シスターもどきの異世界日記 4
すぐに、これは夢だなと気づいてしまいました。
遠い日の情景。今までに何度となく見た過去の夢です。
――夜十時。眠くて眠くて仕方なかったけれど、私は母と一緒に父の帰りを待っていて。
何か特別な日だったというワケではありません。ただ何故か、その日学校を休んだ私は父の帰りを待っていたかったのです。
普段は寝ていて見られないような時間帯のテレビを見ながら、夜更かししている事にどこか大人になったような錯覚を覚えて、ワクワクしていたのを覚えています。
けれどいつの間にか眠っていた私は、母の膝の上で目を覚まして。
父と母の他愛もない会話を聴きながら、もう一度、幸せな眠りにつきました。
夢はそこで終わりです。
幸せな眠りについた私は、現実で目を覚まして。
この夢から覚めた朝は、きまって切なくなってしまうのです。
夜十時。孤児院の見回りの時間です。
私はランタン片手に孤児院の部屋を一つ一つ回っていき、夜更かししている子がいないかチェックします。
炎が揺らめき、石造りの壁に映る私の影。雰囲気抜群ですね。
近頃夜はかなり冷えます。喉の調子も良くないですし、さくっと終わらせて暖かい布団に潜り込みたいです。
──っく。――っ。
起こさないように静かにドアを開け、チラリと覗いてまた次へ。
ところで皆が寝静まった孤児院の廊下というのはどうしてこうも恐ろしいのでしょう。そうですね、例えるなら夜の学校みたいです。
――っ。ぅ。
何かが出ても驚かないです。いえ驚きますが。言葉のあやです、不思議でないという意味です。
まあ、教会傍の孤児院に現れる幽霊なんて物好きも居ないでしょうが。
ぅ――。っす――。
しかしまあ何でしょうねさっきから聞こえるこの声! だんだん大きくなってませんか気のせいですか!!!
いえ、シスターさん達が噂していたんです。最近孤児院ですすり泣く声がとか。幽霊がどうとか。これのことですか!!!
ハッキリ言って、ちょうこわい。
んもー、私ホントにホラーとかダメなんですよ。誰が好き好んで見回りなんてやりたがるんでしょうね。
ええ、墓場の掃除の時と同様、今回も他のシスターさん達に見回りを押し付けられた形です。じゃんけんという概念がこの世界にあるのも驚きでしたが、何故私はあの時チョキを出してしまったんでしょう。まあ頭の中がピースフルだからだと思うんですけど。
それにしても寒いです、風邪でもひいたらシスターさん達を恨んでやります。
――っす。ん――ふ。
ああもう。ああもう! どうやら私はその声がする部屋の前に差し掛かったようです。もう嫌です。でもまあ見回りですし。ここは誰の部屋でしたっけ、なんて考えながら、扉を開けます。
――すん。――っふ。
嫌だなぁ……怖いなぁ……。
扉を開けて、より鮮明に聞こえるようになった声。……いえ、声というか、これは。
ああ、思い出しましたよ。エリアちゃんの部屋です。エリアちゃん。孤児院年長組の、私と同い年の子です。最近私に読み書きを教えてくれる子で――と今はどうでもいいですね。
部屋の主に断りもなく、明かりをつけます。
電気――ではなく、マジカルなテクノロジーで発光する天井の照明器具。
部屋の主は、ベッドの中からこちらを振り返ります。
「こんばんは、エリアちゃん。どうしました、悪い夢でも見ましたか?」
緩いウェーブのかかった銀髪の少女が、薄紫の瞳でこちらを見据えます。
薄紫は潤んでいて、いまにもその瞳から涙がこぼれ堕ちそうでした。
「夜泣きよ。気にしないで」
「赤子じゃないんですからそんな」
エリアちゃんは涙を拭って、ベッドから起きあがります。
「ホントに、気にしないで頂戴。ちょっと切なくなっただけだから」
「……そうですか」
