形なき魂は影となりて
「ふむ。形すら維持できない憑魔か。こんなところにいると、犬にでも食われてしまうぞ」
歩くことも、話すこともできないボクに、一人のニンゲンはそう言った。
ニンゲンは完成された生き物だ。時間が経てば歩けるようになり、言葉を覚え、感情を身につけ、大きく育ってゆく。
ボクたち低級な霊。もとい魂は、有象無象として虚ろな時間を過ごすことしかできない。生物に憑依できるのはもっと強い悪霊の類だけ。
ボクは悪ささえできない脆弱な憑魔。魂はあれど取り憑く肉もその力もなく、ただこの世を見えざる者として彷徨うのみ。
もっとも『マジュツシ』と呼ばれる特殊なニンゲンは安易にボクたちを見つけられるらしい。あとはときどき動物や鋭いニンゲンにみられる程度。あとのすべてはそこには何にもないと感じ、それこそ存在価値などない。だがこのニンゲンは違った。
「君はどうせ暇なのだろう? 私も暇だ。少し付き合ってはくれないだろうか」
ボクは言葉を返すことができない。口はなく、ただ黒い靄の中に一つの目が浮いているのみ。
このニンゲンは付き合えと言った。何もすることがないのは歴然で、ボクはニンゲンについていくことにした。
何かに期待していたわけでもなく、望みがあったわけでもない。ただ、この何もないという虚無から脱出することができるのならば、消えてもいいと思っていた。
「ここが私の工房だ。辛気臭くていいだろう?」
マジュツシのいうとおり、そこは人の世界とは乖離した、暗くて陰鬱な場所だった。
だが、ボクたち魂にとってこれほど住みやすい場所はなく、むしろ喜んで住み着きたいほどだ。
空中をふよふよとふらつくボクを見て、マジュツシは声を出して笑った。
「そうかい、そんなにここが気に入ったかい。好きに出入りしていいが、逃げてくれるなよ?」
「……」
「うーん。つれてきたはいいが、言葉を話せないのは少々退屈だな。どれ、取り憑きやすいものでも与えようか……何かあったかなぁ」
そう言ってマジュツシは大きなテーブルに転がる道具を漁りつつ、一つ一つを選別する。
真っ赤な水の入った小瓶。動物の骨。人の指。ぷるぷるしたあれは……ナイゾウというものだろうか?
知識はあれどそれがどんなものかは知らない。教えてくれる人などいなかったからだ。ただニンゲンが口にしていたものを聞いていただけ。
そうこうしているうちに、マジュツシは大きな木箱を持ってきた。蝶番を弾き、中を開けると―――
「前に研究で使った猫の骨があったぞ。生憎肉と毛は腐って剥がれ落ちてしまったが、元は生物だ。これならお前でも憑依できるだろう」
うん。確かにこれはできそうだ。この肉体にあった魂はどこかに消えていて、空っぽの器となっている。できれば肉体が欲しかったが、贅沢は言えない。
綺麗に並べられた骨に近づき、その『中』へと溶けるように入ってゆく。
抵抗はなく、すんなりと中身を支配する。やがてその骨を黒い靄で覆い、新たな生物として大地に立つ……はずだったのだが、どうにも上手く体を動かせない。
手足の感覚はおぼろげで、力の入れ方がわからない。ただずるずると地面を這う姿を見て、マジュツシは腹を抱えて笑い始めた。
「ハハハッ! まだ上手くは歩けんか。いや、それも愛らしくて一興だと思うぞ。プッ、クク……」
ボクにはニンゲンのいう感情というものはわからない。が、ただマジュツシが笑っている姿を見て、胸が熱くなった。これが嬉しいという感情なのだろうか。
