふ、普通には見えないけど、あっ! 違くって、いつも、お面かぶってるし、馬のマスクやフランケンやトランプ大統領のマスクとか……。へ、変な……人、だな……とか。目! 目にはちゃんと! 映ってる? ってこと? だったら、見える……よ。いつも」
彼女は、いつもより大きな声で、穏やかにこう言った。
「ありがとう」
昼休みの終わりを告げる予鈴がなって、私たちは顔を見合わせた。そしてどちらかとも無く。
初めて、並んで歩いて教室へ向かった。
一部、三人称になっていた呼称を一人称に訂正しました。