まあ、言いづらい事もあるのでしょう。彼女は他の子と違って、私にはシスターとしてというより、同い年の友人として接してくれている節がありますし。きっと、他のシスターさん達の方が話しやすいのだと思います。
「ほら、明日は朝ミサでしょう。貴女も朝早いんだから、さっさと見回りに戻りなさいな」
「いえでも、私で良ければお話くらいなら……」
「いいから。格好悪いトコ見せちゃったわね、今日の事は忘れなさい。それと……あんまり優しくしないで」
背中を押され、そのまま強引に部屋から追い出されました。
"優しくしないで"とはまた。距離のある言葉でした。
きっと、エリアちゃんは私に弱い姿を見せたくないのでしょう。確信はありませんが。私だって、同い年の友人に泣いているところを見られるのは抵抗がありますし。
親しき中にも礼儀ありといいます。シスターと孤児、同い年の友人同士。そのどちらの枠組みでも、立ち入って欲しくない領域はあるハズです。
――ですが、それならエリアちゃんは、いったい誰に胸の内を吐露すればいいのでしょう。
一つだけ思いつきますが、それは彼女に欠けているものでした。
家族です。
もしも彼女の家族が存命なら、彼女が一人で枕を濡らす事も無かったのでしょう。
悔しいですが、ああも拒まれてしまっては、今の私にできることはありません。
後ろ髪を引かれる思いでしたが、見回りに戻ります。
――孤児院を後にするまで、背中にはすすり泣く声が聞こえていました。
っくしゅん!
私は、自室のベッドの上で目を覚ましました。
……なんだか、幸せな夢を見ていた気がします。
遠い昔の、家族の夢。
二度と手に入らない幸せを、まざまざと見せつけられる幸せな夢。
いえ、そうじゃないです。何で寝ていたんでしょう、私。
がばっと起き上がると、妙な浮遊感に襲われ、そこで色々と思い出しました。
そうです、朝ミサの最中にぶっ倒れたんでした。
ええ、風邪です。喉がとても痛いです。頭がふわふわします。シスターさん達を恨みます。
起こした身体をベッドに横たえ、壁の時計に目をやると時刻は正午前。
普段は何かしらの活動をしている時間に、何をするでもなくただ横になっていると、なんだか社会から隔絶されている気分です。まあ、なんなら元いた世界から切り離されちゃってるわけですが。……自虐にしては笑えませんね。
いえ、きっと風邪のせいで心細くなっているだけですね。
そうだ、いけない。お昼の準備、当番は私だったはず……。
ぼんやり考えていると、部屋の扉がノックされました。
「ジュリエッタちゃん、入りますね?」
柔和な笑みを浮かべ、シスター・エリッタが入ってきました。手にはお盆、そして朝の残りのスープが。
「起きてますね、食欲はありそうですか?」
「ええ、少しだけですけど。ごめんなさい、食べたらお昼の準備しちゃいますね」
起き上がり、ふらつく足取りでエリッタさんの手元からお盆を受け取ろうとしますが――避けられてしまいました。嫌われているんでしょうか。
「だ、ダメですよ~! ジュリエッタちゃんは安静にしていないと」
「いえ、それでは私の存在意義が……ただの穀潰しになってしまいます……」
お世話になっている以上、働いて貢献せねば。それではシスターもどきですらなくただの異世界ニートです。悪くない身分ですが、記憶喪失と偽って教会に厄介になっているだけで良心が痛むというのに、そこまではできません。
ですが私の抵抗も虚しく、エリッタさんは普段孤児院の子達にそうするように私をベッドに戻します。なんだかもう完全に子供扱いです。
「いいんですよ。体調の悪い時は他の皆に頼ってください。ジュリエッタちゃんはもう私たちの家族みたいなものなんですから、遠慮なんてしないでくださいな」
木匙でスープを掬うと、エリッタさんはそれを私の口元へ。
「ほら、お口を開けて?」