「はぁ、実に愉快だった。お前は道化に向いているかもしれんな。まあそれはいいとして、お前には名前が必要だ。使い魔として契約するにあたって、お前の真名というものが必須となる。どうせないのだろう? 私がつけてやろう」
名前―――確かに今のボクには、ボクたらしめるそれは存在しない。ケイヤク? とやらに必要ならば、是非つけてほしい。
マジュツシは頭をひねらせながら熟考した末、指を立てて言った。
「猫の骨だから、ネッポというのはどうだろうか?!」
……ボクはそういうのに詳しくはないが、それが確実に不可思議な名前であることだけはわかった。抗議しようにも言葉はなく、ボクの真名は決まってしまった。
「よし。私が今日からお前の主人だ。名前は万代 利果。いい名前だろう?」
こうして、ボクとリカは契約した。
言葉を覚え、使い魔として確実に強くなっていった。器は不要なものとなり、いつしか彼女の影に潜むようになった。
ただひとつ、人と同じ感情だけは身につかなかったが。
☆
それから数年、知ったことといえば、彼女は死霊魔術師と呼ばれており、まわりの魔術師から疎まれていたこと。
低級な霊であったボクを拾って育て、使い魔にするなど、変わり者の彼女らしい所業だったという。そもそも魂や死体を媒介にする魔術など奇人の所業だと揶揄する者もいる。
このようにだ。
「何だか腐臭がするなぁと思ったら、死霊魔術師がいるじゃねえか」
「趣味悪いよな。魔術師の面汚しが」
魔術師の集う協会へ顔を出すと、こちらを見る魔術師数人が視線を向けて嘲っている。
あまり調子に乗るなニンゲン。リカはお前らの何倍も努力し、誰よりも長く魔術と向き合っている。彼女を笑っていいのは、彼女以上にひたむきな者のみだ。
「ひっ。なんだあれは……?!」
「あれが噂の『シャドウキャット』か?!」
光が映し出すリカの影は、その挙動に反してゆらゆらと波打つ。やがて中から一つの目が光り、魔術師を睨み付ける。いつしか万代 利果のトレードマークとなり、シャドウキャットの異名で知られた。
漆黒の体は数年に及び与えられてきた彼女の魔力によって編まれた影の体。かつては歩くこともできなかったが、今では立派な彼女の使い魔となり、彼女を守っている。
それがボクの生きる意味。この身が滅びぬ限り、永遠に彼女の影に潜み、守り続ける。
忌々しいニンゲンどもめ。ボクがその肉体ごと食ってやろうか―――
「やめたまえ。あんな奴らには食う価値もない。せいぜい長生きさせてやりな」
「……リカはいいのか? 好き放題言われたままで」
「いいのさ。私は私のやりたいことをやる。だからわざわざ婚約までして、この人生を後世に伝えようとしているんだろう?」
何でも魔術師は仕来りとして、魔術を自分の子にしか教えないという。名を残すのと同じように、魔術を後世に残してゆく。魔術師にとっての生きがいであり、名誉だという。
彼女曰く魔術とは未完成であり、完成に至るまでにはあと1000年はくだらないという。
人一人ではまず生きることさえできない。だからこそ、自らの魔術を後世に伝え、先祖の誰かが魔術を完成させることを目的としている。
昔は、ニンゲンとは完成された生物であり、叡智を持つ生命体だと思っていた。
しかし、リカと過ごしてわかった。それはとんだ勘違いだった。
ニンゲンは脆い。たかだか100年を生きられる者はごくわずかで、肉体の衰退で簡単に死んでしまう。そのくせ無謀ともいえる究極の魔術を完成させようと、短い人生の中で必死に努力している。
