(1)
真っ暗だった。
ヘザーは何度も来たことのある場所だが、照明も落とされ、全く人気のない遊園地は想像以上に不気味だ。
月の薄明かりと、所々に灯された非常用の明かりのみの中、ぼんやりと見慣れた乗り物達が浮かび上がる。
絶叫系のコースター、くるくる回るカラフルなティーカップに子供の頃に大好きだった、メリーゴーラウンド。そして、一際目立つ観覧車。
(今日のこれがデートだったら良かったのに)
今ここにいる理由は、そうではなかった。
街へ出たその帰り、突如ティアナンの様子が変わった。彼曰く、強い悪魔の気配を感じる、と。
そしてその気配を追ってたどり着き、忍び込んだのがここだった。
確かに人が集まる場所には、ひとつやふたつ、そう言った噂話が付き物だ。
しかし、今日のティアナンはいつもの仕事の時とは様子が明らかに違う。顔が微かに強ばり、緊張しているようにも見える。
(……それにしても)
周囲を見回し、長い時間いたとしても慣れないだろうとヘザーは思う。
普段は人が溢れ賑やかな笑い声で満ちている場所なだけに、しんと静まりかえっているのが違和感だった。まるで別世界に迷い込んだようにさえ感じる。
『ねぇ、今のこれって、お仕事じゃないんでしょ?』
へザーが深い意味もなく訊ねると、ティアナンは軽く驚いたように目を見張った。集中のあまり、すっかり彼女の存在を忘れていたらしい。
「――え? あ、はい、そうですね」
『お仕事じゃなくて、ボランティアでもやる……の……?』
ふと視界を横切った人影に、思わず声を上げそうになった。
『な、何、今の!? もしかしてゴースト――?』
ティアナンの背後に素早く隠れたへザーに、彼は自身の肩越しに訊ねる。
「怖いのですか? でもあなたもゴーストですよ?」
『……そうでした。って、そういう問題じゃなくて、怖いものは怖いの!』
しかしそこにいたのは、生身の人間のようだった。
ほっと胸をなで下ろしたのもつかの間、近付く影に目を疑った。
そこにいたのは、ヘザーが忘れたくても忘れられない相手だった。
『まさか、ルーカス……?』
呆然と呟いて、自分の声で我に返り、はっとして。
思わず回れ右をしそうになるが、今の自分は彼には見えないはずだとすぐに思い出す。
「ルーカス……? ――ッ」
その視線を追ったティアナンが、ぎくりと動きを止めた。
「あいつは……!」
軋むように呟くその顔は、色を失い真っ青だった。
『え? うそ、知り合いなの?』
ルーカスが、ニィ、と笑う。その笑顔に、ヘザーも、心臓を鷲掴みにされたように感じ凍り付いた。
『違う、ルーカスじゃ、ない? まさか――!』
ティアナンがはっきりと頷く。
「悪魔です。それも、これまでの者達とは比較にならないほどの力を持つ悪魔」
『そんな……!』
ぞっとした。
自分の知っている相手が、それも、よりにもよって『彼』が悪魔に選ばれるなんて。
『久しいな、ティアナン神父』
「アンリ……! この強い気配、やはりお前だったか。やっと見つけた」
ぎり、と噛みしめた歯の奥から絞り出すように呼ばれた名は、へザーの知人の中にはないものだった。歴史の教科書にでも出てきそうな響きの名だ。
『アンリ? 懐かしいな。その名だった体はとうの昔に捨てた。今はルーカスと名乗っている』
「貴様は一体、これまで何人の罪のない人を……!」
『そのようなものなど、いちいち数えていない。ついこの前まで使っていた人間が使い物にならなくなり、つい最近コレに乗り換えたところだ』
言って自身の胸に手を置き、クスクスと笑う。その笑い声でさえ酷く耳障りだ。
『お前は、相変わらず反吐が出るほど真っ直ぐで愚かだな。ずっとオレを探していたんだろう? どうせ、お前にオレを祓うことなどできやしないというのに』
嘲り、そして挑発を含んだその科白に、ティアナンが怒りを露わに叫ぶ。
「わたしは絶対にお前を許さない、今度こそ、地獄に送り返してやる!」
『そういきり立つな。せっかく再会したんだ。派手に祝おうじゃないか』
ルーカスの姿をした悪魔が、手を一振りした刹那――。
「……ッ、な、に!?」
眩い光が、暗闇に慣れた目を鋭く刺す。落とされていた照明が全て、それも瞬間的に点る。
コースターはけたたましい音を上げてレールを走り、メリーゴーラウンドとティーカップは賑やかな音楽を派手に奏でながら高速で回り出す。
それらの様子に唖然としていると、異変に気付いた警備員らしき中年男が大急ぎで走って来た。
「な、なんで、どうしてこれは……!? おい、お前、お前が!?」
大混乱の様子で、ティアナンを指さした。
ティアナンは素早く警備員に視線を走らせ、そしてほくそ笑むルーカスを見る。もう一度それを繰り返し――。
「ヘザー、逃げましょう!」
『え。でも、大丈夫だって……』
「さすがにこの状況の説明は無理がありますから。捕まったら面倒なことになる」
『……確かに』
『逃げるだと? そのような必要などない』
ふわりと二人の頭上を飛び越え、ルーカスの姿をした悪魔は、警備員の額に掌を翳す。
「……! やめろ!」
顔色を変えたティアナンが、肩に掛けた鞄から何かを取り出した。
彼の手の中で鈍色の光を放つそれに、へザーは目を疑う。
『……まさか、銃!?』
ティアナンの狙いはもちろん悪魔だ。
しかしヘザーは咄嗟にティアナンの背にタックルし、彼を固いアスファルトに押し倒していた。銃声が轟き、ルーカスを掠める。
警備員は空に浮かぶルーカスの姿に、そしてティアナンの手の中で咆哮を上げた銃に悲鳴を上げ、逃げ出した。
「ヘザー! どうして……!」
『ダメ、やめて! ルーカスを撃たないで!』
「わたしが狙ったのは、悪魔ですよ」
『でも体はルーカスだよ! 撃ったら死んじゃう!』
「ああ、これは……」
ティアナンが身を起こし、握りしめた銃に目を落としたその時だった。
『なぁにやってんのよッ!』
甲高い、そしてどこか違和感のある声が二人を叱咤した。
どこからともなく現れ、二人の前に立ちはだかったのは、派手な服装をした、やけに背が高く肩幅もある女性……いや、男性だ。
彼は悪魔に向かい、何かを投げつける。
『これでも食らいなさいなッ!』
それは赤い色の煙となってルーカスを襲い、瞬く間にその姿を飲み込んだ。唖然としてその光景を眺める二人を、彼が煽る。
『ほらほら、早く逃げるッ! ボサボサしない!』
『い、イエッサー!』
その勢いに、へザーは反射的に背筋を伸ばし、答えてしまう。
背を向けて全力で駆け、その場から逃げ出した。柵を越え、遊園地の敷地外に出て、それでもまだひたすらに走る。
すぐ目の前に広がる海辺までたどり着くと、三人はそこで、やっとで足を止めた。
悪魔が追って来る気配はない。