まさかの「はい、あーん」プレイです。
「い、いえ、それくらい自分で……」
「ダメです。今日は私が看病しますから、お姉さんに任せて下さい」
ここぞという時、エリッタさんは押しが強いです。
観念した私は、小さく口を開けてエリッタさんにされるがまま、ちまちまと豆のスープを口にします。
「弱っている時って、どうしようもなく不安になって心細くなっちゃったりすると思うんです。本当、こういう時くらいは――いえ、普段からもっと、私に甘えてくれてもいいんですからね」
その表情は、決して、優しさの押し売りのような感じではなくて。
本当の家族に接するような、エリッタさんの優しい表情が、記憶の中の母と重なって見えました。
それが、なんだかとても切なくて。
「……はい」
気付けば私は目に少しだけ涙を浮かべて、大人しく口を開けたのでした。
二度三度、発情したカップルの如く口にスープを運んでもらいながら、ぼんやりと考えます。
もしも、昨日あの場に居たのが私でなくエリッタさんなら、エリアちゃんにもっと寄り添ってあげる事ができたのではないかと。
「なぁに、ジュリエッタちゃん、何か考え事ですか?」
うわの空で機械的に豆のスープを咀嚼する私を不審に思ったでしょう。
「まあ、その……少しだけ。でも気にしないでくだ――」
「ん~?」
エリッタさんはキラキラと目を輝かせ、まるで主人に散歩をせがみ期待に心躍らせるわんこのようでした。
なんなら「この期に及んでまだ遠慮しているんですか?」とでも言いたげな圧すら感じます。
エリッタさんには、充分すぎるほどお世話になって、頼りきっているつもりなのですけど。
……そうですね。家族、みたいなものですし。困ったときは素直に甘えてみるのもいいかもしれません。
「例えばですけど……もしも近しい人が何かに悩んでいて、力になってあげたいけれど本人がそれを拒んだとしたら、エリッタさんはどうします?」
「そうですね……私なら、相手から話してくれるのを待ちますね。頼ってもらえるのなら嬉しいですけど、本人がそれを望んでいないのに無理矢理訊きだすのは、ただの自己満足ですから。まあその……相手が遠慮がちな子なら、こちらから迫ってしまう事もありますけど……」
「さっきの私みたいに?」
「ふふ、そうですね。ジュリエッタちゃんは、なんでも一人でやろうとしますから。こっちからぐいぐい行かないと、なかなか話してくれませんし」
「それは……普段からエリッタさんには充分お世話になってますし、それ以上を求めるのは――」
「ほら、また遠慮しちゃってますよ~」
おでこをつんとつつかれました。ホント、この人には敵いません。
「もしかして、何かありましたか? もしできる事があれば――」
「いえ、その……もうちょっとだけ、自分で頑張ってみようと思います。ホントに困ったらその時は頼るので……」
エリッタさんは「そうですか」と満足気に微笑んで、他愛のない雑談を始めました。
ころころと表情の変わるエリッタさんを眺めつつ、スープを平らげ、おどろおどろしい色をした薬を飲みます。
孤児院の子達は今日どんなだったとか、王都に新しく出来たパン屋さんが気になるだとか、市場にこんなものが売っていたとか。
ほとんどは中身のない会話です。けれど、不思議と不快ではありません。
病床の私には、それがどこか子守歌のようで。
エリッタさんは私が眠りにつくまで、ずっと傍に居てくれました。
母のような、姉のような、不思議な存在。それがきっと彼女の言う「家族みたいなもの」なのでしょう。
翌日。まだ全快というわけではありませんが、ひとまず回復したようです。
昨日の食後の薬が効いたのでしょう。聞いたところ、魔法使いが作った万能薬だそうです。医者いらずですね。
