(3)
ティアナンがヘザーを案内したのは、小さな部屋だった。
「何もない部屋ですが」という彼の言葉は、謙遜ではない。
ベッドと小さな机と椅子がひとつずつのみで、そんな中で存在を主張しているのは、古びた大きな暖炉だ。
たったそれだけだが、決して荒れ果てた部屋というわけではない。
それに個室で、ベッドで眠れるというだけでも感謝すべきだとヘザーは思った。
ティアナンはここでも手際よく暖炉に火を熾し、明かりだと言ってランプをひとつ机に置き、リビングへと戻って行った。そこが彼の私室のようなものらしい。
『すっごいアンティーク。これ、実はすごい貴重で高かったりして……』
へザーの記憶が正しければこれは、アールヌーヴォー調とかいうデザインだ。
普段見ることのないランプをまじまじと眺め、指先でそっと模様を辿る。そしてこれもまたレトロな机に向かい、紙を前にヘザーは思考を巡らせた。
――やりたいこと。
いざこうして考えてみると、案外少ないものだった。
生きているうちは、それこそ小さな「やりたいこと」がたくさんあった。
新しくできた、話題のお洒落なカフェへ行きたいと思っていたこと。
作ってみたい、ちょっと手の込んだ料理やお菓子があったこと。
読みたい本があったこと。
新しいスマートフォンが欲しかったこと。
毎週欠かさず観たいテレビ番組に、いつか観ようと思ってそのままだった映画もたくさんある。
他にも、小さなことは色々と浮かんだ。
けれど、死がこうして現実のものとなると、それらはどれも些細なことだった。本心から強く望むことは、もっと違うところにあったと気付く。
けれど問題もあった。いくら物に触れられるとは言え、ゴーストではできることも限られている。
一度書き上げたものを見つめ、しばしヘザーは考えた。
どう考えても、今の自分には叶えられそうにない。
ふいに視界が霞んだ。
『こんなの、もう、できるはずないし』
きゅっと口を引き結んで、ごしごしと目元を拭う。
そのリストをぐしゃりと丸め、ここでは当然とばかりに赤々と燃える暖炉に投げ入れようとして。
手を止めた。
『あたしの本当にやりたかったことって、これだったんだ。生きてる時には、自分でも気付きもしなかった……』
そして自分の書いた文字に目を落とし、ぽつりと呟いた。
翌朝、パンとリンゴという簡単な朝食の後に、ヘザーはティアナンにリストを見せた。
『できたよ。これがあたしのやりたいこと』
メモを受け取り、ティアナンは少し驚いたようだった。
そこには簡潔に、箇条書きでへザーの望むことが書かれている。
一、ヨーロッパ周遊旅行をする。
二、クールになる。
三、デートをする。
「たったこれだけですか? 三つだけ? 本当に?」
『うん』
ヘザーは頷いた。
一見する限り、どれも簡単なもののように見える。
しかしそれは、生きていればの話だ。このたった三つのことでさえも。
「そうですか……。なるほど」
顎に手を当てて考え、ティアナンはすぐに顔を上げて微笑んだ。
「これは簡単です」
そう言って彼が指し示したのは、リスト一のヨーロッパ周遊旅行だ。
『簡単? でも、あたしにはお金もなくて』
「あなたは今、わたしのように第六感がある人間以外には姿を見られないゴーストですからね。空を飛ぶ機械――ええと、飛行機でしたっけ? それも乗り放題、ホテルも滞在したい放題です。ですから簡単です」
笑顔での提案に、ヘザーは真顔で頷く。
『うん、何だろう、それ。犯罪っぽい感じがするんだけど。ていうか犯罪なんじゃないかな』
ヘザーの至極もっともなツッコみに、ティアナンもほんの少し苦笑を浮かべる。
「ゴーストは皆そうしていますよ。逆に言えば、そうするしか方法がないと言いますか」
確かにそうかもしれない。電車はともかく、飛行機やホテルなどは人の目に映らなければ、乗ることも部屋を借りることもできないだろう。
再びリストに目を落とし、ティアナンは今度は首を傾げる。
「二つ目。クールになりたい?」
『そう。あたしって、ほら、見た目こんなだから。しかもオタクで、しょっちゅうバカにされてたの』
「オタク?」
『あたしはファッションとか男の子の話に疎くて、好きなことって言ったら、ほとんど科学のことばかりで。だから、クールに憧れるの』
「……よくわからないのですが。クールとは、つまり、涼しい……?」
全く意味がわからないと首を捻るティアナンは、冗談を言っているようには見えない。本当にわからないらしい。
(何だろう、神父さんって、そんなに世間に疎いのかな……?)