もうどれだけ生きているかわからないボクにとっては、心底どうでもいいとも思える。
とっくにリカを切り離して、自由に生きることもできたかもしれない。
だが、ボクにはできなかった。彼女が必死に紡いできた魔術を、その完成を見たいと願ってしまった。故に、今もこうして彼女の傍にいる。
「せっかく外に出たんだ。少し散歩でもしていこうか」
「ああ、かまわないが……君はもう少し普通のニンゲンらしい恰好をした方がいい。街中を歩くときの視線が気にならないのか?」
彼女はいつも似たような服装をしている。白いYシャツに黒のロングスカート。上から黒のローブを纏い、首に紅色の宝石の入ったブローチをかけている。
はっきり言って、街中にいるとかなり怪しい。明らかに浮いているし、彼女を見る人々の視線が痛い。警察にだって何度か声をかけられていた。
が、当の彼女はまったく気にしていない。自分にとことん無頓着で、ボクの方が気にしているような体たらくだ。
おかげで、ボクは呆れるという気持ちを知ったようなものだ。
「ならないよ。同業者間でさえ浮いているのだから、今更ってものさ」
「まったく。君という奴は……」
リカは滅多に外出しない。生活用品などは婚約者である旦那に任せきりだし、魔術に使う材料は……正規のルートでは手に入れづらいので、特定の市場でしか買い物をしない。それも工房まで届けさせるのだから、外出頻度はおそろしく低い。普通のニンゲンならとっくに気が滅入ってしまうだろう。
それに、彼女が人目に出たがらない理由がもうひとつある。
「お姉さん綺麗だね~! なんかのコスプレ? ちょっと俺と遊ばない?」
「至って真面目だ。それにお前と遊んでいる暇はない」
「まま、そう言わずに!」
彼女が目立つのは服装もだが、さらに目立つのはその容姿らしい。
魔力で変色した銀色の髪は骨盤まで伸びており、日を避けて真っ白になった肌。大きな瞳は万代家の遺伝である灰色。全体的に色素が薄く、儚げに見える。
形なき魂であるボクにはニンゲンの美的感覚というのは掴みきれないが、彼女はなかなかの美人らしい。
街中を歩いては、世俗にまみれたオス共が寄ってくる。彼女の奇怪極まる素性を知らずに。
それが嫌で、あまり人の多いところに行かないらしい。
男はやや強引にリカを路地裏に連れ込み、彼女の服へと手を伸ばす。が、彼女はまったく抵抗しない。
まったく、面倒事はボクに押し付けようというわけか―――
ゆらりと影の中から顔を出し、男の頭に食らいつく。
「な、なんだ?! 影―――化け物か?!」
「ああ。私には凶悪な守護霊が憑いているらしい。その気になれば、そのままお前を食ってしまうかもな」
「ひっ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」
男は一目散に走って逃げる。さっきまでの威勢はどこへやら、恐怖で涙をまき散らしながら消えていった。……甘噛みのつもりだったが、規格の違いか、頭をすっぽりと覆ってしまった。
人気がなくなると、ボクが先に口を開く。
「どうして抵抗しなかったんだ?」
「私はか弱い女の子だぞ? 魔術師であることを除けば、そのへんの女よりもずっと非力だ。それに、主人の窮地を守るのが、使い魔の仕事だろう?」
「はぁ。少しは自分で守ることも考えてくれ。万が一にも、ボクが寝ていたらだな」
「なんだ、怒るなんて珍しいじゃないか」
怒る? 怒りを表す行動のことだが、ボクは怒っていたのだろうか?