一日の仕事を終えたシスターさん達による夜の見回りじゃんけん大会が開催される中、「昨日はロクに働けませんでしたし私がやりましょう」と立候補。拍手喝采という流れを経て、ようやく夜十時、見回りの時間がやってきました。
暗い廊下を歩きます。先日、室内灯はあるのになぜ廊下には灯りがないのですかと神父さんに問うたところ、清貧がどうちゃらいうありがたいお言葉を頂戴しました。つまり節約ですね。その割にこの前高いお肉とか食べてませんでしたっけ気のせいですか。
こつんこつんと、靴音を鳴らしつつ歩きます。
ランタンの灯りを頼りに歩みを進め、一部屋ずつ見て回ります。
――すん。
また、聞こえてきました。
今度は恐れる事はありません。
――っぐ、――ん。
こつん、こつん。
――すん。――っ。
こつん、こつん。
靴音とすすり泣きの奏でる不気味な響き。正体を知らない人間が耳にすればきっと失神モノです。
エリアちゃんの部屋の前に着きました。
私は小さく深呼吸をして、扉をノックします。
この部屋に限っては、見回りではないのです。
今の私はシスターとしてではなく、友人としてでもなく――、
扉が開きます。エリアちゃんは濡れた瞳でこちらを怪訝そうに見つめます。
「ジュリエッタ、何か用? 見回りでノックはしないわよね」
「ええ、少しだけ。入っても良いですか?」
エリアちゃんは小さく頷くと、私を部屋に招き入れてくれました。
ランタンを机に置いて、ベッドに腰かけます。エリアちゃんは私と顔を合わせないようにしているのか、窓際で外を見つめていました。
「悪い夢でも見たんですか?」
「夜泣きよ」
「切なくなっちゃいましたか」
「……そんなところよ」
エリアちゃんは涙を拭う様な仕草をして、私を振り返ります。泣き腫らした薄紫の瞳には、どこか危うい脆さを感じます。
「身体、もういいの」
「ええ、まだ本調子というワケではありませんけど」
「そう」
…………。
会話が途切れます。
二人して、ランタンの炎が揺らめくさまを眺めているだけ。そんな時間が少しだけ流れます。
「それで、用って何?」
「夜泣きの原因を訊きたくて。私でなにか助けになればなと思ったんです」
「だから、いいって。忘れて頂戴」
「こう連日続いているようだと、流石に忘れられませんよ。孤児院の廊下に響く謎のすすり泣きは、今や他のシスターさん達から怪奇現象扱いです」
「…………」
エリアちゃんは目を伏せて、どこか居心地悪そうな様子です。
「私、今日はシスターとしてここに来たわけでも、対等な友人として来たわけでもありません」
「…………」
「貴女の、家族として来ました」
エリアちゃんの瞳が揺れました。困惑、いえ、驚きでしょうか。
「……貴女、ここに来てまだ一年も経っていないじゃない」
「細かい事はいいんですよ……」
もうすっかり台無しですよ。
「まあ、実際私も他の皆のことを……家族、みたいなモノと思っているけれど。貴女は別として」
「みたいなモノ」の部分をいやに強調していました。それはそれとしてですよ。
「ちょっと! 聞き捨てなりませんが! 別ってどういう事でしょう! 説明を要求します!」
「だって貴女はなんだかこう……年が近いからかしら、シスターとはちょっと違う感じがするのよ。それに、私達は、と、友達……でしょう」
頬を少しだけ赤く染め、照れた様子で言われました。いえ、騙されませんよ。少し傷つきました。
「家族認定はまだ遠そうですね……」
いえまあ、昨日までシスター(仮)兼友人として接していた分際で、いきなり家族認定されるなんて虫のいい話もあるとは思えません。ちょっとショックを受けましたがまあいいです、友達と思ってくれているのならそれは僥倖といえるでしょう。
「ま、まあ今は家族かどうかはいいです、後でゆっくり話し合いましょう。ええじっくりと。それじゃあやっぱり友人として訊きますが、本当にどうしたんです? 何か悩みがあるのならおっしゃってください」