クールが通じないなんて、ヘザーの方が首を傾げたくなってくる。
『えっとね、クールってつまり、カッコイイ人ってこと』
このままでは埒があかない。ヘザーが分かりやすく言い換えると、やっとで彼は納得がいったらしかった。「ああ、そういうことなんですね」と大きく頷く。
「それにしても科学だなんて、賢いということでしょう? 素晴らしいではないですか」
『素晴らしい……?』
そんなこと、初めて言われた。
嬉しいよりも、心がほわっと温まるような、不思議な感覚だった。
けれどヘザーは、これまで感じたことのないその感情を心の奥底に押し込め、首を横に振る。
『そんなことないよ。ティアナンだって、ハイスクールはそうじゃなかった? クールな子は、男ならアメフトとかバスケ部、女ならチアリーダーって決まってる。あたしみたいなのは、スクールカーストの底辺。ルーザー(負け組)よ』
「すくーる、かーすと?」
『……いえ、もういい、なんか自分で言ってて傷付くから』
はぁ、と溜め息をもらす。
「三つ目。は、デート、ですか。これは……」
『ゴーストには無理よね』
「同じゴーストならいかがです? きっと話も合うことかと」
『それは嫌』
ヘザーの即答に、ティアナンは再び首を傾げる羽目になる。
「なぜ?」
『だって、あたしはほんの少し前まで生きてたんだよ? いくら今自分がゴーストだからって、抵抗あるよ』
我が儘で身の程知らずだと言われても、そればかりはどうしようもない事実だった。
『ゴースト歴何年とか何十年とかのベテランの域に達すれば、それも気にならないのかもしれないけど』
「ベテランって……。しかし、そうですね、となるとゴースト大歓迎の生きている男性を探さなければ」
そう言って、腕を組み真剣な表情で思案するティアナンを見て、ヘザーは名案を思い付いた。
『あ、あの! あなたはどう?』
「わたし?」
思ってもいなかったらしい。ティアナンは驚いたように目を丸くする。
「いえ、あの……わたしでは、あなたの相手になるには年を取りすぎています」
『そんなことない! だってティアナンだってまだ二十くらいでしょう? あたしは、もっと年上だって平気だよ』
いつものヘザーであれば、自分からこれほど積極的に誰かを誘うなど考えられないことだった。
けれど、失敗したところでもう何も失う物はないと思うと、不思議な勇気が沸いた。
何せ自分はもう死んでいるのだから。
その提案にはさすがに彼も逡巡した様子だったが、ティアナンは慎重に思案した後に頷いた。
「いいでしょう。それで、あなたの助けになるなら」
『ほんと!? いいの!? だって、あたし、こんなオタクだよ? 本当に後悔しない!?』
こんなあっさりオーケーを貰えるとは思っていなかったヘザーは、素っ頓狂な声を上げる。
自分で言っておきながら、今更色々と不安になってしまうが、ティアナンは「なぜ後悔するのです?」と微笑んだだけだった。
「ただ、わたしは今時の若者の「でーと」というものがどんなことか知りません。それでも構いませんか?」
そこは困ったように、そして申し訳なさそうに訊ねられるが、ヘザーにとってはそのようなことは全く問題ではなかった。
『もちろん! そんなの構わない!』
だから勢い込んで言って、にっこりと笑った。