感情は時として言葉では表せないこともある。ボクの場合はそれが多く、ニンゲンのいう感情がどのようなものなのか、まだ判りきれずにいた。
いつかボクにも、ニンゲンと同じような感情が芽生えるのだろうか……
☆
その晩、リカはいつも寝る時間になっても寝室に行かず、かといって魔術の鍛錬をするでもなく、ただ工房でぼうっとしていた。
珍しく物思いにふけっているようで、どこか違和感を覚えた。
遠くを見据えるその目は、どこを見て何を考えているのだろう。そんな興味から、ゆらりと現れて話しかける。
「珍しいね。君がぼうっといているなんて」
「そうかい? これでも思想は大きい方だが。……君はよく人を見るようになったね」
確かにそうかもしれない。だが少し違う。
ニンゲンには興味は薄い。万代 利果という魔術師に興味があるだけだ。
ボクを拾った張本人であり、今は主人。大雑把で適当だが、魔術への熱意は誰にも負けてなどいない。そんな彼女が欲しがる望みを、たどり着いたその先を、見てみたいと思う。
理由も情緒も、この程度しかないのだ。
「君は……死とは何だと思う?」
「唐突だな。死とは魂と肉体の分裂。肉体が生命活動を続けられなくなったとき、魂は拠り所を失って世界を彷徨い、肉体は土へと還る。君が教えてくれたではないか」
「そうだな。だが私はこうも考える。魂は消えていないのに、その肉体は死している。もし人間の本質が魂にあるとしたら、それは本当に死んだといえるのだろうか? 私はそれが知りたくてこの魔術に触れ、鍛錬を続けてきた。その答えのカギとなるのが―――君というわけだ」
初めて、聞いた話だった。よくボクを観察してはメモしていたが、彼女の研究主題がボクであるとは、予想もしていなかった。
驚いている最中、彼女は続ける。
「最初に会ったときから分かったことなんだ。今まで話さなかったが、教えてあげよう。君はもともとニンゲンの魂だったのだよ。おそらく、生まれて間もない頃に死んでしまった、ね」
「……ボクは、ニンゲンだった?」
「そう。さすがの私も同情してしまってね。思わず拾ってしまった。そして同時に考えていた。もしも君を育てて、新たな生物としてこの世に存在するのなら。それは肉体のいらない、それこそ不死の生物が誕生するのでは、と。不死は過去の魔術師たちも追い求めてきた究極の魔術。もしもこれが完成されたとすれば、生物の本質は魂であると再定義され、常識は覆る」
話は難しいが、つまりはこういうことだろうか。
「ボクを不死の生物にして、それをサンプルにニンゲンを不死の存在にしようと、君は言うのか」
「お利口だね。だが今はまだ道の途中だ。現に君は私と契約し、私の魔力を糧としてこの世に存在している。何らかの形で契約が途切れた場合、君はまた、価値なき魂へと退化する。というのがここまでの研究成果だ」
リカは黙ってしまう。また遠くを見据え、自分の世界へと入り込んでしまった。まだ話すことがあるのだろうか。
じっと彼女の隣で待っていると、今度は弱々しく、ぽつりと呟いた。
「私は―――死ぬのが怖い。ここにある情熱や愛情といったものがこの世から消え去り、いずれ忘れられる。魂になったとてこの記憶や感情は薄れてゆき、私自身も忘れてしまう。そうなってしまったら、万代 利果という人間は完全になくなってしまう。それがおそろしく怖い」
彼女の笑顔は今にも泣きそうで、ひどく悲しみを帯びていた。弱みを見せようとしない彼女が初めて見せた、弱い側面。
彼女ではないようで、しかしてやはり万代 利果であった。
ボクはどうすればいい? 慰めるべきか、それとも生きていることを讃えるべきか?
ボクは彼女に、何と答えれば―――
「なんてね。ハハ、驚いたかい? 魔術師は死を恐れない。自分の子を信じて潔く死んでやるさ」
「……心配して損した」
「拗ねるなよ。ほんの少しからかっただけだろう?」
この感情は、怒りか。今日はよく感じるな。それもこれも彼女のせいだ。
だが……彼女がいなければ、ボクは怒ることも呆れることも知らずに彷徨っていたのだろう。毎日をこうも情緒的に過ごせるのもそうだ。