「…………」
一瞬だけ緩んだ空気が、再び緊張感を帯びました。
「家族でなくても、やっぱり放っておけません。友人が何かに悩んでいるのに、何も力になってあげられないなんて、あまりに歯痒いですよ……」
エリアちゃんは、友人だからこそ、弱みを見せられないのかもしれません。
けれど違います。友人だからこそ頼って欲しいのです。
エリッタさんは言いました。本人が望んでもいないのに訊きだすのはただの自己満足だと。
全くその通りだと思います。
だからこれは私のエゴです。
話を訊いても、結局何の力にもなってあげられないかもしれません。
ですが、それでも一緒に涙を流す事くらいはできます。
そんな事は無意味かもしれないけれど、私は何もできないなりに、せめて傍に寄り添ってあげたいと思うのです。
やっぱりそれも自己満足ですけど。けれど、それでもしも何かが変わるのなら、その自己満足にも価値はあるのでしょう。
「……………………」
ランタンの炎が揺らめき、壁には私たちの影が踊ります。
少しばかりの沈黙を経て、エリアちゃんは真一文字に結んだ口を開いて、小さくため息を吐きました。
「……そうね。シスターとしてでもなく、家族としてでもない……友人としてなら、話してもいいかもね」
「ん……ありがとうございます」
「何でお礼? まあいいけど……ホント、大したことじゃないの。考えたってどうしようもない事だって分かっているし、人に話す事で、私の気持ちに整理がついたらいいなって思っただけだから……」
うだうだ言いつつ、エリアちゃんが私の隣にどかっと腰を下ろします。
「私、戦災孤児なの。だから七歳までは両親と過ごしていたわ」
悩みの原因は、家族のことだったようです。
七歳の頃というと、ちょうど十年くらい前から孤児院にいたという事になるんでしょうか。
「裕福とはいえない家庭だったけど、思い返せば、やっぱり幸せだったんだと思う。……ああ、今が不幸ってワケじゃなくてね」
大切な宝箱をそっと開くように、エリアちゃんは過去を振り返ります。
「親がどんな人だったかちゃんと憶えてる。父は子供がそのまま大人になったみたいに奔放な人、やんちゃで頼りなくて、思い付きで行動して、でもとっても優しくて、楽しい人。――母はいっつもそんな父に呆れて、"あの人昔もこんな事をしてね~"なんて、二人の思い出話をよく聞かせてくれていたわ。その話をする時の顔がすごく幸せそうだったのをよく憶えてる。私もそれを聞いて幸せな気分になったわ。……まあ、惚気話ばっかりだったけどね」
まるでお気に入りの本でも読むような表情で、彼女は続けます。
「子供を学校に通わせることのできる家庭からしたらそんなに多くない稼ぎだったけど、無理して私を学校に入れてくれたりもして。入学の時は二人ともすごく喜んでくれてたっけ。……私はそんな日々がずっと続いていくのだとばかり思っていたけれど、まあ、さっきも話した通り、戦争でね。家族の中では運悪く私だけが生き残って、そこからこの孤児院に引き取られたってワケ」
「…………」
「それでも、孤児院が劣悪な環境なら、少しはマシだったのかもしれないけれど」
「……と、おっしゃいますと?」
「ん……、皆、善い人でしょう。神父さんや他のシスター達も」
「ええ、本当に。私も助けられました」
「皆、それこそ本当の家族のように……いえ、家族よりも親身になって接してくれる。学校だって行かせて貰えているし、ひどい体罰があるわけでもない。ホント、いい所に拾われたと思うわ」
言葉とは裏腹に――、
「きっとね、私が物心ついた時から孤児院に居たのなら、こんな風に思う事も無かったの」
彼女が膝の上に置かれた拳は、固く握られていて。まるで何かに耐えているかのようでした。
「今、すごく幸せよ」
「でしたら、なんで……」
なんでそんな、今にも泣きだしそうな表情なんですか。
「私は幸せになっちゃいけないの。――だってそんなの、あまりにも残酷じゃない」
目に涙を溜めて、彼女は言葉を続けます。
「皆優しくしてくれる。皆ほんとうに善くしてくれる。でもダメなの。優しくされるたび、私の中にあった本当の家族との幸せだった毎日が、塗りつぶされるような気分になる」
先日、「優しくしないで」と、彼女は言いました。
「本当の家族の元に居るよりも幸せだなんて、そんな、じゃあ私のお父さんとお母さんが私の為にしてきてくれた事は何だったのって話じゃない」
語気は一層の激しさをもって、彼女の苦悩を表しているようでした。
雫がひとつ、ふたつ、彼女の拳の上に零れます。
「幸せを感じるたびに、本当の家族との日々が、失敗作だったんだって揶揄されるような気分になる。お父さんとお母さんの愛情が、二人と過ごした毎日が、偽物だったんだって。穢されていくような気分になるの」
声を震わせ、涙を拭う事もせず。
「だからね、私、ここに居るのが本当に苦痛なの」
吐き捨てるように、言ったのでした。
私は、そんな彼女の姿を見て、やっぱり何も言えませんでした。
私のお節介も、彼女からしたらただの責め苦にしかなり得ません。
だというのに私は、「傍に寄り添ってあげるだけでも」なんて、間抜けもいいトコです。
「……とまあ、毎晩色々と思い出すうちに、こんな風に考えてしまってね。気付いたらいつも泣いちゃうの。ホラ、こんなのやっぱり、家族には言えないでしょ? 言っても困らせちゃうだけだもの」
どこか明るい調子で言ってのけ、エリアちゃんは涙を拭いました。
ランタンのか弱い明かりに照らされるその姿はあまりにもか細くて、儚くて。
「……………………」
「ちょっと、貴女が泣き出しそうな顔じゃない……! ああもう、ホント、最初にも言ったけど、私も考えてもどうしようもない事だって分かってるのよ。だからそんな、貴女が泣くこと……」
私は勢いに任せて彼女を抱きしめました。二人してベッドにそのまま倒れ込んでしまいます。
「ちょっ……なに、どうしたのよジュリエッタ? ちょっとホント苦し……重い……」
「……私の両親も、居ないんです。ずっと昔から、私は祖父母と一緒に暮らしていました」
「え……? でも貴女、記憶が無いんじゃ」
「嘘です。全部覚えてます。両親がどんな人だったかも。私がどんなところに住んでいたかも」
「そんな、変な気を遣わなくても――」
「本当なんです。……シスター・エリッタに初めて会った時、私、記憶喪失だって嘘を吐いたんです」
「何でそんな……」
「…………言っても信じてもらえないと思いますけど。私、この世界の人間じゃないんです。何なら後で証拠をお見せします。部屋に、元いた世界の技術で作られた機械がありますし。この世界にとってはオーバーテクノロジーな代物です。いえ、魔法には劣るかもしれませんが……」
顔を見合わせないまま。抱き付いたままの形で、私は一世一代の大告白をしてしまいました。
きっと、エリアちゃんがこれを誰かに話せば、私はここにはもう居られません。
「……それで?」
信じてくれたのか、はたまた話だけでも聞いてやろうというスタンスなのか。ともあれエリアちゃんは耳を傾けてくれます。
「ここの皆は、どこの誰とも分からない私に、すごく善くしてくれます。けれど優しくされるたび、罪悪感で胸がきゅうっとなるんです」
「…………」
「私のそれは、エリアちゃんのものとは違って、ただの自業自得なんですけど。それでも、たまに無性に辛くなることがあります。ここの人たちは本当に優しくて、私の嘘も信じてくれて、信仰心も縁もゆかりもない私を置いてくれてるだけに飽き足らず、仕事まで与えて下さって」