やはり、彼女には感謝してもしきれない。いつか死ぬときまで、この想いは秘めておこうと、このとき決心した。
☆
1年後。リカは無事自らの子どもを出産した。元気な女の子で、魔力容量も申し分ないという。
名はシズネ。静かに平和に生きてほしいという願いが込められているらしい。音は何かというと、単に語呂がいいから。その適当さは実に彼女らしい。
何より驚いたのは、リカが今までにないくらいニンゲンらしく、もとい母親のような振る舞いをしていたことだろうか。
他人にはとことん淡白な彼女だったが、娘にはやたらと甘く、さらにいろいろな表情を見せる。
物珍しい目で見ると、彼女は心外だと言わんばかりに睨み返してきた。
ボクが死んだのは、あれくらいだったのだろうか。シズネを影から眺めつつ、そんなことを考える。
それでも彼女が魔術に手を抜くことはなく、時間を見つけては鍛錬に耽っていた。
シズネが物心ついたとき、ついに魔術の本格的な指南が始まった。
死霊魔術師になるにおいて必要な資質。それは死を受け入れることだという。
生物が死ぬとはどういうことか、彼女らは死をどう捉えていくのか。それを、彼女の目を通して叩き込んだ。
実にむごいものだった。まずは捕まえてきたカエルを殺してみせた。目を背けさせることは許さず、絶命の瞬間をその瞼に焼き付けさせた。
次にシズネの手で殺すことを教えた。それは楽しいものではない。あくまで必要なものとして、倫理をもって殺すよう教えていた。
虐殺を楽しむのは魔術師ではない。ただの人殺しだと、彼女はそう言っていた。
その教育は赤ん坊のころとは打って変わって、甘えを許さない鬼神のような出で立ちの彼女がいた。
シズネがどんなに泣き喚いてもその手を緩めることはなく、毎日繰り返し工房に引きずり込んでは拷問に近しい教育を与える。
さすがにシズネから「お母さまなんて大嫌い!」と言われたときは一晩中落ち込んでいた。
それでもシズネが魔術を投げ出さず、泣きながら必死に鍛錬していたのは、やはり資質というものだろう。
そんな穏やかな日常が続いたある日だった。
魔術の鍛錬中にリカが倒れ、魔術師専門の病院へと運ばれた。
数日間意識が昏倒し、生死の境目を綱渡りしていた。やがて目を覚まし、しばらく入院が必要だと言われた。
原因は魔力の著しい低下。なだらかに減っていた彼女の魔力は突然大きく減少、命に影響の出る低下を見せたらしい。
女性の魔術師にはよくあるらしく、子どもを産んだ魔術師によく見られる事象らしい。そこから死ぬことも滅多にないという。
入院が決まった日の晩。ベッドの上で、闇夜に浮かぶ月を眺める彼女に、言う。
「大変だったな。無事でよかった、これならまだ鍛錬は続けられるのだろう?」
彼女は答えない。月からゆっくりと目を移し、穏やかな口調で、ゆっくりと答えた。
「いや、私はあと1年ともたないよ。ここで終わりだ。あとは静音に任せるとしよう」
「なっ……何故だ。医者も大丈夫だと言っていたではないか!」
「それが君のせいだと言ったら、責任を感じるかい?」
意味が、わからなかった。
彼女が突然倒れ、日々衰えていくのを感じていた。だがそれは死ではない。そう信じえていた矢先に挙がったのはボクの存在。
ボクは何かしただろうか? 否、皆目見当がつかない。シズネとの鍛錬には関与していなかったし、邪魔をしたつもりは一切ない。まったくわからないのだ。
「何故、ボクなんだ……?」
「君と契約してから気が付いたよ。君は日々私の魔力を無意識に吸い取り、生きる糧としていた。魔力は減れば自然に回復するが、毎日とられていては追いつかなくなる。出産も相まって、それが早まっただけに過ぎないのさ」
「じゃあ、今すぐ契約を切れば助かるはずだ。早くボクとの契約を―――」
言いかけたところで、彼女の手がボクの上にそっと置かれる。温かくて、優しくて、どこか安心する手だった。
その手を置いたまま、彼女は言った。
「できない理由は3つある。1つは、どのみちここまで衰退しては大きく変わらん。今更契約を切っても寿命は変わらない。2つ目は、君のためだ。今私との契約を切ってしまえば、君はまた形なき魂になる。前も言ったはずだ」