本当に、有難いです。
「大嘘吐きの私には、優しくされる権利も、善くしてもらう権利もないんです」
「そんな事……」
「そんな事はない、と思いますか?」
「ええ。貴女はその、きっかけはどうあれ、ちゃんとシスター……見習いとして働いているじゃない。そりゃ、騙したのは善くない事かもしれないけれど、それはただのキッカケにすぎないでしょう?」
「そうですね。でも、嘘は嘘です。皆を騙して平然と居座って、何食わぬ顔で優しさや愛情を享受する。それは私の良心においては悪そのものなんですよ」
かつて孤児院の女の子に、嘘はよくない事かと問われ、私は「自分の正義や良心、道徳観に背く嘘がいけないのだ」なんて偉そうに説きました。
私の吐いた嘘は、まさしくそんな、いけない嘘なのです。
私の言葉に、エリアちゃんは何も言いませんでした。
私も何も言えませんでした。
エリアちゃんから離れて、隣に横たわります。
なんだか、今まで私が取り繕っていた仮面が剥がれて、ようやく重荷から解放されたような気分です。
どれくらい黙っていたでしょうか。しばらくして、エリアちゃんは気持ちの整理がついたのか、はたまた沈黙に耐えかねたのか、「そっか」と、ぽつりと口にします。
「……なんか、似た者同士ね、私達」
本当の家族の愛情を大切にするあまり、孤児院で受ける愛情を窮屈に感じてしまう彼女。
自分の良心を尊重するあまり、たった一つの些細な嘘が許せない私。
「確かに、ほんの少しだけ、似ているかもしれませんね」
顔を見合わせ、どちらからともなく笑い合いました。
「……たまに、昔の夢を見る事があるんです。両親が出てくる夢」
なんだか、今日は余計な事ばかり話してしまいます。きっと、風邪のせいで頭がまともな判断が出来なくなっているんでしょう。
「なんでもないただの団欒の風景。それだけの夢なのに……いえ、それだけの夢だからでしょうか。目が覚めると少しだけ泣いてしまうんです」
「うん……」
「ああ、私が見たのはもう手に入らない幸せなんだ。って思って、少しだけ憂鬱な気分になるんです」
「私も、たまに見るわ、そういう夢。お父さんとお母さんと一緒に、ただ他愛もない話をするだけの夢」
「私、思うんです。過去を想って少しだけ憂鬱な気分になって、けれども私たちは確かに現実を生きなければならなくて……。そうやって気持ちの浮き沈みを繰り返しながら、それでも笑って日々を過ごせれば重畳なのかなって」
「ん、素敵な考え方だと思うわ。……そうね、騙し騙しだけど、そうやって笑っていられたらきっと、本当に幸せね」
言って、エリアちゃんは微笑みました。
その笑みが見られただけでも、きっと私がここを訪れた価値はあったのだと思いたいですね。
「さて、思いのほか話し込んでしまいましたね」
「そうね。……なんか、こんなにちゃんと人と話したの、すごく久々かも」
ベッドから起き上がり、時計に目をやります。それ程時間は経っていませんが、明日は私も朝食の準備、エリアちゃんは学校と、朝は早いです。
机の上のランタンを手に取り、明日の朝食は何にしようかなんて思いを馳せます。
「それじゃ、そろそろ戻りますね」
「待って、その……」
「?」
エリアちゃんはベッドから半身を起こし、髪をいじくりつつ、何か言いたげな様子でした。
「ジュリエッタ。今日はその……ありがと」
そっぽを向いて、小さな声ですが、確かに言ってくれた感謝の言葉。
きっとそれは、私のお節介が彼女にとっての重荷ではなかったという証左なのでしょう。
「いいんですよ。だって私達は――友達なんですから」
後日、他のシスターさん達から聞いた話によると。
あの夜を境に、夜の孤児院ですすり泣く声は聞こえなくなったそうです。