「3つ目は?」
そう問いかけると、彼女は照れくさそうに笑い、体をボクに寄りかかるようにして触り、小さな声で言った。
「3つ目は……私のわがままだ。君と離れたくない。死ぬ直前まで傍にいてほしい。旦那と静音は悲しむだろうし、親は死ぬことに何とも思わない。だからせめて、感情希薄な君に、看取ってほしい。もし私が死ぬ間際に、まわりの人たちが悲しんでばかりいたら寂しいだろう? ただでさえ死ぬことが怖いのに、それじゃあんまりだ。ただ君といたい。それだけなんだ」
ボクには、このわがままをどう受け止めていいかわからない。
喜ぶべきか、悲しむべきか、怒るべきか、労わるべきか、哀れむべきか。ボクにはその正解も、彼女の求めている答えもわからない。
ボクは形のない影だ。彼女の後ろに隠れていなければ、悪霊として他の魔術師に消されてしまう。
ボクにも彼女が必要だ。その答えだけは、変わらない。
「君が死んだら、ボクはどうすればいい?」
「静音を見てやってくれないか。彼女は私以上の素質を持っている。このまま成長すれば、私よりも遥かに優秀な魔術師になる。君はその使い魔として働いてほしい」
「ああ。だがいいのか? そうしたら静音も早死にしてしまうのではないか?」
「多少はコントロールするよう教えるさ。私は魔力を与えすぎたからね。だが、これは呪いとして代々万代家に残るだろう。君は私の望みの先が見たいのだろう? だからきっと静音の子にも、そのまた次も契約するに決まっている」
彼女の予想は正しい。きっとボクはそうして生き永らえていくのだろう。魂なのだから、呪いといわれても形がないという本質は変わらない。
彼女がいなくなっても、ボクはそこにいる。生きて、君の望みを、『夢』を見たい。
「約束しよう。ボクは君の信念を忘れない。君の代わりに、君の望んだ未来を見届けよう」
「ありがとう。あのとき君を拾ってよかった」
リカは微笑みつつも目からは大粒の涙が溢れ、それは外が明るくなるまで止まらなかった。
彼女は頻りに呟いた。死にたくない。まだ生きていたいと。
しかし、その儚い願いは届かなかった。
その翌年に、万代 利果は死んだ。
あまりにも呆気ない、とボクは思う。今まで彼女と関わってさまざまな死を見てきた。が、衰弱死というのはこんなにも……
リカは旦那に「愛してる」とだけ伝え、静音には「あとは任せたわ」と伝え、あの夜に見せた穏やかな微笑みのまま、息を引き取った。
瞬間。彼女とのつながりが消える感触が顕れた。ふわりとどこかへ消える、たんぽぽのように、風に流れるように。
ごめんリカ。やっぱりボクも―――悲しいよ。
胸がひどく痛い。今にも泣いてしまいそうだ。だがボクには痛む胸もなければ、流れる涙もない。
いっそニンゲンだったなら、もっと感情を全身で表現を伝えることができたのに。それが歯がゆい。
リカの魂はもうここにはなく、満足げに、空のどこかへ消えていった。
リカだったもう動かない肉体を眺めながら、拾われた日のことを思い出した。
あの日はそう―――雨が降っていたっけ。今ならわかる。
街灯がついたり消えたりしている道の端で、ボクは小さくなっていた。そこへ一人のニンゲンがやってきたんだ。ボクと同じ黒の服装で、銀色の髪にグレーの瞳をした……
ああ。あのとき拾ってくれたのが、君でよかった。
☆
「……あのさ」
「なんだ?」
「お母様は、どんな魔術師だった?」
シズネは唐突に、昼寝していたボクへそう問いかけてきた。ボクはあの顔を思い出しながら、答えた。
「そうだな。君よりも落ち着きがあって、堂々とした人だった」
「何よそれ! どうせあたしなんて、まだ半人前の魔術師ですよーだ!」
「そうは言っていない。それに捻くれたところは実に母似だぞ」
「あーもうどうしてうちの使い魔は主人をなめているの?! お母様はどうしてこんなの育てたのかしら……」
それはボクもわからない。ただ言えることは―――ボクはリカを愛している。
彼女の願いを叶えるために、今日もボクは君の子孫たちを見守っているよ。